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プロアイヌが無許可でサケ漁・アイヌって何? 在日朝鮮人の背乗り? ” 顔つきがアイヌじゃないよ((((;゚Д゚))))))) 「何故『アイヌ協会』の幹部が朝鮮人なんだ!?」
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/501.html
投稿者 木卯正一 日時 2019 年 9 月 04 日 02:15:15: xdAt6v.ugMgqA ltiJS5CziOo
 


@kumaakuta_
En resposta a @aidl1212

“@narito777: アイヌって何?
在日朝鮮人の背乗り? ”

顔つきがアイヌじゃないよ((((;゚Д゚)))))))
「何故『アイヌ協会』の幹部が朝鮮人なんだ!?」
⇒ h ttp://ameblo.jp/0268160/entry-11326970346.html …

https://twitter.com/kumaakuta_/status/508248312160325632

令和元年9月2日 HTBニュース

h ttps://www.htb.co.jp/news/

紋別市の川でアイヌ民族の男性が規則で決められた許可を得ずにサケ漁を行いました。
なぜ無許可で漁を行うのか。男性は先住民族の権利を主張しています。

1日、紋別市を流れる藻鼈川(もべつがわ)の河口近くで、自然の恵みに感謝を捧げるアイヌ伝統の儀式が行われました。
供物として祭壇に上げられたサケ。儀式はサケの捕獲から始まりました。

道職員「(捕獲は)できません。違法です、これは」
畠山さん「違法じゃない」
道職員「違法です」
畠山さん「知らない俺は」
紋別アイヌ協会会長の畠山敏さんが川に張った網を引き上げ、儀式で使うサケおよそ60匹を捕獲しました。

道内水面漁業調整規則により、アイヌ民族が儀式に使うサケをとる場合、事前に申請が必要です。
しかし畠山さんは「アイヌのサケ漁は先住民族の権利であり行政の許可は必要ない」としてあえて申請しませんでした。
オホーツク総合振興局産業振興部水産課・坂本達彦水産課長
「申請を上げていただければ、アイヌの儀式等に使うこのようなサケの捕獲が認められます。その申請が上がっていないというのが今の状況」
畠山さんが魚を持ち帰ったため、現在、警察は事情を聴くなど調べを進めています。
アイヌ施策推進法が5月に施行され「文化伝承のために行われるアイヌのサケ漁について円滑に行われるよう配慮をする」とされましたが、道の手続きに変更はなされていません。
畠山さん「これは先住権を求めるための一つの闘いと私は認識しています。自由にサケをとったり、計画を立てながら自然の恵みをいただきたい」

アイヌ民族のサケ漁についてですが、海外では先住民族にサケ漁を認めている国もあり、国連は去年8月、日本政府に対し、天然資源を利用する権利をアイヌに認めるよう勧告しています。先住民族の権利か、日本の法律か。今後、議論を呼びそうです。

この畠山という人は紋別アイヌ協会の会長だ。
毎年、この件で警察と揉めており、テレビや新聞もそれを知りつつ取り上げている。
要するに炎上商法みたいなものだ。

役所に申請すれば認められるのを、あえて申請せずに法律を無視。これを悪質と言わずに何というのだ。
ここまで聞き分けない以上、もう違法漁とみなして逮捕でよいのではないか。
恐らく、逮捕させて「民族への差別だ」と世論に訴えるつもりなのだろう。
警察もそれを分かっていて逮捕に踏み切れないようだが、これ以上好き勝手を許しては歯止めが効かなくなる。

たかが60匹じゃないか、という考えもあるかもしれないが、
では何匹までなら許されるのか。1000匹ならダメなのか。儀式に使うと言えば獲り放題なのか。
そういうのを言い出せばキリがないから申請が必要なのだ。

h ttps://soughtafter.blog.fc2.com/blog-entry-133.html  

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コメント
1. 中川隆[-8483] koaQ7Jey 2019年9月06日 13:42:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4288] 報告
アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜


チャンネル桜では

アイヌ人は先住民ではない。 日本人は単一民族だ。
アイヌ人は日本人と遺伝子が同じで、DNA鑑定ではアイヌ人かどうかは わからない

と言っています:

◆チャンネル北海道公式HP
http://ch-hokkaido.jp/
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E6%A1%9C+%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93

【ch北海道】北海道が日本で無くなる日〜中国の土地爆買いとアイヌ新法の罠[H31-3-22] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=NC6rdT4WmW0

2019/03/22 に公開

北海道 心はひとつ 私の心 みんなの心  
チャンネル北海道は、正直で元気な北海道情報をまるごとお送りしています!

講師:小野寺まさる(前北海道議会議員)

「正論を聞く集い」
北海道が日本で無くなる日〜中国の土地爆買いとアイヌ新法の罠

平成31年3月18日 サンケイプラザ(東京都千代田区大手町)

1 北海道における中国資本による買収
2 アイヌ政策と日本分断活動の歴史
3 アイヌと中国共産党の繋がり
4 アイヌ新法の危険性
◇質疑応答


もちろん大嘘です。 チャンネル桜を信用すると豪い目に遭います。

詳細は


北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない _ アイヌが北方領土の先住民
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html


日本人はこうやって千島アイヌを民族浄化した _ とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/231.html


▲△▽▼


縄文人の多様性と特殊性−篠田謙一氏講演「日本人の起源」レポート 2017-12-21
https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/


12月8日(金)、本学第14講義室で、DNA分析による日本人起源論の第一人者、篠田謙一氏(国立科学博物館・分子人類学)の講演会「ここまでわかった! 日本人の起源」がおこなわれました。講演の前座として、主催側の浅川滋男教授(本学環境学部・建築考古学)も「古墳時代前期の大型倉庫群−松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から」と題するミニ講演をされました。広報期間が2週間弱と短いなか、学内外から約50名の聴衆が集まり、最新の人類学・考古学の成果に耳を傾けられました。

ここまでわかった! 日本人の起源

日本人の起源論については、埴原和郎氏による「二重構造説」がよく知られています。縄文時代の日本列島にひろく拡散していた古モンゴロイドと、主として弥生時代以降に朝鮮半島から渡来した新モンゴロイドの混血として現代日本人を理解する考え方です。こうした二重構造説は人骨を対象とする形質人類学の研究によって導かれましたが、篠田氏はミトコンドリアDNAの系統解析をもとに新たな成果と視点を続々と呈示されています。講演の構成は以下のとおりです。

1.はじめに  2.日本人の起源  3.ミトコンドリアDNAの系統
4.ミトコンドリアDNAから見た日本人  5.縄文人のミトコンドリアDNA
6.縄文人と弥生人のゲノム解析

【講演要旨】 日本人の有するミトコンドリアDNAのハプログループは、朝鮮半島や中国東北部の集団と共通している。これらは弥生人にも共有されていることから、現代日本人のもつ多くのハプログループは、弥生開始期以降に稲作農耕とともに列島にもたらされたと推測できる。ミトコンドリアDNAの分析結果は埴原氏の「二重構造説」を概ね支持する結果となったが、北海道の先住集団であるアイヌは沿海州の先住民と共通のDNAをもっていることも判明しており、沖縄や北海道を本土日本の周辺地域としてみるのではなく、それぞれを独自の成立史をもつ地域として捉える複眼的な視座が求められている。一方、縄文人の系統には地域差があることがわかってきている。とくにミトコンドリアDNAのM7a系統では地域差が顕著であり、均一な縄文人像は見直す必要がある。2010年以降、古人骨に含まれる核のDNAの分析も可能になっており、そのゲノム解析から、縄文人は現代の東アジア人と大きく異なっていることが明らかとなったが、その特殊性については未だ定説がない。この問題を解決するためには、縄文相当期の東アジアの古人骨を調べるとともに、一万年以上続いた縄文時代の各地の人骨から得られたゲノムを丹念に解析していく必要がある。

オホーツク文化とアイヌ、ニブヒの関係

以上の講演に対して、青谷上寺地遺跡出土人骨から採取したサンプルの位置づけの予想やDNAサンプル採取方法について質問がありました。最後に浅川教授から「北海道アイヌの文化は擦文文化(蝦夷 えみし?)とオホーツク文化(粛慎 みしはせ?)の融合として成立したと考えられるが、その一方で、オホーツク文化の担い手をニブヒ(別名ギリヤーク:アムール下流域・樺太に分布する古アジア系民族)の祖先として理解する説があるけれども、人類学的にはどう理解されているか」という質問がありました。篠田氏はニブヒ、コリヤーク、チュクチなど極北の古アジア系民族は遊牧エヴェンキ(新モンゴロイド系)に攪乱され、さらにロシア化も進んでいるため、残念ながら、現状では固有のDNAを抽出しにくいと答えられました。
https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/

アイヌ人も日本人も縄文人の遺伝子を受け継いでいるのですが、

アイヌ人の先祖の縄文人はアイヌ語を話し、食べていたのは栗・木の実、サケ

日本人の先祖の縄文人は日本語を話し、食べていたのは焼き畑作物、魚

なので、同じ縄文人と呼んでいても、全くの別民族なのです:


東北と関東の縄文人は系統が別・・DNAを読む 2014-04-30
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8


朝日新聞「日曜版」・「日本人の起源」2011・05・01の記事です。

前にご紹介したマレーシアのニア洞窟探訪の記事の続きです。

             ・・・・・

「骨をよむ手がかりはDNA」


マレーシアから東京に戻った私は、国立科学博物館を訪ねた。

篠田謙一の研究室に向かう。

積み重ねられている大きなプラスチックのケースの中味は、江戸時代の人骨だという。


篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。

沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人。

富山市の小竹貝塚の縄文人。

東京・谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち。


「私はよく“骨を読む”と言います。

骨からは、実にたくさんのことがわかる。

形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」。

篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。

わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。

ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学会に大きな一石を投じることもある。


たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつては「南方からやって来たほぼ均質な集団」というのが定説だった。

全国で出土した骨を元に、縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。


ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。

2006年、篠田や山梨大教授らは北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリアDNAを分析。

その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人のデータと比べてみた。


北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。

このグループはサハリンなど、現在の極東ロシアの先住民に目立つ。

2番目と3案目に多いグループも、カムチャッカ半島などの先住民に多い。

東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。


対照的に関東の縄文人のミトコンドリアDNAを見ると、東南アジアの島々、中央アジア、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。


「北海道・東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。

縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた。

浮かびあがるのは、そんなストーリ―だ。


縄文時代、様々な人々がいろいろなルートで日本列島に入ってきたらしい。

アフリカから東南アジア、そして日本列島へ。

日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。

いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡が次第に明らかになりつつある。

篠田は言う。「私たちは、どこから来た何者なのか。それを知ることで、自分達がどこへ向かおうとしているかを確かめたい」


                       ・・・・・

{}「トヤマ・ジャストナウ・2014・02・05 小竹貝塚」

富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所は、日本海側最大級の貝塚である小竹貝塚(富山市呉羽町北・呉羽昭和町地内)の調査結果を発表した。

出土した人骨は91体。縄文時代前期の人骨が見つかった国内の遺跡の中では最多。

DNA鑑定で、南方系と北方系の異なる起源を持つ人たちが一緒に暮らしていたことがわかった。

多くの遺物によって、縄文人のルーツや生活ぶりを探る、大きな手がかりに!


