非合法である虐殺はゼロです。 あったのは戦闘行為と合法の処罰行為です。 それでも少数の犯罪行為はありましたが、殺人はゼロです。 多くの犯罪行為、殺人は便衣兵と化した中国人の敗残兵によるものです。「南京大虐殺」は捏造ねつぞうだった http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm 南京の日本軍がなした多くの人道的活動 日本兵による犯罪は少数あったものの、日本軍による「大虐殺」はなかった 非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった 「南京大虐殺」とは? 1937年12月、日本軍は支那事変を終結させるため、南京へ侵攻。12月13日にそこを占領しました。いわゆる「南京大虐殺」とは、その占領から約6週間の間に数十万人単位の人間(市民や捕虜)が日本軍によって南京で虐殺されたとする説です。中国共産党が公式に述べてきたものとしては、その数30万人。中国にある南京大虐殺記念館の外壁には、大きな文字で「300,000」の数が、犠牲者数として掲げられており、中国の子どもたちは、反日感情を植え付けられるために毎年そこへ行かされています。 この「南京大虐殺」は、日本でも戦後、共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ、そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ、日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。しかし今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています。 日本兵たちによるある程度の犯罪はありました。しかし、それはどこの国の軍隊にもある程度のものであり、むしろ南京での日本軍の活動をみてみると、非常に人道的なもののほうが多く目につきます。 南京戦の最中、南京市内にいた民間人は全員、南京市内に設けられた「安全区」に集まっていました。日本軍はそこを攻撃しなかったので、安全区の民間人らは誰一人死にませんでした。 日本軍による南京占領が間近に迫ると、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、中国人市民を殺して服を奪い、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました。安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、武器を隠し持ち市街戦を準備する者、また安全区内で強姦や、略奪、殺人などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり、被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせる反日工作の者たちもいました。 日本軍は彼らを見つけ出すと、彼らのうち特に反抗的な不法戦闘員数千名を処刑しました。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、処刑されても致し方ないとされているからです。こうした不法戦闘員の処刑が、誤って「捕虜の虐殺」と伝えられた面もあります。 しかし日本軍は、一方で、市民や捕虜に対し多くの人道的援助活動を行なっています。その結果、日本軍占領下で飢えのために死ぬ南京市民は一人もいなかったのです。また日本軍の活動に感激して、そののち汪兆銘の親日政府軍に入った中国人捕虜たちも多くいました。 南京において非道行為を行なったのは、むしろ中国兵たちでした。軍服を脱ぎ捨てて民間人の中にまぎれこんだ中国兵たちは、裸でまぎれこむわけにはいきませんから、民間人の服を奪うために民間人を殺しました。そうしたことをエスピーというアメリカ副領事その他の人々が目撃しています。虐殺を行なったのは日本軍ではなく、中国兵たちだったのです。 以下はその詳細です。 南京に戻ってきた住民 南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか。 日本軍の南京への攻撃開始の約1週間前の1937年11月28日に、警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表しています。そののち日本軍は12月13日に南京を占領しました。それから5日後、12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。また12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表しているのです。 住民が戻ってきました。上智大学の渡部昇一教授によると、南京陥落から1ヶ月後に日本軍が約「25万人」の住民に食糧を配ったとの記録も残っています。 また占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵と本当の民間人を区別するため、ひとりひとり面接をしたうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発行しています(1937年12月から1938年1月)。60歳以上の老人と10歳以下の子どもは兵士ではないでしょうから、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数16万人に達しました。南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口は25万〜27万人程度だろう」と書いています。 このように南京占領後、南京の人口は増えているのです。 南京入城に際し、新聞記者たちも同行 南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。 アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。これが一体「大虐殺」のあったという都市の光景でしょうか。 また南京で実際にどのようなことがあったか、日本の当時の新聞を閲覧してみても、よくわかります。そこには、日本兵が武器も携帯せずに南京市民から買い物をする姿、南京市民と歓談する光景、日の丸の腕章をつけて微笑む南京市民の姿などが、写真入りで解説されています。また、平和回復を知って南京に戻ってくる住民、中国の負傷兵を手当する日本の衛生兵たち、再び農地を耕し始めた農民たち、そのほか多くの写真が記事と共に掲載されています。 それは平和が戻り、再び以前の生活を取り戻し始めた南京市民と、日本兵たちの心と心の交流の姿なのです。当時、報道は「検閲」の下に置かれていたとはいっても、これらは到底「大虐殺」があったという都市の光景ではありません。 蒋介石は一度も「南京大虐殺」に言及せず 中国国民党の総統・蒋介石は、もともと南京にいた人です。しかし彼は、日本軍が攻めてきたことを知ると、南京の防衛はさっさと部下にまかせて、南京を出てしまいました。そののち終戦に至るまで、蒋介石は中国人民向けに何百回ものラジオ演説を行なっています。ところが、その中で彼はただの一度も、「南京で大虐殺があった」等のことは言っていません。もし大虐殺があったのなら、これは非常に不自然なことです。蒋介石の認識の中にも「南京大虐殺」はなかったのです。 南京陥落後に撮影された風景 http://www.history.gr.jp/nanking/fukei.html 昭和12(1937)年12月13日、南京事件が起きたとされる時期である陥落以降に撮影された写真ばかりを集めました。 陥落当時には120名をこえる報道陣が南京に滞在していました。(外国人記者達を含めて) 彼らの多くは戦争が終わり、南京が平和に復興する様子を写真などによって撮影、記録しています。 日本兵と中国人との心温まる交流も多数記録されているのです。 ところが戦後、これらの写真を「朝日新聞」、「毎日新聞」「岩波書店」、「日教組」、「NHK」などのサヨク系団体や組織によって封印されたのです。 戦争ですから戦死体があるのは当然ですが、虐殺とは全く無関係の写真を大虐殺の証拠として(特に)朝日、毎日、岩波書店、日教組、(サヨク)系マスコミなどが大宣伝を行い、現在でも日本国民を洗脳しています。 ホームページ作者はこれら写真を集めるうちに、事実とは大きく異なるウソ宣伝を行う報道(マスコミ)に対して信じられなくなりました。 南京の真実を報道しているのは唯一、産経新聞だけなのです・・・朝日、毎日、日教組、TV朝日(朝日新聞系)、TBS(毎日新聞系)許すまじ・・・。 日本軍によって殺された民間人はわずかだった 日本軍の司令官・松井石根(まつい・いわね)大将は、南京攻略を前に、「決して民間人を殺してはならない」と全軍に厳しく命じていました。 そして、南京攻略戦の最中、南京にとどまった市民たちは皆、南京城壁内に特別に設定された「安全区」の中に避難していました。南京にいた外国人たちもみな、安全区に避難していました。日本軍は、その安全区内にも中国兵が多くいることを知っていましたが、安全区を攻撃することはしませんでした。 そのため、たまたま流れ弾に当たって数人が死傷したものの、そうした事故を除けば、安全区の住人は全員無事でした。