<LIVE>池袋暴走事故 遺族の松永さん「最大限の刑罰を」 飯塚被告に求刑へ(東京新聞) 2021年7月15日 16時00分 https://www.tokyo-np.co.jp/article/116868/1 https://www.tokyo-np.co.jp/article/116868/2 https://www.tokyo-np.co.jp/article/116868/3 https://www.tokyo-np.co.jp/article/116868/4 東京・池袋で2019年4月、乗用車が暴走し、松永真菜(まな)さん=当時(31)=と長女莉子(りこ)ちゃん=当時(3)=が死亡した事故の刑事裁判は15日、東京地裁で検察側の求刑や弁護側の最終弁論がある。自動車運転処罰法違反(過失致死傷)の罪に問われた飯塚幸三被告(90)は「車のシステムに何らかの異常が発生した」と無罪を主張しているが、検察側はどんな求刑を行い、飯塚被告は最後に何を語るのか。裁判の様子を速報する。 ーーーーーー 池袋乗用車暴走事故 起訴状などによると、飯塚幸三被告は2019年4月19日正午すぎ、東京都豊島区東池袋4の都道で、ブレーキと間違えてアクセルを踏み続けて時速約96キロまで加速し、赤信号を無視して交差点に進入。横断歩道を自転車で渡っていた近くの松永真菜さん=当時(31)=と長女莉子ちゃん=当時(3つ)=をはねて死亡させたほか、通行人ら男女9人に重軽傷を負わせたとされる。 ーーーーーー
【関連記事】飯塚被告は「クリスマスの写真」と言ったけど…松永さんが提出した本当の4枚 https://www.tokyo-np.co.jp/article/116504 ◆13:25 飯塚被告、入廷し一礼 飯塚幸三被告は車いすで入廷し、裁判官に向かって頭を下げた。検察側の席に座った遺族の松永拓也さん(34)は目を伏せ、その後、しばらく目を閉じた。飯塚被告の入廷が終わると、裁判長の判断で予定より数分早く開廷した。 ◆13:30 真菜さんの父上原さん「どれほど大きな存在だったか」
遺族らの心情の意見陳述が始まった。最初に松永真菜さんの父で沖縄県在住の上原義教さん(63)が証言台に立ち、事前に用意した紙を手に「私は松永真菜の父です」と読み始めた。声は少し震える場面もあったが、静かな口調で読み進めた。 上原さんは「大事な2人をまさか事故で失うなんて」と述べ、「どれほど大きな存在だったか述べたい」と真菜さん、莉子ちゃんの生前の様子を語り始めた。 真菜さんは5人姉弟の三女で、上原さん夫妻と7人家族。恥ずかしがり屋で、初対面の人の前では母親の後ろに隠れてしまったという。10代のころから家庭のことを手伝い、年下の四女や長男の面倒をよくみていて「家族思いの子でした」。家計を考えてか、専門学校を卒業後に歯科衛生士として勤務。「控えめで、人を悪く言うことはなく、友だちが多かった」という。上原さんは「私は真菜を悪く言う人をみたことはありません」と語った。 ◆かき氷、楽しみにしてたのに… 真菜さんが21歳だった2009年5月、25歳だった上原さんの次女が白血病で亡くなり、上原さんは「想像を絶するつらさ」を味わった。その後、真菜さんの結婚については「そばにいてほしかった。本土は遠いというイメージでした」として当初は反対する気持ちだったことも明かした。しかし、松永拓也さんと会い「優しい人だとよく分かりました」と賛成したという。 真菜さんが莉子ちゃんの出産後、上原さんの妻がくも膜下出血で急に亡くなった。上原さんを心配した真菜さんはスマートフォンを上原さんに渡した。上原さんは「おかげで毎日のように莉子とテレビ電話をし、成長を見ることができました。莉子は私にもよく懐いてくれ、『じいじ』と呼んでくれました」と振り返った。