小竹貝塚(おだけかいづか)は富山県のほぼ中央部、呉羽丘陵と射水平野との接点に位置する。

北陸新幹線建設に先立ち、平成21・22年度に発掘調査が行われ、大規模な貝塚とともに、埋葬人骨や竪穴住居などが出土している。

貝殻のカルシウム成分によって、土壌がアルカリ性を保ち、通常の遺跡では酸性土壌で腐ったり、溶けてなくなったりしてしまうような骨、木器などが残る。

古の人たちの暮らしぶりを伝えるタイムカプセルといってもいいようだ。


小竹貝塚は、約6,750〜5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された。

遺跡範囲は東西約150m、南北約200m。

埋葬人骨(墓域)、貝層(廃棄域)、板敷遺構(生産・加工域)、竪穴住居(居住域)の区域分けがされていた。

貝層では、ヤマトシジミを主とする貝が最大で約2m堆積していた。


墓地として使用されていた貝塚で見つかった人骨は91体と、他に例を見ない数だ。

そのうち、男性は35体、女性は18体で、残りは性別不明だった。

死亡時の年齢をみると、10代後半から20代の若い男性、生まれたばかりの子どもが多く、厳しい生活環境だったことをうかがわせる。

身長を推定できる人骨は男性22体、女性7体あり、男性では165cm以上の、当時としては高身長の人もいれば、154cm前後の低身長の人もいた。

女性の平均身長は、縄文時代後・晩期の平均推定身長と同じ148cmだった。

 国立科学博物館人類研究部が人骨の細胞の中にあるミトコンドリアDNA(遺伝子情報)を分析したところ、小竹縄文人はロシアのバイカル湖周辺や北海道縄文人に多い北方系と、東南アジアから中国南部に見られる南方系の2系統が混在することがわかった。

縄文時代中期以降の系統と遺伝的なつながりを確認することもできた。

一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多い型は見られなかった。

人骨のさらなる研究により、縄文人がどこから来たのか、ルーツ解明が期待される。


小竹貝塚からは、埋葬されたとみられるイヌが21体見つかり、縄文人の墓のそばに丁寧に葬られていた。

狩猟犬、愛玩犬として縄文人と一緒に生活し、丁寧に扱われていたことを示している。

現代のようにペットとしてイヌを可愛がっていたとは驚き。愛犬と仲良く暮らす縄文人の様子が目に浮かんできそうだ。


縄文土器・土製品は約13トン分が出土。

関東地方や近畿地方、東北地方で作られたとみられる土器があり、他地域との交流を物語っている。

石器は約10,000点出土しており、糸魚川周辺で採取されたとみられるヒスイを使った作りかけのペンダントが発見されている。

縄文時代前期のヒスイ製品としては国内で最古級だ。

骨角貝製品(こっかくかいせいひん)では、釣針、刺突具(しとつぐ)、針、装身具など約2,300点が出土。

装身具の中には、九州や伊豆諸島以南でしか採取できないオオツタノハという貝で作られた貝輪1点が見つかった。

太平洋沿岸の縄文遺跡では見つかっているが、日本海側では初めて。

ブレスレットとして、現代人が身に付けてもいいほど、素敵なデザインだ。

縄文時代にすでに釣針や針、ブレスレットやイヤリングが作られていたとは驚き。形も現代のものと大差ない。

タイの歯が象嵌(ぞうがん)された漆製品もあり、縄文人の工芸の技を垣間見ることができる。

当時の女性たちもお洒落をしていたと思うと、親近感も湧いてくる。


富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所では、

「小竹貝塚では、南方系と北方系にルーツを持つ人たちが一緒に暮らしていたことがDNA分析から明らかになった。日本海側の真ん中に位置するからだろうか。縄文人を語るうえで欠くことのできない重要な遺跡だ。
また、広範囲の地域との交流を物語る品々が出土した。日本海側の他の地域の遺物と比較し、小竹貝塚の特徴をより調べていきたい」

と話している。


wikipedia「白保竿根田原洞穴遺跡」より

白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき)は、沖縄県石垣市(八重山列島石垣島)にある旧石器時代から断続的に続く複合遺跡である。

新石垣空港建設前まで、同地はゴルフ場内にあたり盛土されていたため、地下にこのような洞穴があることは、把握されていなかった。

長大な洞穴の洞口が最初に見つかった、白保側(現在の遺跡の場所よりも北側)の小字名がそのまま遺跡名として利用されている現状がある。

白保竿根田原洞穴遺跡は2007年に新石垣空港予定地で見つかった遺跡で、NPO法人沖縄鍾乳洞協会によって、洞穴内から人間の頭、脚、腕などの骨9点が発見された。

このうち、状態のよい6点について同協会、沖縄県立埋蔵文化財センター、 琉球大学、東京大学等の専門家チームが放射性炭素年代測定を行ったところ、

そのうちの1点の20代-30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が約2万年前、他に2点も約1万8千年前及び約1万5千年前のものと確認された。

さらに国立科学博物館が、これらの人骨10点の母系の祖先を知る手掛かりとなるミトコンドリアDNA分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち、2点はハプログループM7aと呼ばれる南方系由来のDNAタイプであることが明らかとなった。

これまで、直接測定による日本国内最古の人骨は、静岡県浜北区の根堅洞窟で発見された浜北人の約1万4千年前であった。

なお、人骨そのものではなく、周辺の炭化物などから測定した日本国内最古の人骨は沖縄県那覇市山下町第一洞穴で1968年に発見された山下町洞穴人の約3万2千年前のものである。

https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8


▲△▽▼

アイヌ新法の何が画期的なのか?〜「アイヌ否定」歴史修正主義の終えん。平成の最後にアイヌ復権への第一歩
古谷経衡 | 文筆家/著述家 4/29(月) 23:58
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

さっぽろ雪まつりでアイヌ装束を着るアイヌの人々(写真:つのだよしお/アフロ)


1】法律に初めてアイヌの先住性を明記

アイヌの伝統的狩猟対象である鮭(photAC)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/


 4月19日、「アイヌ新法」が参議院で可決、成立した。この新法のもっとも画期的な部分は、我が国の法律史上、はじめてアイヌを「先住民族」と規定したことにある。ではこれまでの国のアイヌ民族の先住性に対する考え方はどのようなものであったのか。

 1997年(平成9年)、「北海道旧土人保護法」が廃止され、代わりに同年施行された「アイヌ文化の振興並びにアイヌ民族の伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(旧アイヌ法)では、アイヌを初めて「民族」と認めたことが画期的であったが、アイヌの先住性までは言及されなかった。

 これに先立つこと1995年、村山富市内閣は内閣官房長官の私的諮問機関として「ウタリ(アイヌ語で”同胞”の意)対策のあり方に関する有識者懇談会」を設置し、1996年には同懇親会から「中世末期以降の歴史の中で見ると、アイヌの人びとは当時の”和人”との関係において北海道に先住していたことは否定できない」等の報告書が提出された。

 また旧アイヌ法の制定を受け、衆議院と参議院内閣委員会では、「アイヌの人びとの『先住性』は、歴史的事実であり、この事実も含め、アイヌの伝統等に関する知識の普及並びに啓発の推進につとめること」とする付帯決議が盛り込まれている。また2008年には衆参両院本会議は、アイヌ民族を先住民族と認定することを求める決議を全会一致で採択した。

 しかしながら、このような国のアイヌ文化振興への取り組みのなかでも、アイヌ民族の先住性が法律に書き込まれたことは一度もなかった。

 日本は単一民族国家ではなく、アイヌがかつて現在の東北からサハリン、千島などにかけて広範に先住していたことは自明であったが、法律に「先住民族」を明記したことは、上記のような経緯からアイヌにとっても悲願であり、また先住民族の権利擁護や文化復権を求める国際的な潮流にようやく日本が追いついたことの証左であり、重ねて画期的といえる。

2】歴史修正主義者たちから沸き上がったアイヌ否定論

”デマ”のイメージ(pfotoAC)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

 しかし、このようなアイヌに対する「先住性」「民族性」を真っ向から否定する歴史修正主義の動きが、2008年ごろから沸き起こる。これがいわゆる「アイヌ否定論」であり、この論の骨子は、1)「アイヌ民族は存在しない」、2)「アイヌ民族は先住民族ではない」という何ら歴史学的根拠に基づかないトンデモな主張であった。

 この「アイヌ否定論」の最前衛に立ったのは、漫画家の小林よしのり氏である。小林氏は漫画という媒体を用いて、「アイヌ否定論」をぶちあげた。小林氏は取材の中でアイヌ文化研究家の河野本道氏なる人物と知己となり、河野氏の「アイヌ否定」説に全面的に依拠して、「アイヌなどいない」「アイヌは先住民族ではない」という、歴史学会では歯牙にもかけられていない「珍説」を紙面上で訴え続けた。

 この小林氏の珍説に明らかに影響されたとみられるのが、北海道札幌市議会議員(当時)であった金子快之(やすゆき)氏である。金子氏は2014年8月11日、自身のツイッター上で「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいがアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不条理。納税者に説明できません」とつぶやき、一斉に非難を浴びた。

 金子氏は2014年9月、このツイッター上での差別発言を理由に、所属していた自民党札幌支部連合会を除名され、市議会が辞職勧告決議を出したが辞職しないまま、2015年4月12日投開票の札幌市議会議員選挙(15年統一地方選挙)で落選した。

 ところが金子氏は、つい先般行われた2019年4月24日投開票の渋谷区議会議員選挙(19年統一地方選挙)で政治団体「NHKから国民を守る党」から出馬し、当選して議員に返り咲いている。

3】アイヌ否定から沖縄ヘイトへ

 もう一例は北海道議会議員(当時)であった小野寺秀(まさる)氏である。小野寺氏は、アイヌの先住性に疑問を投げかける見解を2014年に道議会で提起した。当時の紙面から抜粋する。