実際、南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」との感謝状を松井大将に手渡しています。 また攻略戦終了後、日本軍の監督・指揮のもとで、「紅卍会」という南京の中国人団体が、死んだ中国兵の埋葬作業を行ないました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。これは、民間人の犠牲者がほとんどいなかったことを示しています。 また南京安全区の安全と秩序の維持のために、南京攻略戦の前から、南京に住む欧米人らは「南京国際委員会」というものを作っていました。彼らは、日本軍による南京占領後に南京で起きた犯罪事件をまとめ、被害届として日本軍に提出しました。それは、南京で見聞きした日本兵による犯罪(強姦、略奪、殺人)等を記録したもので、日本軍に取締りを求める内容でした。 その被害届には、日本兵によるとされる犯罪が425件記されています。その大部分は伝聞にすぎず、資料的な問題はありますが、たとえすべてを事実と仮定しても、そのうち殺人事件はわずか49件にすぎません。つまり、どうみても「大虐殺」などなかったのです。 しかも、その49件のうち、国際委員会の委員が直接目撃したものはわずか2件でした。あとはみな伝聞です。また、その2件のうち1件は、ジョン・マギー牧師が目撃したものですが、日本兵が、軍服を脱いで民間人に扮している中国兵を探している中、不審な者を見つけて身元を尋ねたとき、急に逃げ出したので撃ち殺したというものでした。しかし、これは国際法上、合法的なものです。 もう1件のほうも、合法的なものでした。つまり国際委員会の委員は誰も、南京において違法な殺人を目撃していないのです。ましてや大虐殺を目撃していません。 また南京が陥落したとき、多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨てて、民間人になりすまして安全区内に逃げ込みました。そのため、日本軍は彼らを見つけだすために掃討作戦を行なわなければなりませんでした。 兵士は帽子をかぶっているので、額の上部に日焼け跡がなく、その帽子の跡で兵士とわかります。また兵士は、手をみると、度重なる銃の発射でタコができています。それに兵士は、南京市内に家族がいません。そうしたことなどで日本軍は兵士と市民を区別し、兵士を発見すると、逮捕しました。 その際、誤認逮捕が皆無であったとは言えないかもしれません。しかし、たとえ誤認逮捕があったとしても、その数はわずかだったと言えるでしょう。 このように南京攻略戦の最中、およびその後にかけて、日本軍によって殺された民間人の数は、ごくわずかしかいなかったのです。 岡村寧次大将の記録は? 一方、虐殺肯定派の人々は、しばしば岡村寧次(おかむら・やすじ)大将が書いた次の文章を、しばしば引用します。 「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。 1)南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。 1)第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」(『岡村寧次大将資料』) しかし、岡村大将はこの報告を上海で聞きました。彼自身は南京へ行っていません。先に述べたように、南京にいた国際委員会の人々は、日本兵らによる暴行として425件の事件を報告しています。その大部分は伝聞であり、すべてを事実とはとれないのですが、たとえすべてを事実と仮定しても暴行事件は425件にすぎず、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」という岡村大将の記述は、間違ったうわさに過ぎなかったことが明らかです。また「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述も、後述するように、南京においては事実ではありませんでした。 軍服を脱ぎ捨て民間人に化けた中国兵たち 捕虜の虐殺はあったか、という問題について見てみましょう。 この問題をみるために、まず、中国兵とはどんな兵士たちだったか、についてみてみたいと思います。中国兵は、じつは国際法感覚のほとんどない兵士たちでした。 多くの日本兵たちが「軍服を着ていない中国兵」たちを目撃しています。 たとえば橋本以行(はしもと・もちつら)氏は、南京攻略戦の最中、揚子江岸で見た中国兵たちについて、「小銃や機銃を大事に携行していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない」(証言による『南京戦史』10、130頁)と語っています。また彼ら揚子江岸の中国兵らは、降伏勧告にも応えず、戦闘を続けたので、日本軍は攻撃を続行。中国兵はジャンク舟に乗って逃げようともしましたが、多くは溺死し、遺体は下流の揚子江岸にうち上げられました。 その写真が残っていますが、この写真がのちに虐殺肯定派の人々によって「南京大虐殺の証拠写真」として使われました。しかしそれは戦死体だったのです。 また南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。 「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ 1937年12月22日付) また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー=アメリカ副領事の報告)。 このように軍服を脱ぎ捨てて民間人に扮した中国兵が死んだとき、その死体は、死体だけを見た者には「民間人の虐殺死体」に見えたでしょう。ですから、こうした中国兵の行動は、日本軍の側に多くの誤解を生じさせる元となったのです。 もう少し中国兵の行動をみてみましょう。 日本軍が南京に達する以前に、蒋介石は、すでに早々と南京から脱出していました。また南京防衛をまかされた唐生智将軍も、敗北色濃くなったとき、敵前逃亡して南京から出てしまいました。残された中国兵らには混乱が走りましたが、敗戦が決定的となったとき、中国兵らには3つの選択肢がありました。 一つは、降伏することです。降伏すれば「捕虜」として扱われることになります。 二つ目は、南京から逃げ出すことです。そのとき、日本軍に殺されるかもしれません。また中国には、「督戦隊」というものがありました。これは戦いを督促する中国人部隊で、背後にいて、戦場から逃げ出す中国兵を見つけると撃ち殺す兵士たちなのです。逃げる中国兵を撃ち殺す中国兵です。そんな非人間的な部隊が、中国にはありました。ですから、南京から逃げ出そうものなら、彼らに撃ち殺されるかもしれません。 実際に、中国督戦隊に撃ち殺された中国兵たちが多くいました。ダーディン記者は、南京城壁の北側の門において、高さ1メートル半にも積み重なって小山を形成していた中国兵の死体を目撃しています。これは日本軍が殺した中国兵ではなく、中国督戦隊に殺された中国兵だったのです。なぜならダーディン記者は戦後、こう語っています。 「これは、この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁によじのぼり、脱出を試みました。これらの死体の山は、日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で(日本軍の)戦闘はありませんでした」(1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子。『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P571 青木書店) つまり、それは中国督戦隊によって殺された中国兵らの死骸だったのです。 そして中国兵に残された三つ目の道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人に扮して、安全区の中に身を隠すことでした。少なからぬ兵士たちがこの道を選びました。 そのため日本軍は、南京占領後、この民間人に扮した中国兵たちの掃討作戦を行ないました。そして次々に摘発しましたが、武器を隠し持っているなど危険な中国兵たちは、発見されると、処刑されました。市街戦の準備とみなされたのです。その数は数千人に達しました。 問題は、これが国際法上、合法か否かです。しかし、こうした不法な戦闘員の処刑はどこの国でも慣習的に行なわれていたことであり、また「ハーグ陸戦法規」(1907年)にも定められていたことで、明らかに合法的でした。つまり、兵士は明確に兵士とわかるよう軍服を着用しなければならず、また武器は隠さず公然と携帯しなければならないのです。 その法規を守らなければ、捕らえられても「捕虜」としての保護は受けられません。法を守らない者は、法の保護を受けられないのです。彼らは「不法戦闘員」として扱われ、処刑されても仕方ないというのが国際法上の理解でした。こうした点で、数千人の「不法戦闘員」の処刑は、「捕虜の処刑」でも「捕虜の虐殺」でもなく、合法的なものだったのです。 捕虜は虐殺されなかった 一方、虐殺肯定派がよく引用するものに、第16師団長・中島今朝吾(なかじま・けさご)の日記があります。とくに12月13日に捕虜にした7000〜8000人の中国兵についての次の記述です。 「この7000〜8000人、これを片づけるには相当大きな壕がいるが、なかなか見当たらない。