アンダーグラウンド世界で生きていくには 表社会で生きられなくなったら、野生動物を見習って生きよ
表側の社会からドロップアウトし、そこから外れて生きるのであれば、表社会で培った常識も捨てなければならない。
なぜなら、そこでは昼間の世界にいられなかった人間が夜の世界に落ちてくるわけで、彼らとの人間関係は昼間の世界の人間関係では成り立たないからである。 彼らは無邪気でも純真でもないので、自分だけが無邪気で純真でいると、ただ踏みにじられるだけになる。 夜の人間たちとの付き合いが長くなるにつれて、誰でも早い段階でそれに気付く。 そのため、社会からドロップアウトした人は次第に出会う人と距離を持って付き合うようになり、警戒心を持つようになっていくはずだ。 何しろ、新しく出会う人、親しげに寄ってくる人に、ことごとく騙されたり、金を毟り取られたり、踏みにじられたりするからだ。 出会う人がことごとく悪い人ではないというのはもちろん分かっている。 しかし、信じられると思った人が騙してきたり、自分を好きになってくれたと思った人が金を盗んで消えたりする経験を何度もすると、さすがに無邪気なままではいられない。 そこでは基本的に相手もこちらを信じていない アンダーグラウンドに堕ちたら、誰が本当に信じられて、誰が信じられないのかを区分けできる眼力を鍛えようと最初は誰でも思う。しかし、無駄骨に終わる。 人の心を見抜くというのは本当に難しい。手慣れた詐欺師は、どんな警戒心を持った人間をも騙せるくらいの手練手管を持っているからだ。 確かに、あからさまに信用できそうにない人もいる。さすがに、見るからに不審な言動をする人を心から信じるほど世間知らずはいない。おかしい人はおかしいと誰でも思う。 しかし、アンダーグラウンドでは「誠実で信頼できる」と思う人が一番危険なのだ。本当に信頼関係が結べたと思っている人に裏切られる。ダメージが大きいのはこちらの方だ。 何しろ自分は心から信じているのに、相手の方はその裏で金を毟り取る計画を着々と進めていたりするのだから本当に傷つく。特に女性に裏切られるのが悲しい。 そういったことが何度もあると、誰でも自然に出会う人に警戒心を持ち、他人を信じないのを基本にして生きるようになっていく。そうしないと生き残れないのである。 ところで、こちらが相手を信じなくても問題ないというのが裏側の世界の面白いところだ。なぜなら、そこでは基本的に相手もこちらを信じていないからだ。 たとえば、夜の女たちは半分以上がそうだ。彼女たちもまた「男に心を許したら裏切られる」という警戒心を持ちながら、それを隠して生きている。 それもそうだ。会う男はみんな「愛してる、好きだ」と言うのだが、すぐにその男はあっちこっちの女性に同じことを言って回っていることに気付くことになる。 さらに、「愛してる」と言いながら「金を払ったのだから、あれをさせろ、これをさせろ」と要求し、欲しいものを手に入れたら急に関心を失って消えていく。 そんな男と何百人と出会って、それでも純真に目の前の男に警戒心を抱かないのであれば、そちらの方が危険だ。そういう素朴な女性も稀にいるのだが、とても危険に見える。 社会の裏側に堕ちたら野生動物のように生きるべき
基本的に夜の世界に生きている人たちは、男も女も裏切られるのを前提にして相手と付き合い、常に警戒心を解かない。 下手に誰かを信じたら裏切られたときに大きなダメージを受けるので、アンダーグラウンドに生きる人間はみんな根深い警戒心を他人に持って生きるしかない。 その世界に長くなれば、骨の髄まで他人に対する警戒心が叩き込まれる。それくらいでないと生き残れないからだ。裏側に堕ちたら、野生動物のように生きる必要がある。 野生動物は、ペットの動物と違って激しく強い警戒心を持って生きている。警戒心がなければ自分が他の動物のエサになったり捕獲されたりするからだ。 警戒心は野生動物にとっては生き残るための重要な「心構え」なのである。 「野生の王国」は、端的に言えば弱肉強食だ。 うかうかしていると他の動物に殺される。誰がいつどこで不意に自分に襲いかかってくるのかまったく分からない。すべての生き物は自分にとって敵である。 だから、野生の動物は身を潜めて暮らし、自分以外の生きているものすべてに警戒し、誰も信じないことで生き残る。 「危険な状況の中で生き残る」というのは、すでに多くの生物が本能で身につけている。その本能は、大きくまとめると、次の5つに分類される。 (1)慎重になる。 (2)危険を避ける。 (3)警戒心を持つ。 (4)危険を察知する。 (5)危険から逃げる。 基本的に、野生の世界では最大限に警戒心を発揮して、何かあったら「逃げる」ことを優先している。見知らぬ敵に雄々しく立ち向かうのではない。「逃げる」のである。 基本的に、野生の世界では最大限に警戒心を発揮して、何かあったら「逃げる」ことを優先している。見知らぬ敵に雄々しく立ち向かうのではない。「逃げる」のである。
警戒心を張り巡らせ、誰も信じないことで生き残る
世間の裏側で生きていると、社会からのけ者にされるし、誰も信用できないし、助けてくれる人もいないので、野生のまま生きているも同様だ。 だから表社会の人間を参考にするより、むしろ野生動物の生き方を参考にした方がいいのかもしれない。 たとえば、野生の世界では、油断してケガをしても誰が治療してくれるわけでもない。 ほんの小さなかすり傷でも致命傷になりかねない。野生動物はそんな中で生きているわけで、慎重になり、警戒し、基本的に無用な戦いをするよりは逃げるのは当然である。 社会の裏側は牙を剥く野蛮な人間が山ほど存在し、しかも信じられないほどの手練手管で他人を騙す人間がうようよと這い回っている。切羽詰まって何をするのか分からない人間もいる。 そんな中では、ちょっとしたトラブルでも致命傷になりかねない。どうするのか。やはり、野生動物と同じように慎重になり、危険を避け、警戒心を持ち、マズいと思ったら戦うよりも「逃げる」ことを優先する。 戦っていいのは、完全に相手を仕留められると分かっているときと、戦わなければ自分が死ぬときだけだ。 ドラゴンと戦うのは合理的ではない。避けられるのであれば避けて通るのが合理的である。 トラブルに巻き込まれて解決するのも合理的ではない。トラブルは最初から避けるのが合理的なのである。野生動物はそのように生きている。 表側の世界で生きていけなくなって裏側で生きるしかなくなったのなら、より慎重になるべきだ。慎重になることで致命傷を負うことがなくなるので、生き残れる時間が長くなり、その間に実を得ることもできるようになる。 野生動物のように警戒心を張り巡らせて、誰も信じないことで生き残れる。 表側の世界で生きていけなくなって裏側で生きるしかなくなったのなら、より慎重になるべきだ。野生動物のように警戒心を張り巡らせて、誰も信じないことで生き残れる。 https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170708T0429250900.html
▲△▽▼ 人間社会は、順応できない人間をどのように淘汰するのか? https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170615T0339220900.html 元々、自分勝手で粗暴でうまく生きられない人間がいる。人の言うことは一切聞かず、無理に押さえ付けると激しく怒りを吐き出して暴れる人間がいる。 他人に指図されるのが心底嫌いで、しかも自分以外の人間を人間とも思わない。そのため、平気で暴力をふるい、暴言を吐き、裏切り、足蹴にする。約束も守らない。気に入らないとすぐに相手を恫喝する。 態度も悪く、口の利き方も横柄で、わざと相手を怒らせたり、物を壊したりする。世の中には、そのようなタイプの人間が一定数どこの国にも存在する。 こうした人間は表側の「組織」に馴染めないので、早い段階でドロップアウトしていく。表社会には、彼らの居場所はどこにもない。まったく共生できないのである。 表社会にいられないのであれば、裏社会にいくしかない。 ここで言う裏社会というのは、もちろんギャングだとか、暴力団だとか、マフィアだとか、そのような「組織」が支配する世界である。 ところで、こうした裏側の「組織」にも上下関係もある。 課される仕事もあれば、守らなければならないルールもある。自分勝手で粗暴で平気で他人を裏切る人間を、こうした裏社会の組織はどのようにしてまとめているのか。 なぜ、こういった極端なシステムが必要だったのか