北海道議会の最大会派「自民党・道民会議」の小野寺秀(まさる)議員(51)=帯広市選出=が11日の道議会決算特別委員会で、「アイヌが先住民族かどうかには非常に疑念がある。グレーのまま政策が進んでいることに危機感を持っている」と発言した。(中略)毎日新聞の取材に小野寺氏は「アイヌ民族の存在は否定しないが、北海道と本州の間は昔から多くの人が往来している。北海道がアイヌだけの島だったことは誰も証明できない」と主張。決算委では「我々の祖先は無謀なことをアイヌの人たちにやってきてはいない。そういう自虐的な歴史を北海道で植え付けるのはいかがなものか」とも述べた。

出典:毎日新聞(2014.11.12)、強調筆者

 小野寺氏は、自民党の議員でありながら、すでに述べた通り、2008年に衆参両院本会議で、アイヌ民族を先住民族と認定することを求める決議を全会一致で採択したことを無視する意見を公に表明したことで大きな問題とされた。この小野寺氏は2015年の北海道議会選挙において改選を迎えたが出馬せず、政界を引退した。現在では主に右派系ネット番組等に精力的に出演を続けている。

 この両氏は、前後の文脈から総合的に考察しても、明らかに歴史学の「いろは」にすら接触しておらず、体系的な日本史知識というものが全く欠落していると推量される。両氏の主張は既出の小林よしのり氏による「アイヌ否定」というトンデモ論のコピーであることは自明で、この他にも北海道在住の自称アイヌ研究家などが小林氏の影響を受けて盛んな「アイヌ否定論」「アイヌ利権の危険性」等を繰り返した。

 しかし、にわかに2014年〜15年にかけて最盛を迎えるかにみえた「アイヌ否定論」は、その後、ネット右翼や中央の保守論壇の間では爆発的には浸透せず、代わりに彼らのデマ・トンデモ・憎悪の矛先は南方に転じて、沖縄における反基地活動家・普天間基地辺野古移設反対派への呪詛、翁長雄志前沖縄県知事らへの周到で執拗なデマ攻撃へと転換していった。

 ではなぜ「アイヌ否定論」は、ネット右翼や中央の保守論壇に於いて決定的な盛り上がりに欠けたのだろうか。

4】歴史修正主義「アイヌ否定論」の終わり

 その理由は、簡単に述べると以下のようになる。

1)アイヌの存在と先住性があまりにも明白で揺るぎようのない事実であること

2)ネット右翼や中央の保守論壇の中で、北海道(北方問題)への興味・関心が薄いこと

3)小林よしのり氏らが最前衛となった「アイヌ否定論」が、歴史学的な検証に耐えられるものではないトンデモ論であったために、南京大虐殺否定や従軍慰安婦への日本軍関与の否定など、同様の歴史的問題(…こぞって保守系言論人がそれを追検証するような事態)と違って「アイヌ否定論」に追従する中央の保守系言論人や研究者がいなかったこと

4)「アイヌ否定論」と対にして語られた「アイヌ利権」なるものが、まったく確認されていないこと

5)そもそも日本政府が「アイヌ民族」の存在を認めていること

 などである。そして最大の理由は、

6)「アイヌ否定論」の最前衛となった小林よしのり氏が、従前から「反米保守」「アンチ・ネット右翼」の立場を採っていたことで、ネット右翼や中央の保守論壇に対する影響力をこの段階(2014年〜15年時点)で著しく喪失していたこと。またそれと同様に、小林よしのり氏の漫画の商業的停滞が続いていたため、全般的な影響力が限局したものにとどまったこと

 である。

 こうして一時期盛り上がった「アイヌ否定論」はすぐに鳴りを潜めたが、漠然とした「アイヌ否定」「アイヌ利権」という、ネガティブなイメージがネット空間に広がったことは確かだった。しかし今回の「アイヌ新法」の成立によって、国が初めてアイヌを「先住民族」と認めたことで、こういった歴史修正主義者たちのトンデモ論は最終的かつ不可逆に葬り去られたことになった。

 だが、小林よしのり氏が盛んに唱えた「アイヌ否定論」が、北海道の地方議員やその支持者たちに広がり、「なんとなくアイヌってその存在自体が怪しいし、弱者利権のにおいがする」というイメージを植え付け続けたという時点で、小林氏の責任は重いものと言わざるを得ない。「アイヌ新法」の成立によって、ネット空間に漠然と伝播されたアイヌに対するネガティブイメージが、徐々にであっても希薄化していくことを願うものである。

5】アイヌ民族史概説〜中世から幕末まで〜

筆者作成
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

 さて本稿後半では、駆け足ではあるが「アイヌ民族はいない」「アイヌは先住民族ではない」という「アイヌ否定論」がいかにトンデモであるかを歴史的に振り返りたい。

 アイヌ民族が日本(和人)の記録に初めて登場したのは14世紀の室町時代である。『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)によると、


 アイヌ民族を記した本州の最初の資料は室町初期の1356(延文元)年に、諏訪(小坂)円忠を発願者として成立した「諏訪大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)」である。(中略)東北の大海の中央に「蝦夷カ千島」があり「日ノ本(ひのもと)」「唐子(からこ)」「渡党(わたりとう)」の三類の蝦夷が群居する。「日ノ本」と「唐子」は外国に連なり、風貌は夜叉(やしゃ)のようであり、禽獣(きんじゅう)・魚肉を食として農耕を行わない。そして、言葉はまったく通じない。

 一方「渡党」は和国の人に似て、言葉も大半は通じるが、髭面多毛な人という。また霧を起こす術を心得ていたり、山野を獣のように走ることができ、毒矢を用いて武器にしたり、木を削って幣帛(へいはく=神に奉献する供物)のようなものをつくる。「宇曽利鶴子洲」(現在の函館、または下北半島)、「万当宇満伊犬」(現在の松前)という小島があり、「渡党」は多く「津軽外が浜」に往来し交易していると記されている。

出典:『アイヌ民族の軌跡』P26-27、浪川健治、山川出版社、強調筆者

 という。この事から、室町時代の日本人には、蝦夷=アイヌが少なくとも三分類あり、また地理的な事実誤認はあるものの下北半島より北(要するに北海道やサハリン、千島)に居住する「異国人」として認識されていたことがわかる。

 応仁の乱に端を発した戦国期になると、北海道南部にも和人が進出し、紆余曲折の末、松前氏(蠣崎氏から改名)が現在の函館を中心とした渡島半島南部に和人のコロニーを建設する。戦国期が終わり、徳川幕藩体制が確立されると、松前藩が成立して18世紀に大名(石高のない1万石扱い。参勤交代は遠隔地特例で6年に1回)となり、アイヌとの交易で富を蓄えた。

 しかし、松前藩とアイヌとの間には交易をめぐるトラブルが多発した。その多くの原因が松前(和人)側の強権的な交易比率の改悪等であった。これが原因で17世紀中葉には最大の反和人蜂起といわれる「シャクシャインの戦い」(寛文蝦夷蜂起)、18世紀後半には「クナシリ・メナシの戦い」が現在の道東・国後島を中心として起こった。

 基本的に江戸幕府は、海禁政策(鎖国)を維持しつつも、外国との接触点、つまり国境をあいまいな形にしておき、交易や通信を直接行うのではなく、特定の大名に一任し、日本周辺の異民族を服属させているという図式をとることによって、間接的に幕府の「御武威・御威光」を内外に誇示した。幕府は特定の大名に交易を独占させる特権を与える一方、そこから得られた外国情報を江戸に集約させ対外情勢の分析にあたった。

 この体制を「日本型華夷秩序(にほんがたかいちつじょ)」と呼ぶ。この「日本型華夷秩序」の中で、事実上ロシアと国境を接する蝦夷=アイヌとの交易・通信を任されたのが松前藩であった。

 しかし19世紀初頭になると外国船の来航が頻繁となり、幕藩体制は動揺する。特にロシア船が根室に来航し通商を要求。これを幕府側が拒否した報復として樺太や国後島等がロシア軍船の砲撃を受ける文化露寇(1806年、1807年)が起こると、応戦した松前藩、津軽藩、南部藩らの諸兵がロシア軍の圧倒的な火力の前に敗北を喫した。

 このような情勢の中、幕府は1799年、蝦夷地を直轄地として蝦夷地奉行を置き(のち箱館奉行と改名)、ロシアの南下に対抗するべく軍備拡充とアイヌの同化政策を強化する。具体的にはアイヌに対し農業耕作を推奨し、日本語使用を推奨、日本服着用の許可、儒教徳目による教化、日本風の名前への改名などであった。

 結局、江戸幕府の蝦夷地直轄は、一時期の松前藩への返還(1821年〜1854年)を挟んで幕末まで続いた。しかしこういったアイヌへの同化政策は、幕府が滅び明治へと世が変わる時代と比べれば、まだしも穏やかな部類であった。

5】アイヌ民族史概説〜アイヌへの完全な日本同化政策〜

筆者作成
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

 明治政府は、1869年(明治2年)、開拓使を設置し「蝦夷」の呼称を「北海道」に改名した。北海道の誕生である。また四民平等の原則に基づき、1871年(明治4年)、アイヌは「平民」に編入することが布告された。

 しかし日本人平民と区別するために1878年(明治11年)、アイヌは「旧土人」と呼称することが正式に決定され、公の呼称ではアイヌは「旧土人」と位置付けられ、なんとこの露骨な差別的呼称が、本稿冒頭における1997年(平成9年)の「北海道旧土人保護法」の廃止まで使用され続けたのである。

 明治政府によるアイヌへの日本同化政策は、それ以前の幕府時代と比べて極めて苛烈で、そして近代的国民国家の形成に即した急激なものであった。明治政府が実行したアイヌへの苛烈な同化政策は以下の通り。


(明治)維新政府は、アイヌの人びとを「開明の民」とするためにアイヌ民族古来の風俗や風習を一方的に禁止する。(中略)女子の入墨、男子の耳輪を禁止し、違反者は「厳重ノ処分」を行うとした。(中略)さらに、経済的基盤としての生業についても、1871(明治4)年には根室地方の鮭の種川とされていた西別川での流し網を禁止し、1874(明治7)年には豊平川とその支流での引き網・ウライ猟(アイヌの伝統的な漁業方法)を制限した。

 1876年以降になると、西別川では一漁場、猟一統に制限し、乱獲防止を名目に禁漁に等しい厳しい制限を強いた。また同年、アイヌの伝統的狩猟法の一つである仕掛弓や毒矢の使用を「獣類生息ノ妨害」を理由として禁止し、「新業(主に農業)ニ移シ、又ハ猟銃ヲ貸与」することをはかっただけでなく、「免許鑑札」を受けた者以外の鹿猟を禁止するにいたる。近代国家によって、アイヌ文化とその継承はすべての面において否定され、「臣民」化が生活の窮迫とあいまって進行した。