一案として100人、200人などに分割してのち、適当な箇所に誘って処理する予定だ」(現代文に修正) つまり、この大量の捕虜を殺害して壕に埋めてしまおう、という処理予定を考えたともとれる内容です。当時はたしかに、ただでさえ食糧の調達など大変でしたから、このような大量の捕虜を一体どうしたらいいのか、ということは確かに大問題でした。それで、中にはこうした考えを持つ者もいたようです。 けれども、中島日記をみても、彼ら捕虜を実際に殺害したという記述はありません。また当時の日本軍の記録をみると、この7000〜8000人の捕虜は結局殺害されず、捕虜収容所に送られたことがわかるのです。当時の膨大な資料の集大成である『南京戦史』(偕行社)は、様々な資料を引用し、こう結論しています。 「これらを総合すると、堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことは明らかである」(P324) また資料によれば、当時南京の捕虜収容所は、これら7200人の捕虜を含む、計1万人ほどの捕虜を受け入れたとなっています。彼らの多くは、そののち釈放され、故郷に帰されました。あるいは苦力(クーリー)として労役に雇われた者も多く、また後に上海の捕虜収容所に移送された者もいました。 さらに、そのうち約2000名は、のちに汪兆銘の親日政権の南京政府軍に編入されました。その中に、劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将もいました。彼は南京安全区に潜んでいたところを摘発され、しばらく苦力として使われていましたが、1940年に南京に成立した汪兆銘政府において和平救国軍の軍長となった人です。 また中島今朝吾・師団長の言葉の中に「大体捕虜はせぬ方針なれば」というのがあったことが、よく指摘されます。実際、大量の捕虜をかかえこむことは大変なだけですから、捕虜は少ないほうがいいわけですが、「捕虜はせぬ方針」について、大西 一 参謀はこう述べています。 「それは、銃器を取りあげ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」 (「正論」61.5 阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」) さらに大西参謀は軍命令、師団命令で捕虜殺害命令など絶対に出ていない、と断言しています。資料をみても、捕虜殺害の記録はありません。また支那事変当時の日本の新聞にも、釈放されて故郷に帰る中国兵たちが荷物を持ち、ニコニコ顔で写真におさまっている姿などが載っています。 虐殺はなかったとする証言 当時の南京を実際に知る多くの人々は、南京で「虐殺はなかった」と証言しています。 たとえば、南京の日本大使館で働いていた外交官補の福田篤泰(ふくだ・とくやす)氏は、日本軍による南京占領の当時を振り返って、こう語っています。「日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。……いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」(田中正明『南京虐殺の虚構』35-37頁) 日本軍と共に南京に入った東京日日新聞の金沢喜雄カメラマンは、こう語っています。「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ、兵隊から聞いたこともありません。虐殺があったなんて、あり得ないことです。死体はたくさん見ています。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。しかしそれは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と同じですよ」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』p.42) 東京日日新聞の佐藤振寿カメラマンも、こう語っています。「虐殺は見ていません。12月16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。また多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集ってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」(同p.53) 福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者には、お嬢さんが一人おり、南京には家族で赴任していたので、お嬢さんは1年生から5年生まで南京の日本人小学校に通っていました。彼女に南京大虐殺のことを来てみると、こういう答えでした。「そんな話は全然聞いたことがありません。あちらでは近所の支那人の子供ともよく遊びましたが、彼らからもそのような噂すら聞きませんでした」(同p.138-141) 歩兵第13連隊(熊本)第4中隊のU中尉はこう語っています。「抗州湾上陸以来、私は(中国の)女たちが、墨や油や泥を顔や手足に塗り、ことさらに臭気を放つようなボロをまとって、わが軍の入城を迎えるのを知っております。彼女らは、なるべく醜悪に見えるように努めていました。……日本の兵隊は支那の軍閥の兵隊とは全然素質が違うのだ、ということが了解できると、それから徐々に生地を出し始める。黒い顔が白くなり、汚い服がきれいな服に変わるのであります。南京の難民地区でも、私はやはりそうした女の移り変わる姿を見ることができました」(東中野修道『1937南京攻略戦の真実』p.124) 南京攻略戦に参加した野砲兵第22連隊長・三国直福大佐は、こう証言しています。「昭和13年8月にまた南京に戻ってきました。この時も虐殺があったという話は聞いていません。もう日本人の商人もたくさん来ていました。南京の街は朗らかでした。町の人とも親しく話しましたが、その時も、中国人からそんな話(虐殺)を聞いた記憶はありませんでした」 第十軍参謀・谷田勇(たにだ・いさむ)大佐は、こう証言しています。「(昭和13年11月以降、私が担当していた課は、支那復興のため)南京での経済指導を行なうので、寸暇もないほど多忙であった。したがって課長以下、日中官民と接触して、これを理解し、かつ中支那の風物に親炙(しんしゃ)する機会がはななだ多くなっていった。この時、中国官民と親交を重ねたが、たとえ酒食の席においても南京虐殺に関する話を聞くことはなかった」 日本兵による悪事の証言の信憑性 ところで、日本兵たちの犯した犯罪について、虐殺肯定派がしばしば引用するのが、松岡 環著『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』です。この本には、日本兵が中国で犯してきたという数々の非道な行ないが、102名の元・兵士の証言の形で書かれています。しかしこの本に関し、亜細亜大学の東中野修道教授はこう批判しています。 「百二名の兵士はみな『匿名』『仮名』なのである。……誰が証言内容に責任を持つのか。証言内容が真実かどうか第三者的に検証できないようでは、客観的報道、客観的記録とは言いがたい。……百歩譲って『証言』が事実だとしても、彼らの多くは憲兵の目を逃れて軍紀違反の違法行為を繰り返しながら処罰を免れてきた悪運強き戦争犯罪人でしかなかったことを明らかにしただけなのである」(『諸君』平成十四年十一月号)。 また歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平氏は、この本をこう評しています。 「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」(「正論」平成14(2002)年11月号 阿羅健一著「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ) また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。 また曽根一夫という人物は「手記」を出版し、そのなかで南京戦と南京陥落後の虐殺事件の実行と、目撃談を書いている(『続・私記南京虐殺』など)。しかし、この人物は手記のなかで自らを歩兵の分隊長と称しているが、実際は砲兵の初年兵でした。また、入城式には彼の属する部隊の一部が参加しただけで、部隊そのものは南京城内に入ってもいません。従って、彼が書いているような虐殺を南京やその近郊で見ることも実行することも不可能であったのです。南京戦中、行動をともにした戦友もそうした虐殺行為を目撃・実行することはあり得ないと証言しています。つまり、曽根の「手記」そのものがまったくの創作だったのです。 市民・捕虜と日本兵の交流・温情 南京を占領した日本兵たちの、市民や捕虜に対する態度は実際はどのようなものだったのでしょうか。以下は彼らの証言です。 「敵の大軍は、わが軍のために完全に撃破されました。見れば、幾十となく敵の死体がころがっております。中にはまだ虫の息でうねっておる者さえおります。これを見られた隊長が、『苦しいか、今、薬をやるぞ』と何かやられますと、一兵士は目を開けて、『水、水』と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、両手を合わせ涙をたたえ、『謝、謝』(シェーシェー)と伏し拝みました。……今までにわが中隊では幾十人となく、敵兵を救い、郷里に帰してやりました。