暴力的で、横柄で、人を人と思わない人間たちを、裏社会の組織は大量に吸収する。表社会の「組織」に馴染まない人間を、裏社会の「組織」はどんどん飲み込んでいく。 いったい、表と裏では何が違うのか。人間関係の構築ができないはずの人間を、裏の「組織」ではどうやって、組織に馴染ませたのか。 それは、「裏切れば死ぬ」という究極のルールによって、組織に従わせている。明確な上下関係とルールを課し、意図的に裏切れば殺し、ルールを破れば制裁する。 それによって「組織」に馴染まない人間を組織に馴染ませているのである。 こうした裏社会の組織は、だいたい「一度入ると抜けられない」世界となっている。また、表社会以上に結束を大切にし、上下関係も非常に厳しく、人間関係をガチガチに拘束する。 すべて、「裏切れば殺す」という厳格なルールの元でそれは行われる。 組織を裏切ったら殺す。裏切らないように、最初から独特の刺青を入れさせることもある。そうすれば途中で改心しても、その独特の刺青のせいで表社会に戻ることができない。組織以外に受け入れてくれる場所がないように仕向ける。 なぜ、こういった極端なシステムが必要なのか。 それは、基本的に彼らが勝手に人間関係を断ち切る気質があるからだ。本来は組織活動に向いていない人間を無理やり組織化するために考えられたのがこのシステムなのである。 基本的に、裏切る気質を持った人間たちの集まりなので、彼らは、個人の意志など最初から重視していない。裏切る前提で「裏切れば殺す」というルールを課している。 裏社会は「必要なときには人間はすぐに裏切り、自分の都合で関係を切ってくる」と達観していることが分かる。 南米で有名なギャング組織マラ・サルヴァトルチャ。アメリカにも進出している。 裏社会の組織が「淘汰」の仕事を請け負っていた
では、この裏社会の厳格なるルールにも馴染めないほど自分勝手な人間はどうなるのか。 そもそも、そんな人間はいるのか。 もちろん、いる。世の中は死の恐怖でもってしても組織に馴染めない極度の自己中心的性格の人間がいる。そういった人間はどうなるのか。 一言で言うと、「淘汰」される。 裏社会では「組織を裏切った者は死ぬ」というルールが徹底されているのだから、見せしめに殺されるのが、このタイプの人間になる。 どこにも馴染めない者は、もはや社会で生きていくことは不可能なのだから、遅かれ早かれ「淘汰」されることになるのは必然なのだ。 ちなみに一匹狼は、やや特殊だ。 一匹狼は表か裏のどちらかの社会にきちんと馴染むことができており、その上で必要に応じて社会と孤立を行き来しているので、どちらも弾かれて行き場を失った人間ではない。 どちらからも距離を置いて生きているだけで、排除されているわけではないのである。 「淘汰」されるのは、表社会でも受け入れられず、裏社会でも自己中心的性格ゆえに裏切ってしまう人間である。「淘汰」とは文字通り殺されることである。 表にも裏にも居られないのだから、社会から完全に消される。幸か不幸か、凶悪犯罪を起こして刑務所に長期間隔離されることもあるが、それも社会的に言えば抹殺されたのと同じようなものだろう。 このように考えると、人間社会でもそこに順応できない人間を「淘汰」しながら成り立たせている社会であるというのが分かるはずだ。 裏社会の組織が「淘汰」の仕事を請け負っていた。 なかなか気付かないことだが、社会の「異物排除」はそのようにして自然に回っている。 こうしたギャング集団の独特の刺青は、途中で改心してもその独特の刺青のせいで表社会に戻ることができない効果がある。組織以外に受け入れてくれる場所がないように仕向ける。 https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170615T0339220900.html ▲△▽▼
地獄から這い上がれない人間にも捨て身の夢の叶え方がある https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170625T0327440900.html 「面白おかしく好きに楽しく生きたい」と誰もが考える。しかし、それでも私たちは自分自身にブレーキをかける。 朝は眠いのに早く起きて、面白くも楽しくもない仕事をして、本当に食べたいものも食べず、アルコールもちまちまとセーブし、まわりに気兼ねしてタバコも吸わず、健康を害すると言って暴飲暴食もしない。 欲しいものがあっても我慢し、借金をしたら後で首が絞まると言われるので我慢に我慢を重ねる。どこか旅行でもして、リゾート地で開放的に遊びたいと思っても有休も取れず、ひたすら我慢するだけで生きる。 責任、節約、自制、継続を強いられて、ただの一度もやりたいことをしないで日々、流されていく。 「好き放題して生きたい」と思っても、自分に課せられた責任はたくさんあって、自堕落に無軌道に乱脈に生きられない。ずっと耐えて、耐えて、耐えながら生きていく。 「この地獄から抜け出すにはどうすればいいのか」と真剣に悩みながら考える人もいる。やりたいこともできずに耐えて生きる人生を終わらせて「面白おかしく好きに楽しく生きたい」と夢想する人がいる。 非常に逆説的なのだが、たった「1つのもの」をあきらめれば、それは実現できる。 「面白おかしく好きに楽しく生きたい」はすぐ叶う
何をあきらめれば「面白おかしく好きに楽しく生きたい」が実現できるのか。 それは「自分の命」である。 生きることをあきらめる。自暴自棄になり、いつ死んでもいいという決意をすれば、すぐに「面白おかしく好きに楽しく生きたい」は叶う。 これは冗談で言っているわけではない。実際に貧困国の貧困地区では、自暴自棄になって好きにやって「太く短く生きている」人が大勢いる。 貧しい中でも真摯に生きようとする若者がいる一方で、本能に流されるように死に急ぐ若者も出てくる。 もう何もやっても自分が社会の底辺から抜け出せないと分かったら、いったいなぜ生きることに未練をもたなければならないというのか。 だから、貧困国の貧困地区の貧困の両親の元に生まれた若者たちの少なからずは無軌道にセックスし、ドラッグに溺れ、暴れ、さっさと死んでいく。 もう這い上がれない運命だと悟ったとき、自暴自棄が生まれ、「面白おかしく好きに楽しく生きたい」が優先されてそれを実現する。 自暴自棄は、「面白おかしく好きに楽しく生きたい」を叶える感情であり、動機である。 これを逆に言えば、自暴自棄になって自分の命がどうでもいいという気持ちに到達すれば、酒、たばこ、セックス、暴飲暴食、借金を好き放題することができるようになるということでもある。何だってできる。社会を破壊することさえできる。 もう自分の人生にも行動の結果にも責任を持たないで済むのだから最強だ。自分の人生は好き放題になる。人生を投げ出すのだから早死にするが、どのみち生きていても社会の底辺を這い回る人生しかないのだ。 自暴自棄になって、生きることをあきらめれば、その瞬間から「面白おかしく好きに楽しく生きたい」は現実のものとなるのである。 もう何もやっても自分が社会の底辺から抜け出せないと分かったら、いったいなぜ生きることに未練をもたなければならないというのか。だから、貧困国の貧困地区の貧困の両親の元に生まれた若者たちは無軌道にセックスし、ドラッグに溺れ、暴れ、さっさと死んでいく。 「気持ちの中では自分は死んでいる」という状態
