日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している 多くの日本人は勘違いしているのだが、物を覚えるというのと、考えることができるというのは別のものだ。
・覚える。 ・考える。 この2つは似ているようで、まったく違う。覚えるというのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶するというものだ。 しかし、「覚える」というのは単なる基本であり、本来はそこからさらに飛躍しなければならない。それが「考える」というものだ。 学校が物を覚えさせる場所であるというのは誰でも知っている。しかし、考えさせているのだろうか。 日本の教育は、構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっている。覚えさせても、考えさせないのである。「考える」という部分を軽視している。 なぜか。それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解できるかもしれない。学校とは、社会で通用する人間を作り出すところだからだ。日本で「社会に通用する」というのは、サラリーマンになれるということでもある。 教育とは子供を規格化するという側面がある
学校は最終的に子供を社会で通用する人間に「矯正」する場所である。子供を規格化するのだ。 日本では国民の8割がサラリーマンであることを考えると、日本の学校で重要な使命は日本人がサラリーマンとして通用するように規格化するのが使命と言うことになる。 ここに問題がある。サラリーマンとは、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」ということができる人間でなければならない。 だから、日本の教育はその現状に沿って、そういった人間を作り出す仕組みになっているのである。上記の特徴を、もう一度よく考えてみて欲しい。あることに気づかないだろうか。 「上司の言うことをよく聞く」とは、自分の意見を持たないで指示待ちの人間になるということである。つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。 「口答えしない」と言うのも、自分の意見を殺して会社の意向を無条件で重視するというものだ。つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。 「言われたことを忠実に行う」というのも、ロボットのようになるということであり、それはすなわち自分で「考えない」ことが求められている。 「不満があっても黙々と働く」という奴隷のような状態も同じで、「考えないようにする」ことで達成できる。 「集団生活を優先する」というのも、結局は自分の意見や考えよりも会社集団を尊重するということであるから、「考えない」ことで達成できるのだ。 「よけいなことを考えるな」というメッセージ
サラリーマンは考えることよりも、考えないことが求められる職業である。何をどうするかという部分についても「考えさせない」ために、企業は「マニュアル」を用意している。 マニュアルというのは、実は人間を「考えさせない」ためのものであることに気づかなければならない。 マニュアルは効率化とサービスの均質化を生み出すので企業にとっては好都合な存在だ。 しかし、逆に考えると、それを行う人間には「この通りにやれ」という強制になる。 誰もが同じ手順でやるように強制し、一切の例外を認めさせない。マニュアルは、「よけいなことを考えるな」というメッセージなのである。 サラリーマンが考えていいのは、会社が「考えろ」と強制した部分だけだ。それ以外の部分は「考えないこと」が期待されている。 それもそうだ。考えるというのは、自分の意見を持つということだ。考えて自分の意見を押し通すというのは、集団よりも個人を優先するということなのだ。 サラリーマン全員が、自分の好き勝手にあれこれ考え始めると、統制が付かなくなる。 だから、あれこれ「考えない」で、言われたことだけを完璧に実行するロボットのような人間を企業は欲しがり、学校はそれを意識的にも無意識的にも読み取って、そのようになるように子供を矯正していく。 学校に課せられた使命は、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」人間を作り出すことなのだ。 そして、国民の8割が学校を卒業してサラリーマンになるのだから、その教育は成功していると言うことができる。 日本の教育では「考えさせない」ことが使命