その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、じつに勇敢によく働いた者もたくさんあります。そして彼らが郷里に送り帰される時は、別れを惜しんで泣いて別れるのでした」(歩兵第47連隊:大分 第2中隊 伍長S・S)(『1937南京攻略戦の真実p.165) 「(南京への途上)露営のとき、私は道路の警戒を命ぜられました。特に監視すべき方向はこの方向と道路上をさすと、指したところに忽然と姑娘が現われて、窈窕(ようちょう)たる姿態が楚々(そそ)として、この方に来るじゃありませんか。誰だって面食らいます。……『日本の兵隊さんね』、流暢な日本語なんです。年の頃27、8、聞いてみると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、これは支那軍のほうにいると危ないと思い、やってきたという。 『日本語はどこで覚えた』と聞くと、『長崎に4年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた』と言います。……いろいろ調べられるけれども、くさいところは無いらしい。ちょうど中隊に通訳がいなくて何かと不自由していたこととて、通訳代わりに使うことにしましたが、炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、乙なところをみせる。所帯慣れしているから、兵隊に程良く愛嬌を振りまく。皆で大切にしたものです。 ときには宵待草(よいまちぐさ)や、荒城の月を聞かせてくれました。毎日の行軍も宿営も楽しみでした。……しかし、南京へ南京への猛追撃に、我々に伍して行けるはずがない。中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、その日の行軍のけだるいこと、道の遠いこと、足の重いこと、皆考え込んでしまっていました。 『おい、きついなあ』『うん』。返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、『変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか』と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑がわいたものです」(歩兵第13連隊:熊本 第11中隊 歩兵曹長K・S)(同p.190-192) 「私が洗面していると、前にきて頭をぴょこんと下げ、『兵隊さん、おやよう』とはっきりした日本語で、支那人から挨拶されました。不審に思ってよく聞くと、『大阪に18年間いました』という。……(彼の相談に乗ってあげると)彼は一時間ばかりして喜んで戻ってきました。そして言うことには、『家族も安心しました。長男が27歳になっていますが、長男も日本語が上手に話せます。皆の者に「日本軍が来たからもう安心しておれ」と、言ってきました』と、いかにも落ち着いたものです。齢は50歳くらいでしたが、達者な男で、南京攻撃、安慶上陸から漢口攻略まで、1年3ヶ月の間、日本軍のため忠実につとめ、大きな功績を残して行きました」(第2野戦病院 T・Y)(同) 都新聞の小池秋羊記者は、こう述べています。「食糧がなく飢餓状態で、食糧をくれ、とわれわれにすがりつく人もいました。私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車二台分やりました」 南京の病院で勤務していたアメリカ人、ジェームズ・マッカラム医師は1937年12月29日の日記にこう書いています。「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判 速記録210) さらに、こう書いています。「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました」。「日本人の善行を一つ報告しなければならない。とても気持ちのよい日本人が最近病院にやってきた。彼らに患者の食料の不足を告げたところ、きょう、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれた。この一ヵ月というもの肉は食べられなかったので、この贈り物は大歓迎だ。他に欲しいものはないかと言ってくれた」(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p263) また南京戦により、12月13日の南京陥落からしばらくは、南京市街は水道も電気もとまり、夜は真っ暗といった状態でした。しかし翌年1月元旦から南京全市に、電燈がともり、水道がよみがえりました。1938年1月3日付の朝日新聞によると、電気については日本人技術将校以下80名と中国人電工70名の協力、また水道も同様に150名の編成で、不眠不休で取り組んだ結果であるといいます。また1月3日には、多くの南京市民が日の丸と中国の五色旗を振り、市街で「南京自治政府」(リーダーは中国人)の発足を祝っています。 南京大虐殺と南京事件を区別すべき 以上みてきたように、南京での「30万人大虐殺」はなかったのです。20万、あるいは千単位の虐殺もありません。 とはいえ、南京で強姦、略奪、暴行、殺人などの非道な犯罪がなかったわけではありません。いや、実際のところ、かなりありました。その中には、日本兵たちが実際に犯した犯罪も少数あります。 けれども、一方では、じつは民間人の服を着て南京安全区に逃げ込んでいた中国兵たちが犯した事件も非常に多かったのです。彼らは事件の加害者が日本兵だったと見せかけたり、被害者を脅迫して、加害者は日本兵だったと言わせたりしました。それで加害者が日本兵だったと思い込んだ人々(国際委員会の欧米人など)は、日本軍の残虐を声高に叫んだのです。これが、のちに大きく膨らんで、「南京大虐殺」というウソへと発展していきました。 もし、こうした中国兵や日本兵らが南京で犯した強姦や略奪等を「南京事件」と呼ぶとすれば、たしかに「南京事件」はありました。そうした意味で、当サイトでは「南京大虐殺」と「南京事件」を区別しています。 つぎに、この「南京事件」の真相について詳しく見てみましょう。 中国兵らによる悪事の数々 南京戦に参加した日本兵らの証言によれば、南京をはじめその周囲で悪事を積み重ねていたのは、日本兵ではなく、むしろ中国兵のほうでした。中国軍がどんな性質のものだったかについて、南京に向かっていたある日本兵はこう記しています。 「(通りかかった)この町には、かつて蒋介石の大軍がたむろしていたのですが、空陸一体の皇軍の進撃に、敵はもろくも敗退したのです。城内の住民は食糧は申すまでもなく、家財道具もことごとく支那軍のために強奪され、男はみな壕掘りに、連日連夜酷使されたということでした。このような国の民こそ全く可哀相でなりません」(歩兵第47連隊:大分 第1大隊第2中隊 歩兵伍長 H・G)(『1937南京攻略戦の真実』p.200) また梶村 止(かじむら・いたる)少尉は、南京戦に参加したのち、南京から上海方面に移動しました。1938(昭和13)年1月15日の彼の日記によると、上海付近に駐屯していたとき、近くの村人が中国兵に襲われ、梶村少尉の隊に救いを求めてきました。しかし村人に案内され、梶村少尉一行30余名が現場に急行したときは、敵の40〜50名が逃走したあとでした。梶村少尉はこう記しています。「自国の兵隊の悪事を、自国民の敵軍に報告。討伐を願うという矛盾が、とりもなおさず支那軍隊がいかなるものであるか、この一時にて判断できる」。また梶村少尉らが村を立ち去るとき、村人らは「非常に名残を惜しんでくれた」と書いています。(同p.188) アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。 南京のアメリカ領事館の副領事ジェームズ・エスピーが行なった報告にも、南京陥落時の中国兵の行動について書かれています。「中国兵自身も略奪と無縁ではなかった。……日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われた。気も狂わんばかりになった中国兵が、軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」(エスピー報告) 福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者は、南京に入ったのち、安全区にいる中国人夫妻にインタビューを行ない、記事にしました。以下はその抜粋です。 「記者 日本軍がやって来たとき、君たちはどこに何をしていたか。 黄 私たち夫婦は、国際委員会で設定された南京城内西北の山西路からズッと入った難民区にいました。……中央軍の支那兵が銃創を持って夜となく昼となく代わる代わるやって来て難民を検察し、食糧や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも二銭でも巻き上げていきました。最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました」 日本兵の犯罪は少数あった つぎに、日本兵が南京で犯した犯罪について見てみましょう。 南京攻略戦を指揮した松井石根大将は、南京陥落から5日後の12月18日、全軍と共に慰霊祭を執り行いました。それは日中双方の戦死者を弔うものでした。慰霊祭において松井大将は、一同の顔を眺めまわしたのち、異例の訓示を始めたのです。 