出典:『アイヌ民族の軌跡』P.87〜88、浪川健治、山川出版社、カッコ内一部筆者、一部言いかえをした箇所あり、強調筆者

 このように明治政府が推進したアイヌへの日本同化政策は、蝦夷を北海道と改名し、開拓使を設置しただけではなかった。アイヌ民族の精神的アイデンティティを奪いつくし、経済的にも圧迫(慣れない農業への強制転換など)し、アイヌを完全に日本帝国の内側に取り込もうとした究極の同化政策を行ったのである。

 前述した小野寺道議の「我々の祖先は無謀なことをアイヌの人たちにやってきてはいない」という発言は、このような歴史的経緯に照らし合わせてみても、まったくのデタラメであり歴史修正主義であることが分かる。

 そしてこの同化政策は、あろうことか平成の時代まで「北海道旧土人保護法」という名の下で事実上、続いていたのである。

 平成が終わり令和の時代が到来するいま、「アイヌは我が国における先住民族である」と法律で明記されたことは、明治以来進められた近代国家の負の遺産の清算、およびアイヌ民族の誇りを取り戻す積極的動きが、ようやく平成の最後にその第一歩を記したという意味においても画期的なものなのだ。(了)

*参考図書:『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)、『アイヌ民族否定論に抗する』(岡和田晃、マーク・ウィンチェスター 編、河出書房新社)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/


2. 中川隆[-9549] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:00:25: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2921] 報告
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真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/481.html


3. 中川隆[-9241] koaQ7Jey 2019年6月29日 14:37:44: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3281] 報告
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長浜浩明のアイヌ人のシベリア起源説は間違い

【我那覇真子「おおきなわ」#75】
長浜浩明〜遺伝子が証明! アイヌ人は元の時代にシベリアから北海道に移住して縄文人の子孫を滅ぼした[桜R1-6-28] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BezxJ6uRi1g


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真実は

日本人の遺伝子の 90% は朝鮮からの渡来人で、縄文系は僅か10%
アイヌ人の遺伝子の 70% は縄文系


縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。


国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万〜4万年前とみられることがわかったと発表した。日本人の祖先がどこから来たのかといった謎に迫る貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌で発表する。

国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団からわかれた時期が約3万8000年前から1万8000年前であることがわかった。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から3000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことがこれまで知られていた。

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、今回の縄文人のゲノムから説明できる可能性があるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか研究の進展が期待される。

今後、研究チームはさらにデータの解析を進める。配列を公開して海外の研究機関との共同研究も検討していく。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


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縄文人の多様性と特殊性−篠田謙一氏講演「日本人の起源」レポート 2017-12-21
https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/


12月8日(金)、本学第14講義室で、DNA分析による日本人起源論の第一人者、篠田謙一氏(国立科学博物館・分子人類学)の講演会「ここまでわかった! 日本人の起源」がおこなわれました。講演の前座として、主催側の浅川滋男教授(本学環境学部・建築考古学)も「古墳時代前期の大型倉庫群−松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から」と題するミニ講演をされました。広報期間が2週間弱と短いなか、学内外から約50名の聴衆が集まり、最新の人類学・考古学の成果に耳を傾けられました。


ここまでわかった! 日本人の起源


日本人の起源論については、埴原和郎氏による「二重構造説」がよく知られています。縄文時代の日本列島にひろく拡散していた古モンゴロイドと、主として弥生時代以降に朝鮮半島から渡来した新モンゴロイドの混血として現代日本人を理解する考え方です。こうした二重構造説は人骨を対象とする形質人類学の研究によって導かれましたが、篠田氏はミトコンドリアDNAの系統解析をもとに新たな成果と視点を続々と呈示されています。講演の構成は以下のとおりです。

1.はじめに  2.日本人の起源  3.ミトコンドリアDNAの系統
4.ミトコンドリアDNAから見た日本人  5.縄文人のミトコンドリアDNA
6.縄文人と弥生人のゲノム解析


【講演要旨】 日本人の有するミトコンドリアDNAのハプログループは、朝鮮半島や中国東北部の集団と共通している。これらは弥生人にも共有されていることから、現代日本人のもつ多くのハプログループは、弥生開始期以降に稲作農耕とともに列島にもたらされたと推測できる。ミトコンドリアDNAの分析結果は埴原氏の「二重構造説」を概ね支持する結果となったが、北海道の先住集団であるアイヌは沿海州の先住民と共通のDNAをもっていることも判明しており、沖縄や北海道を本土日本の周辺地域としてみるのではなく、それぞれを独自の成立史をもつ地域として捉える複眼的な視座が求められている。一方、縄文人の系統には地域差があることがわかってきている。とくにミトコンドリアDNAのM7a系統では地域差が顕著であり、均一な縄文人像は見直す必要がある。2010年以降、古人骨に含まれる核のDNAの分析も可能になっており、そのゲノム解析から、縄文人は現代の東アジア人と大きく異なっていることが明らかとなったが、その特殊性については未だ定説がない。この問題を解決するためには、縄文相当期の東アジアの古人骨を調べるとともに、一万年以上続いた縄文時代の各地の人骨から得られたゲノムを丹念に解析していく必要がある。


オホーツク文化とアイヌ、ニブヒの関係


以上の講演に対して、青谷上寺地遺跡出土人骨から採取したサンプルの位置づけの予想やDNAサンプル採取方法について質問がありました。最後に浅川教授から「北海道アイヌの文化は擦文文化(蝦夷 えみし?)とオホーツク文化(粛慎 みしはせ?)の融合として成立したと考えられるが、その一方で、オホーツク文化の担い手をニブヒ(別名ギリヤーク:アムール下流域・樺太に分布する古アジア系民族)の祖先として理解する説があるけれども、人類学的にはどう理解されているか」という質問がありました。篠田氏はニブヒ、コリヤーク、チュクチなど極北の古アジア系民族は遊牧エヴェンキ(新モンゴロイド系)に攪乱され、さらにロシア化も進んでいるため、残念ながら、現状では固有のDNAを抽出しにくいと答えられました。
https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/


アイヌ人も日本人も縄文人の遺伝子を受け継いでいるのですが、

アイヌ人の先祖の縄文人はアイヌ語を話し、食べていたのは栗・木の実、サケ

日本人の先祖の縄文人は日本語を話し、食べていたのは焼き畑作物、魚

なので、同じ縄文人と呼んでいても、全くの別民族なのです:


東北と関東の縄文人は系統が別・・DNAを読む 2014-04-30
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8


朝日新聞「日曜版」・「日本人の起源」2011・05・01の記事です。

前にご紹介したマレーシアのニア洞窟探訪の記事の続きです。

             ・・・・・

「骨をよむ手がかりはDNA」


マレーシアから東京に戻った私は、国立科学博物館を訪ねた。

篠田謙一の研究室に向かう。

積み重ねられている大きなプラスチックのケースの中味は、江戸時代の人骨だという。


篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。

沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人。

富山市の小竹貝塚の縄文人。

東京・谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち。


「私はよく“骨を読む”と言います。

骨からは、実にたくさんのことがわかる。

形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」。

篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。

わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。

ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学会に大きな一石を投じることもある。


たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつては「南方からやって来たほぼ均質な集団」というのが定説だった。

全国で出土した骨を元に、縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。


ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。

2006年、篠田や山梨大教授らは北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリアDNAを分析。

その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人のデータと比べてみた。


北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。

このグループはサハリンなど、現在の極東ロシアの先住民に目立つ。

2番目と3案目に多いグループも、カムチャッカ半島などの先住民に多い。

東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。


対照的に関東の縄文人のミトコンドリアDNAを見ると、東南アジアの島々、中央アジア、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。


「北海道・東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。

縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた。

浮かびあがるのは、そんなストーリ―だ。


縄文時代、様々な人々がいろいろなルートで日本列島に入ってきたらしい。

アフリカから東南アジア、そして日本列島へ。

日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。

いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡が次第に明らかになりつつある。

篠田は言う。「私たちは、どこから来た何者なのか。それを知ることで、自分達がどこへ向かおうとしているかを確かめたい」


                       ・・・・・

{}「トヤマ・ジャストナウ・2014・02・05 小竹貝塚」

富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所は、日本海側最大級の貝塚である小竹貝塚(富山市呉羽町北・呉羽昭和町地内)の調査結果を発表した。

出土した人骨は91体。縄文時代前期の人骨が見つかった国内の遺跡の中では最多。

DNA鑑定で、南方系と北方系の異なる起源を持つ人たちが一緒に暮らしていたことがわかった。

多くの遺物によって、縄文人のルーツや生活ぶりを探る、大きな手がかりに!


小竹貝塚(おだけかいづか)は富山県のほぼ中央部、呉羽丘陵と射水平野との接点に位置する。

北陸新幹線建設に先立ち、平成21・22年度に発掘調査が行われ、大規模な貝塚とともに、埋葬人骨や竪穴住居などが出土している。

貝殻のカルシウム成分によって、土壌がアルカリ性を保ち、通常の遺跡では酸性土壌で腐ったり、溶けてなくなったりしてしまうような骨、木器などが残る。

古の人たちの暮らしぶりを伝えるタイムカプセルといってもいいようだ。


小竹貝塚は、約6,750〜5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された。

遺跡範囲は東西約150m、南北約200m。

埋葬人骨(墓域)、貝層(廃棄域)、板敷遺構(生産・加工域)、竪穴住居(居住域)の区域分けがされていた。

貝層では、ヤマトシジミを主とする貝が最大で約2m堆積していた。


墓地として使用されていた貝塚で見つかった人骨は91体と、他に例を見ない数だ。

そのうち、男性は35体、女性は18体で、残りは性別不明だった。

死亡時の年齢をみると、10代後半から20代の若い男性、生まれたばかりの子どもが多く、厳しい生活環境だったことをうかがわせる。

身長を推定できる人骨は男性22体、女性7体あり、男性では165cm以上の、当時としては高身長の人もいれば、154cm前後の低身長の人もいた。

女性の平均身長は、縄文時代後・晩期の平均推定身長と同じ148cmだった。

 国立科学博物館人類研究部が人骨の細胞の中にあるミトコンドリアDNA(遺伝子情報)を分析したところ、小竹縄文人はロシアのバイカル湖周辺や北海道縄文人に多い北方系と、東南アジアから中国南部に見られる南方系の2系統が混在することがわかった。

