朝鮮は儒教社会だから慰安婦にされたらもう二度と故郷に帰れなくなる。被害が他国とは全然違うんだよ: 動員部長である吉田さんの弁によれば、吉田さんは済州島の各地で強制連行をしたそうです。その証言に登場した城山の貝殻ボタン工場跡をテレビ朝日が実際に取材しました。その報告はTV番組「ザ・スクープ、従軍慰安婦Part2、戦争47年目の真実」(1992年)で放送されました。
番組では、女性アナの田丸美寿々さんが現地で二人にインタビューしました。一人は城山の長老の洪さんです。田丸さんの質問「この工場から徴用された慰安婦がいるか」に対し、洪さんは 「いないよ。いない。この辺にはいないよ。もしいたとすればよそから来た人だよ。何十人か連れていかれたという話もあるけれど、それは済州島の人間じゃないよ」 と微妙な返答をしました。つまり、済州島の人間は連れていかれたことはないが、よそから来た人は何十人か連れていかれたという話をきいていると、肯定とも否定ともとれる返答をしました。
もう一人インタビューに応じた地元の女流作家、韓林花さんは番組でこう語っていました。 「(地元の人は)みんな知らないふりをしている。口にしないようにしている問題なんです。日本に女まで供出したことを認めたくないという民族的自尊心と、女は純潔性を何よりも最優先にするものだという民族的感情のせいなのです」 この二人の話をつなぎ合わせると、番組のニュアンスは「強制連行」は あったかも知れないという印象でした。 韓国では身内や一族から「従軍慰安婦」を出したとあっては大変な恥です。こうした精神的風土から戦後、多くの「従軍慰安婦」の女性たちは故郷に戻れませんでした。その上、自分が「従軍慰安婦」であった事実をひた隠しにして生きざるを得ませんでした。 そのあたりの事情をテレビ朝日は1991年に放送したTV番組「ザスクープ・追跡朝鮮人慰安婦、知られざる真実」で紹介していました。その時の番組では、「従軍慰安婦」を多く出したとされる全羅南道のある市場で、妹を連行された女性と周辺の人を取材しました。そのやりとりを記します。 アナ「(この辺で)女の人が狩り出された話を知っていますか?」 男性「(横にいる)ハルモニの妹が連れて行かれた」 アナ「どういう風に連れて行かれたのですか?」 男性「強制的にだよ・・・ここは儒教社会だから体面があってあまり話せないんだよ。自分の家から女子挺身隊を出したとなると、他の者の結婚にも さしつかえる・・・結婚してたら連れて行かれないというので、12から14歳くらいでみんな結婚させたんだよ。連れて行かれたらもう消息が途絶えちゃうんだ。行方不明の人多いよ」
アナ「おばあさんはそれから妹さんに会いましたか?」 ハンメ「会っていない。行方不明だよ。生きているのか死んでいるのかわからない」 (注)ハンメ、ハルモニ=おばあちゃん、おばあさん さて、吉田証言にもどりますが、地元の新聞「済州島新聞」は強制連行の事実を否定した記事をわざわざ載せたそうです(未確認)。これは韓林花さんのいう「民族的感情」を裏付けているのかも知れません。 一方、吉田さんを「職業的詐話師」と酷評している人もいます。千葉大学の秦郁彦教授はクマラスワミさんにそのように非難したという記事が週刊新潮(96.5.2)に掲載されたそうです。(未確認) 吉田さんは、独立紀念館の近くにある韓国最大の集団墓地「望郷の丘」に自費で「謝罪の碑」を建てました。これに対し秦教授は今度は「職業的演技 者」とでも呼ぶのでしょうか? http://www.han.org/a/half-moon/hm012.html#No.117 秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない悪名高い詐欺師 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判
この著者は時々、ずさんな仕事、あるいは人を誹謗中傷するような、因縁をつけるようなこともやります。この本は、ずさんな仕事の代表的なケースでしょう。 この小文でも紹介したような、写真や図表の無断盗用、資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋などの例をリストアップしてみたのですが、膨大な量になりあきれてしまいました。どこかで公表しようかとも考えたこともありましたが、バカらしくなってやめました。それにしても人に対してはさんざん因縁をつけながら、自分の間違いを指摘されても無視して開き直るのには、驚くばかりです。 なお前田朗さんがこの本の「図版盗用」「写真盗用」「伝聞・憶測・捏造」などの問題点を詳細に批判されていますので御参照ください (『季刊戦争責任研究』第27号、2000年3月、『マスコミ市民』370号、1999年10月、に掲載された前田論文参照)。 2002.12.17 資料の扱いもずさんさである。たとえば、一九三八年に内務省が陸軍からの依頼をうけて慰安婦の徴集の便宜を図った資料がある。この本では内務省警保局の課長が局長に出した伺い書が、内務省から各地方庁への「指示」に化けている。 さらに五府県に慰安婦の数を割当てているが、その人数がでたらめで、資料では合計が四〇〇人になるのに、氏の数字では六五〇人とされてしまっている。 引用も言葉を勝手に変えたり、付け加えたり、およそ研究者の仕事とは思えない(五六頁)。 http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper44.htm 秦郁彦は研究者でも学者でもない。 唯の詐欺師 『諸君!』2002年2月号秦郁彦氏の文章を嗤う 「ペリーの白旗書簡は明白な偽文書である」(『UP』2001年8月号) 「極めて興味深い偽文書」(『歴史評論』2001年10月号)