ところで、人間はいろいろ物を覚えさせれば自然に「考える」人間になってしまう。しかし、日本の教育では「考えさせない」ことが使命としてある。 教育の現場では、どうやって子供たちを考えさせないようにしているのだろうか。それには、次の5つによって、成し遂げられている。 (1)暗記を押し付けて「考えさせない」 (2)苦手を押し付けて「考えさせない」 (3)制服を押し付けて「考えさせない」 (4)規則を押し付けて「考えさせない」 (5)団体行動を押し付けて「考えさせない」 暗記をひたすらやらせると、考えるヒマがない。だから、学校は考える余裕がなくなるほど、暗記させる。 暗記教育が悪いわけではないが、暗記重視によって考えるという部分が消失してしまうようにしているのは問題だ。 得意を伸ばさず、苦手を克服するように仕向けるのも、考えさせるのを嫌にするための手法だ。 誰もが苦手なものを考えるのは苦痛だが、その苦痛を押しつけることによって、考えることそのものを苦痛にしてしまう。その結果、誰も考えなくなってしまう。 制服を押しつけるのも、個性を殺して「考えさせない」ための有益な手法である。 細かい規則を守らせるのも、団体行動を強制するのも、すべて「考えさせない」で「従わせる」ためのものなのである。学校が馬鹿げているほど細かい規則を守らせるのはなぜか。 究極的には「何も考えず、黙って従う」人間を作り出すためだ。日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出していると言っても過言ではない。 あなたは考えているだろうか? あなたの受けた教育は、社畜になるための教育だったのだから、「自分を取り戻す」ためには、学校で覚えたことはすべて忘れる必要がある。 ただ、サラリーマンで居続けたい人間だけは、考えてはいけない。下手に考えると、社会からはぐれてしまうからだ。 http://www.bllackz.com/2014/01/blog-post_16.html 先頭に黙って従って、先頭と一緒に地獄に堕ちるのが日本人
アフリカの大地をジープで走ると、大勢の子供たちがジープの後ろを走って喜んでいる姿を、あなたはテレビや映画で見たことがあるはずだ。 あるいは、祭りで先頭の賑やかな一団の後を、無意識について回っている人の姿を、あなたは見たことがあるはずだ。 あるいは、有名人が街を歩いていると、そのファンや野次馬がやはり、ぞろぞろと後ろを歩いている人の姿を、あなたは見たことがあるはずだ。 あるいは、観光地で旗を持ったガイドの後ろを、何も考えないで歩いている人を、あなたは見たことがあるはずだ。 先頭が向かっている方向に、後ろの人間が何も考えずに従う姿は、別に珍しい光景ではない。先頭の人間はどこに向かうか、何を目指しているのかは知っている。 しかし、後ろを歩いている人間には、先頭がどこに向かっているのかは何も知らない。ただ、盲目的に付いて回っているだけで、主体性があるわけではない。知らずして、どこかに連れて行かれている。 自分よりも他人の意見が「主」になっている
先頭に従う。流行に従う。群衆に従う。テレビに従う。 実は、日本人はどの民族よりもそういった傾向が強いことはよく知られている。たとえば、流行に従うというのは、こういった言葉に集約される。 「みんなが見ているテレビ番組を、自分も見る」 「みんなが持っているものを、自分も欲しい」 「流行っているから、自分も手に入れる」 「みんなが良いというから、自分も良いと思う」 これはひとことで言うと、自分が特に好きではなくても、みんなが好きだと言っていたら、自分も好きになるということであり、自分よりも他人の意見が「主」になっている状態を指している。 場合によっては、自分の意見が存在していない可能性もある。 「自分の意見が存在しない」「他人に従う」と言えば、誰でも危険な状態であると分かるが、そんな危険な状態でも、実はひとつの大きなメリットがある。 先頭が正しければ、自分は何も考えず、疑問も抱かず、大船に乗った気分で、まっすぐと正しい方向に向かえることだ。 何しろ、先頭が正しいのだから、難しいことも面倒な決断もしなくてもいい。ただ従うだけで正しい方向に導かれる。これは楽だし、効率が良い。 だから、「他人に従う」というのは、あながちデメリットばかりがあるわけではない。場合によっては、猛烈に楽な人生を送ることも可能だ。 社長が間違うと、自分の人生が吹き飛ぶ