「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった。何ということを君たちはしてくれたのか! 君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった。諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜(むこ)の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」(前田雄二『戦争の流れの中に』p。122-124) 大将のやせた顔は苦痛で歪められていたといいます。松井大将は、戦争が始まる前は直接、蒋介石にも会い、「日中合同して大きな強いアジアを造ろう」と呼びかけるなど、平和のために尽力し、中国を愛した人でした。南京を攻略する前にも、日本兵たちに厳正に軍規を守るよう通達した人でした。 にもかかわらず、南京陥落後、市民に対する「一部の兵の暴行」があったのです。松井大将は憲兵隊から報告を受け、それを深く嘆きました。この「暴行」とは強姦か略奪等の犯罪だったとも言われています。ただし決して、のちに言われたような「大虐殺」ではありません。なぜなら、松井大将はのちに東京裁判においてこう証言しているからです。 「南京占領に関する周到な配慮にもかかわらず、占領当時の倥惚たる情勢において一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行なった者があったようである。これは私のはなはだ遺憾とするところである。……憲兵隊長よりこれを聞き、各部隊に命じて即時、厳格なる調査と処罰をなさしめた。……私は南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任したが、その間、昭和12年12月下旬に南京でただ若干の不法事件ありとの噂を関知しただけで、何らそのような事柄に関し公的な報告を受けたことはなく、当法廷において検事側の主張するような大規模な虐殺・暴行事件に関しては、1945年終戦後、東京における米軍の放送により、初めてこれを聞き知ったにすぎない。……検事側の主張するような計画的または集団的な虐殺を行なった事実は断じてない」(口述書1947年11月24日。現代文に修正) つまり松井大将は、南京占領当時、一部の若年将兵の間に、暴行事件、犯罪があったことを認めたものの、東京裁判で主張されたような「大規模な虐殺・暴行事件」は否定しました。 では、日本軍の間に、いったいどの程度の犯罪があったのでしょうか。詳しくはのちに述べますが、実際はある程度の犯罪はあったものの、当時のロシア軍や中国軍が占領地で犯してきた数々の犯罪に比べるなら、はるかに少数のものでした。また、アメリカ軍兵士が太平洋戦争中に占領地等で犯してきた犯罪と大差ない、という意見もあります。 しかしそれでも、南京攻略は世界の注視する中の出来事でした。それゆえ厳正に軍規を守ることが求められていた時のことで、松井大将にとっては、一部将兵の犯した事件は彼を深く悲しませたのです。 つぎに、南京の安全区に隠れていた中国兵たちが犯した犯罪を見てみましょう。 安全区に隠れた中国兵らの反日攪乱工作 1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙は、こう報じています。 「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名がそこでかくまわれていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。 この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。 この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.275) このように、安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとでかくまわれ、しかもそのうち中国人大佐は、避難民キャンプで二番目に権力ある地位を与えられていたという。彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。これはもちろん、安全区の中立を定めた日本軍との協定への違反でした。それまで教授たちは、南京での非道な行ないのすべてについて、日本軍を非難してきたのです。しかしそれら非道な行ないの多くが、じつは教授たちのもとでかくまわれていた中国兵たちのしわざだったのです。 『チャイナ・プレス』1938年1月25日付も、こう報じています。 「その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(音訳)がいた。彼は陳弥(音訳)と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。……また、前第八十八師の副師長・馬中将や、南京警察の高官・密信喜(音訳)もいると言われている。馬中将は、安全区内で反日攪乱行為の煽動を続けていたと言われる。また、安全区には黄安(音訳)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦にたずさわったという」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.277) このように、安全区に逃げ込んだ中国兵らは、「掠奪、煽動、強姦」にたずさわり、それを「反日攪乱行為」として行なっていました。すなわち、それらの犯罪を積み重ねたうえ、それらを「日本兵がやった」ように見せかける、あるいは被害者を脅して「加害者は日本兵だ」と言わせていたということです。ここに「煽動」と訳されている言葉は、原文では「intimidating」(脅迫。おどして事を行なわせる)なのです。 隠れていた大勢の中国兵ら いったいどれほどの中国兵が安全区内に隠れ、こうした反日攪乱行為を繰り返していたのでしょうか。ニューヨークタイムズ1937年12月17日付には、こう報道されています。 「昨日、南京の日本軍司令部(が発表したところによると、今もなお)…市内には、軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられている」(南京事件資料集・アメリカ関係資料編p.415 青木書店) つまり、この時点でなお非常に多数の中国兵が、民間人の服を着て隠れていると考えられていました。全員でないとしても彼らの多くは、安全区内で「掠奪、脅迫、強姦」にたずさわり、それを日本兵がやったようにし、反日攪乱行為を続けていたのです。小林よしのり氏もベストセラー『戦争論』の中で、「南京の安全区に二万人の国民党ゲリラが入り込み、日本兵に化けて略奪・強盗・強姦・放火を繰り返し、これをすべて日本軍のしわざに見せかけていた」と書いています。 また、大阪朝日新聞1938年2月17日付はこう報道しています。 「皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る 【同盟南京二月十六日発】 皇軍の南京入城以来、わが将兵が種々の暴行を行なつているとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わっているので、在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところ、このほど漸くその根源を突き止めることが出来た。 右は、皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いていた憎むべき支那人一味であるが、憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。 この不逞(ふてい)極まる支那人は、かつて京城(現在の韓国ソウル)において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で、皇軍入城後日本人を装ひ、わが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、…三ヶ所を根城に、皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し、強盗の被害は総額五万元、暴行にいたつては無数で、襲はれた無辜(むこ)の支那人らは、いずれも一味を日本人と信じきつていたため、発覚が遅れたものであるが、憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである」 このように、日本語を話し、日本人通訳の腕章を偽造するなどして、暴行を繰り返していた中国兵らもいました。 これらについては、マルクス主義歴史学者として知られる笠原一九司(かさはら・とくし)教授(宇都宮大学)でさえも、「(安全区に逃げ込んだ中国兵にとっては)日本軍をおびやかすだけでは不十分であった。…『強姦、略奪、その他の暴行をすべて日本軍のしわざとする』という散発的な抵抗が存在した」と述べています。(Nanking Atrocities) 松井大将自身も、東京裁判においてこう証言しました。「戦時における支那兵、および一部の不逞(ふてい)の民衆が、戦乱に乗じて常習的に暴行略奪を行なうことは周知の事実である。