誰も指摘しないこの奇妙な自己実現のパラドックス(矛盾)は、私はずいぶん早いうちから気付いていた。 なぜなら、私は二十歳の頃から貧困地区に沈没して、何も持たないはずの彼らの方が「自己実現」を成し遂げているのを目の前で見てきたからだ。自暴自棄になれば、「やりたいことを何でもしたい」という夢が実現するのである。 自暴自棄は幸せな状態ではないことは私たちは知っている。 しかし、それは向上心や生の執着がまだあるからそう思うだけで、どん底まで堕ちてすべてを失ってしまうと、今度は自暴自棄が心地良くなるという不思議な心の転換が起きる。 なぜ、そうなるのか。 それは、もう「努力しなくてもいい」「死んでもいい」という、開き直りの解放感が生まれるからだ。「自分の命」をあきらめれば、皮肉なことに今の楽しみを追求できる。 向上心を捨ててとことん敗者になり、そこに自暴自棄が重なると、死ぬほどアルコールを飲んでも問題ない。もう開き直って、「どうせ死ぬ」のだから、いくらでも飲める。歯止めが消えてしまうのである。 あるいは、好きなだけドラッグに溺れることもできる。依存症になろうが、中毒症状が出ようが関係ない。オーバードーズ(摂取過剰)で死んでもいいのだ。もう気持ちの中では、自分は死んでいるからだ。 自暴自棄になって人生を捨てたのだから、結果に責任を持たなくてもいい。むしろ、早く致死量に達して、死んで行きたいと考えているので、いくらでもエスカレートすることができる。 自暴自棄が奇妙な明るさを生み出すのは、それが理由だ。 人生を投げて、「もう死んでもいい」と思ったら、いくらでもアルコールを飲み、いくらでもタバコを吸い、いくらでも暴飲暴食をすることができる。 性病もエイズも恐くない。もう、自分がどうなろうと、相手がどうなろうと責任を持たない。だから平気で無防備なセックスができる。 金がない? 金がなければあちこちから大量に限界まで借りればいい。どうせ死ぬのだから返すことすらも考える必要はなくなる。強盗や殺人で奪うことすらもできるのだ。 好きなだけドラッグに溺れることもできる。依存症になろうが、中毒症状が出ようが関係ない。オーバードーズ(摂取過剰)で死んでもいいのだ。もう気持ちの中では、自分は死んでいるからだ。 地獄から這い上がれない人間は、そこで夢を叶える
もちろん、この「自暴自棄による夢の叶え方」は、誰も勧めることもないし、教えることもないし、表社会の偉い人たちにとってはおぞましい考え方に違いない。 それは、禁断の考え方であり、社会の秩序と平和を乱すタブーであり、許しがたいものだからである。確かにそれでやりたいことは何でもできるはずだが、ほんの短期間の線香花火のような夢の実現でしかない。 この「自暴自棄による夢の叶え方」を決断したら、恐らく1年は持たないで死んでいくことになるだろう。それは「緩慢なる自殺」と言っても過言ではない。 しかし、社会の底辺で這い上がることすらも許されないまま人生を送らなければならない人たちの中には、ごく普通にそうした選択をしているということに気付かなければならない。 それは、アンダーグラウンドで生き、何も持たず、誰からも期待されず、社会から疎まれている人間たちの、せめてもの慰めでもある。 彼らも最初から自暴自棄であったわけではない。しかし、どんなにあがいても、もがいても、這い上がれないと分かったとき、人はどこまで向上心を保てるのだろうか。 努力が尊いのは誰もが分かっている。しかし、どれだけ努力をしても這い上がれないと分かったとき、人は根の深い怒りと共に、這い上がることをあきらめる。 「無駄な努力」は止めて、もうどうなっても良いという自暴自棄に陥って、一切の努力を止めてしまう。 その瞬間、自分を虐げていた社会の中で、やっと好きなだけ飲んで食べて歌って踊ってセックスをしてドラッグをして、束の間の幸せを感じることができる。 行き着く先は「死」であることは分かっている。だから何だと言うのだろう。貧困層で生まれる捨て身の生き方と自暴自棄による夢の叶え方は、誰も「こんな方法がある」とは教えないものだが、社会の底辺では受け継がれている。 地獄から這い上がれない人間は、地獄の中で「面白おかしく好きに楽しく生きたい」をたった1度の短い間だけ捨て身で叶えるのである。 行き着く先は「死」であることは分かっている。だから何だと言うのだろう。貧困層で生まれる捨て身の生き方と自暴自棄による夢の叶え方は、誰も「こんな方法がある」とは教えないものだが、社会の底辺では受け継がれている。 https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170625T0327440900.html ▲△▽▼ 生活を落としても生き残る「したたかさ」を身につける方法 https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170627T0353560900.html 現在よりもダウングレードした環境で生き残らなければならない状況に、私たちはいつでも陥る可能性がある。 経済的に困窮すると、生活をダウングレードしなければならない。あるいは国外に出ると、日本よりも格段に経済レベルの落ちた環境を受け入れなければならない。 生活をダウングレードすると何が待っているのか。それは、今よりも清潔度が落ちる環境だ。 なぜそうなのかは逆に考えれば理解できる。不潔な状態というのは誰にとっても快適ではない。だから経済的に豊かになると、まず「清潔さ」を手に入れようとする。 自分自身も薄汚れた服を捨てて清潔な服に買い換える。自分自身をも清潔にしたいので、シャワーや風呂が付いている場所に引っ越す。引っ越し先は、今よりもきれいな場所になる。清潔さが快適だからだ。 清潔さを維持するには金がかかる。しかし、それは金を払う価値があると誰もが知っている。だから、生活のアップグレードは清潔さの追求になるのである。 逆に言えば、ダウングレードは「清潔さ」を失うということだ。ということは、生活をダウングレードするために必須となるのは、今よりも清潔ではない環境を受容できる精神力であると言うこともできる。 清潔さが当たり前に思っていると質が落とせない
どこの国でもいい。外国を巡って日本に降り立つと、真っ先に感じることがある。それは、日本という国は、とことん「清潔」であるということだ。 清潔と言えば、シンガポールも負けていない。しかし、そのシンガポールを上を行く「清潔さ」を、日本という国は持ち合わせている。 しかし、この「清潔」を失いたくないという気持ちのままでいると、不潔な環境を受容できる精神力が弱ってしまい、生活をダウングレードしても生き残るしたたかさが弱る。 わざわざ不潔を好む必要はないし、日本社会を不潔にしろと言っているわけではない。清潔を追求する日本社会は世界でも稀に見る美しい文化を生み出している。それは誇るべきだ。 しかし、その清潔さにどっぷりと浸ってそれが当たり前のように思っていると、生活の質を落とさなければならない局面で気持ちが折れる。 地を這って泥水を飲んでも生き残る強さやしたたかさは、まずは清潔ではない環境でも生き残れる耐性を必要とする。 だから、清潔である環境を当たり前と思うのは若干、危険なことではある。 経済的に困窮したときや、人生の下降局面で生活のグレードを落とさなければならないときに、それができない。気持ちがどうしても対応できないからだ。 そうしているうちに、もっと悪い環境に落とされて大きな精神的ダメージを受ける。 いざとなったら自ら生活をダウングレードして平然と生きていける人は強い。 どんな環境でも生き残れる人というのは、今より清潔さの劣る環境に放り込まれても、それに対して耐性を持っているということでもある。 不潔を気にしていたら、海外では生きていけない
日本は世界でも有数の「清潔国家」だ。ということは、日本人が海外に出ると、だいたいは日本よりも劣る清潔環境に直面するということになる。 海外では欠けた皿、ガタガタのテーブル、埃が舞い、ハエが飛び交う中の食事など、どこでも当たり前にある。コップの底は水垢で黒くなっているようなものも使われている。 食べ物に虫が入っていることさえある。 日本ではそんな不潔なものは、すぐに撤去されてしまうだろう。インターネットに書き立てられて大批判にさらされ、店じまいを余儀なくされるはずだ。 東南アジアやインドの安宿は日本の環境で言えば、想像を絶する不潔さである。 ベッドはすでに前の人の汗の臭いがすることもあれば、シーツをまくればトコジラミが棲息している跡がびっしりと残されていることもある。 (トコジラミ。部屋に入ったらベッドのシーツをまくって裏を見ろ) https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20120914T0045320900.html 剥がれた壁、埃とゴミだらけの床、カビだらけの浴室、這い回る虫、天井から落ちてくるヤモリ、水道の蛇口から出てくる茶色の水……。
