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日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/223.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 02 日 09:23:52: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: (民青) 生徒を共産党に誘う教員に要注意 投稿者 木卯正一 日時 2018 年 7 月 01 日 18:17:23)


日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2014/01/20140116T1554000900.html


教育の現場では、どうやって子供たちを考えさせないようにしているのだろうか。それには、次の5つによって、成し遂げられている。

(1)暗記を押し付けて「考えさせない」
(2)苦手を押し付けて「考えさせない」
(3)制服を押し付けて「考えさせない」
(4)規則を押し付けて「考えさせない」
(5)団体行動を押し付けて「考えさせない」

[12初期非表示理由]:管理人:混乱したコメント多数により全部処理


▲△▽▼

『AI vs 教科書が読めない子どもたち』 著・新井紀子
https://www.amazon.co.jp/AI-vs-%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%96%B0%E4%BA%95-%E7%B4%80%E5%AD%90/dp/4492762396


書評・テレビ評2018年2月23日

著者は小学校からのコンピュータープログラミング教育や英語教育が、いかに子どもたちの未来を奪う愚行であるかを、明確にしている。

 著者は数学者(国立情報学研究所教授)で、「東ロボくん」の愛称で知られる人工知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」を発案し、その中心を担ってきたことで知られる。この研究プロジェクトの目的は最初から、東大に入学する学力をめざすものではなく、「人工知能(AI)にはどこまでのことができるようになって、どうしてもできないことは何か」を解明することにあったことを強調している。

 それは、「AI時代が到来したときにAIに仕事を奪われないためには、人間はどのような能力を持たなければならないかを明らかにする」ことでもあった。本書は、このテーマに正面から迫るものだといえる。

 「東ロボくん」のプロジェクトは、AIがセンター模試で上位20%に入り、全受験生の平均値を大きく上回り、全国の主な私立大学に合格できる水準にまで到達している。それは「ホワイトカラーをめざす若者の、中央値どころか平均値をAIが大きく上回った」ことを意味している。近い将来、ホワイトカラーの仕事の多くがAIにとって替えられ、多くの企業が消滅し労働市場が激変することを予測させるものである。

 この人工知能プロジェクトでは同時に、AIが東大入試に合格することはできないという限界も明らかになった。その原因は、英語と国語の成績を今以上に上げることができないことにある。それは、AIが意味を理解することはできないという限界によるもので、当初から想定された当然の帰結であった。早い話が、「先日、岡山と広島に行ってきた」と「先日、岡田と広島に行ってきた」の意味の違いが理解できないのである。

 計算機は計算しかできない。著者はこのあたりまえの事実をもとに、マスメディアや研究者の一部で喧伝する、AIについてのはなはだしい誤謬――人間の脳と同じように判断できるシンギュラリティー(特異点)が到来し、ロボットが人間の仕事をすべて引き受けてくれる、AIが意思を持ち自己生存のために人類を攻撃するなど――を妄想として退けている。

 近年、ロボットと顧客のコミュニケーションや機械翻訳の水準が目覚ましく向上した。だが、これも過去のデータにもとづいた計算の蓄積による、表面的なつじつま合わせの精度の向上でしかない。どこまで行っても、AIが複雑な人間の気分感情を、新しい状況のもとで理解して柔軟に対応するようなことはありえない。

 著者は画像認識(物体検出)、ディープラーニング(深層学習)などAIの開発に寄与した行列、確率、統計といった数学の分野・領域の貢献とともに、過去のデータによる枠組みに限定された計算から導き出される答(初めて出会う状況には対応できていない)を過信する危険性についても強調している。

 今、間近に迫っているのは、勤労者の半数の仕事を奪うまでに開発されたAIとともに生きていかざるをえない社会である。著者はAIにはできないが人間にはできる仕事を探究している。マニュアルに従って処理するような実務の多くはAIに淘汰されるが、残るのは介護や畔の草抜きのような柔軟な判断力が求められる肉体労働など、コミュニケーション能力や理解力が求められる仕事である。そこでは、高度な読解力と常識によって状況を理解したり、人間らしい柔軟な判断が要求される。問題は、AIにできない仕事があっても、今の子どもたちや若者にそれができる力があるのか、である。

 著者はそこから「東ロボ」プロジェクトと並行して、大学生に対する数学基本調査とともに、中高生2万5000人を対象にした大がかりな基礎読解力テスト(リーディング・スキルテスト)による調査と分析をおこなった。本書の後半でその結果と評価について、くわしく論じている。

 この調査から、日本の中高生の多くが「英語の単語や世界史の年表、数学の計算などの表層的な知識は豊富かもしれないが、中学校の歴史や理科教科書程度の文章が正確に理解できない」ことが判明したという。AIが苦手な例文を用いた問題ではあるが、若者たちもAIと同じところでつまずいている。

 たとえば、「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている」という、中学校の地理教科書に出ている文章を見せて、「オセアニアに広がっているのは○○である」の答えを4択で選ばせる問題がある。ここで、正解の「キリスト教」と答えた正答率は中学生では62%、つまり3分の1の生徒がまちがって答える状況にあった。進学率がほぼ100%の高校でも、約4分の1の生徒が間違っていたという。これは文章の主語がなにか、目的語がなにかを把握できているかを調べるものだが、これ以外の「同義文判定」や、文章を理解して図表の正確な把握を求める「イメージ同定」のテストでは正答率がさらに低下していた。

 ここで、詳細な調査についてくわしく紹介できないが、今の若者たちの多くが教科書の文章を正しく理解できないまま、つまりAIが苦手とする分野で人間的に対応する基礎的な力をつけぬまま卒業し、高校、大学や社会に出ているのである。それは、さまざまなウソやまやかしが氾濫する現実社会のなかで、揺れ動く状況をみずからの判断で正しく理解し、柔軟に即応し、社会に貢献する人間像とは対極にあるといってよい。

 著者は、問題を読まずにドリルの計算ができたり、英単語を覚えても、それ以上の学力の向上は望めないことに危機感を募らせ、なによりもまず学校の教科書を読解できる基礎的な力をつける教育への改革を提言している。また、小学校からのコンピュータープログラミング教育や英語教育が、いかに子どもたちの未来を奪う愚行であるかを、明確にしている。
https://www.chosyu-journal.jp/review/7161


 

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コメント
 
1. 中川隆[-13501] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:27:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

3S 政策より:
https://ja.wikipedia.org/wiki/3S%E6%94%BF%E7%AD%96

「・・・戦略家のガブリエル・コルコはアメリカがベトナム戦争での失敗を契機に、大規模な戦闘という事態を避ける為に低強度紛争としてソフト・パワーを用いた情報戦を軍事戦略の中枢に置くようになる課程を紹介。

この戦略が最も成功した例が日本であり、各種の工作は日本支配のための「軍事戦略であり戦争であった」と述べた。

1. アメリカを無条件に支持し、アメリカに服従する政党と政権を他国に成立させ、そのための資金をアメリカが提供する。

2. この買収資金は、アメリカの税金ではなく、他国でアメリカが麻薬を密売した利益を提供し、アメリカが経済的負担を負わない方策を取る。

3. マスコミ操作を通じアメリカが常に「善」であると他国の市民を洗脳し、アメリカを批判する言論をマスコミに「登場」させない。アメリカ映画、音楽を大量に流し、アメリカが「すばらしい」国だと連日宣伝する。

4. 学校教育においては、丸暗記中心の学校教育で思考能力を奪い、アメリカへの批判能力を奪う。

5. 教師への絶対服従を学校教育で叩き込み、「強い者=アメリカへの絶対服従」を「子供の頃から身に付けさせる」。

6. 逆らう言論人、ジャーナリストは、そのジャーナリストのセックス・スキャンダル等をマスコミに流し失脚させ、必要であれば軍の諜報組織を用い、事故に見せかけ殺害する。

7. 他国の食料、エネルギー自給を破壊し、米国に依存しなければ食料、エネルギーが入手出来ないようにシステム化し「米国に逆らえないシステム」を作る・・・」

関連情報:

一億総白痴化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96

愚民政策
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E6%B0%91%E6%94%BF%E7%AD%96

反知性主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E7%9F%A5%E6%80%A7%E4%B8%BB%E7%BE%A9

パンとサーカス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9

ディストピア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2

etc.


2. 中川隆[-13500] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:29:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]
>>1
> 逆らう言論人、ジャーナリストは、そのジャーナリストのセックス・スキャンダル等をマスコミに流し失脚させ、必要であれば軍の諜報組織を用い、事故に見せかけ殺害する。

阿修羅で工作員が大騒ぎしているモリカケ問題等のスキャンダルはすべて CIA がマスコミやネットに流したものだった:


日本のジャーナリズムとネット掲示板を監視する米軍組織
http://alternativereport1.seesaa.net/article/122853746.html


 神奈川県の座間キャンプ内にある、米軍第500軍事情報旅団「アジア研究分遣隊」Asian Studies Detachmentでは、日本国内で刊行される書物・雑誌等々を網羅的に「チェック」し、米国の政策に反対する人間、反米の思想家・評論家を監視している。

さらに、この軍隊は、こうした反米的思想の持ち主の身辺を「探り」、その金銭関係、異性関係、趣味・性癖の「情報収集」に当たっている。不倫関係、多額の借金、他人に言えない性癖等々の情報を収集し、「反米的な」思想家・評論家・ジャーナリスト・大学教授を「脅迫」し、口封じを行うためである。

 「必要に応じて」こうした情報は日本のマスコミに流され、スキャンダル流布による、特定のジャーナリスト・大学教授「ツブシ」が行われる。これは米軍による「日本支配のための軍事行動」である。そのエージェントが、マスコミである(注1)。

*注1・・・小泉元首相の郵政民営化を厳しく批判した植草一秀教授に対する、捏造スキャンダルによる、司法とマスコミの、リンチ報道・裁判に、その極めて悪質な典型を見る事が出来る。植草教授に対する、この捏造スキャンダル=リンチ事件は、日本から表現の自由・言論の自由が無くなる歴史的出発点として、言論暗黒時代へ向かう分岐点として、50年後、日本現代史にゴシック体文字で印刷・刻印されるであろう。以下、参照。


日本の金融をボロボロにして乗っ取ったのは1992年からのクリントンの対日戦略でした。日本を自分たちが自由に操れる国にしたのです。ロバート・ルービンとローレンス・サマーズを実施部隊の司令官にして、何かあるとサマーズが来日して大使公邸で怒鳴りつけるのです。

  当時、首相だった橋本龍太郎はさすがに行かなかったのですが、幹事長以下の実力者が全員呼びつけられて、「アメリカに逆らうな」と怒鳴りつけられる。そういう政治が行なわれてきました。今もそうです。そのことを知っている日本の新聞記者たちが、なぜかまったく書かない。ここに問題があるのです。

  1998年10月からの“金融ビッグバン”も、橋本龍太郎が無理やり約束させられたものです。当時は、「金融自由化だ」「ビッグバンだ」とあれほど騒がれたのに、今は誰も口にしない。なぜなら、「金融自由化」の掛け声とはまったく逆で、結果的にできあがったのは「金融統制」の体制でした。

  日本は騙されたのです。あの時に外資すなわちニューヨークの投機マネーが自由に日本に入ってこれるようにした。そして少額で日本の大銀行を乗っ取れるようにした。

  この1998年2月、“ノーパンしゃぶしゃぶ事件”を起こし、大蔵官僚たちを計画的に叩きのめしたのです。日銀官僚の福井俊彦(現日銀総裁)もあのリストに入っていました。名刺があった連中は皆さらし者にされ、官僚として出世が止まったのです。

  CIAはこの名簿をインターネット上に流し、さらに愛国派官僚たちが引きずり降ろされる不祥事に発展しました。いわゆる“大蔵落城”です。マスコミはCIAの尻馬に乗って、日銀と大蔵官僚叩きをやったのです。

  この時、すでに自民党の政治家たちは一人ひとり弱みを握られてアメリカの軍門に下っていたのですが、日本の官僚たちはアメリカの言うことを聞かないで抵抗していました。その結果、叩きつぶされたのです。
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/hitokuchi013.html


日本のジャーナリズムやネット掲示板を監視する米軍組織 _ 2
http://alternativereport1.seesaa.net/article/122853746.html

 神奈川県の座間キャンプ内にある、米軍第500軍事情報旅団「アジア研究分遣隊」Asian Studies Detachmentでは、日本国内で刊行される書物・雑誌等々を網羅的に「チェック」し、米国の政策に反対する人間、反米の思想家・評論家を監視している。

さらに、この軍隊は、こうした反米的思想の持ち主の身辺を「探り」、その金銭関係、異性関係、趣味・性癖の「情報収集」に当たっている。不倫関係、多額の借金、他人に言えない性癖等々の情報を収集し、「反米的な」思想家・評論家・ジャーナリスト・大学教授を「脅迫」し、口封じを行うためである。

 「必要に応じて」こうした情報は日本のマスコミに流され、スキャンダル流布による、特定のジャーナリスト・大学教授「ツブシ」が行われる。これは米軍による「日本支配のための軍事行動」である。そのエージェントが、マスコミである(注1)。

*注1・・・小泉元首相の郵政民営化を厳しく批判した植草一秀教授に対する、捏造スキャンダルによる、司法とマスコミの、リンチ報道・裁判に、その極めて悪質な典型を見る事が出来る。植草教授に対する、この捏造スキャンダル=リンチ事件は、日本から表現の自由・言論の自由が無くなる歴史的出発点として、言論暗黒時代へ向かう分岐点として、50年後、日本現代史にゴシック体文字で印刷・刻印されるであろう。以下、参照。