事故直前、真菜さんには家族で沖縄に移住する計画があり、パティシエをしている上原さんの4女とカフェを営むことを夢見ていたという。 最後に2人と話したのは、事故の数日前。テレビ電話でだった。5月に実家の沖縄に2人で来る予定で、莉子ちゃんは、セパレート式の水着を画面越しに見せてくれた。「かき氷を食べたい。かき氷器ある」と尋ねられた上原さんは、しばらく使ってなかったかき氷器を表に出し、莉子ちゃんに見せた。「とても楽しみにしていました。話をしたのはそれが最後になりました」。 ◆私自身がおかしくなったようで 事故当日、松永さんから午後4時ごろに電話を受け、すぐに上京の準備をした。その最中に亡くなったことが再び電話で伝えられた。「直接確認するまでとても信じられない」。その日のうちに東京に行ったが、二人に会えたのは翌日だった。「遺体を見られませんでした。私自身がおかしくなったようで、夢を見ているような感覚になりました」。 松永さんと2人で泣きながら「痛かったね」「ごめんね、じいじが代わってあげられなくて」と語りかけながら一夜を明かしたという。 上原さんは事故後、東京での署名活動のために上京した。まだ、気持ちの整理がついていなかったが、「ちょっとでも手伝えたら」と思い、参加した。東京は怖い場所だと思っていたが、多くの人が署名し、2人のことで泣いたり、語り合っている姿をみて、「こんなにも思っている人がいて、真菜もそんなに悪いところに住んでいたわけじゃないんだ」と思えたという。 その後、地元の沖縄でも署名活動を行った。飯塚被告はうつむいたまま聞いていた。 ◆「いったい誰が裁かれているのか」 裁判が始まり、上原さんは裁判のたびに上京した。でも気持ちは晴れない。「誰が悪いのか分かっているのに。加害者に寄り添って見えました」と当時の心境を打ち明け、「いったい誰が裁かれているのか。私たちが裁かれているような気がしました」と振り返った。 上原さんは自動車整備士をしていたことがあるといい、「車のことがわかるだけにより腹立たしい」と思った。被告人質問の後に、飯塚被告に対して「あの人に何も言ってもだめなのか」「私たちのことをこれっぽっちも考えてくれない。車のせいにしている」と感じた。 「事故後、真菜の顔の傷をみて、本当に苦しかったです。あんな2人を見たのに、まだ信じられません。また戻ってきそうな気がしてならない」と涙ぐんだ。 「毎日のように電話していたのに、突然亡くなったことに、今でも受け入れることができません。玄関を空けると、真菜の声が聞こえてきたような気がすることがあります。神様がいるなら、こんなことがあるのでしょうか。真菜と莉子を返してほしい」。娘たちとカフェを開く夢があったといい、「遺族としても夢を奪われた」と訴えた。 ◆「あなたも人の子なら…」 上原さんは「飯塚さん、あなたも人の子なら車のせいにせず、罪に向き合っていただきたい」と望んだ。「刑務所に入ってほしいです。反省するために。真菜と莉子は帰ってきません。せめて反省していただきたい」述べ、終えた。 飯塚被告はうつむいたまま。上原さんは席に戻ると、ハンカチを顔に当てた。 ◆14:00 真菜さんの姉「外出先で涙があふれ…」
上原義教さんの長女(真菜さんの一番上の姉)の意見陳述を弁護士が代読した。 ニュースで「2人が亡くなった」と聞いた。嘘であってほしいという気持ちでした。加害者への怒りが込み上げました。防ごうと思えば防げたのではないか。鉄の塊を運転するのだから、安全に運転する意識がないと事故を起こしてしまいます。絶対に許せない。 事故からしばらく、心が壊れそうでした。私も子育てをしているので、一日中事故のことを考えるわけではありませんが、2人のことが思い出されて外出先で涙があふれることもありました。