南京陥落当時の暴行・略奪においても、支那軍民が犯したものもまた少なくなかった。これを全部、日本軍将兵の責任に帰せようとするのは、事実をゆがめることである」(口述文 現代文に修正) 南京国際委員会が提出した被害届は、ほとんど中国人からの伝聞 南京に住む欧米人らがつくっていた「南京国際委員会」は、南京の日本大使館に対し、日本兵が犯したとする強姦、略奪、殺人等の暴行事件を「被害届」として幾度にもわたって報告し、改善を求めました。それら事件の総数は、1938年2月までに計425件にのぼりました。その内容はたとえば、 「事例5: 12月14日の夜、日本兵らは家々に押し入り、女性をレイプし、連れ去った。その地域はパニックになったため、何百人もの女性たちは昨日、金陵大学内に避難してきた」 「事例10: 12月15日夜、多くの日本兵たちが桃園の南京大学のビルに入り、30人ほどの女性たちを強姦した」 こういった事例が延々と続くものです。この被害届は、私たちに何を語っているでしょうか。 まず、たとえこれら425件の内容がすべて真実と仮定してみても、そのうち殺人事件は49件にすぎません。もし事実「30万人大虐殺」が南京であったのなら、これは非常におかしなことです。南京国際委員会の被害届をみる限り、30万人大虐殺はおろか、1万人、1000人虐殺もなかったことになります。 また、殺人事件49件のうち、国際委員会のメンバー自身が目撃したものは、たった2件にすぎませんでした。そしてそれら2件は両方とも、先に述べたように合法的なものだったのです。他のものはすべて中国人から聞いた伝聞でした。 強姦事件についてはどうでしょうか。竹本忠雄、大原康男・両教授はこう述べています。 「委員会が記録した『被害届』に記された強姦事件(未遂を含む)は何件か。集計すると合計で361件である。しかも誰が事件の目撃者であったのか、誰が誰に聞いて記録したのか、記録者のある事例は僅かに61件であった。この内、日本兵がやったという確証があり、真相究明ないしは逮捕のために日本軍に通報された件数は僅かに7件であった。……なお、日本軍に通報があった7件については、『シカゴ・デイリーニューズ』(1938年2月9日)に報道されているとおり、日本軍は犯人を厳しく罰している。処罰は厳しく、部隊から不満の声が漏れたほどであった」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪) 南京における日本大使館に勤務していた外交官補佐の福田篤泰(ふくだとくやす)氏も、彼が見た国際委員会の状況について、こう証言しています。 「当時、ぼくは役目がら、毎日のように外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。『いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている』等々。 その訴えをマギー神父(牧師)とか、フイッチなど、3、4人が、ぼくの目の前でどんどんタイプしているのだ。『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』と幾度も注意した。 時には、彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうことも幾度かあった。…テインパリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただ、と僕は思っている」(国際委員会の日本軍犯罪統計) このように南京国際委員会が作成した被害届は、ほとんどが中国人から聞いたことを、検証もせずに、ただ書き連ねたものにすぎなかったのです。 ジョン・ラーベのリポート この南京国際委員会の長は、ドイツ人のジョン・ラーベという人でした。 彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、 「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記) と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。 またラーベは、同じ日に、 「日本兵たちは、市内をめぐり、10〜20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」 と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。 「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪) この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。 また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。 ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。 実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。 このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。 松井大将の元・私設秘書だった田中正明氏は、このラーベが書いた報告書や日記には数多くの矛盾点があると批判し、こう述べています。 「12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に『降伏勧告のビラ』を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した。…しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える』。全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。… ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと『局部に竹を突っ込む』などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。… 金陵大学病院医師マッカラム氏は、『(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました』と、東京裁判に提出した日記の中に書いている。…ところがラーベ日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いたという“地獄絵”が描かれている。一体どちらが本当なのか?… ヒトラーがジョン・ラーベの原稿に信をおかず、彼を逆に入獄せしめた理由が、私にはわかるような気がする」(講談社刊『南京の真実』は真実ではない!) このようにラーベの報告や日記は、内容が非常に偏っており、誤解と偏見と、また、何とか日本の残虐を訴えてドイツと日本の同盟を阻止したいという思惑とが、混ざり合ったものでした。そのためその内容は、軍服を脱ぎ捨てた中国兵たちや、督戦隊に殺された中国兵たち、また安全区に隠れた中国兵らによる犯罪などの事実には一切ふれず、ただ日本軍の暴行だけを書き記すものとなったのです。 実際、日本軍による南京占領の翌月、1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、自分の目で実情を確かめた上で、「ラーベが語る日本軍の暴行事件」について、2月10日付で漢口のドイツ大使館にこう書き送りました。 「ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪) ラーベは、表向きは暴行事件の被害者の救済などに奔走し、中立を装うなどしていました。それでアイリス・チャン(南京大虐殺に関する本の著者)の本などでは、シンドラーに比すことのできる善人であると、持ち上げられています。 しかしその実をみれば、ラーベは中国人将校たちをかくまって反日攪乱工作を手伝い、また自身の虚偽のリポートを通しても、自分なりの反日攪乱工作を続けていたのです。 こうした人物が南京国際委員会の長だったわけですから、彼の姿勢は委員会の他のメンバーたちにも当然、深く影響していました。委員会の他のメンバーたちが残した日記その他の記録が同様なものとなったのは、そうした成り行きだったのです。 強姦事件の真相 つぎに、南京国際委員会のメンバーが残した南京における強姦事件の記録について、もう少しみてみましょう。 ラーベは1937年12月17日の日記に、「昨晩、1000人近くの女性、少女が強姦されたと言われている。金陵女子大学の学生だけでも100人が強姦された」と書きました。また金陵女子大の教授ミニー・ヴォートリン女史はその日、「ああ神よ、野獣のような日本兵らの蛮行を止めてください」と書いています。ジェームズ・マッカラム医師も、12月19日の日記にこう書きました。 「これほどの残虐は、聞いたことがなく、読んだこともない。強姦! 強姦! 強姦! 我々の見積もりによれば、一晩に1000人が強姦され、そうしたことが毎日ある。反抗すれば銃剣で刺されるか、撃ち殺されるだろう。…人々はヒステリックになっている。女性たちは毎朝、毎日、毎夜、連れ去られる。日本兵たちは、気のおもむくまま出入りし、好き勝手に行動しているようだ」 しかし、これらの強姦事件は、実際にラーベ、ヴォートリンやマッカラムが自分の目で目撃したことかというと、そうではありません。