このCIAが日本を含め世界各国の国会議員、政治家達の女性スキャンダル、裏金作り情報、松岡農林水産大臣の「なんとか還元水」問題等の情報を調査・把握し、米国に逆らえば日本の東京地検特捜部に匿名ファックスを送り付けて来る事は日常的に行われている、常識的な「慣例」である。

小泉元総理が学生時代に犯した日本女子大学の大学生に対する強姦事件と、神奈川県警に逮捕された小泉元総理の警察の取り調べ調書も米国側は当然握っていた。小泉はこれで完全に 「操り人形」と化していた。

現在では、極東最大のスパイ組織キャンプ座間にある米国陸軍第500軍事情報大隊が総力を上げ、日本の政治家、企業経営者達のスキャンダル情報の調査・ 蓄積を行っている。

相手は軍隊である。無防備な農林水産大臣1人を「潰す」事は簡単である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49609103.html


3. 中川隆[-13499] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:32:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

貧乏な家の子どもがお金持ちになれない本当の理由と「思考格差」の正体=午堂登紀雄
2017年9月3日
http://www.mag2.com/p/money/293416

子どもに貧困が連鎖する本当の原因は「親の子育て」にあります。「所得格差が教育格差を生み、貧困が連鎖していく」という説は、厳密には正確ではありません


「親の経済格差⇒子の教育格差⇒連鎖する貧困」はどこまで本当か

相関関係はあっても、因果関係はない

雑誌やネットのコラムなどで、「親の所得格差が子の教育格差を生み、貧困が連鎖する」という記事がたびたび取り上げられます。

確かに相関関係はあると思いますが、私は直接的な因果関係はないと考えています。

昨今ではすでに、高等教育を受ければいい会社に就職もできて安泰という図式は崩れつつありますし、奨学金制度があるので大学に進学できないというケースは稀でしょう(私自身、高校・大学には奨学金で進学し、15年かけて完済しました)。

貧困が連鎖する本当の原因は、親の子育てではないかと私は考えます。

それは、低所得の親の思考パターンと行動パターンが子に伝わるからです。

低所得の親が抱える「本当の問題」とは

そもそも、なぜ親は低所得なのか。それはたとえば、難しい課題に取り組もうとしない、新しい仕事に挑戦しようとしない、困難にもくじけず耐えようとしない、逆境を乗り越えて目標を達成しようとしない、勉強して能力を高めてより成長しようという意欲が低いために起こることではないでしょうか。

つまり、親自身が勉強することの価値を理解していないのです。親自身が「学ぶこと、努力することによってのみ自分を成長させることができるのだ」と認識していなければ、それを子どもに伝えることはできません。

たとえば「勉強しろ」「早く宿題済ませろ」などというのは教育でも何でもなく、単なる強制です。

大人でも会社で上司から「仕事しろ」「さっさと終わらせろ」などと言われたら気分は良くないでしょう。

そして、そういうマインドは当然、日常生活の親の振る舞い、そして子供にかける言葉にも違いを生じさせます。

「自分にはムリ」と思っている親の口から出る言葉は、「お前にはムリ」ではないでしょうか。

貧困は「親の思考と行動」によって連鎖する

じっくり考えるのを面倒くさがる親は、子どもが「それどういうこと?」と聞いてきても「知らない」「どうでもいいよ」で終わってしまうかもしれません。

家族でテレビを見ていて、事故のニュースが流れた時に発するセリフも「怖いねえ」くらい。

そんな親の言葉、態度、何かに取り組むときの姿勢を見ていれば、子どもも当然それを見習います。そうして親と同じような思考パターン、行動パターンが形成されます。

虐待されて育った子どもが親になったとき、また子に虐待するというケースがあるのもそのためで、子にどう接していいかわからない親に育てられれば、本人もやはり自分の子にどう接していいかわからず、結局親と同じことをしてしまいやすいのです。

つまり、親自身が低学歴・低所得となるような思考と行動をしているわけで、それが子どもに伝わっていることが「連鎖する貧困」の原因と言えるのです。


高所得な親の「思考と行動」は何が違う?

反対に、高所得な親の思考と行動はどうでしょうか。

彼らは積極的に学習する姿勢を持ち、難しい問題に果敢に挑戦したり、スキルアップのために日々研鑽してきたからこそ高所得になったと考えられます。

そういう親は、学ぶことの意義を認識していますから、子どもにもそのように伝えます。親自身も積極的に学び、努力する姿勢を持っていますから、子もそんな親の姿を見て育ちます。

親自身が「努力が大切だ」と思っているから、「やってみろよ。失敗したってまた頑張ればいいんだから」と子にも挑戦することの大切さを教えます。「お前にはムリ」ではなく「お前ならできる」というところでしょうか。

子どもが「それどういうこと?」と聞いてきたら、「それはね、これこれこういうことで、こういう理由があるからなんだよ」と答えるか、わからなければ「なんでだろうね、一緒に調べてみようか」と答えるでしょう。

事故のニュースをテレビで見たら「こういう事故に遭わないようにするには、どう行動したらいいかな?」というセリフを発するかもしれません。

そういう親の態度に毎日毎日、何年間も接して育てば、子どもも親と同じような思考パターンや行動パターンを受け継いでいきます。

そのため、「勉強しろ」などと直接言わなくても、日々の会話の中から、親の論理的な考え方や勉強することの大切さは子に伝わるものです。

だからなのか、高学歴の親の子どももまた高学歴になりやすいですし、東大に合格した学生のほとんどは、子どものころから一度も親に「勉強しろ」と言われたことがないそうです。

子どもの人生を左右する「親の思考格差」

さらに、高所得の親は部下や組織をマネジメントしている立場である人が多いと考えられますから、「どうすれば人は動くか?やる気になるか?」という人間のモチベーションに配慮する姿勢を持っているでしょうそういうスキルを発動すれば、子どもがやる気になるように促すこともできると言えます。

逆に低所得者は末端従業員であることが多く、人のモチベーションがどうこうより自分が不平不満を言っている立場でしょうから、人間心理に疎い可能性があります。それはもしかしたら、子どもの学習意欲や進学意欲の適切な形成を損なっているかもしれません。

ただしこれは高所得家庭でも起こり得ることですが、たとえば親があれこれ先回りしすぎたり、支配的に押し付けるような子育てをすれば、子は自分の頭で考える機会を奪われ、それが子の貧困化につがることがあります。

後半はうがった見方かもしれませんが、いずれにせよ貧困の連鎖を生んでいるのは、親の所得格差ではなく、それに伴う教育格差でもなく、「親の思考格差」なのです(なお、結果的には同じなので、冒頭でも直接的な因果関係はないと表現したわけです)。

「鳶が鷹を生む」現象

そしてもちろん、どの世界にも例外はあり、貧困世帯からでも偉大な人物が出てくることもあります。

親を反面教師にして努力し大成した人もいれば、逆に立派過ぎる親に反発してドロップアウトする人もいますが、それらはほんの一握り。珍しいからこそ、そうした人がテレビや書籍で取り上げられるのです。

では、そんな「一握り」に子どもが育つ条件とは何でしょうか?


子どもの論理的思考を鍛えよ

「ではどうすればいいのか?」ですが、私のひとつの提案は、子どもの義務教育を変えることです。

本来は親がすべきことであっても、強制することはできません。そこで親ができないなら、学校教育を変えるしかないというわけです。

具体的には、まず理系科目のウエイトを高くすることが挙げられます。理系科目は論理的思考の基礎となるからです。

私が知る限り、低所得者の多くは数学や物理などの理系科目が苦手です(もちろん全員ということではありません)。

それはつまり、論理的思考が苦手であることを意味します。だから感情や思いつきで判断したり、自分の行動がどういう結果を招くのかという想像もできない。

ただ、現状でも授業数はいっぱいなのに、今後英語やプログラミングの授業も入ってくるとなると、これ以上コマ数を増やすのも難しそうですが……。

子どもが「自分で考える」習慣の大切さ

もうひとつは、学校の中で、自分で考える習慣をつけるような授業の頻度を増やすこと。

現在の学校教育の多くは、教師が知識を伝え、児童生徒は受け取るのみであり、そこに「自分の頭で考える」「自分の意見・主張を持つ」「自分の考えを発表し、他者との違いを認め合う」という場はほとんどありません。また、テストでは問いを与えられ、最初から答えが存在していることばかりですから、自ら問いを発する、つまり課題を発見する機会にも乏しい。

国語にいたっては、たとえば小説の問題でも「こういうふうに捉えなさい」と感じ方まで強制されます。むろん正確に読む書く話す能力は重要なので、それを否定するわけではありません。

そういう基本は押さえつつ、でも「そういう意見や考えもあっていい」という多様性が認められる場を盛り込もうという意味です。

そもそも低所得者は、現状に疑問を持つことが少なく、一方で「こうすべき」「こうしてはいけない」という強固な固定観念に縛られ、自由な発想ができません。

言われたことしかできないとか、標準化された仕事はできるけど創意工夫して変えることが苦手な人は、思い込みが激しく多様性を認めない傾向があります。そのような柔軟性がないため、環境変化にも適応できず、所得は下がっていきます。

そしてそれを「しつけ」と称して子にも教えている可能性があり、だから親のそういう根拠のない常識や思い込みから解放させ、自由に発想させる場が必要です。

それにはたとえば「あなたはどう考えるの?」「僕はこう思う」「私はこう考える」という一人一人の個性を発揮させる授業、たとえば討論やディベート、グループ研究・発表会などが考えられます。

ただ、これも前述と同様、現状の授業枠の中でそこまでの時間が取れるかどうか難しいですが……。

変わるべきは親自身

「自分は貧しかったから、子どもには良い教育を与えてあげたい」という親の気持ちは当然だとしても、やはり変わらなければならないのは親自身ではないか。

親が変われば子に接する態度が変わり、子も親の影響を受けて変わるはず。

そして親の手を借りずとも「大学ではなく専門学校に行く」とか「日本の大学ではなく海外の大学に行く。そのため給付型のスカラシップが取れるよう頑張る」などと、自己責任において進路を決めるようになるかもしれません。


子どもの人生に、本当に大切なこと

「親の経済力によって大学進学率に差がつくのはおかしい」「親が貧しく進学させてあげられないから教育格差が生まれ、子も貧しくなる」と考える人は、奨学金の無償化や、公的な教育投資を増やすよう働きかけています。

しかしそれは「大学に行けばすべて解決する」と言っているようなもので、本質とは言えません。

むろん、義務教育をちょっと変えるくらいで解決できるテーマではないし、集団の中ではどうしても差ができてきます。だから完全に格差をなくすことは不可能。

とはいえ大学以前に、子どもが自分の頭でしっかり考えるような教育をすれば、「雇われるため」の進学だけではなく、たとえば高校生で起業家デビューとか、多様な人生の展開ができるようになる人が増えるのではないでしょうか。


そういえば、お金に関する知識は学校教育では習わないですよね。生きる上ではとっても大切なことなのに。同様に、子育てに関する知識も学校では習わない。論理的な思考方法やコミュニケーション技術も習わない。

ということは、学校では教わらないことの方が、実は人生においては重要なのかもしれません。


4. 中川隆[-13498] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:34:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

(2010.10.15) ジャーナリスト・堤 未果さんに聞く  貧困大国アメリカで今、起きていること
http://www.jacom.or.jp/archive03/tokusyu/2010/tokusyu101015-11261.html

 米国には1960年代から貧困層に食料交換クーポン券を配布する「フードスタンプ」という食料費補助政策があるほか、学校給食にも「無料―割引給食プログラム」がある。これらは同国が食料・農業を重視している姿勢を示すものとの受け止め方もある。

 しかし、

『ルポ貧困大国アメリカ』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004314305/asyuracom-22/


で堤さんが描いたのは、市場原理の導入で食ビジネスに参入し利益を上げようとジャンクフードを大量に提供する巨大企業と、それによる肥満児童の急増、医療費の増大、そして格差拡大の悪循環という姿だった。

 堤さんは「いのち、暮らし、教育といった人間の根幹が『市場化』されたとき、一体どうなるのか、私たちは考えるべきです」と話す。市場原理主義の行き着く先、を聞いた。


「オバマを動かせ!」

◆ジャンクフードでも死にはしない!?