「なぜ真菜と莉子が亡くなったのか」とか「ひかれた衝撃はすごかっただろう」とか。真菜と画面越しにランチができなくなってさみしいです。 父はもともと腎臓を悪くしていて、母が料理に気を使っていました。母が亡くなってから真菜がその役目を担っていました。父は事故の後、感情の浮き沈みが激しくなりました。(真菜さんの夫の)拓也君は私の想像を絶する絶望感を味わっただろうと思います。命を絶たないか心配していました。大切な二人を失っても生きなければならないことは、生き地獄だったことでしょう。裁判が終わって少し落ち着いたときに再び悲しみが襲ってくるのではないかと心配です。 ◆事故に心から向き合って 加害者にも家族がいると思います。事故によって2人の命以外にも多くの人が人生を狂わされたことを分かっているのでしょうか。父も言ったように人間は誰でも過ちを犯します。月命日は手を合わせているというのも形だけという感覚でしょう。何を言っても加害者の心には届かないと思います。刑務所に入らないと気付かないでしょう。高齢だから収監しないということになれば、心を突き刺されたような感じです。加害者には事故に心から向き合ってほしい。刑務所には行って罪を償ってほしい。 飯塚被告は、長女の意見陳述をうつむいたまま聞いていた。 ◆14:10 真菜さんの妹の意見陳述
上原さんの4女(真菜さんの妹)の意見陳述を弁護士が代読した。 真菜は優しい性格で、私のわがままを聞いてくれました。真菜が事故に遭った当時は妊娠9カ月でした。生んでからの方が辛かったです。夢で真菜が出てきていつもハグしてくれます。夢から覚めると私はいつも泣いています。ママになってから真菜と話がしたかったです。 父は事故の後、話さなくなりました。何を考えているのか分からなくなりました。母はくも膜下出血という病気で亡くなりましたが、真菜と莉子は犯罪で亡くなりました。「なぜ世界で2人が選ばれたのか」と考えます。報道でタク(夫の松永拓也さん)を見て「そんなに頑張らなくてもいい」と思います。以前はもっとリラックスした笑顔を見せていました。父は眠れないようです。東京から帰った父に裁判のことを聞くと「あの態度はひどい」としか言いません。 ◆14:20 真菜さんの弟「まなねえ、一番頼りに」
真菜さんの弟に当たる上原家の長男が証言台に立った。真菜さんを「まなねえ」と呼び、「一番頼りにしていました」として、進路相談をしたことなどを語った。 家族の中で「一番おしゃれ」だったといい、外出時の服装をチェックしてもらうと、ダメだしされることはなく、いつも「いいんじゃない」と自信をつけさせてくれたという。 莉子ちゃんは「なかなか懐いてくれなかった」と振り返ったが、長男のギターに合わせて宇多田ヒカルさんの「ぼくはくま」やディズニーの「リメンバー・ミー」を歌ってくれたエピソードを披露。事故の数カ月前に、莉子ちゃんが1人で長男の部屋に来てくれるようになっていたという。 飯塚被告に対する思いは多くを語らなかったが、「事故の後、人の運転が気になるようになりました」とし、運転免許の更新制度の改善を訴えた。 ◆14:25 松永拓也さんの母「無念伝えたくて」
松永拓也さんの母が「真菜ちゃんと莉子の無念を伝えたくて」と証言台に立った。拓也さんが「沖縄の女性にひと目ぼれした」と話し、沖縄にいる真菜さんに毎日1時間ほど電話をする様子を見て、「感心したり、半ばあきれたりしていました その後、真菜さんの母親と沖縄の高校時代の同級生だったことが判明。拓也さんたちが結婚する際、真菜さんの母に「うちの拓也なんかでいいの?」と聞くと「たーくんは、真菜のために生まれてきたんだよ」と返され、嬉しく思ったという。莉子ちゃんが生まれた後には、真菜さん莉子ちゃんと3人で食事をすることがよくあったといい、真菜さんについて「一緒にいるだけで心穏やかにさせてくれる、女性として尊敬できる人でした」と振り返った。 