海外ではそんなものは普通なのである。 そんなことをいちいち気にしていたら、生きていけないというのが実情だ。 繰り返すが、「清潔」であることが悪いとは誰も言っていない。清潔であることは素晴らしいことだし、誰でもそれは認める。 しかし、限りない清潔さを求め、それを法律化し、少しでも規則が破られれば大騒ぎしていると、社会は清潔になるだろうがそれによって失うものもかなりある。 それでもなお生き残る「したたかさ」を身につける
あまりに清潔さを追求してばかりいると、社会はおおらかさを失い、柔軟性を失い、清潔さのためにコストばかりがかかる世の中になってしまう。 野菜に土がついていたら苦情、虫がついていたら苦情、少しでも傷んでいたら苦情、色や形が揃っていなければ苦情……と万事がその調子でやっていたら、その分だけ製造も管理もコストがかかって大変なことになる。 清潔さを維持するにはコストがかかるのだ。 すべての商品にそうした厳密な清潔さを求め、そこに法規定まで重なると、清潔さは格段にアップするかもしれないが、社会の柔軟性は極度に悪化する。 これは、海外に長くなった人が日本に帰ってきたら誰もが口にすることだ。 「日本は何か息が詰まる」 「日本はみんな縛られているように見える」 日本人の清潔志向が行き過ぎると、自ら生きにくい社会を作り出すことになってしまう。日本人自身が「自縄自縛のワナ」にかかってしまうのだ。 さらに悪いことに、その清潔さに子供の頃から慣れてしまうと、今度はそれより劣る環境に対する耐性が持てなくなる。無理やりそこに放り込まれると、激しい失意や恐怖に陥る。 社会が清潔になりすぎると、今よりもレベルの落ちた環境を不潔に思い、精神的に対応できなくなってしまうのである。その気持ちが人生の困難なときに訪れる生活のダウングレードを難しくする。 どうすればいいのか。 生活を落としても、どん底に堕ちても、社会がめちゃくちゃになっても、国外の貧困地区に堕ちても、それでもなお生き残る「したたかさ」を身につけるには、そうした世界を最初から知っておけばいい。 どこかで最初から体験しておくのである。若いうちは安い地区の古いアパートから始めるのもいいし、そうでなければ積極的に海外に出てみるのもいい。 知らないのと知っているのとでは、その許容度はまったく違う。貧困から這い上がってきた人が精神的に強いのは、また落ちたとしてもその世界自体を知っているからである。 知っていれば恐怖はないし受容も早い。 何らかの不運が重なっていったん落ちても、素早くダウングレードした生活に馴染んで、そこから這い上がる方向に集中することができる。 世の中、何が起きるのか分からない。今よりも悪いことも必ず起きる。いつでもダウングレードできる人間は、できない人間よりも生き残れる強さを持つ。 今の清潔さを失っても問題ないと言って生きていける人は、したたかだ。 あいりん地区の安宿の廊下。世の中、何が起きるのか分からない。今よりも悪いことも必ず起きる。いつでもダウングレードできる人間は、できない人間よりも生き残れる強さを持つ。 https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170627T0353560900.html ▲△▽▼ 他人に対する共感力がまったくない男が、なぜか女性に好かれる理由 │ ダークネス:鈴木傾城 https://bllackz.com/?p=4636 「良心」や「道徳観念」というのは、学習すれば身につくと私たちは考える。 ところが、脳機能の変調や大脳皮質の問題や遺伝によって、どうしても「それが身につかない人間」もいる。こうした事実は、脳スキャン研究の結果として明らかになりつつある。 大脳の「鉤状束」と呼ばれる連合線維が未成熟な場合、感情のコントロールがうまくできなくなることが知られている。 あるいは、セロトニンと呼ばれている三大神経伝達物質の分泌が遺伝的に少ない場合も問題行動を起こしやすい。 こうした状況の人間は、どんな素晴らしい環境を用意されても、どんな愛情を注がれても、どんな注意深いしつけが為されても、どうしても「良心」や「道徳観念」が身につかないことが多い。 それは外見的にはまったく分からないのだが、間違いなく脳の疾患なのだから、学習で変えることができない。だから、こうした人間が幼少期から問題行動を引き起こしてまわりの人々の悩みの種となっていく。 こうした人間を「反社会的人格障害」と呼ぶ。世界人口の1%は反社会的人格障害であると言われており、それは決して少ない数ではない。(鈴木傾城) ▲△▽▼
私たちは「化け物」なのだが、それを隠して人間として振るまっている │ ブラックアジア:鈴木傾城 https://blackasia.net/?p=8264 私たちが今住んでいる世界は「異世界」である。そして、私たちは異世界で生きるために「変化=へんげ(メタモルフォーゼ)」している。オカルトの話をしているのではない。現実の話だ。 あなたも、もちろん「メタモルフォーゼ」している。そして、私たちが見ている他人は「現実の人間」ではなく、「メタモルフォーゼした姿」だ。 分かりやすく言うと、私たちは誰も他人に自分の真の姿を見せずに生きており、逆に私たちは他人の真の姿を知らないまま暮らしている。 もしかして気がついていないかもしれない。しかし、無意識の中で、私たちは「自分の本性」を絶対に他人に見せまいと決意している。 あなたも「自分の本性」の裏を他人にのぞかれないように必死で隠して耐えている。のぞかれないように「メタモルフォーゼ」しているのだ。 まわりにいる人たちは全員、そうやって生活している。誰も相手のメタモルフォーゼ前の姿を知らない。だから、この社会は「異世界」なのである。 ▲△▽▼ 日本人は、人間関係を壊してはいけないという刷り込みが強い 2013-01-04 日本で不文律のように言われていることがある。それは 「人間関係は維持しなければならない」
「どんな人間関係でも、それを壊すと自分が困る」 というものだ。日本人は農耕民族なので、協調性も非常に重要視されており、どうしようもない人間とも嫌々付き合わなければならないとも言われている。
「世の中、誰もが好きな人間とだけ付き合って生きていけるほど甘くない。ときには嫌な人間とも付き合わなければならないのだ。我慢しなければならない」
日本人は昔は「村」の人間関係から逃れられず、今は「職場」の人間関係から逃れられない。だから、自分の我を出すのは非常に嫌われ、子供の頃から「我慢」と
「孤独な人間には価値がない」
と徹底的に刷り込まれていく。日本人は、
「人間関係を壊してはいけない」
という刷り込みが、極度に強い社会なのだ。
金を失い、時間を失い、平常心も失ってしまう
嫌われたら「村八分」される。村八分されたら生きていけない。だから、日本人は仲間はずれにされたり、孤独にされるのを非常に恐れており、孤独にも恐怖を感じる人も多い。はた目から見ると、人間関係の強迫観念にとらわれているかのようにも見える。社会がそれを強制している。だから、日本人は、仲間はずれにされないように他人に合わせるようになり、主張することもできず、何でも流されるように受け入れてしまう。 夜の街、歓楽街、欲望の街、売春地帯では、これが致命傷になる。手練手管に長けた女性や、自由奔放でまったく他人のことを考えない女性に、とことん振り回されるのである。 相手に不満があっても、流されるように受け入れ、そのために、どんどん金を失い、時間を失い、平常心も失ってしまう。そうなってしまっても、相手を切れず、利用され、カモにされ、踏み台にされる。 怒ったり、たしなめると、 「本当はあなたを愛してる」