ジャーナリスト・堤 未果さんに ――最初にフードスタンプ制度の実態からお聞かせいただけますか。


 アメリカは今、史上最大に格差が広がってしまったこともありフードスタンプはまさに生命線です。新規申請者が一日2万人のペースで増えています。フードスタンプ自体はやはり考え方がキリスト教ベースいうこともあり、困っている人への福祉政策としてとても支持されています。

 しかし、この制度は人間にとって食とはどういう意味があるかを考えてのものではなく、ぎりぎりのところで飢え死にはさせないようにという政策です。予算もかなり絞られている。

 するとたとえば4人家族で1か月平均100ドル(約1万円)のフードスタンプをもらい、さあ1か月の食事をまかなおうと思ったとき、どうなるか。多くの家庭ではできるだけ安く、調味料も調理器具もいらない、栄養の知識がなくても作れて少量でお腹がいっぱいになるもの、ということになる。

 そうすると当然インスタント食品が中心になりますから、それを99セントストアで買ってくる。99セントストアや大手ディスカウントフードショップが潤っていくわけですが、そういった企業はたとえば、途上国で大量生産した安い農産物を原料に添加物などをたっぷり入れることで食品を安く市場に出している。

 99セントストアが出てきたときには、よかったね、これで貧しい人たちも人並みの食事ができるね、とアメリカでも言われたのを覚えています。しかし、実は安売りストアがたくさん出てくるということは食の質も文化もやせ細り、アメリカ国内の農業もやせ細っていくということ、結局、「食も職も」なくなってしまうことに気がつかなかった。

 安ければ安いほどいいんだという安価信奉が、90年代に起きた「外注革命」を加速させて、本当にひどいことになってしまったのだと思います。


◆学校給食も利益の標的


 なぜそうなったか? 一言でいえば、食も含めた子育て、医療、教育、雇用など国の根幹を、政府が責任を持つ代わりに市場化してしまったからです。

 かつて中流層がしっかりしていた「よきアメリカ」の時代には税金を社会保障として還元するという考え方を、当時はソ連に対抗するという政治的な意味からも大事にしていた。ところが、ソ連が崩壊しナンバーワンになったとき、世界で力を持つにはやはり大企業の国際力だと、法人税を下げ社会福祉を切り捨てた。

 大企業を大事にするのは市場化を進めることと同義語ですから、競争力をつけるために、たとえば食であればいちばん効率よく利益を出すために人件費とクォリティが削られる。

 ですからフードスタンプとは「食べ物は心と体をつくるとても大事なもので人間の基礎であり国にとっては財産なんだ」という考え方が前提にあっての政策ではなく、市場化の加速とともに「貧困肥満」を増大させています。いまアメリカ人の死因の第2位である「肥満」は医療費をどんどん押し上げ、年間6万人が死亡しています。フードスタンプはこうして間接的に社会問題を深刻化させる制度と化しているのです。

 食の市場化はフードスタンプだけでなく子どもたちの学校給食にもじわじわと浸透しています。

 アメリカでもかつて学校で自前で給食をつくっていたんです。ところが国が教育予算をどんどん削っていったためにできなくなった。経営が苦しい学校に、待ってましたとばかりにピザハットなどのファストフード企業が「ウチと契約すれば大量に安く給食を提供できますよ」と近づいてくる。それで給食のコストだけでなく質がどんどん低下しました。保育園まで契約していて離乳食が終わったばかりの子どもがピザを食べています。

 国民の心と体の健康は財産だという考え方を、国は放棄したということです。みなさん、どうぞご自由に。大企業さん、どうぞマーケットに、と。


◆教育でも民営化レース!?


 最近、アメリカ法務省は史上最悪の貧困率だと、とうとう発表しました。本当に貧困大国になったと政府が公式に認めたということですね。大人の失業率は実質20%ですから、フードスタンプをもらう人は史上最高の5000万人近くになっています。07年は約2800万人でしたから異常な増え方です。

 一方で大統領夫人、ミシェル・オバマは新しく肥満児対策のキャンペーンを始めました。栄養を考えた食事を、そして、もっと体を動かそうよ、と。

 ところが、今、アメリカは教育を市場化しています。日本ではあまり報道されていませんが、すべての自治体が赤字なので大統領は賞金をエサに州に教育民営化レースをさせている。

 これは、たとえばテストの点数を上げるため、関係ないムダな教科は廃止するといったまさに市場原理でアイデアを競争させ、これにそった政策を成立させた州が賞金を獲得するというレースです。赤字の公立学校をつぶしてできるだけ民営に変えていくという条件に教育現場は悲鳴をあげて反対していますが、不況のうえ国が教育予算をどんどん切っているために州に選択肢はなく、立て直すにはこの賞金を狙うしかない。

 そうするとどうなるか? 競争強化の中でテストに関係ない体育の授業が減らされる、もしくはなくなっていくわけですよ。運動しないからジャンクフードを食べている子どもたちの肥満をさらに深刻化させる。 そもそも政府が公教育予算を切り民営化を進めたところから、給食のジャンクフード化も子どもの肥満も始まっているのに、大統領夫人は食品業界にもっと栄養表示をして塩分を減らせとよびかけ、こどもたちにはもっと体を動かしましょうというキャンペーンをやる(笑)。こういう非常に矛盾したことが起きているわけです。

 アメリカはブレーキが壊れた市場原理主義が暴走しているのです。取材していて思うのは、市場化、日本で言う民営化ですが、これは一度やってしまうと勝手に動き出し、自分で加速していくということです。どこまでも効率良く、どこまでも利益を上げるように走り出し、終わりがありません。


◆「個」を「数」にする社会


 ――ルポ第二弾では「刑務所という名の巨大労働市場」というショッキングなレポートがありますが、まさに象徴ですね。

 「刑務所ビジネス」を取材した時、ああこれが市場原理主義による労働市場の最終完成形だ、と確信しました。国内の非正規労働力よりももっと安くと、最初はインドなどの労働者を使ったけれども、インドの労働者だって月800ドルかかる。そこでもっと安い時給はないかと考えたら、灯台もと暗し、刑務所にいる受刑者に働かせることだった、というわけです。

 ところでアメリカは「テロとの戦争」をしていますが、実際は敵がいるようで見えないわけですからテロリストの最後の1人がいなくなるまでずっと戦争状態にしておけるわけですね。国はそれを最優先するという名目で教育、労働、医療などは後回しにできる。

 これを後押しするのが「愛国者法」という法律ですが、テロリストから国民の安全を守るといいながら自国民を監視している。これは市場化を邪魔させないためです。市場化とは国民を分断することですから。それに対してものが言えないようにするためには、まずはテロの恐怖で押さえつけるということをやった。

 そして、それに対しておかしいと人々がまとまって声を上げた労働組合や協同組合的な組織は次々にターゲットになりました。

 つまり、仮想敵を作り恐怖で人々を押さえつけつつ、実は市場化を邪魔しないよう個人をバラバラにしておく政策も進めてきた。

 わかりやすい例をあげましょう。社会の治安を守るという名目で導入された「スリーストライク法」というのがあります。これは前科が何かに関わらず3度目の有罪で終身刑になるという法律。これで受刑者が増えるから刑務所の安い労働力も増え企業は競争力を保つ――。こういう構造になっているわけです。

 今、不穏な気配を感じさせたらそれだけでみんな捕まりかねない。警官にもノルマがあるから。ここまで市場原理主義の徹底です。

 「市場化」からわかることは、市場化の下では国民が名前や顔、それぞれの歴史、家族、夢、などを持った一人ひとりの「個」ではなくて、「数」になってしまうんですね。あるいは「消費者」とか「モノ」になる。

 これに対してヨーロッパなどでは国民を市民として見ている。市民は権利を持った個です。今、世界が2つに分かれていて、では日本はどっちを選ぶのか? という岐路に立っていると思います。

 そのとき「個」にとって非常に大事なファクターに「食」がある。だから農協のみなさんは、国の未来にとっての「食」の意味を投げかける存在として大きな使命をもっていらっしゃると思います。なぜなら、食とは一体国にとって何なのか、ということが今ほど強く問われた時代はなかったように思うからです。食やエネルギーを他国に依存してしまうと絶対的に弱い立場になります。

 だから自給率を上げることはあらゆる面で日本が対等になる必要不可欠なことだと思います。


◆結託強める政治と企業


 ――日本に先駆けたアメリカの政権交代には期待も高かったと思いますが。


 「チェンジ」をかかげた選挙は、本当に期待が高かったです。けれどあれから1年がたち、いまアメリカの市民で起きているのは「ムーブ・オバマ」の運動です。オバマが大統領になって全てうまくいくかと思ったらその逆で、貧困率は急上昇し戦争は拡大し教育はさらに競争が強化され、格差はついに史上最大になってしまった。

◆ ◆ ◆

 国民はハッと気がついたのです。素敵なリーダーに丸投げして終わりではなく、もっと1人ひとりが社会がどうなっているのかきちんと知って、リーダーを動かしていかなければならなかったことに。

 たとえばオバマ大統領誕生は「黒人がなった=誰でも大統領になれる時代が来た!」とどこでも言われましたが、本当は巨額の選挙資金が必要で、やはり大企業から献金を受けたほうが当選しやすくなるという構造になっていることを証明した選挙でした。

 今年の1月、アメリカの最高裁判所は選挙の献金に国境をなくすことを認めました。つまり、この先の選挙ではたとえばサウジアラビアの大金持ちが献金できて、アメリカの軍事でも農業政策でも動かせるのです。献金額の上限も撤廃しました。ますます企業が政治と結託し市民の声は届きにくくなる。ほとんど日本では報道されていませんが実に恐ろしいことです。

 これを国民が知っているのと知らないのとでは絶対未来は違ってくる。

 ムーブ・オバマとはオバマが大統領になったからもう大丈夫だということではなく、まず社会の構造をしっかり見よう、選挙のあともずっと監視し続ける、政治で何が起きているのか情報を自分でつかんでいくということです。これはアメリカの後を追うように政権交代をし、1年たって同じように「あれ? おかしいな」という声がそこかしこで上がっている日本の私たちにとっても他人事ではない話ですね。

 アメリカでは「気づき」が始まっています。やはり民主主義というのはメンテナンスがいるしくみだとつくづく思います。「食」を通して社会を見ると本当に沢山の箇所に矛盾がみえるからです。日本も今まさに、メンテナンスをするいい機会ではないかと思います。

オバマになれば「チェンジ」と思ったが……。(「9.11」追悼式、ホワイトハウスHPより)


PROFILE
つつみ・みか
東京都生まれ。ニューヨーク市立大学大学院国際関係論学科修士課程修了。国連婦人開発基金(UNIFEM)などを経て米国野村證券に勤務中に9.11同時多発テロに遭遇。以後ジャーナリストに。「ルポ・貧困大国アメリカ」(岩波新書)(08年日本エッセイストクラブ賞受賞等)。近く「アメリカ弱者革命」(新潮文庫)「もうひとつの核なき世界」(小学館)刊行予定。
http://www.jacom.or.jp/archive03/tokusyu/2010/tokusyu101015-11261.html

2013-07-08 【読書感想】(株)貧困大国アメリカ
http://fujipon.hatenadiary.com/entries/2013/07/08#p1


内容紹介

1% vs 99%の構図が世界に広がる中、本家本元のアメリカでは驚愕の事態が進行中。それは人々の食卓、街、政治、司法、メディア、人々の暮らしを、音もなくじわじわと蝕んでゆく。あらゆるものが巨大企業にのまれ、株式会社化が加速する世界、果たして国民は主権を取り戻せるのか!? 日本の近未来を予言する、大反響シリーズ待望の完結編。


堤未果さんの『貧困大陸アメリカ』シリーズの最新作(完結編だそうです)。

この新書を読んでいる途中で、「あーはいはい、そんな感じだよなー」と、特に驚くことすらなく、読み流している自分に気づき、愕然としました。

シリーズの第1作『貧困大陸アメリカ』を読んだときには、「自由の国」で行われている、「貧困ビジネス」の実態に僕も怒りまくっていたのです。

その後、さまざまな本を読み、今の「グローバル企業と政治の癒着」についての知識も得てきたのですが、なんというか、もう読んでいるだけで疲れてきた……というのもあって。

「企業の『帝国化』」と、「多くの市民、国民の健康や幸福よりも、一部の大企業の利益を優先する政治」は、ほとんど変わっていないどころか、「それが当然」のようにすら、思えてくるようになりました。


 SNAPとはアメリカ政府が低所得層や高齢者、障害者や失業者などに提供する食料支援プログラムだ。以前は「フードスタンプ」と呼ばれていたが、2008年10月にSNAPと名称を変えている。クレジットカードのような形のカードをSNAP提携店のレジで専用機械に通すと、その分が政府から支払われるしくみだ。

 受給額は州や受給者の収入によって異なるが、ニューヨーク州では、単身者で月収1180ドル(約11万8000円)以下なら月117ドル(約1万1700円分)支給される。全米の平均支給月額は132ドル(約1万3200円)。カードは全国23万1000店舗で使用できる。が、嗜好品は買えず、あくまでも食品のみという条件付きだ。

 SNAPは月に一度、夜中0時に支給されるため、毎月その日は夜中過ぎから全米各地の安売りスーパーに受給者があふれるという。

 ミシェルの買い物袋も、加工食品や炭酸飲料、缶詰やインスタント食品でいっぱいだった。


 アメリカの貧困率と失業者の数は、リーマンショック以来増え続けている。

 四人家族で年収2万3314ドル(約230万円)という、国の定める貧困ライン以下で暮らす国民は現在4600万人、うち1600万人が子どもだ。失業率は9.6%(2010年)だが、職探しをあきらめた潜在的失業者も加算すると実質20%という驚異的な数字となる。16歳から29歳までの若者の失業率を見ると、2000年の33%から45%に上昇、経済的に自立できず親と同居している若者は600万人だ。

 ミシェルのようなSNAP受給者は年々増加。2012年8月31日のUSDA(農務省)発表では、約4667万373人と過去最高に達した。1970年には国民の50人に1人だったのが、今では7人に1人がSNAPに依存していることになる。

 考えようによっては、「それでも、最低限の食べものを保障してくれるだけ、マシなんじゃない? 世界には飢えている国だってたくさんあるのだから」とも言えるのかもしれません。

 財政の厳しさから、生活保護を「水際作戦」などと極力行わないようにしている日本に比べて、アメリカ政府は、国民にSNAPを利用するようにアピールしているそうですし。

 ところが、このSNAP受給者が増えていく一方で、失業率は全然改善されない。

 SNAPでは、安くてカロリーが高いジャンクフードやジュースなどが選択されがちで、「この20年、アメリカでは子どもの2型糖尿病が激増している」そうです。

 貧困層ほど、偏った食事をしており、健康状態も悪化しやすい。
 こうして、負の連鎖が止まらなくなっているのです。


 なぜそんな制度が続いている、というか、いっそう拡大されていっているのか?