しかし、先頭が間違うと、どうなるのか。先頭が手痛い間違いを犯すと、当然だが自分も一緒に間違う。 先頭が崖から落ちると、自分も崖から落ちる。先頭が裏切ると、自分はカモにされる。先頭が乗っ取られると、自分が食い物にされる。 それも、やすやすと突き落とされ、裏切られ、カモにされ、食い物にされる。なぜなら、今までずっと先頭に従って生きてきたので、もはや自分の意見がまったくないからだ。 日本人の多くの人々は、サラリーマンとして人生を送る。サラリーマンになるというのは、社長という「先頭」に従うということである。 サラリーマンは、自分が会社を経営しているわけでも、自分が決断しているわけでもない。多くは、言われたことを黙ってこなしている。 ということは、社長が間違うと、自分の人生が吹き飛ぶということでもある。 社長が致命的なまでのミスを犯すと、もちろん社長も自分の人生が破滅する。しかし、順番から言うと、社員を切り捨てる方が先だから、社長よりも社員が先に苦境に落ちる。 日本は戦後から1989年までは一貫して成長局面だったので、多くの日本人は黙って会社に従っているだけで、自分は何も考えなくても生きていけた。 ところが、1990年代から日本が衰退局面に入ると、先頭が間違ったり、先頭が立ちゆかなくなったり、先頭が乗っ取られたり、先頭が死んだりして、先頭に従って自分が死ぬケースが増えて来た。 2010年以降は、さらにそれが加速して、先頭が率先して後ろに従ってくる人間たちを切り捨てるようになっている。つまり、日本人の多くが苦境に陥っているのは、もはや先頭が頼りにならなくなっているからだ。 それでも先頭に黙って従って、先頭と一緒に地獄に堕ちるのが、典型的な日本人の姿であるとも言える。 それが駄目になったら、みんなまとめて駄目になる
黙って従っていたらメリットが享受できる時代は終わってしまった。 これは、若年層の生き方にも強く影響する。若年層は、「良い大学に行って、良い会社に行く」という「みんながやっていること」に従っていれば良かった。 「良い大学に行って、良い会社に行く」というのは、日本人の人生設計の「流行」だったのだ。 日本人の8割がサラリーマンであるとすれば、日本人の8割が「良い大学に行って、良い会社に行く」という人生設計しか考えていなかったということになる。 だとすれば、サラリーマンという生き方が崩壊しつつある今、この「流行の生き方」では、もう人生が渡っていけないということになる。 なぜ、大学を卒業しても仕事がないのか。 なぜ、就職活動で数十社に断られるのか。 なぜ、就職活動で絶望して自殺するのか。 答えは簡単だ。もう、この流行の人生設計は「時代に合わないもの」「間違った生き方」になっているからである。 人には、いろいろな生き方、いろいろな道、いろいろな哲学があるのに、単に「良い大学に行って、良い会社に行く」という考え方しか用意されていないとすれば、それが駄目になったら、みんなまとめて駄目になるのは当然だ。 良い大学に行って、良い会社に行くという考え方は、国や社会が日本人に押し付けていた「流行」だったのだ。 その「流行」が終われば、流行に乗っていた人間は、みんな終わってしまうのである。事実、今そのようになっている。 流行に乗り、黙って従っていたらメリットが享受できるという日本特有のメリットの時代は終わった。 いつまでも弄ばれるがままになってしまう 日本人の世論は、マスコミが作っている。 新聞社もメディアも、衰退産業とは言えども、いまだに圧倒的なパワーを持った媒体であり、その影響力を過小評価するのは間違っている。 マスコミは、流行(トレンド)を作り出すことができる。 では、そのマスコミが間違うと、どうなるのか。もちろん、先頭が間違うのだから、それに黙って従っている後ろの人間はみんなまとめて間違うということになる。 先頭が歪曲した情報を垂れ流せば、日本人はみんな歪曲した情報を信じ、先頭が世論誘導を垂れ流せば、日本人はみんなそちらに誘導されていく。 だから、「みんなが見ているテレビ番組を、自分も見たい」とか、「みんなが良いというから、自分も良いと思う」という発想がある人は、みんなまとめてマスコミに心を弄ばれることになる。 もうマスコミは信じてはいけないものの代表になっているが、それでも「先頭に従う」という心理状態から抜け出せなければ、いつまでも弄ばれるがままになってしまう。 先頭が右と言えば右、左と言えば左に行くのは、みんな揃って自滅への道を辿っているかもしれない。 今、しなければならないことは簡単だ。 主体性を取り戻せばいい。主体性を取り戻すというのは、自分の人生を取り戻すということにつながる。 何をすればいいのか分からなければ、一番簡単な方法がある。とても、簡単で、すぐにでもできる方法だ。 意識的に押し付けられたものを拒絶する