「次からはきちんとする」 と答えて反省するが、しばらく経つとまたもや同じことを繰り返す。こういった女性は、他の男とトラブルを起こし、社会的なルールを守らず、金銭トラブルを起こし続けるのである。それでも、切れずに、ずるずると付き合って行く。人間関係で、「流されている」典型的な例である。
売春地帯では、日本人が束になっても敵わないほど奸知に長けた恐ろしい女性もいて、セックスをエサに男を破滅させる光景を山ほど見る。売春地帯で男が飛び降り自殺したり、自棄になって女性を殺害したりする事件が多発している。時には最悪の事件を起こす男もいる。日本人に多いのは 「ずっと貢がされる」
「断り切れなくて金を毟られる」 「次々とタカられる」 というものである。
詐欺で逮捕されたタイ女性。外国人を手玉に取って騙すような女性は、どこにでもいる。
流される人間関係が致命傷になってしまう
フィリピンでも、タイでも、ずるずると金を毟り取られる一方の男が山ほどいて、すべて奪われたら大使館前に「捨てられる」ような男もいる。すべて毟り取られて乱射事件を起こす男もいる。 なぜ、そうなるまで関わってしまうのか。ここに、人間関係で我慢し、村八分を恐れ、人間関係を切ることができない日本人の「刷り込み」を見ることができる。日本社会が日本人に強要している「刷り込み」とは、 「我を殺して協調性を重視する」
ことと
「ノーと言って人間関係を壊してはいけない」
というものだ。日本人の多くは子供の頃からそれを「刷り込まれている」ので、まったく意識していないが、だから危険なのである。過度に協調性を意識すると、それを良いことに、ずるずると利用され、タカられ、毟り取られていく。
東南アジアで女性ひとりと知り合ったら、その女性の友人や家族や親戚が次から次へと出てきて、当たり前のように、毎日のようにタカられる。 日本人は、それに強烈な不満を感じても、決してそれを口に出さず、ただ耐えて耐えて耐え抜いて、タカられるがままになる。それに何とも思わないで溶け込める人間ならいいのだが、最後に爆発して事件を起こすのであれば、最初から人間関係は遠慮なく切り捨てるほうがいい。日本から一歩出ると、むしろ「人間関係の切り捨て」ができるようにならないと、どうしようもなくなってしまう。特に、アンダーグラウンドではそうだ。流される人間関係が致命傷になってしまうのである。 自分のためにならない人間関係は、容赦なく切る
裏社会(アンダーグラウンド)は、常に表社会とは、逆のルールが作用している。 愛は表社会では正しい感情。 愛は裏社会では間違った感情。 信じることは表社会では正しい感情。 信じることは裏社会では危険な感情。 疑うことは表社会では嫌悪されること。 疑うことは裏社会では重要なこと。 何もかもが、表社会と裏社会ではそっくりそのままひっくり返っていて、表社会のルールで裏社会を泳ぐと、たちまちのうちにカモにされてしまう。 特に日本人は、自分の我を出すのは非常に嫌われ、子供の頃から「我慢」と「孤独な人間には価値がない」と徹底的に刷り込まれているので、世界中どこでもカモだ。カモにされても、気がつかないほどだ。 そこから逃れるには、 自分のためにならない人間関係は「容赦なく切り捨てる」
「ノーと言う」 「付き合えないと言えるようにする」 べきなのである。あなたのためにならない人間関係は、長く生きていると必ず出てくる。単に、群れるための人間関係、流されてできてしまった人間関係、我慢しているだけの人間関係、自分をダメにしてしまう人間関係、破滅が目に見えるだけの人間関係……。
そんな人間関係を強いる人間が、必ずあなたの目の前に現れる。特に海外では「友達」を押し売りする男と、「愛」を押し売りする女が、高確率で現れる。そのときに、人間関係を切れるかどうかが命運を分ける。悲劇を避けるためには、一刻も早く、日本社会特有の「刷り込み」から脱して、「悪い人間関係を切る」経験を積まなければならない。 大切にしなければならない縁と、容赦なく切らなければならない縁を見極めて、切るべきものは早めに切るべきだ。 重荷になっている人間関係に囚われてはならない。日本社会特有の「刷り込み」から脱して、悪い人間関係を切る。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130105T0000060900.html
▲△▽▼ 世の中では何をしても嫌われる、世の中の人間の 9割 はどうしようもないアホ 「誰にも嫌われないこと」を重視して生きるのは危険なこと アメリカ人はイスラム教徒に嫌われる。イスラム教徒はキリスト教徒に嫌われる。キリスト教徒は共産主義者に嫌われる。共産主義者は資本主義者に嫌われる。富裕層は貧困層に嫌われる。貧困層は富裕層に嫌われる。
テロリストは全世界に嫌われる。しかし、助けに来たアメリカ軍は、他国に介入したとして嫌われる。 軍人は平和主義者に殺人鬼と罵られて嫌われる。平和主義者は夢想家だと言われて現実主義者に嫌われる。現実主義者は宗教心がないと宗教家から嫌われる。保守派は左翼に嫌われる。愛国者はグローバリストに嫌われる。 ありとあらゆる国で、国民は隣の国の人間を嫌う。国民は国民で、何重にも割れて互いに相手を嫌い合う。考えてみれば、なかなか悲惨な世界だが、これが人間社会の実態でもある。 つまり、私たちは何をどうしても、他人に嫌われる運命にある。ただ道ばたに立っているだけでも嫌われてしまう。どんな生き方をしても、何を言っても言わなくても、他人に嫌われない生き方はない。 私たちは存在してるだけで誰かに一方的に嫌われる。どんなに品行方正であっても、どんなに愛すべき存在であっても無駄だ。この世で嫌われない人間はどこにもいない。 この世の中は、何もしても嫌われるのが現実だ
嫌われないことを考えて生きるのは立派に見える。しかし、それは基本的に報われることはない。誰にも嫌われないで生きるのは不可能だからだ。 別に無理して嫌われる必要はないが、何をしても嫌われるのが現実なのだから、そんなものを重視して生きると100%失敗してしまう。 他人に媚びても、結果的には何も得られない。媚びることが嫌われるからだ。他人に同調しても、それが自分の本意でないのであれば自分で自分を壊してしまう。 嫌われたくないために他人に謝罪なんかしてしまうと、足元を見られて「もっと謝罪しろ、賠償しろ、誠意を見せろ」と恐喝されることもある。 誰でも人間関係を円滑にしたいと思う。しかし、嫌われたくないと思うが故に自分が折れると、自分の立場を悪くするだけである。自分で自分の首を絞めることになる。 何らかの意見を言えば必ず嫌われる。どんな意見でも、その意見と対立する意見が必ずあるからだ。逆に意見を持たなければ持たないで嫌われる。意見を持たない人間は愚かだと思われ、愚かな人間は本能的に嫌われるからだ。 立場を築くと必ず嫌われる。どんな立場でも、その立場を嫌っている人が必ずいるからだ。立場を築かない人も嫌われる。立場も築けないほど実力のない人間だと思われるからだ。 若いと若いがゆえに嫌われる。歳を取れば歳であるがゆえに嫌われる。男であれば男だから嫌われる。女であれば女だから嫌われる。 目立つと目立つというだけで嫌われる。嫌われないように目立たない生き方をしても、その生き方自体が姑息だと言われて嫌われる。 何をしても嫌われるのだ。そんな社会で私たちが生きるためには、誰もが最後に同じところへ落ち着いていく。 それは「嫌われることを恐れない」ということだ。 何をどう言っても、他人に理解されないのが現実