「Problematic Account in a Japanese History Textbook based on an Alleged Letter by Perry」(『歴史学研究』2001年10月号) 『諸君!』に掲載された秦氏の文章は、上記の宮地氏の論考に対する「批判」を意図したものである。 宮地氏の論文の内容にかかわる批判は、いずれ宮地氏自身からなされるであろうから、深くは立ち入らないが、秦稿の中には、秦氏の研究者としての基礎的能力を疑わせる部分があるので、五点ほど指摘しておきたい。なお、秦稿からの引用文中にある[ ]内の部分は、筆者のつけた説明注である。 その1 秦稿112ページに次のような部分がある。 松本(健一)、三輪(公忠)の両氏はいずれも右の著書(『白旗伝説』・『隠されたペリーの「白旗」』)で出典は、前記の『幕末外国関係文書之一』(東大史料編さん所)という公文書であると明記し、宮地氏もそう書いているので、この点についての争いはありえないはずだ。そうだとすれば、宮地氏は所属し、所管する機関の発行した公文書が偽文書であるゆえんを、「中学生にもわかる」ように立証する義務がある。 まったく驚いたものである。『幕末外国関係文書』が公文書であるとは、およそ歴史の研究者の言葉とは思われない発言である。「公文書」とは公的機関が、その機関自身の意志を伝達、もしくは記録しておくために作成した書類のことである。『幕末外国関係文書』というのは、幕末の対外関係に関するさまざま史料を、東京大学史料編纂所が集成して刊行した史料集であって、刊行は明治43年に開始され、現在もなお継続中である。その中には幕府が発給したまさに公文書も掲載されていれば、個人の私的な日記でも、対外関係に関する記事があればそこの部分が掲載されている。当然、そこに掲載された史料だからといって、すべてがその時代の事実関係を誤りなく表現しているとは限らない。掲載されている史料をどこまで信用し、どこから疑ってかかるか、という点にこそ研究の研究たるゆえんがある。研究者の力量は、まさにそこでこそ試されている。史料集をさして公文書といい、公文書に書かれているのだから間違っているはずがない、などというのは、まともに歴史学を研究した経験のある人の言葉とは思われない。要するに、秦氏は史料集というものの性格がわかってないのである。 223投稿者:詐欺師_秦郁彦の流した害毒 投稿日:2007年05月05日(土) 10時07分17秒 その3 秦稿118ページに次のようにある。
宮地氏は各地に伝わっている風説書を列挙し、史料一一九[『幕末外国関係文書』巻1所収119号文書を指す]に似ているが変造したものが少なくないことから、そう[白旗関連の情報はすべて風説書にのみ現れると]推測しているようだが、逆もまた成り立つのではないか。つまり老中や海防掛を仰せつかった水戸斉昭などの高官を除き内密にされた白旗書簡が少しずつ洩れ、脚色されていったとも考えられるのである。 それに斉昭が嘉永六年七月十日付で幕府へ提出した「海防愚存」という意見書にも白旗の話題が出てくるが、これまた風説書として片づけるわけにはいくまい。 宮地氏は「海防愚存」については公式の幕政史料として分析し、「白旗書簡」実在論者たちの行った史料読解の誤りを指摘している(歴評論文,114頁)。すなわち、「海防愚存」に出てくる「白旗」とは、『新しい歴史教科書』に書かれているような性格のものではなく、ペリーたち自身に武力行使の意志がないことを表明するためのものだったというのである。「海防愚存」を白旗実在の証拠としようとするのならば、宮地氏のこの指摘に反論しなければならない。また、「強硬派の斉昭であれば、あらゆるところで利用して然るべきこの白旗書簡に、いかなるところでも全然言及していないのである」と、そもそも斉昭の政治的立場からして、仮にそのような事実があったとするならば本「書簡」の内容が「内密にされ」るべき必然性がないことも宮地氏は明確にしている。 つまり、秦氏は宮地論文の主張を正しく読みとることができていないのである。史料どころか、現代文を読解する能力にも欠けているようである。 http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekiken/archives/ebara_2002.html 秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない悪名高い詐欺師
☆(論評)秦郁彦『慰安婦と戦場の性』の検証 @自分を棚に上げ、相手の人格を貶める手法 Aウソをつきながら、相手を「ウソつき」と断定する手法 B裏どり証言がないだけで、証言を「ウソ」と断定する手法 C電話取材での言質を証拠に、「ウソつき」と断定する手法 D白を黒といいくるめるための、引用改ざんの手法 E何人もの研究者が秦氏の著作のデタラメさを指摘 F戦中の特高警察の流れを汲む反共謀略組織の代弁者の疑い G買春した「ホテトル嬢」にだまされた怨みが動機?