縄文時代中期以降の系統と遺伝的なつながりを確認することもできた。

一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多い型は見られなかった。

人骨のさらなる研究により、縄文人がどこから来たのか、ルーツ解明が期待される。


小竹貝塚からは、埋葬されたとみられるイヌが21体見つかり、縄文人の墓のそばに丁寧に葬られていた。

狩猟犬、愛玩犬として縄文人と一緒に生活し、丁寧に扱われていたことを示している。

現代のようにペットとしてイヌを可愛がっていたとは驚き。愛犬と仲良く暮らす縄文人の様子が目に浮かんできそうだ。


縄文土器・土製品は約13トン分が出土。

関東地方や近畿地方、東北地方で作られたとみられる土器があり、他地域との交流を物語っている。

石器は約10,000点出土しており、糸魚川周辺で採取されたとみられるヒスイを使った作りかけのペンダントが発見されている。

縄文時代前期のヒスイ製品としては国内で最古級だ。

骨角貝製品(こっかくかいせいひん)では、釣針、刺突具(しとつぐ)、針、装身具など約2,300点が出土。

装身具の中には、九州や伊豆諸島以南でしか採取できないオオツタノハという貝で作られた貝輪1点が見つかった。

太平洋沿岸の縄文遺跡では見つかっているが、日本海側では初めて。

ブレスレットとして、現代人が身に付けてもいいほど、素敵なデザインだ。

縄文時代にすでに釣針や針、ブレスレットやイヤリングが作られていたとは驚き。形も現代のものと大差ない。

タイの歯が象嵌(ぞうがん)された漆製品もあり、縄文人の工芸の技を垣間見ることができる。

当時の女性たちもお洒落をしていたと思うと、親近感も湧いてくる。


富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所では、

「小竹貝塚では、南方系と北方系にルーツを持つ人たちが一緒に暮らしていたことがDNA分析から明らかになった。日本海側の真ん中に位置するからだろうか。縄文人を語るうえで欠くことのできない重要な遺跡だ。
また、広範囲の地域との交流を物語る品々が出土した。日本海側の他の地域の遺物と比較し、小竹貝塚の特徴をより調べていきたい」

と話している。


wikipedia「白保竿根田原洞穴遺跡」より

白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき)は、沖縄県石垣市(八重山列島石垣島)にある旧石器時代から断続的に続く複合遺跡である。

新石垣空港建設前まで、同地はゴルフ場内にあたり盛土されていたため、地下にこのような洞穴があることは、把握されていなかった。

長大な洞穴の洞口が最初に見つかった、白保側(現在の遺跡の場所よりも北側)の小字名がそのまま遺跡名として利用されている現状がある。

白保竿根田原洞穴遺跡は2007年に新石垣空港予定地で見つかった遺跡で、NPO法人沖縄鍾乳洞協会によって、洞穴内から人間の頭、脚、腕などの骨9点が発見された。

このうち、状態のよい6点について同協会、沖縄県立埋蔵文化財センター、 琉球大学、東京大学等の専門家チームが放射性炭素年代測定を行ったところ、

そのうちの1点の20代-30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が約2万年前、他に2点も約1万8千年前及び約1万5千年前のものと確認された。

さらに国立科学博物館が、これらの人骨10点の母系の祖先を知る手掛かりとなるミトコンドリアDNA分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち、2点はハプログループM7aと呼ばれる南方系由来のDNAタイプであることが明らかとなった。

これまで、直接測定による日本国内最古の人骨は、静岡県浜北区の根堅洞窟で発見された浜北人の約1万4千年前であった。

なお、人骨そのものではなく、周辺の炭化物などから測定した日本国内最古の人骨は沖縄県那覇市山下町第一洞穴で1968年に発見された山下町洞穴人の約3万2千年前のものである。
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8

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日本人のガラパゴス的民族性の起源
0-0. 日本人の源流考 rev.1.3 2018/7/29
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm

  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどるによる「日本人の源流」本を出版しました。


核DNA解析でたどる 日本人の源流 – 2017/10/21 斎藤 成也 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%A0%B8DNA%E8%A7%A3%E6%9E%90%E3%81%A7%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%82%8B-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E6%96%8E%E8%97%A4-%E6%88%90%E4%B9%9F/dp/4309253725


その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

 ・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せず、 ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?

 ・シ−ラカンス古代亜型のY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った 集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩猟採集から抜け出せなかったのか?

 ・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸でホモサピエンスに進化してから 出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。


2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」はかなり遅れて進化したと考えられていた様だが、 最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。
 Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、

 Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分離し、

 Y-DNA「BT」がY-DMA「B」とY-DNA「CT」に分離したが、

    この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

 Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、更にY-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分離した。

    これは恐らく中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

    この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデルタール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではないプロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。


3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」とY-DNA「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級としてネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」がそのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。最も頻度が高いのはTanana族である。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。


4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分離しインダス文明を興し、ドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く残されており、 テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子はY-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、 東アジア起源の面影は全くない。唯一タタール人に若干の面影が残っているが今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島(Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。

カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、 その結果、学習院大学の大野教授が日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。

過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。


  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として混在して来たのか単独で来たのか? 岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。


5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内のから生き残りに敗れ逃れてきたのが、Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。


6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。

  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、

  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本と朝鮮及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきたY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンのY-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。

西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも遺伝子が繋がっているのだから。 恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm



4. 中川隆[-9240] koaQ7Jey 2019年6月29日 14:41:00: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3282] 報告
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チャンネル桜関係者が盲信している長浜浩明と田中英道のインチキ学説について詳細は

チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html


西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html





5. 中川隆[-9249] koaQ7Jey 2019年6月30日 07:20:37: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3300] 報告
▲△▽▼

右翼がその論拠にしている自称専門家まとめ


チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html

西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html

自ら 映画『主戦場』 を宣伝してくれる右派出演者たち
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/486.html

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html

吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html

自称 中国・朝鮮問題の専門家 加瀬英明 : 慰安婦問題の最高権威 吉見義明のことは「知りません」、秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』は「読んだことない」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/488.html

チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html

日本の右翼のバイブル _ ニセユダヤ人 モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html




6. 中川隆[-8951] koaQ7Jey 2019年7月20日 15:37:18: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3747] 報告
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2019年03月11日
アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した?
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html

 表題の呟きがTwitter上で流れてきました。全文引用すると、


DNA解析により、アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来したのが判明!
北海道の縄文人には、アイヌ民族の特徴であるミトコンドリアDNAのハプログループYがない。
よって、アイヌ民族は北海道先住民族ではない と北海道庁ご認定していた:そよ風
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html


となります。その根拠として、

「アイヌ民族は北海道先住民族ではない」と題するブログ記事
http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009/archives/51838956.html


が挙げられています。


では、その根拠が何なのかというと、遺伝学的には、アイヌ民族の特徴であるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループY(Y1)が北海道の「縄文人」にはない、ということです。上記ブログは、「北海道の縄文人とアイヌは全く関係ないと言える」と断定しています。以下、基本的には

近世アイヌ集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2018)
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/ajpa.23338

に依拠して述べていきます

(関連記事)2019年01月24日 近世アイヌ集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html


 確かに、現代アイヌ人のmtDNAハプログループに占めるY1の比率は19.6%で、比較的高いと言えそうです。また、北海道の縄文人ではY1は確認されていません。上記ブログは、江戸時代以降の日本人にもmtDNAハプログループY1が見られるので、江戸時代以前に倭人が北海道に多数いた、と推測しています。しかし、Y1が現代の「本土日本人」に占める割合は0.5%程度で、Y1はオホーツク集団由来と推測されています(オホーツク集団では43.2%)。

 また、現代アイヌ人にも近世アイヌ人にもN9bやG1bといった北海道縄文人のmtDNAハプログループは継承されており、現代アイヌ人では25%以上、近世アイヌ人では30%弱となります(M7a2も含めると30.9%)。もちろん、これは基本的には母系遺伝となるmtDNAのハプログループなので、核DNA解析ではまた違った割合になるでしょうが、少なくとも母系において、現代および近世アイヌ人は遺伝的に北海道縄文人と一定以上のつながりがある、と言えるでしょう。

 そもそも、民族は遺伝的に定義できるわけではない、という観点が上記ブログには欠けています。任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、遺伝的構成が異なるのは当然です。民族に関しても同様で、ある民族を他の民族と比較すると遺伝的構成は異なり、その民族に固有の遺伝的構成が見出されます。しかし、それは民族という区分を前提として見出される遺伝的構成の違いであって、遺伝的構成の違いが民族を定義できるわけではありません。アイヌ人を遺伝的に云々といった見解の多くでは、論理の倒錯が見られるように思います。

 前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えていますが、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。民族の基本は共通の自己認識でしょうが、「客観的に」判断するとなると、文化の共通性となるでしょうから、文字資料のない時代にも、考古学的にある程度以上の水準で「民族的集団」の存在を認定することは可能です。

 そうした前近代の「民族的集団」の中には、民族は遺伝的に定義できる、といった単純素朴な観念が通用しない事例も報告されています。たとえばスキタイ人は遺伝的に、東方系がヤムナヤ(Yamnaya)文化集団と、西方系が中央アジア北東部からシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団と近縁です

(関連記事)
2018年10月07日
青銅器時代〜鉄器時代のユーラシア西部草原地帯の遊牧民集団の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_11.html


青銅器時代のコーカサス地域のマイコープ(Maykop)文化集団は、山麓地域と草原地域とで遺伝的構成が明確に異なっており、遺伝的に異なる在来集団による共通の文化の形成・受容が想定されます

(関連記事)
2019年02月07日 コーカサス地域の銅石器時代〜青銅器時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_10.html


 もちろん、スキタイ人のようなユーラシア内陸部の遊牧民集団と、遊牧民が存在しなかったと言っても大過はないだろう日本列島の人類集団とを単純に比較できませんが、民族を遺伝的に定義することは基本的に間違っていると思います。民族はあくまでも文化的に定義された集団であり、任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、必然的に遺伝的構成が異なる、というだけのことです。これを倒錯させて、遺伝的構成の違いから民族集団を定義することはできません。

 本題に戻すと、上記ブログでは、アイヌ民族が12世紀頃に樺太から北海道に南下してきてオホーツク集団を滅ぼした、と主張されています。その根拠となる、アイヌ民族は北海道縄文人と(遺伝的に)まったく関係ない、との見解が間違いであることは上述したので、それ話は終わりです。しかし、オホーツク文化が北海道から消えた後でも、北海道のアイヌ集団とシベリア先住民集団との間に遺伝的関係が継続していた可能性も指摘されていますので、これを過大評価というか歪めて解釈して、アイヌ人が12世紀頃に北海道に侵略してきた、との与太話が今後拡散されるかもしれません。しかし、オホーツク文化が北海道から消えた後のシベリア先住民集団の北海道集団への遺伝的影響は、母系ではせいぜい6.4%程度で、大きな影響があった可能性はきわめて低そうです。