「嫌われることを恐れない」と言っても、誰かの悪口や罵詈雑言を恐れずに言い回ってもいいというわけではない。わざわざ他人に嫌われることを進んでする必要はない。 私たちは自分が心地良く生きるために、ある程度の常識や良識を持って生きなければならない。 しかし常識や良識を持って生きたとしても、嫌われることは最初から受け入れておく必要がある。どんなに常識や良識を持っても、それを持っているが故に嫌われるのだ。 分かってもらおうと思ってはいけない。徒労に終わる。相手は説得されることを望んでいないからだ。理解してくれる人もいるかもしれないが、理解してくれない人もいる。 理解してくれない人は、それがいかに理路整然とした正論であっても絶対に耳を傾けない。 なぜ分かってくれないのかと、隔靴掻痒の気持ちになることもあるかもしれない。しかし、世の中は何をどうやっても交われない人間が存在するのは誰も否定できない事実だ。 自分とはまったく逆の世界観を持つ人も多い。同じ人間であっても、同じ言葉を話していても、そこに横たわる溝は限りなく深い。 だから、自分を嫌い、何を言っても理解してくれない人がいるからと言って、落ち込む必要もなければ激怒する必要もない。 また、そういった人たちにひどく嫌われているからと言って、それを気に病む必要もない。媚びる必要もなければ、理解してもらう必要もない。 大人になればなるほど、意見を持てば持つほど、地位が上がれば上がるほど、有名になればなるほど、反対するために反対している人たちと山ほど遭遇することになる。 つまり、私たちは何をやっても批判され、何を言っても反対され、行いや生き方や主張が正しくても必ず反対者に嫌われるということだ。 嫌われるということ自体は、誰もが経験すること
「誰にも嫌われないこと」を重視して生きるのが危険なのは、それが確実に失敗するのが分かっているからだ。 嫌われる度合いは発言内容な信条や性格によって違う。しかし、どんな性格でも、どんな発言でも、誰かに嫌われることだけは間違いない。 だから、嫌われること自体は別に気にする必要はない。 職場でも、家庭でも、友人関係の中でも、世間の中でも、自分を嫌う人は必ず生まれ、自分の敵が必ず生まれる。私たちはそれに慣れなければならないのだ。 現代のような高度情報化時代になると、多くの人がインターネットで自分を嫌う人を発見することも多い。自分が「受け付けない」と思う人を発見すると同じく、相手もこちらを「受け付けない」と考える。 しかし、それほど気に病む必要はない。それは個人的な問題のように見えるが、本当のことを言えば誰もが経験する普遍的な問題であるからだ。 嫌われるということ自体は誰もが経験することであり、個人的な経験ではないのだ。 気持ちが収まらないかもしれない。潔癖な人であればあるほど、自分が誤解されたり、嫌われたりすることに苦悩する。人間関係の悩みで自殺する人もいれば鬱病になる人もいる。それほど苦しみ抜いたということなのだ。 しかし、マザー・テレサのような聖女さえも批判の対象になるのだから、聖人でも何でもない私たちが、誰かの怒りを買わない方がむしろどうかしている。 だから、誰かに嫌われて気に病むのは無駄だ。私たちが生きている世界は、誰かが誰かを嫌い、批判し、嫌悪し、恨み、排斥し、衝突する世界なのだ。それが現実だ。 そうであれば、逆にこうした世界に早く慣れておく必要がある。特に日本人であれば尚更だ。なぜなら、日本人は日本人であるというだけで、中国・韓国・北朝鮮のような反日国家の人間に嫌われるからである。 嫌われて何か問題でもあるのだろうか。何もない。相手を嫌うことに問題はあるのだろうか。何もない。相手と断絶することに問題はあるのだろうか。もちろん、何もない。 全般的に、蛇は嫌われる。中には蛇を愛する人がいて、この生き物がいかに愛すべき存在なのかを主張したとしても、やはり多くの人は蛇を嫌う。 https://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/01/20180115T1809470900.html
▲△▽▼ 2017-08-11 うまく演じられる人が好まれ、うまく欺ける人が成功する 2000年11月30日に、死刑になって散っていった勝田清孝という男は、日本犯罪史上でも類を見ない「連続殺人鬼」として知られている。 1972年9月には24歳ホステスを殺害し、1975年7月には35歳クラブ経営者を殺害し、1976年3月には27歳ホステスを殺害し、1977年6月には28歳パート女性を殺害し、1977年8月には33歳美容師を殺害した。 犯罪はどんどんエスカレートしていき、1977年12月には銀行職員を殺害して410万円を奪い、1980年7月にはスーパー店長を殺害、576万円を奪うような事件を次々と起こしていた。 1972年から1983年の11年間で22人の人間を殺害したのだが、14件は確証が取れないので、立件されたのは8件だった。 では、この凶悪な連続殺人鬼は何者だったのか。 暴力団関係者だったのか。それとも犯罪者上がりのチンピラだったのか。いや、どちらでもない。 この男の表の顔は「真面目な消防士」だった。 殺人を繰り返している間も、勝田清孝は昼間は真面目で平凡な人間を装っていたので、誰もこの男が凶悪殺人鬼だとは見抜けなかった。 表の顔と裏の顔は、どちらが自分の素に近いのか?
昼間の仕事であった消防士の仕事も非常に真面目で、消防士長になったばかりか、何度も表彰を受けていた。人を殺した1週間後に自分の妻と一緒にクイズ番組にすら出演して「平凡な亭主」を装い続けるという鉄仮面ぶりだった。 この男は「表の顔」と「裏の顔」をしっかりと分けていて、表側には決して裏を見せなかった。 この男は二重人格者だったのだろうか。いや、そうではない。誰でもこの「表の顔」と「裏の顔」を持ち合わせている。 すべての人間は社会生活を営む上で、様々な「顔」を使い分けていると言っても過言ではない。勝田清孝だけではない。私たちもまた「裏の顔」を持っているのである。 では、「表の顔」と「裏の顔」はどちらが自分の素に近いのか。どちらが自分の本音を表しているのか、どちらがリアルの自分なのか……。 冷静に、客観的に考えた時、多くの人は息を呑むはずだ。 なぜなら、誰にも見せない「裏の顔」こそがリアルの自分であり、まわりに見せている「表の顔」がフェイクの自分であることに気付くからだ。 そうなのだ。表側がニセモノなのだ。 「表の顔」は社会生活を円滑に送るために仕方なくかぶっている「仮面」なのである。 心理学者カール・グスタフ・ユングは、これを「ペルソナ」と呼んだ。日本語では「建前と本音」という言葉があるが、ペルソナとはまさに建前のことである。 多くの人は円滑に生きるために本音を隠している。なぜ本音を隠すのか。それは、本音を剥き出しにすることは自分の社会生活を破綻させることにつながるからである。 接客をする人が「お前は手間のかかる奴だ。嫌いだ」と本音を言ったら、その瞬間に仕事を失うはずだ。部下が上司に「お前の指図なんか本当は受けたくない」と本音を言ったら、やはりその瞬間に仕事を失うはずだ。 社会で本音を言うのは一種の自殺行為なのである。だから、私たちは仮面(ペルソナ)をかぶり、建前を話し、「表の顔」を作り上げて生きる。 しかし、あくまでもそれは「演じている自分」であって、本当の意味の自分ではない。 「表側がニセモノ」だ。 裏の顔を巧妙に隠せば普通に生きられるということ
勝田清孝を見ても分かる通り、どんな凶暴な人間でも「裏の顔」を巧妙に隠せば「普通の人」として生きることができる。つまり、ペルソナをきちんとかぶれる犯罪者は、その言動から正体が割れることはほとんどない。 実は凶悪犯罪者が何十年も「表の顔」をかぶって表社会に貢献する事例は珍しくないのである。 シベリアの大地で分かっているだけでも20人以上の女性をレイプして殺し回っていたミハイル・ポプコフという男も「真面目な警察官」という仮面をかぶって生きていた。(ミハイル・ポプコフ。「俺は売春婦を駆除する掃除人だ」) 1985年から2007年までの22年間に渡ってやはり売春する女性を殺し回っていた「グリム・スリーパー」ことロニー・デイビッド・フランクリン・ジュニアという男もそうだ。 「グリム(残虐者)」の「表の顔」は完璧だった。この男は近所では、ボランティアに勤しむ優しい男という評判だったのである。(良き市民と思われた男は、22年間に渡って女性を殺し続けた) 長らく逃亡生活をしている犯罪者の多くはペルソナをきちんとかぶって生きている。 つまり、表社会でごく平凡な人として、目立つことも風波を立てることもなく淡々と暮らしている。 問題を起こすどころか、むしろ積極的に人助けや親切を行って地域社会から頼られていたり、信頼できる人という評判を取っていることもある。 よくよく考えるとそれは別に驚異的なことではない。本当のことを言えば、それは自分もいつもやっていることであることだと感じる人の方が多いはずだ。 人は長い人生の中で、醜悪で過激な本音を静かに隠しながら、本音とはまったく違う建前をうまく演じる方がトラブルなく生きられることを学ぶ。 だから「表の顔」を作って、今の生活が壊れないように努力しているのである。 きれい事だけを言っておけば、かなり成功する