 ウォルマート広報部門担当で副社長のレスリー・ダックは、同社の収益におけるSNAPの重要性をこう協調した。

「SNAPからの収入は我が社にとって大変大きいですね。多くの州でSNAP利用者の2人に1人が、ウォルマートで食品を購入してくれています」

「公共のための科学センター(Center for Science in the Public Interest)」の調査によると、炭酸飲料や砂糖を含む清涼飲料水産業も、2010年度だけでSNAPによる売り上げが40億ドル(約4000億円)と、こちらもSNAPから巨額の利益が流れ込んでいる。

「ワーキングプア人口の拡大で、黙っていても利用者がどんどん増えるSNAPは、食品業界にとってドル箱になっているんです」

 要するに「まともな待遇の雇用を確保するよりも、低賃金の単純労働+SNAPでとりあえずなんとか食べられるくらいの保障はして生き延びさせ、その食費も大企業に吸収される」ようになっているのです。

 明らかに「国民の健康を害する」システムなのに、政府は、見てみぬふりをして、大企業の利益を優先しています。

 これって、間接的な「奴隷制度」じゃないのか?


 また、アメリカでは、GM(遺伝子組換え)作物が食生活に占める割合が、年々上昇しているそうです。


 だがGMは新しい技術であるため、長期にわたる環境や人体のへの影響を検証した実験結果が確立されていない。そのため安全性を巡る議論は今も続いており、現在世界では35ヵ国が、GM作物の輸入を規制または全面禁止措置中だ。

 アイオワ州の農業従事者のラッセル・リードは、多くのGM作物が耐性を持つ、「ラウンド・アップ」という商品名の除草剤についてこう語る。

「『ラウンドアップ』はGM種子最大手のモンサント社が販売する、世界で最も普及しているグリホサートを主成分とする除草剤です。モンサント社はこの除草剤を、これに耐性を持つGM種子と必ずセットで販売する。農家がこの除草剤を散布すると、GM種子以外の雑草だけが枯れるしくみです。

ですがヨーロッパではすでにこの除草剤は発がん性を有し、奇形、喘息発症を誘発するなど安全性に問題があるとして、禁止されています。

さらに1996年にはニューヨークで、2001年にはフランスで、それぞれ消費者団体や環境活動家たちが、モンサント社のこの除草剤に対し訴訟を起こしているのです」

 それは「土に落ちると無害化して土壌に残らない」というラウンドアップの「生分解性」ラベル表示が虚偽であるという内容だった。結果はどちらも裁判所がモンサント社側に「虚偽広告」の判決を下している。

 この「GM種子+特定の除草剤」の組み合わせは、一度使い始めると、ずっと続けざるをえなくなるのです。

 除草剤に耐性を持つGM種子じゃないと、生育できない土壌になってしまうので。
 そして、この種子を世界各国で使わせることによって、多国籍企業は各国の農業を「支配」していくのです。

 ちなみに、科学雑誌に、このGM種子の危険性を訴える研究論文を載せたりすると、壮絶な「あら探し」がはじまり、論文を書いた人は大バッシングを受けるのだとか。科学の世界も、企業の営利活動と無縁ではありません。

 研究にはお金がかかるし、お金を持っている企業の力で、科学者の「警告」はもみ消されてしまう。
 

 この本を読んでいると、アメリカの荒廃っぷりには愕然とします。

 義務教育レベルの学校が「自由競争」という名目で選別され、公立学校が無くなり、授業料が高い私立ばかりになる「ビジネス化」。

 民営化され、不採算部門が削られていくことによる公共サービスの劣化。


 2012年10月。
 メジャーリーグの試合で盛り上がるミシガン州デトロイト市のタイガース球場入り口では、こんなチラシが配られていた。


「注意! デトロイトには自己責任でお入りください」

・デトロイトは全米一暴力的な町です。

・デトロイトは全米一殺人件数の多い町です。

・デトロイト市警は人手不足です。

・人手不足のため12時間シフトで働かされ……警官は疲労困憊しています。

・デトロイト市警の賃金は全米最低ですが、市はさらに1割カットしようとしています。


 配布していたのは、現役のデトロイト市警官たちだ。

 デトロイトは2000年から2010年の10年間で、住民の4分の1が郊外や州外に逃げ出してしまった町だ。財政破綻による「歳出削減」で犯罪率が増えているにもかかわらず市は公共部門の切り捨てを実施、学校や消防署、警察などのサービスが次々に凍結されている。

 こうした傾向はミシガン州だけでなく、全米の自治体で起きている。2010年7月にはやはり財政難に陥ったオレゴン州の自治体が維持費が続かずに刑務所を閉鎖、すでに警官が大量解雇された町中に刑期を終えていない囚人があふれだし、恐怖のあまり州外に逃げる住民が急増した。

 これ、『リアル北斗の拳』の世界じゃないですか……

 また、大企業は「安い給料でも辞めずに働く労働力」として「囚人」に目をつけて、どんどん酷使してもいるのです。

 州によっては、囚人労働力確保のため、早期釈放を行わない制度まで導入されているのだとか。

 名目上は「犯罪者に厳罰を与える」ということで。

 一般社会で生活している人が、どんなに安い賃金でガマンするといっても、囚人にはかないません。

 なんかもう、「金のためなら、なんでもあり」すぎて、笑えてくるほどです。


 また、2005年には「完全民間経営自治体サンディ・スプリングス」が誕生したそうです。

 人口10万人のこの町は、富裕層で占められ、大手建設会社によって「運営」されています。

 この町ができた経緯を、著者はこんなふうに紹介しています。


 2005年8月、ハリケーン・カトリーナによって大きな水害に見舞われたジョージア州では、水没した地域住民のほとんどがアフリカ系アメリカ人の低所得層だったことから、アトランタ近郊に住む富裕層の不満が拡大していた。

 共和党の彼らは、「小さな政府」を信奉している層だ。

 なぜ自分たちの税金が、貧しい人たちの公共サービスに吸い取られなければいけないのか? ハリケーンで壊滅状態の被災地を、わざわざ莫大な予算をかけて復興させても、住民の多くは結局公共施設なしでは自活できないではないか。政府の介入の仕方はまるで社会主義だ。私たちはいったい、今後も延々と行政支援を必要とする人々のために、どれだけ貴重な税金を投じなければならないのか? 

 どうしても納得いかない彼らはこの件について住民投票を行い、やっとベストな解決策を打ち出した。

 郡を離れ、自分たちだけの自治体を好きなように作って独立すればいいのだ。

 僕の感覚では、「こういうのって、頭の中で考えることはあっても、堂々と主張するべきではない」ような気がするんですよ。

 助け合うのが「公共のルール」だろう、って。
 多くの日本人も、たぶんそうだと思います。

 ところが、このサンディ・スプリングスの人たちは「自分たちが巻き添えになるのはイヤだ」と声高に叫んだのです。

 そして、叫んでみたら、意外と、彼らを阻むものはいなかった。

 こういう「公共の意識のゆらぎ」は、たぶん、アメリカの一部の富裕層だけに起こっていることじゃないんですよね。
 
 
 それでも、オバマ大統領になって、少しはマシになったのではないか、オバマさんを議会が邪魔しなければ、もうちょっと社会保障制度が改善されたアメリカになるのではないか、と思っていたのです。

 でも、現実はほとんど変わっていなかった。


「2012年の選挙は、大きな政府に反発するティーパーティ運動の存在に焦点があてられ、赤と青に分断されるアメリカというイメージで描かれていましたね」

「赤と青に分断されたアメリカ、そのとおりです。国民の意識は保守対リベラルにひきつけられる。けれどそれはバーターで、今のアメリカ民主主義は「1%」によってすべてが買われているのです。司法、行政、立法、マスコミ……

「1%」は二大政党両方に投資し、どちらが勝っても元は取る。テレビの情報を信じる国民は、バックに巨大企業がいることなど夢にも思わずに、いまだに敵を間違えているのです」

みんなはオバマvsロムニーの「対決」だと思っていた。

ところが、内実は「1% vs 1%」であり、どちらが勝っても、大勢に影響はなかったのです。

大企業は、どちらが勝ってもいいように、あらかじめ両方に賭けていたのだから。


ああ、アメリカって酷い!と言いかけて、日本のことを思いだしてみると、自民党と民主党だって、似たようなものですよね。

民主党のなかには、もと自民党だった人がたくさんいて、政策もそんなに大差はありません。

政権交代というけれど、結局のところ「自民党的なもの」がずっと勝ち続けているだけ。


この新書の後半では、「1% vs 99%」という構図が何度も出てきます。

でも、『貧困大陸アメリカ』が世に出てから5年間のことを思いだしてみても、本当に、これが実情なのかどうか?

「1%が幸福を独占している(というか、本当にここまでやって、企業が金を儲けることが、「1%組」を幸福にしているのだろうか?と僕は疑問なのですが)」というけれど、残りの99%は、一枚岩じゃない。

99%のなかのごく一部の(これも「1%」くらいかもしれません)「意識高い系」が格差の是正を訴えている一方で、「99%」の大部分は、目の前の生活に追われ、「1%」を呪いながら、「意識高い系」の高偏差値な啓蒙運動にもついていけずにいるように思われます。


「毎日テレビ観て、ウォルマートで買ったジャンクフードを食べている生活で、それなりに幸せ」な人が、世の中の多数派なのではないか?

もしかしたら、「1%対99%」ではなくて、「1%対1%対98%」なのではないか?


著者は最後に「希望めいたこと」を書いておられるのですが、僕は、これからの日本もこうなっていくんだろうなあ、という絶望感がつのるばかりでした。

こんな世の中で、誰が幸せになっているのかねえ……
http://fujipon.hatenadiary.com/entries/2013/07/08#p1


アメリカ人の超絶肥満の原因は「フードスタンプ」で食べる ジャンクフード + コーラの糖分だった


【衝撃】 アメリカのデブが異次元すぎるwwwwww どうやったらここまで太れるんだよ
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4537088.html
https://matome.naver.jp/odai/2137949022098247301


5. 中川隆[-13497] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:36:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

学歴重視の社会はグローバル化でより強化されて極端化する

2018年1月22日。国際NGOオックスファムは「世界人口の1%にあたる富裕層が1年間に生み出された富の82%を独占した一方、所得の低い人口の約半分は財産が増えなかった」という報告を出している。

相も変わらず、格差は広がり続けている。

この弱肉強食の資本主義では、貧しい家庭に生まれるか、豊かな家庭に生まれるか。貧困国で生まれるか、先進国で生まれるか。それだけで人生はまったく違ってしまう。

先進国の富裕層の家庭で生まれれば、経済的な苦労はしない。親の資力や人脈をフルに使って、親と同様に豊かで実りある人生を築き上げることができる確率が高い。

しかし、その逆も然りである。貧困層に生まれれば、親と同様に、貧困の中で喘ぎ、這い上がりたくても這い上がれないことが多い。

これを「貧困の悪循環」というが、国の貧困、親の貧困は、子供にも引き継がれやすい。

もちろん、最初は貧困状態であっても、一生懸命努力し、アイデアと、実行力と、不屈の精神で金持ちに成り上がっていく人も、世の中にはたまにいる。

そういった人の人生は、多くの貧困層を力づけ、大きなモチベーションの元になる。アメリカ人は特にそういった「成り上がり」の物語が大好きだ。


子の世代が親の世代と同じ階層にとどまる確率

アメリカ人の持つ人生観は、最初は何もなくても、そこから自分の才能や努力でポジティブに成功をつかみ取っていくという「アメリカン・ドリーム」で成り立っている。

しかし、このアメリカン・ドリームは、どんどん難しくなっているのだと経済学者は指摘するようになっている。

ウィートン大学の経済学者であるジェイソン・ロング氏もそのような主張をする人のひとりである。

アメリカは、貧困世帯の子供たちが中流層や富裕層に移動する割合が高いと思われているが、実際に「世代間所得弾力性」を数値化してみると、子の世代が親の世代と同じ階層にとどまる確率の方が高かった。

つまり、親が貧困であれば子供もまた貧困で終わる。

もう、アメリカはチャンスの国ではなくなっている。親が貧困層でも、子供が中流になる確率は、現代ではむしろ、中国、インド、南米諸国のような新興国の方が高いというのが、ジェイソン・ロング氏の分析だった。

「米国人は今でも自分たちは移動性が極めて高いと信じているが、それは真実ではない」

ここで発言されている「移動性」というのは、貧困層から中流以上に「移動」する世代間移動を指している。主要先進国の中では、イギリスが最も世代間移動が低い。

すなわち、イギリスでは、貧困層の子供は中流に成り上がるのはとても難しい。イタリアもまた、そのような硬直した社会である。

アメリカン・ドリームという言葉によって希望に満ち溢れていたはずのアメリカもまた、現代では貧困の固定化が進んでいて、成り上がれない社会になりつつある。

資本主義がグローバル化すればするほど、そして企業の合理化と効率化が進めば進むほど、その傾向が高まっていく。


学歴社会がアメリカン・ドリームを難しいものに

ここで注意しなければならないのは、資本主義そのものは別に階級を固定化させているわけではないので、今でもアメリカン・ドリームを実現する人たちは存在するということだ。