 なお、上記ブログでは、平取町からは正倉院御物と同じ組成の奈良時代の青銅器が発見されており、奈良時代にすでに天皇の力が北海道にも及んでいた、と主張されています。平取町の青銅器の話についてはよく知りませんが、仮にそうだとして、アイヌが北海道の先住民族だという前提は物的証拠によって完全に覆されている、との評価は的外れでしょう。確かに、正倉院御物と同じ組成の青銅器が北海道にあることを、天皇の「力が及んでいた」と解釈することは、定義次第ではあるものの、できなくもありませんが(かなり無理筋ではありますが)、それを言うなら、弥生時代や古墳時代の「日本」には、もっと強く「中国」の「力が及んでいた」と解釈すべきでしょう。

平安時代の日本の知識層の領域観念(関連記事)
2018年08月29日 佐藤弘夫『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』(前編)
https://sicambre.at.webry.info/201808/article_51.html


からも、奈良時代の日本人には、北海道を「日本」に含めるような概念はなかっただろう、と思います。

 それにしても、与太話にすぎない上記の呟きがリツイート1300以上・いいね1600以上とは残念です。もちろん、リツイートやいいねが賛同を意味するとは限りませんが、多くの場合は賛同だと思います。これを呟いた城之内みな氏のフォロワーは約26000アカウントで、フォローは1674アカウントですから、相互フォローでフォロワーを増やしていったのではなく、呟きの内容でフォロワーを獲得したのでしょう。その意味で、かなり影響力の強いアカウントなのでしょうが、こんな与太話にすぎない呟きにも多数のリツイートやいいねが集まるとは、残念というだけではなく、脅威と考えねばならないようです。


参考文献:
Adachi N. et al.(2018): Ethnic derivation of the Ainu inferred from ancient mitochondrial DNA data. American Journal of Physical Anthropology, 165, 1, 139–148.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23338


https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html


7. 中川隆[-8846] koaQ7Jey 2019年7月25日 16:39:08: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3868] 報告
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2019年06月01日
北海道の「縄文人」の高品質なゲノム配列
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html

 北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の「縄文人」の高品質なゲノム配列を報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)が公表されました。

この研究についてはすでに報道されていました(関連記事)。


https://sicambre.at.webry.info/201905/article_24.html


この研究はオンライン版での先行公開となります。現代日本人は大きく、アイヌ集団・「本土」集団・琉球集団に区分されます。現代日本人の起源は人類学・考古学・遺伝学で長く議論されており、縄文人が共通の祖先集団となっていることについては、おおむね共通認識になっている、と言えるでしょうが、縄文人と縄文時代以後の渡来集団の現代人への遺伝的影響度合など、これらの集団はそれぞれ異なる形成史を有する、と推測されています。

 さらに、縄文人の起源についても、形態学ではアジア北東部説と南東部説が提示されており、明確ではありません。20世紀第4四半期以降、縄文人のDNA解析も進められ、まずミトコンドリアDNA(mtDNA)で始まり、その後は核DNAも対象となり、ゲノム規模のデータも報告されています(関連記事)。しかし、高品質とは言えないのでその網羅率は高くなく、縄文人の遺伝的特徴を理解するのに充分ではありませんでした。これまで、縄文人の遺伝的特徴に関しては、本土集団よりも縄文人の遺伝的影響を強く保持していると推測されてきた、アイヌ集団と琉球集団から間接的に推測されてきました。

 本論文は、北海道の礼文島の船泊貝塚で1998年に発見された人類遺骸のうち2個体(F5およびF23)のDNA解析結果を報告しています。放射性炭素年代測定法による推定年代は3800〜3500年前頃です。この2人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)が決定されるとともに、F23の高品質なゲノム配列が得られました(DNA配列の深度のピークは、F5が1倍、F23が48倍です)。DNA解析からF5は男性、F23は女性と推定され、これは形態学的所見と一致します。この船泊縄文人のゲノムデータは世界各地の現代人および古代人と比較され、縄文人の遺伝的特徴がじゅうらいよりもずっと詳細に明らかになりました。

 F5もF23もmtHg-N9b1で、以前の研究と一致します。ただ、両者ともN9b1のサブグループであるN9b1a・N9b1b・N9b1cには分類されませんでした。F5はYHg-D1b2bで、これまで「縄文系」のYHgで詳細に分類できていた個体は全員D1b2aだったので(関連記事)、縄文系としては初めて確認されたD1b2bということになりそうです。いずれにしても、縄文系のYHgでは、現代日本人のYHg-Dにおいて多数派となるD1b1(32.7%、その他のD1bは6.1%)はまだ確認されていないことになります。この問題は最近取り上げましたが(関連記事)、現代日本人で多数派のYHg-D1b1が縄文人由来なのか、それとも弥生時代以降に日本列島に到来したユーラシア東部集団由来なのか判断するには、日本列島も含めてユーラシア東部の古代DNA研究の進展が必要だと思います。

 F23のゲノムから表現型も推測されています。F23の血液型は、ABO式ではA(AO)、Rh式ではRhD+です。ただ、ABO式血液型のAx02のアレル(対立遺伝子)では、縄文人のAx0201とAx0202は現代日本人も含む他集団では稀です。シャベル状切歯の程度はわずかで、歯冠サイズは中間的と推定され、これまでに報告されてきた縄文人の特徴と一致します。ただ、F23に切歯は残っていないので、じっさいに形態と一致するのか、確認できませんでした。F23の髪は細いと推測されています。F23の耳垢は湿性で、これは縄文人も含むアジア北東部集団において多数派だったと考えられています。F23のアルコール耐性は高く、肌と虹彩の色は中間程度の濃さと推定されています。F23の身長型スコアはやや低く、アジア東部の現代人集団と比較して身長が低い、と示唆されます。これらのF23の特徴は、形態学からしてきされていた、低身長、弥生時代以降の農耕民より小さな歯、現代アジア東部集団と比較しての非シャベル状切歯頻度の高さなどといった縄文人の特徴とよく合致しています。

 F23の色素関連遺伝子(MC1R)の多様体からは、ソバカスや深刻なシミ(日光黒子)の危険性の高さが推測されています。また、F23は心筋症や統合失調症と関連した多様体を有していました。F23がホモ接合型で有している、CPT1A遺伝子の多様体(p.Pro479Leu)はF5でも見られます。CPT1A遺伝子は脂肪酸代謝に必須で、F23の多様体は、ケトン性低血糖症や乳幼児死亡率の高さといった疾患、インシュリン抵抗性の低下、身長や体重など体格の低下と強く関連しています。この多様体は北極圏の先住民集団では70〜90%と高頻度で見られますが、他集団ではほぼ見られません。これは、高脂肪食や寒冷環境への適応と関連しており、脂肪の豊富な海生哺乳類を主要な食資源としていたことを反映しているのではないか、と推測されています。じっさい、同位体分析により、船泊縄文人は陸生および海生動物を食べていた、と推測されています。ただ、この多様体の起源がどの集団にあるのか、また北東部縄文人に共通しているのか、まだ明らかではありません。

 F23は現代人と比較してヘテロ接合性が低く、ホモ接合性が高い、と明らかになりました。これは、F23の遺伝的多様性の低さを示します。しかしF23は、長いホモ接合性領域が近親婚による個体と比較して少なく、直近世代での近親婚はなかっただろう、と推測されています。形態学的類似性と抜歯のような共通習慣から、北海道の最北部と南西部では文化的・遺伝的交流があったと推測されており、近親婚が避けられていた、と考えられます。F23の遺伝的多様性の低さと関連して、船泊縄文人集団系統の人口規模は小さく、次第に有効人口規模が小さくなっていったのではないか、と推測されます。具体的には、7700世代よりも前には20000人、7700世代前には10000人、2500世代前には5000人、100世代前には200人と減少していった、と推定されています。1世代を20〜30年と仮定すると、50000年前頃以降に顕著に有効人口規模が低下していったと推測され、これは現生人類(Homo sapiens)のアフリカから世界各地への拡散に伴う創始者効果と対応しているのでしょう。

 船泊縄文人(F23)は三貫地縄文人(関連記事)と同じく、アフリカ人・ヨーロッパ人・サフルランド(更新世寒冷期に陸続きになっていてたオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島)人・アメリカ大陸先住民よりも、ユーラシア東部集団と遺伝的に密接でした。アジア東部集団との比較では、船泊縄文人は他の現代ユーラシア東部集団とは異なっており、現代日本人は船泊・三貫地・伊川津の縄文人とユーラシア北東部集団との間に位置します。船泊・三貫地・伊川津の縄文人は、他の集団との比較で遺伝的に相互に密接な関係にあります。

 船泊縄文人系統は、パプア系統とユーラシア東部系統が分岐し、次に4万年前頃の華北の田园(Tianyuan)男性(関連記事)系統と他のユーラシア東部系統が分岐した後、ユーラシア東部系統とアメリカ大陸先住民系統が36000±15000年前頃に分岐する前に、ユーラシア東部系統と分岐した、と推定されています。ただ、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(関連記事)。漢人と船泊縄文人との分岐は、38000〜18000年前頃と推定されており、この期間に船泊縄文人系統は他のユーラシア東部系統と分岐したのでしょう。なお、アメリカ大陸先住民は、ユーラシア東部系統と田园系統が分岐した後のユーラシア東部系統だけではなく、ヨーロッパ系統と近縁なシベリア南部中央系統(古代ユーラシア北部集団)の強い遺伝的影響を受けています(関連記事)。

 船泊縄文人と遺伝的に比較的近縁な地域集団は、現代人ではアムール川下流域のウリチ人(Ulchi)・韓国人・台湾先住民のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)・イゴロット人(Igorot)などのフィリピン人・日本人で、古代人では7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡集団(関連記事)です。いずれもアジア東部沿岸圏に存在します。船泊縄文人との遺伝的距離では、漢人は日本人・韓国人・台湾先住民よりも遠く、YHgでは船泊縄文人および日本人と密接なチベット人も、ゲノム解析では他のアジア東部集団と比較して、とくに船泊縄文人と近縁というわけではありませんでした。漢人など多くのアジア北東部集団よりも船泊縄文人と遺伝的に近い現代人集団の中では、日本人が最も近く、ウリチ人がそれに続き、その後が韓国人・アミ人・タイヤル人です。