真菜さんたちが松永さんの親の住むビルに転居したきっかけについて、沖縄に移住する準備のためと証言。毎日のように交流し、莉子ちゃんは「ばあば、おなかすいた」が口癖だったという。 こうした思い出話が続く中、検察側の席に座る拓也さんは、眉間にしわを寄せ、涙をこらえるような様子を見せた。 松永さんの母は、事故の数カ月前、莉子ちゃんの七五三の写真を撮りに行ったときの話も披露。莉子ちゃんは「初めてのお化粧」をし、自分で赤い着物やブルーのドレスを選んで「お姫さま気分でとってもうれしそうでした」と話した。 「その数カ月後に遺影になってしまうなんて、誰が想像できたでしょうか」 松永さんの母は、事故の前に莉子ちゃんとおでかけした時の思い出を語り始めた。「ばあばとでかけよっか?」と2人で池袋のサンシャイン60へ出かけた。のどが渇いたころ、ちょうどマクドナルドがあったので、「マックいく?」と聞くと「うん、莉子はリンゴジュース飲みたい」とリクエスト。莉子ちゃんは、ジュースを一気に飲み干し、「おいしい」とにっこりほほ笑んだ。莉子ちゃんの「マックデビューの日」だった。 その後、書店で、莉子ちゃんからおねだりされたノンタンの絵本2冊を購入し、おもちゃ店ではピンク色のバギーも買った。「おばあちゃんとしては大満足の一日でした」 事故当日、ヘリコプターの騒がしい音がしていた。テレビでは、事故の様子が映っていた。息子の拓也さんから電話を受け、目の前の映像とリンクすると、夢か現実かわからなくなった。すぐに病院に向かったが、医師の言葉に「地獄に突き落とされた」。霊安室で2人と対面したが顔を見ることはできず、冷たくなった手を握ることしかできなかった。 自宅に戻った真菜さんと莉子ちゃん。拓也さんは夜、静まり返った部屋で莉子ちゃんの手をつなぎながら、泣きながら絵本を読んでいた。 事故から1年半、裁判が始まった。「公判では罪を認める言葉が出ると信じていた」が、実際は「わけのわからないこと」ばかりだった。 飯塚被告に対して、「一瞬にして目の前からいなくなって、どれほどつらいか。私たち家族の思いを想像したことがありますか」と聞いた。事故で2人が乗っていた自転車が真っ二つで返ってきた。被告が言い間違いと認めないことについて、「むなしくて、人として謙虚であるべきです」と語った。 実刑を求めるとして、「法廷では実にしっかりしている」。涙をすすりながら、向かった。 ◆14:40 松永拓也さんの父の意見陳述
拓也さんの父が立った。事故のあった日、拓也さんから電話を受けた妻と一緒に病院に向かった。急いでタクシーに乗り、「無事でいてほしい」と願った。車内のラジオ2二人が心肺停止と伝えていた。祈る気持ちだったが、病院で担当医は「搬送された時点で死亡していた。おそらく即死でした」と伝えられた。声を上げて夫婦で泣いた。 遅れて拓也さんが到着した。「お父さん2人は?」。自分の口で言うのはつらかったが「ダメだった」。3人で泣いた。 真菜さんの顔に複数の傷があった。「穏やかな顔でしたが、無念さがにじみ出ていることを感じ、身の震えが止まりませんでした」と振り返った。 真菜さんと初めて会ったのは2014年2月。息子から「会ってほしい人がいる」と言われ、妻と顔を合わせた。「沖縄の両親の愛情を受けて育ったことが伝わる、つつましく明るい笑顔の方でした。真菜さんを見初めた息子を見直した」 松永さんはこの年の10月に沖縄に挨拶に行った。その後に結婚式を挙げ、莉子ちゃんが生まれた。「スクスクと育って可愛い、優しい子だった」。真菜さん、莉子ちゃん、松永さんの娘の孫たちと幼児番組を見ていた時、莉子ちゃんは、あぐら座りをしていた松永さんの足の間にスッと座り、その後松永さんの顔を見上げて「しまった」という顔をして立ち上がった。「テレビの前に座り直したのがほほ笑ましい光景でした」。 松永さんは「息子たちの人生をめちゃくちゃにして、反省の影もない加害者を心底、憎みます。厳罰を望みます。署名活動や慰霊碑建設に協力してくださった皆さまに心より御礼申し上げます」と語った。 14時50分 松永拓也さんの意見陳述