ギャンブルに狂い、借金を膨れ上がらせながらも、表では真面目な計理士を装っている人もいる。 ある日、会社の金を横領して逮捕される計理士の多くは「真面目に勤務していた人なので信じられない」とまわりが驚愕するタイプだ。 妻を愛し、子供を可愛がり、休日にはいつも家族サービスをする優しい父親なのに、家族の目の届かないところで水商売や風俗の女とただれた関係を繰り返していたり、不倫に明け暮れていたりすることもある。 「あんな家族想いの人だったのに信じられない」と妻でさえも現実にショックを受けるほど真面目に見えていた人がその人の正体であることは珍しくない。 あるいは、逆に夫や子供たちにいつも目を配り、家族に無償の愛を捧げている貞淑な妻が、売春ビジネスをしていたり、風俗で働いていたりすることもある。 彼らの「裏の顔」が長らく隠せるのは、言うまでもなく「表の顔」を演じるのがとてもうまいからに他ならない。 そのような目でまわりを見回すと、世の中には奇妙なパラドックスが存在していることが分かってくる。 表社会でうまくやっている人は本当に良い人なのか。本当のところは「表の顔」を演じるのがうまい悪人であり、正体を見せずに生きている「油断できない人」なのかもしれない。 逆に、表社会でうまく生きられずに常に問題を起こしている人は、どうなのか。このような人は、本音をうまく隠せない「素直な人」ではないのか。 表社会は、自分の本音を絶対に言わない悪人を善人として評価している可能性がある。実際問題として「表をうまく演じられる人が好まれ、うまく欺ける人が成功する」というのは事実である。 何のことはない。表社会は善人が評価されるのではない。善人を装うのがうまい人を評価していたのである。だから、表社会でうまく生きたければ、本音を絶対に言わず、きれい事だけを言っておけば、かなり成功することが約束される。 あなたも暗部を抱えているかもしれない。しかし、その醜悪な本音は誰も言わない方がいいのだ。 何のことはない。表社会は善人が評価されるのではない。善人を装うのがうまい人を評価していたのである。だから、表社会でうまく生きたければ、本音を絶対に言わず、きれい事だけを言っておけば、かなり成功することが約束される。 https://www.bllackz.net/blackasia/content/20171212T2007000900.html ▲△▽▼ あなたも、その世界で覚えた生き方や考え方から逃れられない 人はその世界に長く居すぎると、そこに自分の考え方や生活のリズムや習慣が積み重なって、徐々にそれを変えることができなくなる。 そして、気が付けばそれが人生を貫く生き方になる。 たとえば、サラリーマンを10年も続けた人は、その生き方に最適化した人ほどサラリーマンという仕事を止めることができなくなる。 真面目に、そして律儀に、サラリーマンという生き方に馴染む努力をした人は、そうすることで厳しい世の中で生きていくことができた。そのため、いくら「違う生き方もある」と言われても変えられない。 どこの世界でもルールがある。そのルールが無意識にまで染み込んで自分の習性になり、その習性が自分の行動ばかりか無意識の考え方にまで影響を及ぼすのである。 サラリーマンの世界でも、上司にはどのように従うのかとか、どのような挨拶をするとか、顧客対応はどのようにするのかとか、服装はどうするとか、言葉遣いはどうするとか、そういった暗黙知に近いルールが存在する。 それに馴染まないとサラリーマンとして生きていけないというルールが夥しくあって、それに自分を最適化すればするほど生き方や考え方が固定化されて変えられなくなる。 「馴染んだ水からは逃れられない」という意味
「その世界に自分を最適化する」というのは、悪い話ではない。悪いどころか、絶対に必要であり、重要なことでもある。 最適化できないと「まだ未熟だ」と思われる。そしていつまで経ってもその社会のルールに馴染めないと、そこから排除される可能性もある。 たとえば、決められた時間に出勤せず、上司の方針には従わず、挨拶もできないような人がサラリーマンをやっても、評価されることはないし、その世界で生きていくこともできない。いずれ放逐されるからである。 その世界に長くいるためには、できるだけ早くその世界に順応し、その世界のルールを覚え、自分の考え方をその世界に合わせなければならない。 自分がその世界でうまく生きていけるように自分自身を最適化するのだ。 もちろん、それは簡単な話ではない。しかし、だいたい3年もすればその世界に馴染み、さらに長く続ければやがてそれが自分の生き方になる。 10年もその世界にいれば、もはや他の世界には移れないほど順応することになる。その世界のルールが、自分の絶対的な常識と化す。 常識は疑わない。だから、それが自分の生き方になるのである。自分の決断や考え方は、自分が最適化したルールの中で行われるようになり、それ以外の考え方は馴染めなくなる。 いったん自分の生きている世界に馴染むと、ほとんどの場合はそれが自分の人生を貫いて変えられないことの方が多い。 絶対に変えられないわけではないが、「身に付いた生き方」というのは変えるよりも続ける方が馴染むので、それは延々と続いていく。 だから、サラリーマンの世界で生きていた人は、失職しても次の仕事はサラリーマンを探す。そこに最適化されているので、その世界以外では生きていけないように思うからだ。 「馴染んだ水からは逃れられない」というのは、このあたりの事情を指している。その世界に自分の人生が最適化されたら、そこにいくら不満や嫌悪があっても抜けられない。 サラリーマンの世界で生きていた人は、失職しても次の仕事はサラリーマンを探す。そこに最適化されているので、その世界以外では生きていけないように思うからだ。
自分がどこの世界に最適化されたのかを把握する
それと同じで、長く水商売や風俗の世界を生きていた女性も、自らをその世界に最適化させている。 その世界の独自の考え方、習慣、生活スタイル、ルールを自分の潜在意識にまで到達するほど強く自分に課す。そして、その女性はそこから逃れられなくなる。 話し方、しぐさ、相手の見方、接客、セックスの方法、道徳の概念、金の使い方、金に対する考え方のすべてが自分のいた世界に最適化されていく。 だから、いったんその世界にうまく最適化された女性であればあるほど、その世界から抜け出せない。もはや生き方そのものがそこに馴染みすぎて、他の生き方をする自分を想像することすらもできなくなる。 そう考えると、「自分がどこの世界に最適化されたのか」というのを把握しておくのは、非常に重要なことであるということに気付く。 何しろ、あまりにも長くその世界にいて、そこに最適化されてしまっていると、もう「馴染んだ水からは逃れられない」可能性の方が高いからだ。 サラリーマンとして生きてきた人はずっとサラリーマンの発想をするし、事業家として生きてきた人はずっと事業家の発想から抜け出せない。 詐欺師として生きてきた人はずっと「うまくいく詐欺」の発想を考えるし、ギャンブラーとして生きてきた人はずっとギャンブラーの生き方や発想をするし、暴力団として生きた人はずっと暴力団の生き方や発想をする。 たとえ、その生き方が自分の不利益になると分かっていても、すでに潜在意識の域まで生き方や発想や生活習慣が染みついてしまっているので、いったんゼロに戻してイチから自分を構築するというのがなかなかできないのである。 いったんその世界にうまく最適化された女性であればあるほど、その世界から抜け出せない。もはや生き方そのものがそこに馴染みすぎて、他の生き方をする自分を想像することすらもできなくなる。