 注目されるのは、F23が他のほとんどのアジア東部集団よりもオーストラリア大陸先住民と多くのハプロタイプを共有していた、と推定されたことです。アマゾンの一部アメリカ大陸先住民集団にはオーストラレシア人の遺伝的影響が指摘されていますが(関連記事)、船泊縄文人とほとんどのアジア東部集団は、このアマゾンの祖先集団とは近縁ではない、と推測されています。この問題は謎めいており、解明には現代人と古代人のゲノムデータのさらなる蓄積が必要となるでしょう。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と現生人類(Homo sapiens)との交雑はすでによく知られているでしょうが(関連記事)、F23のゲノムへのネアンデルタール人およびデニソワ人の影響は、アメリカ大陸先住民集団やアジア東部集団とほぼ同じです。

 上述のように、船泊縄文人ではmtHg- N9b1とYHg- D1b2bが確認されています。mtHg- N9bとYHg- D1bはいずれもほぼ日本列島にのみ存在し、共通祖先の推定年代は、前者が22000年前頃、後者が19400年前頃です。現代のユーラシア東部集団に遺伝的影響を残していない新石器時代ユーラシア東部集団が日本列島に拡散し、船泊縄文人も含む北部縄文人の祖先になった可能性もありますが、本論文は、北部縄文人を日本列島の更新世集団の子孫という見解を支持しています。

 上述のように、船泊縄文人は、アジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁です。これはゲノムデータだけではなく、mtHgでも同様です。これに関しては、アジア東部沿岸地域への最初の移住集団を共有しているか、縄文人系統が他のアジア東部集団と分岐した後の遺伝子流動が考えられます。上述した日本人とウリチ人の船泊縄文人との遺伝的近縁性の高さと、ウリチ人の祖先集団と考えられる悪魔の門集団と船泊縄文人との遺伝的類似性の低さからも、両者の間の遺伝子流動が支持されています。しかし、韓国人やアミ人やタイヤル人に関しては、どちらの仮説がより妥当なのか、判断は困難で、もっと多くのゲノムデータが必要と本論文は指摘します。

 上述のように、船泊縄文人は漢人よりも日本人やウリチ人や韓国人や台湾先住民といったアジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁なのですが、漢人よりもさらに遠い関係にあるのが、タイなどのアジア南東部集団です。船泊縄文人と漢人やアジア南東部集団との関係について本論文は、(1)未知の集団とアジア南東部祖先集団との交雑、(2)船泊縄文人系統と漢人関連古代集団との間の分岐後の遺伝子流動、(3)船泊縄文人およびアジア北東部大陸集団の共通祖先とアジア南東部集団との分岐後に、古代アジア南東部集団が大陸部アジア北東部集団と交雑した、という可能性を想定しています。本論文は、カンボジア人における遺伝的にヨーロッパ集団ともアジア東部集団とも等距離にある未知のユーラシア集団からの16%ほどの遺伝的影響から、(1)を支持しているものの、その他の2仮説のさらなる検証の必要性も指摘しています。

 現代日本人起源論との関連では、縄文人とアイヌ・本土・琉球という現代日本の3集団との関係が注目されます。船泊縄文人(F23)のゲノムデータは、アイヌ集団と琉球集団が本土集団より縄文人系統の遺伝的影響を強く保持している、というじゅうらいの見解を改めて支持します。F23で観察されたヒト白血球型抗原(HLA)アレルも、本土集団よりアイヌ集団と琉球集団において高頻度で見られました。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、本論文もある程度の幅を想定しているのですが、アイヌ集団では66%、本土日本人では9〜15%、琉球集団では27%です。

 じゅうらいの諸研究は、アイヌ集団は縄文人を基盤に、その後のオホーツク文化集団やその他のシベリア北東部集団の遺伝的影響を受けて成立した、と指摘します。これらのシベリア北東部集団は、現代人ではアムール川下流域の集団と近縁と推測されていますが、アイヌ集団の形成過程のより詳細な解明も、アジア北東部の古代DNA研究の進展が必要となります。アイヌ集団に関して、北海道の縄文人との遺伝的継続性を否定し、12世紀頃に樺太から北海道に渡来した、という認識さえネットでは見られますが(関連記事)、本論文により、そうした認識は与太話にすぎないと改めて示された、と言えるでしょう。

 本土集団と琉球集団は、先住の縄文人と後に渡来した人々との混合と考えられます。この後に渡来した集団は、おそらく弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した農耕民で、現代人では韓国人や漢人と遺伝的に近縁です。もちろん、現代の韓国人や漢人も歴史的に形成されてきたわけで、紀元前9世紀〜紀元後6世紀にかけて日本列島に到来したアジア東部集団の遺伝的構成が、そのまま現代の韓国人や漢人と同じというわけではありません。本土集団における縄文人の遺伝的影響は高くとも15%程度と本論文では推定されていますが、この数字が独り歩きすることは懸念されます(関連記事)。上述したYHg-D1b1の問題からも、縄文人は均質的でありながらもある程度の地域差があり、本土集団に大きな影響を残しているのは西日本の縄文人とも考えられるからです。現代日本人の起源については、日本列島のみならずユーラシア東部の古代ゲノムデータの蓄積が必要で、日本人の私は今後の研究の進展をたいへん楽しみにしています。


参考文献:
Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science.
https://doi.org/10.1537/ase.190415


https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html



8. 中川隆[-8842] koaQ7Jey 2019年7月25日 18:48:41: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3872] 報告
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2019年01月24日
近世アイヌ集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、近世アイヌ集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2018)が公表されました。現代アイヌ人(と呼ぶと人間人のような意味となって不自然とも言えるかもしれませんが)の形成に関しては、現代日本人起源論との関連で議論されてきました。現代日本人起源論では、二重構造モデルが有力な仮説として認められてきました。更新世の日本列島最初の人類集団は東南アジア起源で、そこから縄文集団が形成され、弥生時代以降の北東アジアから移住者と在来の縄文集団との融合により現代日本人が形成された、と考えられています。

 これはおもに本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」での過程で、沖縄地域と北海道では、縄文集団の遺伝的影響が日本列島「本土」より強く残った、と想定されています。その結果、沖縄でも北海道でも日本列島「本土」とは大きく異なる文化集団が形成されました。これは北海道ではとくに顕著で、日本列島「本土」集団たる「日本人(もしくはヤマト人)」とは言語も含めて文化の大きく異なるアイヌ人が形成された、との理解が一般的です。アイヌ人と日本人とは異なる民族と考えるのが妥当でしょう。文化的観点では、アイヌ的な文化はおおむね紀元後13世紀に確立した、と一般的に考えられています。

 二重構造モデルでは当初、とくに北海道では、前近代において縄文集団の子孫と他地域集団との遺伝的混合はほとんどなかった、と想定されていました。しかし、その後の形態学および遺伝学的研究では、オホーツク文化集団がアイヌ集団の形成に影響を及ぼした、と推測されています。オホーツク文化集団はユーラシア北東部から拡散してきたと考えられており、紀元後5〜13世紀に北海道北部および北東部沿岸やサハリン南部に存在していましたが、北海道では本州の影響を受けた擦文文化の拡散に伴い急速に衰退し、10世紀初めまでにはほとんど消滅しました。オホーツク文化は擦文文化の影響を受けてトビニタイ文化へと変容し、13世紀に始まるアイヌ時代まで続きます。オホーツク文化集団の遺伝的影響とは、具体的には、北海道縄文集団には見られないmtDNAハプログループA・C・Yで、これらはオホーツク文化集団と現代のシベリア先住民集団に見られます。

 これまでのアイヌ人に関する遺伝研究の問題点は、現代人のDNAのみが解析されていることです。そのため、前近代の日本列島「本土」集団(以下、本土集団と省略)からの遺伝的影響の評価はできませんでした。また、これまでの研究の問題点として、対象地域が限定的もしくは不明であることが挙げられます。ほとんどの研究は北海道の平取町の51人の遺伝的データに基づいています。近世アイヌのDNA研究もありますが、標本の地域は明らかにされていません。そのため、これまでの研究ではアイヌ集団の遺伝的地域差の評価ができませんでした。本論文は、北海道全域のアイヌ集団の遺骸からmtDNAを解析しました。全標本の年代は江戸時代(近世)に収まり、通説では、本土集団の大規模な遺伝的影響は報告されておらず、本土集団のアイヌ集団への強い遺伝的影響は、明治時代以降の「開拓」に始まる、と想定されていました。

 本論文は、近世アイヌ集団115標本のうち94標本の配列に成功しました。江本論文は、近世アイヌ集団で観察されたハプログループの地域差を明らかにするために、次の4タイプに分類しました。それは、北海道縄文型(北海道縄文集団で見られるハプログループ)、オホーツク型(オホーツク文化集団に見られ、北海道縄文集団には存在しないハプログループ)、本土型(北海道縄文人とオホーツク文化人には存在せず、現代の本土日本人には現代のシベリア先住民集団よりも高い頻度で見られるハプログループ)、シベリア型(北海道縄文集団とオホーツク文化集団には存在せず、現代の本土日本人よりも高い頻度で現代のシベリア先住民集団に見られるハプログループ)です。

 mtDNAでも、北海道縄文集団と近世アイヌ集団との遺伝的連続性が確認されました。北海道縄文集団の中で最も高頻度のハプログループN9b1は、近世アイヌ集団でも比較的高頻度で見られます。Y染色体DNAでも、この連続性が確認されています。北海道縄文集団と近世アイヌ集団との違いは、北海道縄文集団に見られるmtDNAハプログループN9b4・N9b*・D4h2・M7aが近世アイヌ集団には確認されていない一方で、北海道縄文集団では確認されていない19のハプログループが近世アイヌ集団には見られることです。

 本論文は、この違いが何に起因するのか検証するため、近世アイヌ集団と、東アジアとシベリアの古代および現代の14集団を比較しました。以前の研究では、アイヌ人は北海道縄文集団とオホーツク文化集団を含むアムール川下流域集団との中間に位置します。これは、アイヌ人が北海道縄文集団とオホーツク文化集団との混合により成立した、との見解を支持します。しかし、近世アイヌ集団に見られるmtDNAハプログループの中には、M7a1などのように、北海道縄文集団にもオホーツク文化集団にも見られないものがあります。これは、北海道縄文集団とオホーツク文化集団以外にも、アイヌ人の遺伝的集団が存在することを示唆します。本論文は、本土集団とシベリア先住民集団も近世アイヌ集団に遺伝的影響を及ぼしている、と明らかにしました。