妻と娘を亡くした松永拓也さんが意見陳述に立った。 冒頭まず「あの事故により一人残されてしまいました。どれほど二人を愛し幸せだったのかを伝えます。懸命に生きて輝いていた31歳の女性と、たった3年しか生きられなかった女の子のことを知ってもらいたいです」と切り出した。 「被告が無罪主張することで遺族が抱える苦悩を知ってほしい。最大限の刑罰を与えていただきたいです」と語った。 拓也さんは真菜さんとの出会いを語り始めた。 「いつも真菜と呼んでいたのでこの場でも真菜と呼ばせていただきます」。真菜さんと出会ったのは、2013年、沖縄の母方の親族の集まりだった。「僕の一目ぼれでした。僕の話をずっと笑顔をで聞いてくれました」 拓也さんは真菜さんと過ごした日々を「今でも色あせない大事な思い出」と語った。「人の悪口や愚痴を決して言わない人。心の底から尊敬していた」と話した。 実は2度、交際を断られていたとも明かした。「真菜は姉を白血病で亡くしたと聞きました。沖縄を離れられないと話していました」。意を決して3度目の交際を申し込んだ時を振り返った。「真菜は『きょうは11月4日だよ』と言いました」。ここで拓也さんはきょう初めて涙で声を詰まらせた。「『いいよ≠フ日だよ』と、照れくさそうに受け入れてくれました」 14年5月にプロポーズすると、真菜さんは「うれしい」と泣きだした。「沖縄のご両親も真菜を遠い地域へ送り出す苦悩があったと思います」。翌年に籍を入れました。仕事から帰ると「お帰り」と出迎えてくれた。遠距離生活が長く、そんな日常を幸せでに感じた。拓也さんは腎臓が悪く、真菜さんは「私が直してあげる」と食事に気を使ってくれた。拓也さんの体調は目に見えて元気になり「真菜のおかげで精神面でも成長させられた」と語った。 15年のある日、真菜さんが拓也さんに飛び付いてきて「子どもを授かった」と言った。「毎日お腹に話し掛けて、真菜も『ベビーちゃん早く会いたいね』と話していました。つわりがひどかったのですが協力して日々を過ごしました」 莉子さんは誕生時、3170グラム。小さな命を抱き上げて真菜さんはは「かわいい」と涙を流した。「小さな手で私の手を握り返した、そのぬくもりに『神秘的だ』と思いました。命を懸けて莉子を生んだ真菜に感謝しました」 莉子さんの名前は、良い香りで人を幸せにするジャスミンの花に由来している。花言葉は「愛らしさ」だ。「人から愛される人に育ってほしいという願いを込めました」 莉子さんは「真菜に似た恥ずかしがり屋」だった。友だちとのおもちゃの取り合いになっても「貸して」と言われると貸し手あげる子だった。文字が読めないのに。家にある何十冊もの絵本を記憶していた。真菜さんが体調を崩すと、「お母さん、莉子をいっぱい抱っこしたから疲れた」のと心配していた。 拓也さんが休みの日には、3人で春は花見、夏は海や祭、秋は紅葉、冬は温泉に出掛けた。 ある日、真菜さんが遠慮気味に「3人で沖縄に移住したい。海のそばに小さくてもいいから家を買いたい」と言った。拓也さんは「真菜らしくすてきな夢だ」と思い、2020年には沖縄に移住しようと約束した。 19年4月19日だった。昼休みにいつものように真菜さん、莉子さんにテレビ電話をした。2人は南池袋公園で遊んでいて、拓也さんは「気をつけて帰るんだよ」と伝えた。
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