貧困層が中流に成り上がっていく物語は、今も消えていない。

しかし、かつては努力と根性で何とかなったアメリカン・ドリームは、もうそれだけではどうにもならないほど難しいものになっているのが現状なのだ。

これには、多くの理由がある。

その理由のひとつとして経済学者の誰もが指摘するのは、アメリカが明確な学歴社会と化して、学歴のない人間は「良い仕事」を見つけるのは絶望的に難しくなっていることが挙げられる。

良い仕事に就くためには、良い大学に行く必要がある。とにかく大学を卒業するのが必須だ。しかし、その大学に行くためには莫大な費用がかかる。

アメリカの有名大学では、だいたい年間600万円以上かかるので、4年間通えば2400万円以上も必要になる。これだけの金を出せる家庭は中流階級でもなかなかいない。奨学金制度もあるが、誰もがもらえるわけではない。

そこで学生ローンを利用して大学に通うことになるのだが、貧困家庭では、そもそもその学生ローンですら組めない。

かくして貧困層は大学から閉め出され、良い仕事から閉め出され、努力と根性で何とかなったアメリカン・ドリームは遠くに消え去ってしまった。

ちなみに、中流階級でも、無理して学生ローンを組んで大学を卒業しても、たまたま不景気でまともな仕事が見つからないと、借金を抱えたまま首が絞まって「成り上がる」どころか、貧困層に堕ちていく確率が高まる。

アメリカではアメリカン・ドリームを実現する人たちよりも、貧困層に堕ちる人たちの方が増えている。


どこの国でも、アメリカと同じ傾向が進んでいる

実は、グローバル化した社会では、アメリカだけではなく、どこの国でも同じ傾向が進んでいる。人々は国境を越えてビジネスを行い、外国企業に就職し、異国で生活するのが当たり前になっている。

多国籍企業は、その人材の良し悪しはまずは学歴を見る。有名大学、ブランド大学の卒業であれば優秀であると、だいたい学歴を見れば判断できる。

だから、世界的に学歴社会がこれから進んでいき、それが標準になっていく。

この傾向が進めば、経済的な理由や、家庭環境によって学歴が持てなかった人間は、どんどんドリーム(成り上がり)から排除されていくことになる。

「貧しい者は、貧しいまま終わる」という身分の固定化が進み、それが格差となり、長い格差の時代は階級(クラス)の固定化につながって「身分制度」同様になっていく。

(1)資金力の欠如で大学に行けない。
(2)好待遇・高賃金の仕事に就けない。
(3)低賃金の仕事を余儀なくされる。
(3)結果として貧困に落ちる。
(5)貧困に落ちたらそれが固定化される。

社会はより高度に複雑化していく。そのため、今までも珍しくなかったこのような格差は、グローバル化した社会でより強化され、徹底され、先鋭化し、極端化する。

日本でもそうだ。資金力の欠如で大学に通えず、低賃金の仕事から抜けられず、貧困層のまま推移し、貧困の固定化が身分制度のようになりつつある。

好待遇・高賃金の仕事に就けた者はその資金を投資に投じてますます資産を膨らませ、一方で貧困層は資産を増やす元手すらも貯まらない。

かくして、「世界人口の1%にあたる富裕層が1年間に生み出された富の82%を独占した一方、所得の低い人口の約半分は財産が増えなかった」という社会が出現したのだ。

私たちは、いつの間にかその中で生きていることに気付かなければならない。


良い仕事に就くためには、良い大学に行く必要がある。良し悪しに限らず、とにかく大学を卒業するのが必須だ。しかし、その大学に行くためには莫大な費用がかかる。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/01/20180126T1725560900.html


6. 中川隆[-13496] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:38:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している


多くの日本人は勘違いしているのだが、物を覚えるというのと、考えることができるというのは別のものだ。

・覚える。
・考える。

この2つは似ているようで、まったく違う。覚えるというのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶するというものだ。

しかし、「覚える」というのは単なる基本であり、本来はそこからさらに飛躍しなければならない。それが「考える」というものだ。

学校が物を覚えさせる場所であるというのは誰でも知っている。しかし、考えさせているのだろうか。

日本の教育は、構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっている。覚えさせても、考えさせないのである。「考える」という部分を軽視している。

なぜか。それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解できるかもしれない。学校とは、社会で通用する人間を作り出すところだからだ。日本で「社会に通用する」というのは、サラリーマンになれるということでもある。


教育とは子供を規格化するという側面がある

学校は最終的に子供を社会で通用する人間に「矯正」する場所である。子供を規格化するのだ。

日本では国民の8割がサラリーマンであることを考えると、日本の学校で重要な使命は日本人がサラリーマンとして通用するように規格化するのが使命と言うことになる。

ここに問題がある。サラリーマンとは、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」ということができる人間でなければならない。

だから、日本の教育はその現状に沿って、そういった人間を作り出す仕組みになっているのである。上記の特徴を、もう一度よく考えてみて欲しい。あることに気づかないだろうか。

「上司の言うことをよく聞く」とは、自分の意見を持たないで指示待ちの人間になるということである。つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

「口答えしない」と言うのも、自分の意見を殺して会社の意向を無条件で重視するというものだ。つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

「言われたことを忠実に行う」というのも、ロボットのようになるということであり、それはすなわち自分で「考えない」ことが求められている。

「不満があっても黙々と働く」という奴隷のような状態も同じで、「考えないようにする」ことで達成できる。

「集団生活を優先する」というのも、結局は自分の意見や考えよりも会社集団を尊重するということであるから、「考えない」ことで達成できるのだ。


「よけいなことを考えるな」というメッセージ

サラリーマンは考えることよりも、考えないことが求められる職業である。何をどうするかという部分についても「考えさせない」ために、企業は「マニュアル」を用意している。

マニュアルというのは、実は人間を「考えさせない」ためのものであることに気づかなければならない。

マニュアルは効率化とサービスの均質化を生み出すので企業にとっては好都合な存在だ。

しかし、逆に考えると、それを行う人間には「この通りにやれ」という強制になる。

誰もが同じ手順でやるように強制し、一切の例外を認めさせない。マニュアルは、「よけいなことを考えるな」というメッセージなのである。

サラリーマンが考えていいのは、会社が「考えろ」と強制した部分だけだ。それ以外の部分は「考えないこと」が期待されている。

それもそうだ。考えるというのは、自分の意見を持つということだ。考えて自分の意見を押し通すというのは、集団よりも個人を優先するということなのだ。

サラリーマン全員が、自分の好き勝手にあれこれ考え始めると、統制が付かなくなる。

だから、あれこれ「考えない」で、言われたことだけを完璧に実行するロボットのような人間を企業は欲しがり、学校はそれを意識的にも無意識的にも読み取って、そのようになるように子供を矯正していく。

学校に課せられた使命は、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」人間を作り出すことなのだ。

そして、国民の8割が学校を卒業してサラリーマンになるのだから、その教育は成功していると言うことができる。


日本の教育では「考えさせない」ことが使命

ところで、人間はいろいろ物を覚えさせれば自然に「考える」人間になってしまう。しかし、日本の教育では「考えさせない」ことが使命としてある。

教育の現場では、どうやって子供たちを考えさせないようにしているのだろうか。それには、次の5つによって、成し遂げられている。

(1)暗記を押し付けて「考えさせない」
(2)苦手を押し付けて「考えさせない」
(3)制服を押し付けて「考えさせない」
(4)規則を押し付けて「考えさせない」
(5)団体行動を押し付けて「考えさせない」

暗記をひたすらやらせると、考えるヒマがない。だから、学校は考える余裕がなくなるほど、暗記させる。

暗記教育が悪いわけではないが、暗記重視によって考えるという部分が消失してしまうようにしているのは問題だ。

得意を伸ばさず、苦手を克服するように仕向けるのも、考えさせるのを嫌にするための手法だ。

誰もが苦手なものを考えるのは苦痛だが、その苦痛を押しつけることによって、考えることそのものを苦痛にしてしまう。その結果、誰も考えなくなってしまう。

制服を押しつけるのも、個性を殺して「考えさせない」ための有益な手法である。

細かい規則を守らせるのも、団体行動を強制するのも、すべて「考えさせない」で「従わせる」ためのものなのである。学校が馬鹿げているほど細かい規則を守らせるのはなぜか。

究極的には「何も考えず、黙って従う」人間を作り出すためだ。日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出していると言っても過言ではない。

あなたは考えているだろうか? あなたの受けた教育は、社畜になるための教育だったのだから、「自分を取り戻す」ためには、学校で覚えたことはすべて忘れる必要がある。

ただ、サラリーマンで居続けたい人間だけは、考えてはいけない。下手に考えると、社会からはぐれてしまうからだ。
http://www.bllackz.com/2014/01/blog-post_16.html


先頭に黙って従って、先頭と一緒に地獄に堕ちるのが日本人

アフリカの大地をジープで走ると、大勢の子供たちがジープの後ろを走って喜んでいる姿を、あなたはテレビや映画で見たことがあるはずだ。

あるいは、祭りで先頭の賑やかな一団の後を、無意識について回っている人の姿を、あなたは見たことがあるはずだ。

あるいは、有名人が街を歩いていると、そのファンや野次馬がやはり、ぞろぞろと後ろを歩いている人の姿を、あなたは見たことがあるはずだ。

あるいは、観光地で旗を持ったガイドの後ろを、何も考えないで歩いている人を、あなたは見たことがあるはずだ。

先頭が向かっている方向に、後ろの人間が何も考えずに従う姿は、別に珍しい光景ではない。先頭の人間はどこに向かうか、何を目指しているのかは知っている。

しかし、後ろを歩いている人間には、先頭がどこに向かっているのかは何も知らない。ただ、盲目的に付いて回っているだけで、主体性があるわけではない。知らずして、どこかに連れて行かれている。


自分よりも他人の意見が「主」になっている

先頭に従う。流行に従う。群衆に従う。テレビに従う。

実は、日本人はどの民族よりもそういった傾向が強いことはよく知られている。たとえば、流行に従うというのは、こういった言葉に集約される。

「みんなが見ているテレビ番組を、自分も見る」
「みんなが持っているものを、自分も欲しい」
「流行っているから、自分も手に入れる」
「みんなが良いというから、自分も良いと思う」

これはひとことで言うと、自分が特に好きではなくても、みんなが好きだと言っていたら、自分も好きになるということであり、自分よりも他人の意見が「主」になっている状態を指している。

場合によっては、自分の意見が存在していない可能性もある。

「自分の意見が存在しない」「他人に従う」と言えば、誰でも危険な状態であると分かるが、そんな危険な状態でも、実はひとつの大きなメリットがある。

先頭が正しければ、自分は何も考えず、疑問も抱かず、大船に乗った気分で、まっすぐと正しい方向に向かえることだ。

何しろ、先頭が正しいのだから、難しいことも面倒な決断もしなくてもいい。ただ従うだけで正しい方向に導かれる。これは楽だし、効率が良い。

だから、「他人に従う」というのは、あながちデメリットばかりがあるわけではない。場合によっては、猛烈に楽な人生を送ることも可能だ。


社長が間違うと、自分の人生が吹き飛ぶ

しかし、先頭が間違うと、どうなるのか。先頭が手痛い間違いを犯すと、当然だが自分も一緒に間違う。

先頭が崖から落ちると、自分も崖から落ちる。先頭が裏切ると、自分はカモにされる。先頭が乗っ取られると、自分が食い物にされる。

それも、やすやすと突き落とされ、裏切られ、カモにされ、食い物にされる。なぜなら、今までずっと先頭に従って生きてきたので、もはや自分の意見がまったくないからだ。

日本人の多くの人々は、サラリーマンとして人生を送る。サラリーマンになるというのは、社長という「先頭」に従うということである。

サラリーマンは、自分が会社を経営しているわけでも、自分が決断しているわけでもない。多くは、言われたことを黙ってこなしている。

ということは、社長が間違うと、自分の人生が吹き飛ぶということでもある。

社長が致命的なまでのミスを犯すと、もちろん社長も自分の人生が破滅する。しかし、順番から言うと、社員を切り捨てる方が先だから、社長よりも社員が先に苦境に落ちる。

日本は戦後から1989年までは一貫して成長局面だったので、多くの日本人は黙って会社に従っているだけで、自分は何も考えなくても生きていけた。

ところが、1990年代から日本が衰退局面に入ると、先頭が間違ったり、先頭が立ちゆかなくなったり、先頭が乗っ取られたり、先頭が死んだりして、先頭に従って自分が死ぬケースが増えて来た。

2010年以降は、さらにそれが加速して、先頭が率先して後ろに従ってくる人間たちを切り捨てるようになっている。つまり、日本人の多くが苦境に陥っているのは、もはや先頭が頼りにならなくなっているからだ。

それでも先頭に黙って従って、先頭と一緒に地獄に堕ちるのが、典型的な日本人の姿であるとも言える。


それが駄目になったら、みんなまとめて駄目になる

黙って従っていたらメリットが享受できる時代は終わってしまった。

これは、若年層の生き方にも強く影響する。若年層は、「良い大学に行って、良い会社に行く」という「みんながやっていること」に従っていれば良かった。

「良い大学に行って、良い会社に行く」というのは、日本人の人生設計の「流行」だったのだ。

日本人の8割がサラリーマンであるとすれば、日本人の8割が「良い大学に行って、良い会社に行く」という人生設計しか考えていなかったということになる。

だとすれば、サラリーマンという生き方が崩壊しつつある今、この「流行の生き方」では、もう人生が渡っていけないということになる。

なぜ、大学を卒業しても仕事がないのか。
なぜ、就職活動で数十社に断られるのか。
なぜ、就職活動で絶望して自殺するのか。

答えは簡単だ。もう、この流行の人生設計は「時代に合わないもの」「間違った生き方」になっているからである。

人には、いろいろな生き方、いろいろな道、いろいろな哲学があるのに、単に「良い大学に行って、良い会社に行く」という考え方しか用意されていないとすれば、それが駄目になったら、みんなまとめて駄目になるのは当然だ。

