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https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190224-00556904-shincho-soci&p=1
刑期を終えた「スーフリ事件」主犯「和田サン」懺悔録(1/3)
早稲田大学のサークル「スーパーフリー」による輪姦事件が発覚したのは2003年。稀代の鬼畜集団を束ね、仲間内で「和田サン」と奉られていた和田真一郎氏(44)には懲役14年の刑が下った。その本人が昨年、ひそかに刑務所を出所。懺悔と贖罪の念を吐露した――。
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塀の外へ出て、最初に口にしたのはステーキでした。15年ぶりの肉の塊は、この世のものとは思えないほど美味で、長らく味わうことが許されなかったご馳走を前に、冗談ではなく本当に涙が出そうになりました。
その日は晴天で、朝からとても蒸し暑かった。いつも通り6時半に起床し、身支度を整えて看守さんに挨拶し、門をくぐり抜けて建物を背にすると、そこには家族や親類の姿はなく、かわりに現在お世話になっている篤志家の社長さんが迎えに来てくれていました。
私が千葉刑務所を満期出所したのは昨年6月29日。現在は、服役中に受講した「就労支援」制度のご縁で今の社長さんに採用して頂き、仕事に就いています。朝から夜遅くまで働き、休みは週1日。でも、社会復帰したんだなという思いは強く感じています。
〈インカレサークルを舞台にした「スーフリ事件」から15年余り。一連の事件では、早大のほか東大、慶大、学習院など有名大の学生ら14人が逮捕され、和田氏は3件の準強姦罪で起訴された。公判では、泥酔した女性の“まわし”(輪姦)が和田氏の指示だったとの証言が次々飛び出し、当時代表だった和田氏は「主犯」と認定された。2005年11月、最高裁で懲役14年という最も重い刑が確定。出所後は、ある地方都市で暮らしている。〉
最初に逮捕されたのが03年の6月ですから、ちょうど15年間、塀の中で過ごしてきました。その間、仮釈放は一切認められなかった。事件の性質にもよるのでしょうが、ことに性犯罪では認められにくいのだと聞きました。
久しぶりに社会に出て、一番びっくりしたのは「スマホ」です。刑務所にいる時から存在は知っていましたが、実際に触ってみて“こんなものがあるんだ”と、15年の長さをいやでも感じさせられました。また出所の日に寄ったスーパーマーケットでは、刑務所と違ってモノが溢れていて、長いこと食べたいと思っていたご馳走も並んでいた。それを眺めながら思わずめまいに襲われた私は、迎えに来てくれた社長さんに「昼は何が食べたい?」と聞かれてとっさに「ステーキです」と答え、ご馳走してもらったというわけです。
実は今、仕事上では別名を名乗っています。今でも私の名前をネットで検索すれば、過去の所業が一発でわかってしまう。身から出た錆とはいえ、周囲にばれたらどうしようかと、本当は戸籍の名前そのものを変えたかったのですが、なかなか具体的な手段や機会が見つかりませんでした。
私のしたことは当時、世間で大々的に報じられました。今、あらためて事件について触れれば、被害者の方にとっては忌まわしい記憶を呼び起こされる形となり、再び辛いお気持ちにさせてしまうことになるかもしれません。出所後は一切表に出ず、残りの人生を社会の片隅でひっそり送っていく覚悟でいました。
ですが、一方で犯した罪への償いは、単に刑期を終えただけでは不十分なのではないか。そうも考え、なぜあんな卑劣な行為に及んだのかをお話しすることで、ご迷惑をかけた世間からの「問い」に少しでもお答えできればと思い、今回、取材に応じることにしました。
印刷工場から炊事場へ
03年6月に逮捕されてから、私はまず警視庁品川署に留置され、起訴された後は東京拘置所に移されました。公判中はずっと独居房で、外界との接点が新聞とラジオしかなく、初めは精神的重圧で押しつぶされそうになりました。仲間は口を揃えて「和田に言われて仕方なくやった」と供述し、当時は裏切られたと感じたものですが、今では“自分が彼らの立場だったらそう言うだろうな”と思えるまでになりました。
そのうちラジオのニュースで共犯の判決を知ることとなり「きっと自分はこれより重いのだな」と、14年の想定はできていました。おかしな話ですが、刑が確定すると、かえって重圧から解放されたような感じがしたものです。
千葉刑務所に入って、最初に配属されたのは、所内で「エリート工場」と言われる印刷工場でした。配属先は受刑者の属性によって異なるのですが、事前に“スーパーフリーの和田が来る”という情報は伝わっていたようで、担当の看守さんが目を光らせてくれ、絡んでくるような人はめったにいませんでした。
部屋は雑居房で、10人で共同生活。ほとんど1人1畳分という暮らしです。よく漫画やドラマで、有名な犯罪者や新入りがいじめに遭う描写がありますが、私の場合は拍子抜けするくらい何もありませんでした。