『言われている』「見積もりによれば」とか「〜しているようだ」と書かれていることからもわかるように、いずれも伝聞なのです。犯人が「日本兵だった」、というのも伝聞です。委員会のメンバーたちが記した強姦事件は、ほとんどが中国人から聞いたものでした。 そしてこれらの日記が記されてから約2週間後、南京で強姦を繰り返していた中国兵らが、日本の憲兵によって逮捕されます。アメリカ人教授たちのもとでかくまわれ、避難民キャンプで2番目の地位を与えられていたこの中国兵らは、強姦を犯しては、「犯人は日本兵だ!」と言いふらしていました。ニューヨーク・タイムズが報じたように、彼らが逮捕され、それを自白したとき、アメリカ人教授らは「心底から当惑した」のです。 また大阪朝日新聞が報じたように、2月になると、「日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・通訳の腕章を偽造してこれをつけていた」中国兵らが逮捕されました。彼らも、日本人になりすましては強姦等、暴行を繰り返していました。そして彼らが逮捕されてのち、強姦事件等はほとんど見られなくなりました。 このように、南京の西洋人らが非難した「日本軍の暴行」の多くは、じつは民間人の服を着て隠れていた中国兵によるのしわざだったのです。実際、マッカラムの1938年1月8日の日記にこんな記述があります。マッカラムは、ある中国人避難民が、 「強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやった。それを証明できる」 と言うのを聞いた、と書いているのです。安全区にいた避難民たちの中には、そこで起きていた強姦や、略奪、その他の事件の多くは、じつは中国兵らによる反日撹乱行為であることを知っている者たちもいたわけです。 しかし、詳しい検証もせず、うわさをそのまま信じ込んでいたのが、委員会のメンバーたちでした。彼らはそのために、南京には「日本兵の暴行があふれている」と思い込んでいたのです。これについて竹本忠雄、大原康男・両教授も、こう書いています。 「安全区に設けられた19カ所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり4000名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴォートリン女史が務めたほかは、すべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と、市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した『難民収容所』で起こっており、『難民収容所』が解散した1938年2月以降、そうした強姦事件は起こっていない。難民収容所の責任者たちが主張した『日本軍兵士の犯罪』を額面通り受け取ることは、きわめて危険だと言えよう」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪) 両教授はこうも書いています。 「そもそも当時の南京には、女性は安全区にしかいなかった。そして日本軍司令部は、安全区に集中している外国権益を保護し、安全区委員会メンバーとの無用の摩擦を避けるため、また、多数の中国軍兵士が潜伏していて危険であるとの判断から、日本軍兵士に対し安全区への立ち入りを禁止した上、要所に見張りまで立てた。このため日本兵は勝手に安全区には入れなかったし、危険を侵してまで入ろうとする兵士もいなかった」(同) 先に見たように、南京で起こった強姦事件のうち7件は、実際に日本兵が犯したものであり、犯人は処罰されています。また他に、日本軍が調査していたものも数件あり、計10件程度ありました。あるいは、知られていないものも含めるとすれば、多くて数十件程度の日本兵による犯罪があったと考えられるでしょう。 しかし他の大部分は、隠れていた中国兵らによる犯行だったと言ってよいのです。また委員会メンバーの記述には、憶測、誇張、デマ、誤解等も少なからず含まれていました。 マギー・フィルムの真相 日本軍による南京占領の期間中、その光景をアメリカ聖公会の牧師ジョン・マギーは、8ミリフィルムに残していました。そのフィルムは、のちに日本の残虐性を表すものとして、虐殺肯定派の間でよく使われました。 しかし、実際にその映画を見ても、明らかに虐殺されたとわかる死体は一つも映っていません。字幕は「日本軍の暴行」等とつけられているものの、日本兵が捕虜を処刑しているシーンも、何千もの死体シーンもなく、映っているのは、ほとんどが生きている人々ばかりです。 またマギーは東京裁判で、「あちこちで殺人が行なわれていた」と証言したものの、「あなた自身が目撃したものはありますか」と聞かれて、「一つだけあります」と答えました。しかし、それは日本兵が、民間人に化けた中国兵の掃討作戦をしているとき、不審な中国人をみて身元を尋ねると急に逃げ出したので、撃ったというものでした。これは合法的なものです。彼は非合法の殺人を一件も見ていません。つまりマギーは、30万人虐殺も、4万〜5万人虐殺も見ていないのです。 またマギー自身が目撃したものとして、ほかに強姦事件が一つ、盗みが一つありました。あとはみな伝聞でした。この「強姦事件」というのも、日本兵がある中国人男性の妻のもとへやって来たのを目撃したというものですが、マギー自身は強姦現場を見たわけではありません。その日本兵は、その中国人妻かその夫に不審な点を見出し、問いただそうとやって来たのかもしれません。また「盗み」というのも、ある日本兵が中国人の家からアイスボックスを持って出るのを目撃したというものです。このようにマギー自身は南京陥落の前も後も市内にずっといたのに、「日本兵による大規模な残虐行為」は一つも目撃していないのです。 もっとも、マギーが記した「南京市内で起きたむごたらしい一家惨殺事件」は有名です。彼のフィルムにも、その事件でかろうじて生き残ったという少女の姿が映っています。ところが、この惨殺事件には大きな矛盾点があります。事件は次のようなものでした。 「12月13日、約30人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は、馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏を撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。 夏夫人は、1歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の76歳と74歳になる両親と、16歳と14歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。 妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方が二、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の7〜8歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、4歳と2歳になる馬氏の二人の子どもであった。 年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。傷を負った8歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった4歳の妹と14日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。…兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった」 この恐ろしい事件について、マギーは、この「30人の兵士」は日本兵であったと考えていたようです。しかし結論からいうと、この兵士たちは、日本兵ではありません。 なぜなら、まず、マギーはこの話を「(生き残った)8歳の子から部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した」と書いています。つまり、これは伝聞であるだけでなく、さらに他者の話をも合わせて「修正」された話です。 さらに、東中野教授によれば、12月8日以降、南京市民は中国軍によって全員「安全区」内に強制的に集められていました。ところがこの一家は、安全区の外側にいました。マギーは事件の日付を12月13日と書いていますが、この日は日本軍の安全区外への砲撃が強く、日本軍が市内に入ってくる日ですから、その日に安全区外にいることは最も危険なことです。にもかかわらず彼らが安全区外にいた、ということは、この事件は実際には12月13日に起きた事件ではないと考えられ、本当は12月8日以前あるいは13日以前に、中国兵たちによって起こされた事件と考えられるわけです。 さらに、「膣に瓶を押し込む」「膣に杖を押し込む」などといった殺し方は、まさに中国式です。中国には昔から、そういうむごたらしい殺し方をする風習がありました。日本兵はそんな殺し方はしません。このように、どうみてもこれは中国兵たちの犯行なのです。 マイナー・ベイツの虚偽報告 マイナー・ベイツは、南京国際委員会においてリーダー的存在となっていました。彼は、東京裁判における主要な証言者です。