良い大学に行って、良い会社に行くという考え方は、国や社会が日本人に押し付けていた「流行」だったのだ。

その「流行」が終われば、流行に乗っていた人間は、みんな終わってしまうのである。事実、今そのようになっている。

流行に乗り、黙って従っていたらメリットが享受できるという日本特有のメリットの時代は終わった。

いつまでも弄ばれるがままになってしまう

日本人の世論は、マスコミが作っている。

新聞社もメディアも、衰退産業とは言えども、いまだに圧倒的なパワーを持った媒体であり、その影響力を過小評価するのは間違っている。

マスコミは、流行(トレンド)を作り出すことができる。

では、そのマスコミが間違うと、どうなるのか。もちろん、先頭が間違うのだから、それに黙って従っている後ろの人間はみんなまとめて間違うということになる。

先頭が歪曲した情報を垂れ流せば、日本人はみんな歪曲した情報を信じ、先頭が世論誘導を垂れ流せば、日本人はみんなそちらに誘導されていく。

だから、「みんなが見ているテレビ番組を、自分も見たい」とか、「みんなが良いというから、自分も良いと思う」という発想がある人は、みんなまとめてマスコミに心を弄ばれることになる。

もうマスコミは信じてはいけないものの代表になっているが、それでも「先頭に従う」という心理状態から抜け出せなければ、いつまでも弄ばれるがままになってしまう。

先頭が右と言えば右、左と言えば左に行くのは、みんな揃って自滅への道を辿っているかもしれない。

今、しなければならないことは簡単だ。

主体性を取り戻せばいい。主体性を取り戻すというのは、自分の人生を取り戻すということにつながる。

何をすればいいのか分からなければ、一番簡単な方法がある。とても、簡単で、すぐにでもできる方法だ。


意識的に押し付けられたものを拒絶する

それは、社会や国やマスコミが押し付ける流行(トレンド)を「拒絶する」ことだ。

・流行(トレンド)を拒絶する。
・押し付けられた意見を拒絶する。
・敷かれたレールを拒絶する。
・自分の哲学とは相容れないものは拒絶する。

流行を拒絶すれば、「では、自分は何が好きなのか?」という話に必ずなっていく。自分が好きなものを自分で選ぶのが主体性を持つということだ。

押し付けられた意見を拒絶すれば、「では、自分の意見は何なのか?」という話に必ずなっていく。自分の意見を自分で選ぶのが主体性を持つということだ。

国や社会が頼りにならなくなってきているということは、そこから自分を切り離して、自分の生き方を模索しなければならなくなっているということだ。

それならば、社会から押し付けられているものを、いったん拒絶することによって、自分を取り戻すことができる。

日本人はいつも「受け入れること」「自分を出さないこと」「従うこと」に重点を置いてきた。だから、無意識にそのような生き方になる。

そんな日本人が覚醒するためには、意識的に押し付けられたものを拒絶することによって、簡単に自分を取り戻すことができるようになる。

人生も、意見も、他人に合わせるのではなく、自分に合わせることができないと、これからの時代は逆に生きていけない。

だから、社会や国やマスコミが仕掛ける流行(トレンド)や世論は、まずは「拒絶」してみて、そこから自分の意見を考えるのが分かりやすい。

覚醒する第一歩となる。


先頭が崖から落ちても次々と従う「レミングの自殺」
これは、他人事だろうか?
http://www.bllackz.com/2013/09/blog-post_25.html?utm_source=BP_recent


そろそろ、優秀な人材の定義を変えなければならない時代だ


かつて、1945年から1950年の日本では、石炭の会社が一流大学の学生の人気の就職先だった。石炭は日本のエネルギーを支える非常に重要なものであると思われていたからだ。

しかし、一流大学の学生が殺到していたその頃が石炭企業のピークで、あとは凋落の一歩を辿った。

同じ頃、衣料品に不足していた日本では、繊維業界も空前の売上を誇り、多くの一流大学の学生が繊維業界に殺到した。繊維業界は未来永劫に成長すると思われた就職先だったのだ。

しかし、一流大学の学生が殺到していたその頃が繊維企業のピークで、あとは凋落の一歩を辿った。

映画産業も、人々の羨望の的であり、一流大学の学生が殺到していたが、やがてテレビの時代が来ると、映画産業は一気に衰退して斜陽産業となった。

化学肥料の企業も、当時は最重要な分野だと言われて一流大学の学生が殺到していたが、やがて衰退して凋落していく。


公務員や官僚には「死亡フラグ」が立っている

バブルの頃は、誰もが不動産産業に入りたがって、まったく関係ない人間も宅建法のような資格を取りに走ったほどだった。

ここでも、一流大学の学生が不動産会社に殺到していたが、バブル崩壊に見舞われると、不動産会社は一気に凋落していった。

この頃は金融機関に就職するのも流行っていたが、バブル崩壊で銀行や証券会社がどうなったのか。不良債権を抱えて身動きできなくなったのが、金融機関ではなかったか。

ちなみに、現在は日本企業がグローバル化に乗り遅れて苦境に落ちる時代だ。

その現状を見て、一流大学の学生は「公務員」を目指しているということを聞く。霞ヶ関で官僚になるのが目標になっているのだという。

公務員や官僚になれば安泰だという発想なのだろう。

そう考えると、公務員や官僚にはかなり強い「死亡フラグ」が立っているも同然だ。

それほど遠くない将来、公務員という立場は衰退し、崩壊し、見るも無惨な立場になっていくということが予測できる。

時代は必ず変わっていく。しかし、多くの人は「目の前の羽振りの良い業種」しか見えない。

次に何が来るのか予測も付かないので、とりあえず「現在素晴らしいもの」に飛びつくしかないと考えている。打算的な人であればあるほど、そうなのだ。

現在「素晴らしい」業界にいれば、まわりもちやほやしてくれるし、すぐに楽できる。しかし、現在が素晴らしいということは後は落ちるだけということでもある。一瞬は良くても、あとはずっとじり貧が続く。

そして、「ここにいてはいけない」と気が付く頃には、もう抜け出せない年齢になっている。


本当は、集まった人材は優秀ではなかった?

ここで気が付かなければならないのは、2点ある。

1点は、一流大学の学生が殺到する産業は、そのときがピークで近いうちに凋落するというのがひとつだ。

一流企業の学生は、その時代で最も輝いている企業から熱烈歓迎されるので、大勢がそこに向かうのだが、それは単なる人気投票で「今は」ナンバーワンであるというだけなのだ。

「今は」そうであっても、「将来も」そうであるとは限らない。むしろ、頂点を極めたら、あとは落ちるだけしかないというのは小学生でも思いつく社会現象だ。それを、なぜか「優秀」な学生が思いつかない。

2000年代、パソコンが全世界を制覇するような勢いで広まり、マイクロソフト社が頂点に立ったが、それを見て多くの一流大学の学生はマイクロソフトに殺到したかもしれない。

それから10年経ってどうなっているのか。スマートフォンやタブレットの時代になって、パソコンは「衰退」に入りつつあるのが分かる。

現在、一流大学の学生はグーグル社に殺到しているが、それを意味するところは、10年後にはグーグル社とそのコアとなるビジネスは「衰退」してしまっているのがほぼ確定しているということだろう。

もう1点は、その業界に一流の頭脳が集まっていても、凋落を止めることができないというのがひとつだ。

これを指して、このような指摘をする人もいる。

「一流大学の優秀な人材が集まった業界は衰退するというが、それほど優秀な人材がいたのであれば、なぜ会社を躍進できなかったのか?」

「本当に優秀なら先を読んで手を打てたのに、それができないとすると、実のところ集まった人材は優秀ではなかったのではないのか?」


「体制が望む方向」に勤勉だったということ

昔から現在まで、日本で「優秀な人材」というと、紛れもなく「有名大学を良い成績で卒業した人」という意味だ。学歴社会のコアになっている考え方がここにある。

一流大学の成績優秀者であればあるほど「良い人材」なのである。これらの学生は、必死に勉強し、熱心に暗記し、勤勉であるのは間違いない。

重要なのは、「体制が望む方向」に勤勉だったということだ。体制が作り上げた価値感に従順だったという言い方もできる。

与えられた課題を一生懸命にこなすという意味で優秀だったのだ。「なぜ、こんなものを覚える必要があるのか?」「なぜ、課題を与えられてこなす必要があるのか?」とは考えない。

不良学生は、逆にこう考える。「なぜ、学校は俺に命令する権利があるのか?」「なぜ、興味のないことを覚える必要があるのか?」

不良学生が不良であるのは、体制に従順ではないという意味で不良であり、優秀な学生が優秀であるのは、体制に従順であるという意味で優秀なのだ。

そう考えると、日本人の優秀な人材とは、必然的に体制に従順であることが分かる。そして、体制を疑わない人間ばかりがトップに集まるということになる。

体制を疑わないということは、体制のあり方に疑問を持って、それを変えて行こうとはしないということでもある。

そういう人間をわざわざ選んだのだから、体制のあり方に疑問を持てという方が間違っている。

世の中が変わっても、体制に従順なので、世の中に合わせようとする発想がない。それが変化できない大きな理由になる。

日本のあちこちが「先延ばし」「事なかれ」「優柔不断」になっているのは、要するに体制に従順な人間がトップにいるということであり、いよいよその弊害が現れているということでもある。

日本はすでに中韓との外交的な衝突を迎えている。今後は軍事的な闘争や暴力の時代に向かう。

その前に準備しておかなければならないのは、こういった従順な人材を一掃し、暴力や衝突に対抗できる人間に入れ替えることだ。

場合によっては、「血だるま」になっても相手に向かって行くような、凄絶な人間が必要になるのかもしれないのだ。

時代は待ってくれないので、逡巡している場合ではない。

日本が生き残るためには、そろそろ優秀な人材の定義を変えなければならない時代になっているのである。
http://www.bllackz.com/2013/09/blog-post_27.html  


7. 中川隆[-13495] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:39:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

普通の人生を歩みたい学生が、絶対に知ってはいけないこと


教育方針は文部科学省が決めている。その文部科学省は、政治家・官僚・企業経営者等に意見を求めてそれを決める。各界から様々な提言があって、それが吟味されて教育方針に盛り込まれていく。

子供たちが卒業したら、その子供たちを雇うのは企業である。だから、日本経団連のような組織が積極的に「教育方針の提言」を行って、その意見が大きく取り入れられる。

日本の教育方針は、日本人をサラリーマンに仕立てあげる場所であると言われるのは、ここに理由がある。

学生が学校を卒業したあと、まったく企業に合わない人間になっていたら、彼らはたちまち路頭に迷う。

だから、子供たちが卒業したらすぐに企業に入ってサラリーマンとして無難に生きていけるように、学校で規格化されるのである。この規格化を教育と言う。

学校は、どうでもいい細かい規則を守らせて、どうでもいいことを覚えさせて、得意を殺して苦手を伸ばして、全員を平均的な人間に仕立てあげる。それは、なぜなのか。


歯車は、規格化されていないといけない

日本の教育は、子供たちを可もなく、不可もないような平均的な人間にする。没個性を強制し、「みんな同じ」にしてしまう。それは、子供たちが平均的な人間であれば、企業の「歯車」として組み込みやすいからだ。

子供たちの個性が爆発したまま卒業してしまうと、企業はその子供たちを「歯車」として組み込めない。歯車は個性的であってはならない。規格化されていないといけないのである。

だから、日本の学校はみんな平均的な範囲で収まるように子供たちを矯正し、没個性にする。

こういった教育方針によく馴染む子供もいれば、そうでない子供もいる。それが学歴の差となって現れる。

学歴は、教育方針に従順だったかそうでなかったかで差が生まれる。先生に言われた通り、あるいは教育方針の通り、何の疑いもなく直進してきた子供は優秀になる。

自分の好き嫌いを優先させ、教師や教育方針に反撥してきた子供は落ちこぼれて「不良」になる。

日本の教育が、日本人をサラリーマンの歯車にするためのものであると分かれば、「不良」というのは、サラリーマンにするには「不良品」であるという意味であることが分かる。

子供たちが教育方針に従順だったかどうかは、学歴を見れば分かるので、企業はその学歴の差で「一流企業に行く人間」「中小企業に行く人間」「見捨てる人間」とふるいにかける。

世の中はそのような仕組みになっている。だから、日本の教育方針に馴染まない子供は、大人になってサラリーマンになっても大して出世もしないし、金を稼ぐこともできない。

子供のときに教育方針に馴染めたかどうかで、日本人の人生はだいたい決まっていると言ってもいい。


「学歴社会」は、企業が作り上げた人間の規格化

経団連のような企業団体が教育制度を提言し、文部科学省がそれに従い、学校が方針にそって子供たちを規格化する。

「学歴社会」というのは、企業が作り上げた人間の規格化であると気付いている人はあまりいないかもしれない。しかし、それは覚えておいた方がいい。

規格化された製品(子供たち)の品質の良し悪しを、企業は「学歴」で見る。一流企業は品質の良い製品(子供たち)を取って、あとは順次、適当に企業レベルに合った人間を学歴で区分けしていく。