 近世アイヌ集団における各集団のタイプのmtDNAハプログループの割合は、オホーツク型で35.1%、北海道縄文型で30.9%、本土型で28.1%、シベリア型で7.3%となります。オホーツク型の割合の高さも注目されますが、何よりも注目されるのはオホーツク型・北海道縄文型とさほど変わらない本土型の割合で、前近代においてすでに、アイヌ集団と本土集団との混合がかなり進展していた、と示唆されます。シベリア型の存在は、オホーツク文化が北海道から消えた後でも、北海道のアイヌ集団とシベリア先住民集団との間に遺伝的関係が継続していたことを示唆します。

 北海道の近世アイヌ集団を南西と北東で区切ると、北海道型・オホーツク型・本土型・シベリア型の比率には、顕著な地域差が見られました。たとえば、北海道型の比率は北東アイヌ集団の方が高い一方で、本土型の比率は南西アイヌ集団の方が高くなっています。これについては地理的要因が考えられ、形態学的研究とも一致します。オホーツク型とシベリア型の比率に関しては、近世アイヌの両集団間で大きな差はありません。したがって、オホーツク文化集団の遺伝的影響は北海道全域の祖型アイヌ集団に急速に拡散した、と考えられます。

 このように、近世アイヌ集団は複数の起源集団を有しているわけて、アイヌ人もまた「交雑する人類」の例外ではなかったわけです(関連記事)。ただ、例外も報告されているとはいえ(関連記事)、mtDNAは基本的に母系遺伝です。そのため、mtDNAに基づく集団の歴史の解釈には慎重でなければならない、と本論文は指摘します。近世アイヌ集団における、各地域集団の遺伝的影響の比率やその歴史的経緯に関しては、やはり中世と古代までさかのぼって核DNAを解析し、周辺の各集団と比較していかねば、詳細は分からないのでしょう。今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Adachi N. et al.(2018): Ethnic derivation of the Ainu inferred from ancient mitochondrial DNA data. American Journal of Physical Anthropology, 165, 1, 139–148.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23338


https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html



9. 中川隆[-8851] koaQ7Jey 2019年7月28日 18:35:37: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3868] 報告
▲△▽▼

アイヌ民族の復興を 松浦武四郎を記念して
 松浦武四郎は1818年、今から、ちょうど200年前、松阪市に近い、一志郡須川村の郷士、松浦家に生まれた。
 先祖は、平戸の松浦一族であり、中世に伊勢国に移住したことになっている。

 実家の一志須川(松阪市小野江町)は、伊勢宮街道沿いであり、松浦武四郎記念館から徒歩数分の位置にある。
 私は、大台ヶ原の歴史を調べるなかで、松浦武四郎という偉大な存在に触れて、何度も通った。近くには、幕末から近世現代に導いたといわれる本居宣長の居宅もある。
 http://tokaiama.minim.ne.jp/tokaiama/oma-3.htm

 武四郎が、生涯を旅に明け暮れた理由も、おそらく全国から伊勢参りの参拝者が押し寄せてくる土地であり、自らのルーツも長崎県にあることを知り、広く全国に開かれた情報の大量に錯綜するなかで、自分の目で世界の真実を確かめようとしたのであろう。

 武四郎の功績は多岐にわたるが、不滅の業績といわれるものが、樺太や択捉島にまで及んだ北海道探索の情報公開である。
 武四郎は、信義に厚い優しい性格で、北海道に渡っても、決してアイヌを見下したりせず、兄弟のように接し、アイヌの利益を擁護しようとした。
 http://www.pref.mie.lg.jp/DOKYOC/HP/20454021135.htm

 武四郎は、寝食を共にしながらアイヌ人の協力を得て、まだ未開だった、道内の地図を作成するために全道に分け入った。

 六回に渡って渡航し、アイヌの生活、民俗、地誌を記録し、紀行文にして出版した。
 数十年間にわたる北海道探検のなかで、武四郎は、松前藩による植民地政策、アイヌ人の奴隷的使役に対して激しく憤っていた。

 内地人は、アイヌを「土人」と見下し、彼らの土地を強奪し、奴隷として使役した。
 松前藩による「場所請負制度」と,江戸幕府による「撫育同化政策」が、どれほどアイヌの人権を侵害し、苦しめているかを広く訴えようとした。

 北海道では寒冷な気候から米が育ちにくかったが、海産物が豊富であったため松前藩は当初アイヌの人びととの交易を松前城下で独占的に行っていた。

 やがて,松前藩はアイヌの人びとの自由な交易を制限し,蝦夷地の海岸線に交易をする場(商場)を設けていった。

 そして、家臣に「商場」を知行地として与え、商場を与えられた家臣は現地のアイヌの人びとと交易をおこない、交易品を本州の商人などと取引をして利益を得ていた。

 この「場所請負制度」により、商人は利益を増すためにアイヌ民族を労働力として確保するために自由な移動や結婚を禁じ、強制的に酷使する奴隷的な扱いをするようになった。

 一方、幕府の「撫育同化政策」は、独自の文化を持つアイヌ民族に対し、本州と同じような暮らしを強要するものだった。

 幕府はロシアの南下政策に対して、蝦夷地は日本の領土であることを主張し、文化の異なるアイヌ民族を、日本人として見せかけるための文化を強要したのである。

 武四郎は,アイヌ民族は独自の文化を持っていて、尊重されるべきことや、アイヌ文化への正しい理解を求めて、幕府へ切実に訴えている。

 大久保利通は、松浦武四郎の活動を高く評価し、北海道開拓庁が設立されると、開拓判官という上級役職に推薦したが、明治政府の姿勢も、松前藩と変わらぬアイヌへの見下し、人権軽視と利用主義が見られることに激怒し、職を去って故郷に帰った。

 アイヌ民族が確認されたのは中世以降で、その居住範囲は、千島列島全域、樺太、北海道全域、青森県・岩手県・秋田県の一部を含むが、歴史文献によれば、「蝦夷毛人」の国として、新潟県や長野県の内陸部も含まれている。

 日本列島に最初に登場したのは、10000年も前のことで、縄文人の一角をなしている明確な日本先住民である。おそらく南方の海洋族が黒潮に乗って、琉球列島を経て北上したのではと推理されている。琉球古代人とアイヌ古代人は、同じ遺伝的先祖を持っている。

 したがって、日本列島には、地名や民俗など、アイヌ文化=縄文文化が広く浸透していて、地名でもアイヌ語が極めて多い。
 関東以北で、語尾にナイ(小河川) ベツ(大川)がつく地名は大半がアイヌ語である。マッカリという地名も「奥で曲がる川」という意味を持つので、飛騨白川村にまで及んでいることになる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E

 つまり、アイヌ民族は、明確に日本先住民であり、異民族ではなく、我々の先祖でもある。

 私事で恐縮だが、私は、瞳の色が澄んだ鳶色で、ずいぶん他人と異なる。自分が他人と違うことで、ルーツを調べてゆくと、母方の祖先が、新潟で北前船交易を主宰していたことが分かった。

 これは渡島半島で採れた昆布を、新潟・下関・瀬戸内経由で大阪まで運んだ交易船である。船員たちは、渡島のアイヌ女性に子を産ませることが多かったと記録されている。

 ということは、私の血筋にアイヌの血が含まれていても何の不思議もない。
 またアイヌも古くからロシア人との交易の歴史があったので、ロシアの血も入っているかもしれない。

 縄文人=アイヌ人の民族学的特徴として、

@目鼻立ちが大きい A毛深い B手足が長い C二重瞼 D水耳垢 E感受性が強い F足指が長い

 などがある。このうち毛深いのと手足が長い以外は、全部当てはまるので、自分がアイヌの血を引いていることを確信するようになった。


 これが、秦氏のような高句麗女真族は、寒冷刺激を受けたツングース族の特徴を持っていて、

@のっぺりした顔立ち A一重瞼 B乾燥耳垢 C感情の抑制力が強い D騎馬文化を持つ 

などの特徴があり、南方の海洋族が北に移住してきたアイヌ民族とは本質的に異なる。

 日本は多民族国家である。アイヌはじめ、高句麗ツングース、中国蘇州由来の弥生人など、たくさんの民族が交雑して成立している。

 中曽根康弘が、1986年に「日本は単一民族国家」と発言して、国際的な問題に発展した。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E7%9A%84%E6%B0%B4%E6%BA%96%E7%99%BA%E8%A8%80

 中曽根は、日本にアイヌ民族という先住民が居住していることさえ知らなかったのである。

 中曽根の先祖は、群馬足利氏=北条氏と思われるが、彼らが高句麗・百済から渡来して日本人になったことも知らなかったのだろう。

 松浦武四郎の時代、松前藩も明治新政府もアイヌを「土人」と蔑称し、彼らの先祖代々の土地を強奪し、現在の王子製紙などに売り飛ばした。
 アイヌの聖地中の聖地、平取の二風谷は、勝手に売り飛ばされ、ダムの底に沈んだ。アイヌの先祖を奉った墓地から北大や京大の学者が無断で骨を持ち出し、今だに完全な返却も、まともな謝罪もしていない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E9%AA%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6


 アイヌの人口推移
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-820.html


200年前、アイヌ人は、北海道人口の84%を占めていた。ところが、1993年には、わずか0.4%にも落ちている。

 これは、どれほどアイヌ人が、人間扱いをされず、民族としての継承を弾圧されていたかの反映である。

 我々は、アイヌ民族の復活を要求し、民族としての独自の発展を保証するべきだと考える。

 オホーツク一帯に数十万人の文化圏を構築していたアイヌ民族は、1855年、ロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定し編入した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。

 2018年12月、ロシアのプーチン大統領は、クリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌ民族をロシアの先住民族に認定する考えを示した。
 これは、ロシアが千島北方領土を完全に自国領に編入するための手続きではあるが、こんなことになったのも、日本政府が、アイヌ民族の人権を軽視し、土人扱いして彼らの先祖代々の土地を奪うことしかしてこなかったせいである。

 これから必要なことは、日本人の多くに、私のようにアイヌの血が含まれている事実を国際的に明らかにすることであろう。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-820.html



10. 中川隆[-8793] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:25:35: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3949] 報告
▲△▽▼

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

2. 霞ヶ関に原爆を落とせ[554] ieCDlorWgsmMtJSagvCXjoLGgrk 2019年9月06日 21:10:42 : IGJMZlqIQA : NEQ4NFRYRUJEeGM=[19] 報告
日本人の顔をした背乗りキムチ野郎
李晋三にはスルーする糞長州田布施土人
エッター野郎木卯正一こと卯正日(笑)。↓

335x350-27.8kB-安倍晋三と統一教会 hashtag on ...
https://twitter.com/hashtag/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%


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