「日本の残虐」を世界に広めた中心的人物といっていいでしょう。ベイツは、戦後の東京裁判で、 「日本軍侵入後、何日ものあいた私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました」 と証言しています。ところが、これらは真っ赤なウソでした。 なぜなら、「東京日日新聞」の若梅、村上両特派員は、占領2日後の12月15日、大学の舎宅にベイツ教授を訪れ、インタビューを行なっています。その時ベイツ教授は、上機嫌で2人を迎え、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」といって両記者に握手しています(東京日日新聞 昭和12(1937)年12月26日) さらにそのとき両特派員は、「家の近所の路で射殺された民間人の屍体がゴロゴロしている」というような光景は見ていません。12月13日に南京城内に入った第6師団の歩兵第13および47連隊の日本兵たちも、 「(南京城内では)敵兵はもとより住民の姿さえほとんど見なかった」 と証言しています。同じ日、南京城内に入った都新聞の小池秋羊記者も、 「城内はどの家も空き家で、物音一つしませんでした。犬、ネコの姿一つ見受けられず……」 と証言しているのです(南京事件p.144)。誰も、「路にゴロゴロ横たわった民間人の屍体」など見ていません。 一方、南京の安全区に逃げ込んだ中国兵を掃討する作戦を担当した第7連隊の兵士たちも、連隊に発せられた命令は、「市民を殺すな。皇軍の名を汚してはならない」であったと証言しています。彼らは、「民間人に危害を及ぼさないよう非常な注意を払った」と述べています。 またベイツと同様、南京安全区内で日々を過ごした同盟通信の特派員・前田雄二氏も、ベイツの言ったような虐殺死体の存在を否定して、こう述べています。 「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。 こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。すなわち『捕虜の処刑・虐殺』はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう」(内外ニュース社発行「世界と日本」 59・4・5、413号) ベイツは、南京で虐殺があったと証言したものの、実際に虐殺死体を自分の目で見たわけではありません。彼の報告はすべて伝聞体です。南京国際委員会が提出したあの「被害届」においても、殺人の事例の「証言者」の欄にベイツの名はありません。アメリカ領事館のジョン・アリソン領事から市民虐殺の証明を求められたときにも、ベイツはその証明ができませんでした。 ベイツによるすりかえ マイナー・ベイツはまた、 「埋葬死体の証拠からみると、4万人近くの非武装の者が、南京城の内外で殺された。そのうち約30%は兵士になったことのない者たちだった」 と書きました。ベイツがいった「埋葬死体の証拠」とは、「紅卍会」による埋葬をさしています。日本軍は、ほとんどの戦死者の埋葬作業を、中国人の団体「紅卍会」にまかせました。彼らが埋葬した数は、約4万人に及びました。 ベイツは、「4万人近くの非武装の者が・・・・殺された」と書いていますが、彼ら埋葬された死者は、実際には武装した中国兵の戦死者たちであって、決して「非武装」の者たちではありません。中国兵の多くは逃げる際、軍服を脱ぎ去って逃走しました。彼らは死んだとき軍服を着ておらず、その死んだ姿は民間人とかわりありません。ベイツは、実際は武装した中国兵の死者を「非武装の者」と書き、あたかも民間人の大量虐殺があったかのように、すりかえているのです。 またベイツは、そのうち30%は純粋な民間人だった、と述べましたが、竹本忠雄、大原康男・両教授によれば、紅卍会による埋葬死体のリストを調べると、「女性と子供の比率はわずかに計0.3%」でした。しかもこれは日本軍による南京戦のときだけでなく、翌年の1938年7〜8月の埋葬死体も含んでのことですので、もし南京戦の死者だけに限れば、女性・子供の比率は0.3%以下になります。 もし日本軍が民間人を虐殺したのなら、埋葬死体の中にはおびただしい女性や子供も含まれていたはずです。しかし女性や子供がほとんど含まれていなかった事実は、日本軍による民間人虐殺はなかったことを示しているのです。 また、先にエスピーが述べたように、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、民間人を殺して服を奪い、民間人の中にまぎれこみました。埋葬死体4万人の中には、そうした民間人の大人男性の死体も数千体以上含まれていたでしょう。彼ら民間人を殺したのは、日本軍ではなく、中国軍なのです。「0.3%の女性・子どもたち」に関してさえ、その多くを殺したのは中国兵たちだった可能性が高くあります。 しかしベイツはそうした中国兵たちの悪行には何一つふれず、すべてを日本軍のせいに見せかけ、日本軍の悪行を声高に世界に発信しました。 さて、日本軍による南京占領から5日後、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに、「南京の街路は、女子供を含む民間人の死体で満ちていた」という記事が載りました。これは一体どういうわけでしょう。これはティルマン・ダーディン記者の記事ですが、やはりダーディン自身が見た事柄ではありません。なぜなら、彼はこれを「南京の外国人は……目撃した」という伝聞体で書いているからです。 じつは、これはダーディンが12月15日に南京を去るとき、ベイツから聞いた話でした。ベイツは1938年4月12日の自身の手紙の中で、12月15日に南京を去るダーディンはじめ欧米の特派員らに、南京の状況を書いたリポートを渡したと書いています。つまり情報の発信源はベイツでした。 また1938年、ティンパリー編著の『戦争とは何か』という本が出版されました。この中で「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴え、その後の日米戦争の一因となった本です。しかしティンパリーは上海にいた人で、南京にはいませんでした。じつは、その情報はベイツからもたらされたものでした。そう、ティンパリー自身が本の中に書いています。つまりこれもまた、ベイツが発信源でした。 ベイツはこのようにして、「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。 ベイツは、じつは蒋介石率いる中国国民党の顧問でした。国民党の戦略は何だったか。それは、たとえ虚偽を用いてでも「中国の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に訴え、アメリカを味方につけて日中戦争に巻き込み、アメリカが日本を叩きつぶしてくれるようにすることでした。そのため、ベイツはこの国民党の戦略に沿って、日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのです。 国民党の戦略について、アメリカのジャーナリストで、中国国民党宣伝部の顧問であったセオドア・ホワイトは、こう書いています。 「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよい、(という政策が)中国政府唯一の戦略になっていた」(『歴史の探究』p.76) スマイス調査が証明する「日本軍による民間人死者は少なかった」 最後に、南京の金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937年12月〜1938年3月』)をみてみましょう。これは南京城内とその周辺地域における人的・物的被害を調べたものであり、加害者が日本軍か中国軍なのかを特定していないものの、被害の実態を知るうえで貴重な資料です。 調査方法は、市術地では50戸に1戸、農村部では約250世帯に1世帯を抽出し、彼が中国人助手と共に面接調査したものです。大雑把な調査ではありましたが、南京における唯一の学術的調査といっていいものです。これは「南京大虐殺」を肯定するものでしょうか。否定するものでしょうか。 このスマイス調査によれば、南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160、計15,760人が民間人の被害ということでした。これは「30万人」虐殺説には程遠い数字です。また、これは「犯人」を特定せず、被害だけの数字であり、その中には、じつは日本軍による死者よりも、中国軍による死者のほうが多数含まれているのです。 というのは、ダーディン記者の記事にもあったように、中国軍は、南京城外の農村地区のほとんどを焼き払いました。そこでは、多くの中国人が死んだのです。また、安全区の中国人が証言していたように、中国軍は働ける男をみれば拉致して兵士にするか、労役に使いました。またエスピーの報告にもあったように、中国兵は軍服を脱ぎ捨てて民間人に化ける際、服を奪うために民間人を撃ち殺すことも多かったのです。このようにスマイス調査が示す民間人死者のうち、その大多数は中国軍による死者と言ってよいのです。 すなわちスマイス調査は、日本軍による民間人の死者はわずかであった、ということを証明していると言ってよいでしょう。 久保有政著
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