表にも裏にも属していない完全なる孤独者
自分はいったいどこの世界に最適化されたのか……。 最近、私がそれをよく考えるようになったのは、私自身が売春地帯に最適化された人間で、何をどうしても「馴染んだ水からは逃れられない」という事実を痛感しているからだ。 私は常に他人を信じながらも裏切られることを考えて生きているし、裏切られても絶対に自分が破滅しないように何重ものバリアを張り巡らせている。さらに、国家も政治も組織も他人の意見も何も信じていない。 なぜこんな人間になったのかというと、私の人生の大半は「目の前の人を信じない方がうまくいった」からに他ならない。 真夜中の世界というのはあまりにも海千山千の人間が跳梁跋扈としてうごめいている。そんなところで無防備に他人を信じたら馬鹿を見る。 一緒に過ごして愛を交わした女性ですらも、裏切るし、盗むし、騙してくる。 真夜中の世界では、相手の約束をまともに信じる方が馬鹿を見る。時間さえも守られない。交わした約束は常に破られる。相手の性別すらも分からない。 そんなところに何十年も関わっていたら、「他人を信じないことで自分を守る」という方向に自分が最適化されたとしても不思議ではない。 決して人間不信になっているわけではない。私自身は人間が好きだし、誰かを愛したいし、誰かに愛されたい。しかし、自分の考え方が夜の世界の流儀に最適化されてしまっている。 私はもはや旅人であることを止め、売春地帯に長く沈没することもなくなった。 相変わらず真夜中の世界に生きている女性しか関心がないというのは事実だが、今の私自身は裏側の世界に属しているわけではない。 かと言って表社会で他人に雇われているわけでもないし、表社会の誰かと付き合うわけでもないので、必然的に表にも裏にも属していない完全なる孤独者となってしまったが、少なくともアンダーグラウンドには生きていない。 とすれば、もうそろそろ表側の世界に最適化されてもいい頃だと思うのだが、私は一向に考え方や生き方が変わらない。 夜の世界で出会ったわけではない人は、別に私を裏切ったり騙したり脅したりするわけではないと分かっているのだが、あまりにも他人を信じないで生きてきた期間が長すぎたのか、信じない方が私には落ち着くのである。 いや、正確に言えば「裏切られる前提で信じるのが落ち着く」というべきか……。 これは夜の世界では正しい人間関係の接し方だが、この接し方をすべてに当てはめるのは重大な誤りであり、愚かであるというのは分かっている。ところが、無意識が働く。 私もまた「馴染んだ水からは逃れられない」のだろうか。どうやら、そのようだ。 もっとも「馴染んだ水から逃れられない」というのは、私だけではないはずだ。すべての人は自分が生きてきた環境に馴染んで、その世界で覚えた生き方や考え方から逃れられなくなっているはずだ。 あなたは、どうだろうか? 馴染んだ水からは逃れられない。長くいた世界に自分の人生が最適化されたら、そこにいくら不満や嫌悪があっても抜けられない。 https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170604T0421350900.html
▲△▽▼ 真夜中の世界に生きている人の中には、表社会から弾き飛ばされて転がり堕ちて来た人間も多い。なぜ、彼らは表社会から弾き飛ばされたのか。それは、基本的に表社会でのルールを破ってしまったからだ。 表社会にはいろいろな窮屈なルールがたくさんある。守らなければならないルールは多い上に、協調性も求められる。そこから逸脱すると、次第にそこにいられなくなってしまう。 犯罪を犯した人間は、有無を言わさず表社会から弾き飛ばされる。しかし、それだけではない。粗暴な態度だったり、ルーズな性格だったり、極端に利己主義であっても、表社会から弾き飛ばされることになる。 男も女も関係ない。年齢も関係ない。あまりに協調性がないと、男でも女でも何歳でも弾き飛ばされる。 表社会から弾き飛ばされると、行き着くところはアンダーグラウンドの世界しかない。そこが彼らの居場所になる。 表社会では信頼と人生の経歴がとても重視されるが、アンダーグラウンドではそんなものは必要ない。誰が今までどんな人生を送っていようが、そんなことはまったく関係ない。 重要なのは、目の前にいる人間が「自分に役に立つのか立たないのか」「利用できるのかできないのか」「金になるのかならないのか」そういった現実的な利益だけである。 言わば、徹底した利己主義と現実主義で成り立っていると言ってもいい。 そういった世界では、他人を無防備に信じたらどこまでも利用され続ける。金をたかられ、トラブルを押しつけられ、踏みにじられる。 醜悪な世界では、人を信じるというのは美しいことではなく、単に弱みになってしまうのである。利用されてしまうのだ。 だから、アンダーグラウンドに長くいる人は早くから「無防備に何かを信じてはいけない」という哲学を、否が応でも会得していくようになる。 信じたら終わりなのだ。 悪人が誰かをワナにはめるときは、まわりを見回して最も騙しやすい人、無防備な人、知恵の足りない人を標的に選ぶからである。 一般的に、警戒している人間をワナにかけるような面倒なことはしない。警戒心のない人間をワナにかける。騙しやすい人間から騙す。襲いやすい人間から襲う。 だからいつも純真で無垢な人間から騙されていく。 多くの日本人は、もともと「人を信じて生きる」「信頼関係を大切にする」という生き方が身についている。外国で多くの日本人がカモにされるのは、そういった性格が裏目に出ているからでもある。
どんなに気を付けても無駄だ。目の前にいる人たちの裏の顔は、決して見抜くことはできない。推理小説では一番怪しくない人が犯人であることが多いが、アンダーグラウンドもそうなのだ。信じられそうな誠実なタイプが一番タチが悪い。
東南アジアのアンダーグラウンドにのめり込んでいった男は多いが、生き残っている男たちと破滅していった男たちの違いは、自分に何らかのルールを持っていて、そこから逸脱しないようにしているかどうかだろう。
破滅していった男たちは、状況に流されて行き当たりばったりに行動しているが、生き残る男たちは自分をコントロールできている。中には、ストイックなまでに「自分の掟」を守っている男もいる。 そのルールは男によって違っているのだが、そういったポリシーが彼らの身を助けているのは間違いない。 私自身が悪人のひしめくアンダーグラウンドで生き残るために身につけたのは、「かわす、逃げる、関わらない」ということだった。 私ごときがアンダーグラウンドの人間たちに、狡猾さで勝てるはずがない。また、私は相手が悪人なのか善人なのかを確かめる能力すらもない。 だから、私はアンダーグラウンドの人間たちとは「刹那的」にしか関わらない。刹那的であれば、いかに相手が悪人であろうとも、できることはたかが知れている。 今日知り合って「この男は騙しやすい」と思われても、明日会わなければ、何かを仕掛ける準備などできるはずもない。 そんな世界では、正直言って「人間関係などはないほうがマシ」なのだ。 アンダーグラウンドに堕ちていった人間たちは、最後は孤独になっていく人間が多いが、これはそういった世界特有の殺伐さが次第に身につくからだ。 他人を信じないことが身を助ける世界なのだから、それが身につけば孤独になって当然なのである。 そうやって孤独が生き残る術(すべ)として身についた人間は、何か改心するきっかけがあって表社会に戻っても、あまりうまくいくことはない。 堕ちた男、堕ちた女は、往々にして表社会に戻ろうと努力するのだが、しばらくするとまた裏側に堕ちてしまうのは、人間関係の構築方法があまりにも表側と裏側とでは違ってしまうことにも要因がある。感性が違ってしまう。 「堕ちた女性は、這い上がってもまた堕ちる」というのは、そういったことを指している。
堕ちた人間はまた堕ちる。這い上がってもまた堕ちていく。感性が違ってしまったら表社会でうまくいかない。 https://blackasia.net/?p=8071
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