もちろん、不良品は弾く。学校の教育方針に馴染めなかった子供は、サラリーマンにしても馴染めないのは分かりきっているので、そんな人間は最初から雇わない。

つまり、学歴のない人間は最初から雇わない。企業が「自分たちの決めたルールに従えないような子供は、一生雇わない」というのが学歴社会なのである。

学校は何かを覚えるだけにある場所ではない。企業が子供たちを選別するためにある場所だ。

企業が子供たちを選別する場所なのだから、企業にとって都合の悪いことは学校では教えない。社会に出て、多くの学生はこのように思う。

「社会の仕組みを教えてもらえなかった」
「起業の方法を教えてもらえなかった」
「世渡りの方法を教えてもらえなかった」
「自分らしく生きる方法を教えてもらえなかった」

しかし、「なぜ」教えてくれなかったのかと考える学生はほとんどいないはずだ。なぜ、学校はある意味「一番重要なこと」を学生に教えないのか……。


企業の「歯車」になる人間は、知る必要がない

企業の「歯車」になる人間には、社会の仕組みなど知る必要はない。起業の方法など覚える必要はない。世渡りなど知る必要はない。自分らしく生きる方法も知る必要はない。

企業の「歯車」になる人間には、そんなものは何ひとつ必要ないのである。歯車は考える必要はない。言われた通り、黙々と奴隷のように働けばいい。

多くのサラリーマンは自分の置かれている状況に途中で気付き、そして自嘲して「自分たちは社畜だ」と言う。

学校は、子供たちを社畜にするための教育場所だったのだ。だから、社会の仕組みも、起業も、世渡りも、そんなことは教えない。教えないどころか、気付かないようにすらしている。

絶対に、現在の教育方針が「自分を社畜にするもの」と気付かせない。

しかし、学校を卒業して、企業の歯車にされていく中で、どんな愚鈍な人であってもふと「なぜ、自分は企業の歯車になっているのだ? なぜ、自分は社畜にされているのだ?」と気付く日がやって来る。

気付いたときにはもう遅い。ずっと続けてきた社畜を辞めるには手遅れなほど長い時間をそこに費やしてきたし、それで生計を立てているのであれば、おいそれと辞められない。

ふと、社畜になっていることに気付いた人はどうするのか。

もちろん、考えるのを止める。自分が社畜であることを忘れさせてくれるものに飛びつく。何があるのか……。

目の前に、テレビがあるではないか。

テレビは、四六時中くだらない番組を報道して、人間を考えさせないようにしている。かつての「セックス、スクリーン、スポーツ」は、今は「ポルノ、テレビ、ゲーム」と言い替えた方が通じるかもしれない。


もがいている人間ほど、娯楽が必要になる

「ポルノ、テレビ、ゲーム」は、ひとことで言えば「娯楽」と称される。

社畜に陥った人間であればあるほど、自分たちの今の状況を忘れるために、ポルノやテレビやゲームと言った「娯楽」が必要になっていく。

社会のワナに気づいた人間や、それを忘れるためにもがいている人間ほど「娯楽」が必要になる。それなしには生きていけなくなる。だから、社畜の多くは「娯楽」の中毒である。

逆に、経団連のようなエスタブリッシュメントは、逆にそれを大量に蔓延させて、「社畜」に自分たちの置かれている立場を考えさせないようにしているとも言える。

(1)子供を学校で企業の歯車となるように作り上げる。
(2)卒業したら企業に組み入れて実際に歯車にする。
(3)社畜の状況を忘れさせるために娯楽を与える。

このようにして、エスタブリッシュメントは、大量の考えない人間を大量に手に入れて、どんどん「使い捨て」にすることができるようになった。

自分が「考えていない」ことすら気付かない人たちの大量出現は、エスタブリッシュメントがそうなるように社会を作っているからだ。それは、なるべくしてそうなったのである。

組み込まれた人は気付いていけない。それに気がついてしまった人間は、鬱病となって精神を病むからだ。

精神を病んでしまった人を見て、規格化された人はますます恐怖におののき、「考えない」ようにする。テレビは低脳であればあるほどいい。低脳になれば、自分の置かれた状況も考えられないので、結果的に幸せになる。

学生は、これに気付かない方がいいのかもしれない。普通の人生を歩みたい学生がこんなことを知れば、生き方に迷って気が狂ってしまうからだ。


歯車は何も考えなくてもいい。ただ回っていればいいのだ。
http://www.bllackz.com/2014/12/blog-post_26.html



8. 中川隆[-13494] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:40:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

日本を縛る4つのブレーキ。それを打破するのは誰なのか?

日本はまだ多くの人々がきちんと生活していけている素晴らしい社会であり、さらに途上国のように社会の混乱や暴力が蔓延しているわけでもない。

徐々に衰退しているのは確かだが、日本にはまだ底力があり、それなりに国家的地位もある。暴力と無法が蔓延する中東や南米の国々とは違って、秩序も保たれており、人々は安心して生きている。

しかし、今の日本ほど閉塞感、無力感、先の見えない不安感、自信喪失が蔓延している社会はない。そして、多くの日本人は日本で暮らして「幸せ」だと感じていない。

実は、幸せはGDP(国民総生産)とは何ら関連性がないことが知られている。つまり、国が豊かであっても、国民が幸せを感じるかと言えばそうではないのである。

皮肉なことに経済的に問題があるような国の国民の方が、逆に幸せを感じているという結果となっている。日本よりも経済的にはるかに劣るフィリピンやインドネシアの人々の方が、日本人よりも幸せを感じて暮らしている。


日本を縛り付ける4つのブレーキとは?

日本は「前例主義」である。それは、前例がないことをやると批判されるという意味である。新しいことをしようとすると、それは前例がないので、

誰もが「自制」する。あるいは自制させられる。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本は「横並び主義」である。それは、まわりを見回して、まわりと違うことはしないということだ。あるいは、敢えてまわりに合わせるということだ。

まわりに合わせるために、自分の行動を調整する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本は「事なかれ主義」である。それは、衝突が起きそうになると衝突を起こさないように我慢するということだ。正しいか間違っているかはともかく、自分が我慢して場を収める。

あえて軋轢や衝突を起こさないために、自分を抑制する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本は「先延ばし主義」である。それは、サラリーマン社長のやっていることを見てもよく分かる。自分の任期中は「つつがなく」過ごせればいいので、面倒なことやリスキーはことはすべて先に延ばしてしまう。

先に延ばすことによって自分の身分を保身する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

(1)前例主義
(2)横並び主義
(3)事なかれ主義
(4)先延ばし主義

そのどれもが、自分自身の行動を縛り付けるものであることに気付いてもいい。社会にこの4つが強固に機能しているということは、つまり社会があなたを「抑圧している」ということなのである。


社会が機能していない途上国の方が幸せな理由とは

日本の社会はあまりにも、秩序を重視するあまり、それが人々を強烈に縛る「見えない鎖」と化して、人々を閉塞感や無力感に追いやっているのである。

どんなに才能や能力があっても、人間にブレーキをかけさせる4つの主義が働いていると、行動することができないほど縛られてしまう。これが、日本に根深い自信喪失を生み出していると言える。

自分の行動がいちいち抑制されるのだから、やる気が削がれて無気力になり、将来が不安になっても仕方がない。

そう考えると、なぜ経済破綻しているような南米の国家や、途上国に分類される国の国民が、逆に幸せを感じているのかも分かってくる。

途上国では、幸か不幸か国家や社会の規制力が弱い。前例があろうがなかろうが生き延びるために「何でもしなければならない」し、「何でもしろ」という行動が求められている。

他人と同じでなければならないという規制力もない。生きるのに必死だから、他人と衝突することも厭わない。先延ばしなどしていたら死んでしまうから、常にやるべきことをやる。

もともと物を持っておらず、失敗しても失うものもないので、思いきって行動ができる。

つまり、経済破綻しているような国では社会が脆弱なので、逆に国民は規制に縛られることもなく、思いきり自分を解放できるのである。

秩序もなく、物質的豊かさもなく、法的規制も弱く、治安も悪いのだが、だからこそ「やりたいことを全力でできる」という社会になっている。爽快な開放感が、そこにある。


「新しいタイプの日本社会」を模索する時代に

日本は組織や国家に「何でもかんでも規制してもらう」ことによって安全や秩序や安心を手に入れたとも言える。しかし、その社会的秩序は、他人を法や常識で縛ると同時に、自分もまたそれに縛られる元になる。

日本の治安は素晴らしいが、その素晴らしさを維持するために、自分もまた縛られている。しかし、社会を安全に清潔に規則正しくするために、日本人は自分も縛られることを敢えて受け入れたのだ。

その結果、自分自身もまた、「本当はこんなことをしたいのだが、前例はあるのだろうか。なければやめておこう」とか、「こんなことをしている人はいないので、他人がしていないのならやめておこう」とか「こんなことをしたら風波を立てるからやめておこう」とか「こんなことをしたら何を言われるか分からないから先延ばしにしよう」という話になっていく。

しかし、あまりに社会全体がこの4つのブレーキが強く効きすぎた結果、日本人すらも社会に対して閉塞感を感じるようになり、今やそれを通り過ぎて「窒息感」にもなっているようにも見える。

また、日本の社会は今、激変する世界の動きの中で、急激に取り残されようとしており、それが経済の衰退や日本の尊厳の低下となって現れている。

いよいよ日本の今までの社会は時代遅れになって規格に合わなくなっており、「新しいタイプの日本社会」を模索していかなければならない局面に来ている。

それには、日本を縛り付けている「4つのブレーキ」を大胆に取り外して、跳躍することが求められている。

幕末・明治維新の混乱期は、名もない下級武士が歴史を変えたのと同様に、新しい時代はまだ何も持っていない人間が変える。社会が激動するときは、いつも名もない人間が既存社会を打ち壊して新たな社会を作り出す。

日本の閉塞感は極まっている。いよいよ、日本を変える一群が生まれても不思議ではない。


幕末・明治維新の混乱期は、名もない下級武士が歴史を変えたのと同様に、新しい時代はまだ何も持っていない人間が変える。社会が激動するときは、いつも名もない人間が既存社会を打ち壊して新たな社会を作り出す。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20150327T1736020900


規格化された存在が色あせ、逆に「ワケあり」が輝く時代に

世の中は面白いもので、規格化されて何もかもがきちんと整備されてしまうと、それ自体が当たり前になって特徴をなくす。

そして、逆に規格化されていない「不良品」だと思われていたものが輝きを増す。

たとえば、よく買い物に行く人は「ワケあり」商品を見ることがあるはずだ。

ワケあり商品というのは、本来は規格品から外れて売り物にならなかったものである。それを、きちんと「ワケありです」と提示しながら売る。

その手法が生まれたとき、「これは発想の転換だ」と多くの人が捉え、そしてそれが面白いと感じて、逆にそちらの方が売れるという現象になっていった。

今ではこの「ワケあり商品」は生鮮食品だけでなく、衣料品から、電化製品まで、あらゆるジャンルで使われていて、ごく当たり前の売り方になっている。


「これはダメだ」と思われた部分が売りになる

この「ワケあり商品」は、「これは売れない」「これはダメだ」と思われた部分が逆に売りになっているわけであり、欠点が逆に利点になっているという希有なケースとも言える。

野菜でもそうだが、本来であれば不揃いな野菜は弾かれる。あるいは、形の悪い野菜も弾かれる。

それは、味や品質に何の問題もないのだが、ただ「見てくれ」が悪いだけで弾かれていたものである。正規品の仲間に入れてもらえず、はみ出し、そして規格品のレベルから見ると「不良」とレッテルを貼られたのだ。

そして、実際に「ワケあり」という売り方が為されるまで、それは見向きもされなかった。ただ見捨てられていたのである。ところが、

(1)欠点があるということを正直に明示する。
(2)欠点があっても品質は変わらないと謳う。
(3)実際に他には瑕疵がなく、信頼できる。

という3点を明示・保証することによって、逆に「ワケあり」が信頼の証になったのだ。

そして、場合によってはワケあり商品の方が、規格化されたものよりも売れるという皮肉な結果さえも生み出すようになっていった。

何もかもが規格品の世界では、「規格化されていない」ものが、逆に個性として大きな「売り」になっていく。「ワケあり商品」が生み出した市場というのは、まさにそれを証明した象徴的なものであったと言ってもいい。

これは、意外に重要な事実であると言える。なぜなら、「私たちの人生」にも関わってくるものだからだ。


サラリーマンとは、言わば「規格品」である

ところで、日本人の8割はサラリーマンであると言われているが、サラリーマンの特徴は、その「均質化」だ。人々は似たような服を着て、似たような仕事をして、似たようなところで、似たようなことをして過ごしている。

サラリーマンとは、言わば「規格品」であると言ってもいい。現代の規格品、人間社会の規格品だ。

そして、この人間の規格化を推し進めているのが「学校教育」でもある。学校教育は、本来はあちこち尖ってバラバラの個性を持った子供たちを、均質的にする場所でもあった。

学校は得意を封じて欠点を引き上げることによって、人間の均質化を生み出している。この日本で行われている教育の本質はこちらに詳しく書いた。

(日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している)
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20140116T1554000900


学校は「尖ったもの」を持つ子供たちを矯正させる。学校教育が長所も欠点もない均質的な子供を大量生産するのは、企業が「歯車となる人材」を求めているからである。

企業に入って組織の一員になるということは、企業の歯車になるということでもある。歯車なのだからどこかが尖っていたり、欠けていたりしたら回らない。均質的であることが求められるのだ。