真実は:
経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」 http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html 秦氏の『慰安婦と戦場の性』を一読して気付くのは、相手の証言を否定するのに、真正面から論理的に立証するのではなく、相手の人格を貶めて、それで証言の信ぴょう性をなくそうという手法をとっていることである。 同書の第七章は「吉田清治の詐話」と題され、まるまる20ページを「吉田証言」否定のための論述に当てている。 その論理構成は、 「日本軍が犯したとされる戦争犯罪がマスコミで取りあげられると、必らずと言ってよいぐらい元日本兵の『ザンゲ屋』ないし『詐話師(ウソつきのこと)』が登場する」 →「有名な南京虐殺事件にも、この種の人物が何人か登場する」 →「(秦氏は)その一人とニューヨークで同宿したことがある」 →「(その一人は)ホテルに帰ると私に『カン・ビールを買ってこい』と命じ、モロ肌脱ぎになって飲みながら『強姦した姑娘(クーニャン)の味が忘れられんなあ』と舌なめずりした」 →「同類の『詐話師』に何度か振りまわされた経験をつんで、私は疑ぐり深くなっていたのかも知れない」 →「吉田清治の言動に私が疑惑を感じたのは、こうした苦い体験のせいもあったと思う」 →裏付けをとりたいので旧部下を紹介してくれと電話で吉田氏に言ったら旧部下に迷惑をかけるのでと断られた″ →決め手が見つからないので済州島の現地調査をした″ →済州島の新聞で「吉田証言」の裏どりをした記事を発見し、そこには「裏付け証言をする人はほとんどいない」と書かれていた″ →この記事を書いた記者に話を聞くと「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と問い詰められ「答に窮した」″云々と続く。 この立証の論法は、予断と偏見に満ちた非科学的なものだということが、一見して明らかである。まず、指摘したいのは、ニューヨークで同宿したという南京虐殺事件の加害者が、強姦した女性の「味が忘れられんなあ」と言った(これは裏が取れない、秦氏との密室の会話)という「事実」から、すぐに彼を「詐話師」と断じている論法の非科学性である。百歩譲って、この人物が「詐話師」だと立証できたとしても、この人物とはまったく別の吉田氏を「詐話師」と疑うのはおかしい。こんな理屈は、通常の歴史研究では通用しないであろう。 http://masato555.justhpbs.jp/newpage118.html 秦氏が詮索している「13項目の一覧表」の中で、吉田氏が「陳述」もしてないのに、詳しく暴いている経歴がある。それはL戦後の略歴である。「47年下関市議に共産党から出馬して落選、70年頃門司の日ソ協会役員をしていたほかは、職歴不明」というものだ。いったい、これは誰が暴いた「実際」なのか。一覧表の脚注の「(注2)」にこうある。「『実際』の諸事実は、1993−96年にかけ、秦、板倉由明、上杉千年らが、下関を中心に吉田の縁者、知人などを通じ調査した結果である」。
板倉由明氏とか、上杉千年氏とかいう人物は何者か。 彼らの論文や著作を読めば、彼らが日本共産党を攻撃することを主な仕事とする「研究者」たちであることは明らかである。だから、吉田氏が共産党の候補者だったことを取り立てて問題にする。 彼らの論文などを読めば、その「研究」が公安警察の手法と変わらないものであることがわかる。吉田氏が戦後直後に下関市議選で共産党の候補者として立候補して落選したという「事実」は、公安警察が最も興味を示すテーマだが、「従軍慰安婦狩り」の証言の真偽にはまったく関係はない。吉田氏にとって、最も公表してほしくない思想信条の自由に属する問題である。 そういう問題を彼らは必死になって調べている。 「(92年)7月号(板倉論文掲載)の発売と同時に、編集部には吉田氏の戦前の活動の舞台であった下関・福岡方面から、若干の情報が寄せられてきた。筆者上杉と(『諸君!』の)編集部が、山口県下関方面に取材の足を向けたのは、その幾つかの情報に促されてのことである。…まず、寄せられた情報を頼りにたどり着いた吉田氏の妻(故人)の実家、および幼い頃他家の養女となった吉田氏の実姉、さらに地縁のある人々の遠い記憶から、氏の最初の著書に描かれた戦前のドラマの虚と実が、一部ではあるが明らかになったことをまず報告しておくべきであろう。