それは、社会や国やマスコミが押し付ける流行(トレンド)を「拒絶する」ことだ。 ・流行(トレンド)を拒絶する。 ・押し付けられた意見を拒絶する。 ・敷かれたレールを拒絶する。 ・自分の哲学とは相容れないものは拒絶する。 流行を拒絶すれば、「では、自分は何が好きなのか?」という話に必ずなっていく。自分が好きなものを自分で選ぶのが主体性を持つということだ。 押し付けられた意見を拒絶すれば、「では、自分の意見は何なのか?」という話に必ずなっていく。自分の意見を自分で選ぶのが主体性を持つということだ。 国や社会が頼りにならなくなってきているということは、そこから自分を切り離して、自分の生き方を模索しなければならなくなっているということだ。 それならば、社会から押し付けられているものを、いったん拒絶することによって、自分を取り戻すことができる。 日本人はいつも「受け入れること」「自分を出さないこと」「従うこと」に重点を置いてきた。だから、無意識にそのような生き方になる。 そんな日本人が覚醒するためには、意識的に押し付けられたものを拒絶することによって、簡単に自分を取り戻すことができるようになる。 人生も、意見も、他人に合わせるのではなく、自分に合わせることができないと、これからの時代は逆に生きていけない。 だから、社会や国やマスコミが仕掛ける流行(トレンド)や世論は、まずは「拒絶」してみて、そこから自分の意見を考えるのが分かりやすい。 覚醒する第一歩となる。 先頭が崖から落ちても次々と従う「レミングの自殺」 これは、他人事だろうか? http://www.bllackz.com/2013/09/blog-post_25.html?utm_source=BP_recent
そろそろ、優秀な人材の定義を変えなければならない時代だ
かつて、1945年から1950年の日本では、石炭の会社が一流大学の学生の人気の就職先だった。石炭は日本のエネルギーを支える非常に重要なものであると思われていたからだ。
しかし、一流大学の学生が殺到していたその頃が石炭企業のピークで、あとは凋落の一歩を辿った。 同じ頃、衣料品に不足していた日本では、繊維業界も空前の売上を誇り、多くの一流大学の学生が繊維業界に殺到した。繊維業界は未来永劫に成長すると思われた就職先だったのだ。 しかし、一流大学の学生が殺到していたその頃が繊維企業のピークで、あとは凋落の一歩を辿った。 映画産業も、人々の羨望の的であり、一流大学の学生が殺到していたが、やがてテレビの時代が来ると、映画産業は一気に衰退して斜陽産業となった。 化学肥料の企業も、当時は最重要な分野だと言われて一流大学の学生が殺到していたが、やがて衰退して凋落していく。 公務員や官僚には「死亡フラグ」が立っている
バブルの頃は、誰もが不動産産業に入りたがって、まったく関係ない人間も宅建法のような資格を取りに走ったほどだった。 ここでも、一流大学の学生が不動産会社に殺到していたが、バブル崩壊に見舞われると、不動産会社は一気に凋落していった。 この頃は金融機関に就職するのも流行っていたが、バブル崩壊で銀行や証券会社がどうなったのか。不良債権を抱えて身動きできなくなったのが、金融機関ではなかったか。 ちなみに、現在は日本企業がグローバル化に乗り遅れて苦境に落ちる時代だ。 その現状を見て、一流大学の学生は「公務員」を目指しているということを聞く。霞ヶ関で官僚になるのが目標になっているのだという。 公務員や官僚になれば安泰だという発想なのだろう。 そう考えると、公務員や官僚にはかなり強い「死亡フラグ」が立っているも同然だ。 それほど遠くない将来、公務員という立場は衰退し、崩壊し、見るも無惨な立場になっていくということが予測できる。 時代は必ず変わっていく。しかし、多くの人は「目の前の羽振りの良い業種」しか見えない。 次に何が来るのか予測も付かないので、とりあえず「現在素晴らしいもの」に飛びつくしかないと考えている。打算的な人であればあるほど、そうなのだ。 現在「素晴らしい」業界にいれば、まわりもちやほやしてくれるし、すぐに楽できる。しかし、現在が素晴らしいということは後は落ちるだけということでもある。一瞬は良くても、あとはずっとじり貧が続く。 そして、「ここにいてはいけない」と気が付く頃には、もう抜け出せない年齢になっている。 本当は、集まった人材は優秀ではなかった?