工場では、法務局の書類の印刷など、案外クリエイティブな仕事があって「刑務所でこんなに一般社会に近い仕事があるんだ」と驚きました。当時の工場は忙しく、オフセット印刷で1台何千万円もするような輪転機が何台も置かれ、パソコンができる受刑者は発注先の依頼に合わせてフォトショップでデザインもしていた。私は印刷機の操作を1年務めた後に、校正係となりました。
印刷工場には7年いて、その後は「炊場(すいじょう)」という、受刑者の食事を作る工場に転業しました。炊事や洗濯、営繕など、刑務所の運営に関わる仕事は「経理工場」と呼ばれ、そこでは5年ほど働きましたが、仕事は激務でした。
千葉刑務所の場合、仕事のある平日は朝6時半起床で夜9時就寝なのですが、炊場担当者は朝食の準備で朝5時半から仕事が始まる。残業もあって、印刷工場の時は夕方4時過ぎには部屋に戻れたのですが、炊場は6時半まで働く。各工場や居室棟から食器等を回収し、機械に通して皿洗いも全部こなすのです。最大の効率で進めないと時間内に終わりません。だから務まらず、作業拒否する人が絶えない職場だったのですが、私は不思議と「ああ、俺は今生きているんだ」と実感しながら働いていました。他の人がへこたれる仕事を自分は我慢してやっているという、意地の張り合いみたいなものがあったのです。
「ホームレスになるのかな」
仕事が終われば、就寝までの時間は部屋で過ごせます。私はもっぱら、読書や資格のための勉強に充てていました。少しでも成長しないと、生きている意味がないと思い始めたからです。
よく「刑務所内で本を何百冊何千冊読んだ」という人がいますが、そんなには読めなかった。それでも、世界史に関する本はかなり読んでいました。私はPCゲームの「三国志」が好きで、大学も文学部史学科に進みたかったのですが、就職が難しくなるからと仕方なく経済学部を受けたのです(注・最初は中央大経済学部に入学)。だから、まだ純情だった高校生の頃の夢を、30代後半になって塀の中で叶えたような気分でした。
高校の世界史の教科書も通読しましたし、興味の赴くまま特にジャンルもしぼらず、東インド会社の本だったり、ビザンツ帝国の本だったり、あるいは古代中国に関するものとか、対象はバラバラでした。本は月4冊まで自費で買えたので、新聞の広告を見て面白そうなものを片っ端から買っていましたが「本屋に行ってもっと多くの中から選びたい」という欲求は、いつもありました。
中でも印象に残っているのは、杉山正明さんという学者が書いたモンゴル帝国に関する本。遊牧民が世界を大きく動かしていたのだという、西洋とは全く違う歴史観が提示されていて、とても面白かった。
所内の作業では給料が貰えます。炊場に移ってからは残業や早出の割増分もあって、額がすごく増えました。月に1万5千円くらいでしたが、中ではかなりの高給取りでしたね。でも、それを元手に読み切れないほど本を買って後悔しました。学術書は文庫でも2千円くらいするので、出所後に役立てるはずのお金が足りなくなってしまうという、本末転倒の状態に陥ったのです。
勾留期間を除いて正味12年半となった服役中に、ざっと100万円以上稼いでいたのに、出所時の所持金は38万円しかなく、そのお金もあっという間に使い果たしてしまった。最初は生活用品が全くない状態で社会に出て、大体の品物は100円ショップで手に入るというのに、それを知らず無駄に何倍もの値段で買っていたのです。
もともと私は経済観念に乏しく、サークルの頃も収支はどんぶり勘定。知人に借金をしながらイベントを開いて、入った金は全部使う。この繰り返しで貯金ゼロのまま刑務所に入ったのですが、恥ずかしながら誰にいくら借りて、それがどうなったのかも現在、正確に把握できておりません。
読書とともに、将来の出所に備え、中では資格を取ろうと勉強もしていました。出所の3年前には6カ月間、山口刑務所に「職業訓練」に行き、さらに山形刑務所に「再犯防止プログラム」を受けに行ったりしたのですが、その前に千葉で取れる資格は全部取得しました。
簿記は1級まで、危険物取扱者は甲・乙種すべて。山口では2級ボイラー技士免許を取り、パソコンの基礎も教わって簡単なワードやエクセルの資格も取りました。山形では、そろばんの試験も受けましたね。
でも、そうやって資格を取り続けながら、出所の2〜3年くらい前からは「俺はどうなるんだろう」と、漠然とした不安を感じるようになりました。出所が近くなった受刑者が就職先を探す「就労支援」制度を活用したものの、最初に受けた会社は不採用。面接の感触はよかったのですが、社に帰って私の名前を調べたのでしょう。すぐに何者か分かり、断られたのだと思います。山口での職業訓練中にも別の社を受け、そこも不合格でした。だから「世間に正体がばれたら、まともに住めなくなるのでは」という不安は、今でも抱えています。
性犯罪者は更生保護施設でも受け入れづらいと聞いていたし、出所が近づくにつれ「このままホームレスになるのかな」との思いに襲われる毎日でした。
実際、今の会社に採用が決まったのは、出所のわずか2日前でしたから。
(2)につづく
「週刊新潮」2019年2月21日号 掲載
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