板倉氏が前号の公開質問の第一に挙げていた吉田清治氏の本名は『吉田雄兎』であった。おそらく『清治』はペンネームなのであろう。…ところで、ここに興味ぶかいデータがある。昭和22年4月30日に投票の行われた下関市市会議員選挙の開票結果である。『吉田雄兎129票』。最下位当選者の658票に遠く及ばぬ落選であったが、吉田氏は戦後一転、共産党から市議に立候補していたのである。この転身が、いわゆる戦後180度の転向を意味するのか、それともその源は朝鮮人を養子にした若き日に求めるべきなのか。吉田氏の経歴への疑念は深まるばかりである」 これが、上杉氏の調査だというが、よく読めば、「ここに興味ぶかいデータがある」というだけで、上杉氏らは「寄せられた情報」を鵜呑みにしている。それはなぜなのか。だれが、この「情報」を彼らに渡したのか。それは、そういう調査を得意としている公安警察以外にないだろう。彼らは公安警察情報を裏づけも取らずに信じる「研究者」なのである。 ところで、私は最近、山口県下関市の選挙管理委員会事務局から「昭和21年〜昭和55年 選挙の記録(下関市選挙管理委員会)」という冊子の該当部分をFAXで送ってもらった。そこには昭和22年(47年)4月30日の下関市議会議員一般選挙の得票結果が示されており、落選者の中に日本共産党・吉田雄免、129票という記述がある。しかし、それは、上杉氏の論文が言うように「吉田雄兎」ではない。「吉田雄免」だ。名前が一字でも違えば、本人かどうかは確認できない。なぜ、上杉氏は、これを吉田雄兎氏=吉田清治氏だと断定するのか。ここにも上杉氏は「研究者」とは別の顔を持っていることがうかがえる。 公安警察は、戦中の特高警察の流れを汲む反共謀略組織である。秦氏たちは、特高警察の代弁者として、戦時中から共産党員であったかもしれない吉田清治氏の人格を必死に貶めようとしているのではないか。安倍首相ら保守政治家が吉田清治氏を「眉唾もんだ」などと目の敵にするのも、特高警察流の「共産党憎悪」の思想が底流にあると思えてならない。 秦郁彦がデマを流したのは買春した「ホテトル嬢」にだまされた怨みが動機? 最後に、蛇足かも知れないが、やはり書いておいた方がいいことがある。それは、秦氏がなぜ、こんな著作を書いたかという動機である。 秦氏は、従軍慰安婦が国家によって強制されたという事実を絶対認めようとしない。著作の第6章「慰安婦たちの身の上話」で縷々書いているように、「慰安婦だった事実だけでも、立証困難な例が多いから、彼女たちが数十年の歳月を経て記憶だけを頼りに語る『身の上話』は雲をつかむようなものばかりである」という姿勢である。 元慰安婦の女性に対する思いやりは皆無で、むしろ蔑視する記述がいたるところに出てくる。例えば、「現在までに名のり出た慰安婦は300人程度で、きわめて一部にすぎないが、次のように共通したパターンは見える」とし、4つの特徴の一つとして「知力が低く、おだてにのりやすい」と分析してみせる。ここまで、元慰安婦の女性を貶めようとする研究者が他にいるだろうか。 秦氏は、慰安婦たちが日本の軍や官憲に強制されたのではなく、売春婦として大金を稼ぐためにやったといいたいようだ。これは、第6章全体を読めば、明らかである。 秦氏にすれば、慰安婦を売春婦とみなすための最大の障害が、軍や官憲による慰安婦の強制連行の実行責任者として証言した吉田氏であった。だから、秦氏は、執拗な攻撃を吉田氏に向けてきた。 秦氏はなぜ、そんなに売春婦を蔑むのか。その答えが、著作に散見される。 P177「昔から『女郎の身の上話』という言い伝えがある。純情な若者がすっかり信じこんでいるのを、年長者がからかい気味に戒めるときに引かれるが、最近だと女郎でなく『ホステス』や『ホテトル嬢』におきかえてもよい。当の私自身も若い頃に似たような苦い思いをかみしめたことがあるが、客を引き留める手練手管と割り切れば、さしたる実害はなかろう」 P274「昔から『女郎の身の上話』という諺がある。私も若い頃、ホステスの身の上話を聞かされ信じこんで先輩から笑われた経験がある」 つまり、秦氏は若い頃に買春をし、その時の売春婦にだまされて大金を失ったという体験を披露しているわけだ。 http://masato555.justhpbs.jp/newpage118.html
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