ここで気が付かなければならないのは、2点ある。 1点は、一流大学の学生が殺到する産業は、そのときがピークで近いうちに凋落するというのがひとつだ。 一流企業の学生は、その時代で最も輝いている企業から熱烈歓迎されるので、大勢がそこに向かうのだが、それは単なる人気投票で「今は」ナンバーワンであるというだけなのだ。 「今は」そうであっても、「将来も」そうであるとは限らない。むしろ、頂点を極めたら、あとは落ちるだけしかないというのは小学生でも思いつく社会現象だ。それを、なぜか「優秀」な学生が思いつかない。 2000年代、パソコンが全世界を制覇するような勢いで広まり、マイクロソフト社が頂点に立ったが、それを見て多くの一流大学の学生はマイクロソフトに殺到したかもしれない。 それから10年経ってどうなっているのか。スマートフォンやタブレットの時代になって、パソコンは「衰退」に入りつつあるのが分かる。 現在、一流大学の学生はグーグル社に殺到しているが、それを意味するところは、10年後にはグーグル社とそのコアとなるビジネスは「衰退」してしまっているのがほぼ確定しているということだろう。 もう1点は、その業界に一流の頭脳が集まっていても、凋落を止めることができないというのがひとつだ。 これを指して、このような指摘をする人もいる。 「一流大学の優秀な人材が集まった業界は衰退するというが、それほど優秀な人材がいたのであれば、なぜ会社を躍進できなかったのか?」 「本当に優秀なら先を読んで手を打てたのに、それができないとすると、実のところ集まった人材は優秀ではなかったのではないのか?」 「体制が望む方向」に勤勉だったということ
昔から現在まで、日本で「優秀な人材」というと、紛れもなく「有名大学を良い成績で卒業した人」という意味だ。学歴社会のコアになっている考え方がここにある。 一流大学の成績優秀者であればあるほど「良い人材」なのである。これらの学生は、必死に勉強し、熱心に暗記し、勤勉であるのは間違いない。 重要なのは、「体制が望む方向」に勤勉だったということだ。体制が作り上げた価値感に従順だったという言い方もできる。 与えられた課題を一生懸命にこなすという意味で優秀だったのだ。「なぜ、こんなものを覚える必要があるのか?」「なぜ、課題を与えられてこなす必要があるのか?」とは考えない。 不良学生は、逆にこう考える。「なぜ、学校は俺に命令する権利があるのか?」「なぜ、興味のないことを覚える必要があるのか?」 不良学生が不良であるのは、体制に従順ではないという意味で不良であり、優秀な学生が優秀であるのは、体制に従順であるという意味で優秀なのだ。 そう考えると、日本人の優秀な人材とは、必然的に体制に従順であることが分かる。そして、体制を疑わない人間ばかりがトップに集まるということになる。 体制を疑わないということは、体制のあり方に疑問を持って、それを変えて行こうとはしないということでもある。 そういう人間をわざわざ選んだのだから、体制のあり方に疑問を持てという方が間違っている。 世の中が変わっても、体制に従順なので、世の中に合わせようとする発想がない。それが変化できない大きな理由になる。 日本のあちこちが「先延ばし」「事なかれ」「優柔不断」になっているのは、要するに体制に従順な人間がトップにいるということであり、いよいよその弊害が現れているということでもある。 日本はすでに中韓との外交的な衝突を迎えている。今後は軍事的な闘争や暴力の時代に向かう。 その前に準備しておかなければならないのは、こういった従順な人材を一掃し、暴力や衝突に対抗できる人間に入れ替えることだ。 場合によっては、「血だるま」になっても相手に向かって行くような、凄絶な人間が必要になるのかもしれないのだ。 時代は待ってくれないので、逡巡している場合ではない。 日本が生き残るためには、そろそろ優秀な人材の定義を変えなければならない時代になっているのである。 http://www.bllackz.com/2013/09/blog-post_27.html
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