だから、教育は均質的な人間を作り出し、企業は大学のレベルで規格化された卒業生を雇うという動きになっていた。

人間の規格化は、学校教育や企業社会の中で、私たちには「逃れられないもの」であったと言える。

今までは、それで日本はうまく回ってきた。今までの会社は年功序列であり、終身雇用でもあったので、規格品の歯車であった方が「生きやすい」という時代だった。

だから、多くの人は自分が規格化された人生を歩んでいるということを薄々感じながらも、黙ってそんな人生を生きてきた。それで、食うに困らないのだから、誰もが嬉々として規格品になったとも言える。

その一方で、学校の規格化や企業社会の規格化に馴染めなくて、そこからはみ出した「不良=不良品」がいる。規格化された人間が求められている社会の中で規格外(不良品)なのだから、彼らは冷遇されたままだ。


「不良品」だと思われていたものが輝きを増す

しかし、時代はいよいよ変わって来た。大手企業でも、もはや終身雇用を維持できなくなり、人材は「使い捨て」となった。規格品でいても、捨てられるのだ。

グローバル化、インターネット化、オープン化によって、社会は劇的に変わった。既存のビジネスモデルが通用しなくなっていき、企業はその対応を迫られるようになった。

その中で、「尖った」人間の発想や行動力が必要な局面も多くなってきている。

新しい産業、新しい技術、新しいイノベーションを起こしたり、そこで生き残るには、規格品では間に合わなくなっている。規格化された人間の存在が色あせた。

今まで規格品として生きてきた人間に、突如として規格外のことをやらせたり、考えさせたりしても、なかなか常識を打ち破ることができない。規格品は、イノベーションのために訓練されてきていなかったからである。

日本の大企業のほとんどが停滞してしまっているのは、トップが「サラリーマン社長」であり、しょせん規格品の発想しかできないからであるとも言える。

日本は今、ありとあらゆる分野で規格化されてしまったが故の停滞が生まれてしまっている。社会システムの、何もかもが規格化されて整備されてしまうと、それ自体が当たり前になって特徴をなくすのだ。

だから、逆に規格化されていない「不良品」だと思われていたものが輝きを増す。

まだ日本社会は、規格外として弾き飛ばされていた「尖った人間」たちを「ワケあり」として発掘していない。また、規格品ではないと弾き飛ばされた人たちも、自分たちの潜在能力に気付いていない。

しかし、「ワケあり」商品がひとつの大きな売りとなって正規品よりも売れるようになっているのと同様に、これから人間そのものも「ワケあり」の人間たちがその潜在能力を発揮できる時代となる。

いろいろな規制や配慮や制限で窒息しそうな日本の社会を打ち壊していくのは「規格品」とは思えない。むしろ、今は「ワケあり」として敬遠されている人間であるはずだ。

果たして、どんな「ワケあり」の人間が世の中を変えていくことになるのだろうか。


いろいろな規制や配慮や制限で窒息しそうな日本の社会を打ち壊していくのは「規格品」とは思えない。むしろ、今は「ワケあり」として敬遠されている人間であるはずだ。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20150407T1711100900


9. 中川隆[-13493] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:41:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

グローバル化した社会は、専門を極めた人間が金を稼ぐ社会


日本人の8割がサラリーマンだと政府統計にあるが、これを異常事態であると思わない人は多い。しかし、これはどう考えても異常事態である。

日本人はサラリーマンという生き方が好きで好きで仕方がないというわけでもないはずだ。「社畜」という自嘲の言葉もある通り、嫌でサラリーマンをやっている人も多い。

自分には合っていない、好きでない、辞めたいと、爆発しそうな不平不満を抱えながら耐えている人も山ほどいる。

サラリーマンという生き方は、別にそれ自体が悪いわけではないし、それが間違っているというわけではない。しかし、誰も彼もがサラリーマンになるというところに異常性がある。

これだけ多様化し、様々な職業がある中で、日本人のほとんどがサラリーマンになっている。これは日本人が「平均的教育」で洗脳され続けた結果であると言える。

学校は子供たちを徹底して「平均的な人間」に仕立てあげる場所である。そこで洗脳されてしまったら多くの子供たちが、良くも悪くもない「取り替え可能な規格品」になる。


あなたは、平均的な人間に作り上げられた

学校は、子供たちを採点する。そして、子供たちの苦手を見付けてそれを補正させる。得意な部分を伸ばすのではなく、苦手な部分を引き上げさせる教育をするのだ。

そうすると、子供たちは可もなく不可もない「普通の人間」となっていく。子供たちは、みんな平均的になっていき、子供たちも平均的であることを当たり前であると考える。

平均的であることのメリットは、ほどほどに生きていけるということだ。自分が嫌いなものでも取り組むことができて、耐えながら生きていくことができるようになる。

つまり、日本の教育に強い影響を受けると、サラリーマン向きの人間になっていく。

日本は昔から集団主義の国だが、集団主義の中では平均的であることが喜ばれる。なぜなら、人間がみんな平均的であると組織の歯車にするには好都合で、その人が壊れれば他の人でも取り替えが可能だからである。

サラリーマンというのも平均的な人間の集団で出来ており、その人が壊れても、すぐに他の人で補完できるようになっている。日本の組織が強いのは、要するにそれだけ平均的な人間の補充が山ほどあるからだ。

これは日本人にとって、今までは悪いことではなかった。

日本の企業は終身雇用をモットーにしていたし、どこの企業も社員を家族のように扱っていたから、サラリーマンになって組織の一員であり続けるというのは、安心できる生き方だったのだ。

今まではそれが正しかった。しかし、これからも正しいのかと言えば、そうでもない。


現代は、労働力の「薄利多売」が発生している

世の中がグローバル化した結果、「労働力を提供する」という人間が途上国から数億人も出てくるようになった。つまり、労働力そのものが、腐るほどありあまるようになった。

また、グローバル化によって企業間の競争も激しくなったので、社員を終身雇用で雇う体力もなくなっている。

そうなると、社員を囲い込むメリットは企業側にない。

なにしろ、安い価格でも悪条件でも構わずに働く人が、世界中でうじゃうじゃと見つかるようになったのだ。労働力の「薄利多売」が発生したのだ。

それなら安い労働力を使った方がいいわけで、わざわざ先進国の高い賃金の労働者などいらない。

その結果、企業は社員の給料をどんどん引き下げて、「嫌なら辞めろ」と言えるようになった。辞めさせれば辞めさせるほど、低賃金の人間に置き換えられるのだから、企業にとっては好都合でもある。

実際、正社員はどんどん切られて非正規雇用に変えられており、給料も引き下げられている。

残った正社員にも残業代を払わないとか、早期退職に追いやるようなこともしている。

もちろん、雇用のミスマッチが生まれて働き手がいなくて四苦八苦する業界もあるが、すぐにどこかから外国人労働者を発見して、彼らを雇い入れるようになるだろう。

つまり、もうサラリーマンという稼業を続けるメリットは失われた。それと同時に「平均的な人間」という範疇にいることが自分の人生を守ってくれることもなくなった。

今後は、平均的であるというのは、じり貧になるということに直結する。


情熱が止められないものの専門家になるべき

現在は、労働力の価値が暴落している時代だ。労働力は100円ショップの商品並みに安いものとなっており、単に「普通の労働力」を提供するだけでは、もう生きていけない世の中になっている。

生きていくためには、専門知識や専門技術を提供できる専門家(スペシャリスト)にならないといけないのである。

スペシャリストは、知識があり、経験があり、訓練され、特別な問題解決能力が必要なので、取り替えがきかない。何らかの専門家になると、その能力が高い収入を生み出し、食いっぱぐれがなくなる。

では、何の専門家になればいいのか。もちろん、自分が得意なもの、自分の才能の発揮できるもの、好きなもの、情熱が止められないものの専門家になるべきだ。

日本人は日本の教育制度のせいで、どうしても人よりも苦手なところや、劣っているところを補完しようとする。つまり、短所を治そうと努力する。

だから、日本人の勉強は「苦手なものを補う」という勉強であり、勉強そのものが苦役になる。しかし、苦手を補完しても、せいぜい「普通の人」になるだけだ。

そうではなくて、自分の才能を遺憾なく発揮できる分野の専門家にならなければならない。のめり込むほど好きになれるものは突出できる。

突出すれば、自分自身の市場価値が上がる。専門性を持った人間は、その専門を極めることによって重要人物となる。

グローバル化した社会は、何らかの専門を極めた人間が金を稼ぐ社会である。

苦手など、どうでもいい。あなたは、苦手を補完しようと努力するよりも、自分の才能に投資してそれを突出させて、世間に通用する専門家になるべきなのである。


自分の才能と得意を活かして「専門家」になれるかどうか。
加速していくグローバル化社会では、それが運命の分かれ道になる。
http://www.bllackz.com/2014/08/blog-post_23.html


あなたの才能も、「出る杭」と見なされて打たれてきたはず


どこの世界でもそうなのだが、今までの秩序をつぶすような形で目立つと、どんなに才能があろうが能力があろうが、まわりから「図々しい」「立場をわきまえていない」と思われて潰されてしまう。

日本では、これを「出る杭は打たれる」という。

才能があればあるほど、そして能力があればあるほど、「危険人物である」と思われて潰されていく。

特に日本の場合は年功序列の時代が長かったので、上司を凌駕するような能力を持っていると、潰されるばかりか、警戒されて排除されることもある。

能力がある者が能力を発揮できないような悲しい状況に置かれるのである。

もっとも、「出る杭が打たれる」のは日本特有の心理構造ではなく、全世界のどこでも起きている。才能を持った人間は、秩序を崩壊させる異端者として、どこの世界でも嫌われる。


それを自分で殺して、今のままでいようとする

革新的なビジネスプランを持った若い経営者は潰される。あまりにも超絶的な才能を持った人間も業界から追い出される。

今までの世界を覆すような斬新なアイデアを持った表現者も、やはり受け入れられるよりも排除されることが多い。

そんな超絶的なものでなくても、集団の中でただ単にリーダーシップを取ろうとするだけでも、「出る杭は打たれる」そのままに、まわりから打たれたり、妬まれたり、批判されたりすることもある。

あるいは、まわりに合わせるのではなく、ただ自分らしくしているだけで浮いてしまって「出る杭は打たれる」状態になってしまうこともある。

人は誰でも「こうしたい」「こうなりたい」という夢を持っている。しかし、夢を持って前向きに生きようとすることすらも、まわりに嫉妬や憎しみを生み出す元になって叩かれることもある。

前向きに夢を持った人を叩くというのは、冷静に考えると不可解にも思えるが、その夢が実現したら追い抜かれた自分たちが惨めになると思うと、どうしても夢を壊そうとして足を引っ張る人が出てくる。

その現実を見て、多くの人は自分の才能を開花させるよりも、それを自分で殺して今のままでいようとする。

人は誰でも、まわりに批判され、憎まれ、悪口を言われ、時には罵倒されたり中傷されたりされたくない。そんな目に遭うのなら、何もしない方がいいと思ってしまう。

何もしないと「何もできない」と言われて中傷されるので、結果的には同じなのだが、努力して叩かれて失敗するというのは、恥ずかしいことだ。それなら、何もしない方が気持ちが楽だということになる。


その夢が実現したら追い抜かれた自分たちが惨めになると思うと、どうしても夢を壊そうとして足を引っ張る人が出てくる。


彼女たちの多くは「わたしは無理なの」と言った

世の中には才能のある人も多いのだが、やはり「出る杭は打たれる」ような状況の中で、才能を発揮する前に潰されていったり、自分から才能を捨ててしまうことも多い。

今まで、いろんな女性と出会ってきた。彼女たちの中には、とても歌がうまい女性もいて、私という観客ひとりにベッドの上で歌ってくれる女性も何人もいた。

あるいは、本当にたくさんの言語をたくさん知っていて、タイ語、インドネシア語、クメール語、英語、フランス語と、次々と言葉を切り替えて、私を楽しませてくれる女性もいた。

あまりよく目が見えない女性もいて、暗い部屋の中、紙を折って精巧な置物を作っていた女性もいた。アーティストだな、と私はしみじみと思った。

みんなそれぞれ才能を持って、もしかしたらその才能で自立できるのかもしれないと思ったが、彼女たちの多くは「わたしは無理なの」と言った。

本当は無理ではないのかもしれないが、彼女たちはその才能を発揮したくないと考えており、自分の持って生まれた才能を捨ててしまっているように見えた。

フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフも売春地帯から出てきた女性だが、路上で歌っているところを「発見」されてフランスの国民的歌手になっていった。

タイのプンプアン・ドゥアンチャンや、ターイ・オラタイも、恵まれない人生から才能ひとつで国民的歌手になっていった。

ということは、私が知り合った売春地帯の女性の中の誰かが、そこから羽ばたいて大きな才能を開花してくれる可能性もゼロではないと考えることもできる。

必死で生きている女性たちが、持って生まれた才能が認められて大きな存在になっていくのは、とても素晴らしいことだし、それを願っている。


死んでなお敬愛されるプンプアン・ドゥアンチャン。

Loke Khong Peung Pumpuang Duangchan
https://www.youtube.com/watch?v=OBnZ7GpvweU


「磨けば光る」ものを放置した挙げ句に捨て去る

自分の持って生まれた「良さ」や「才能」や「能力」というのは、それが自分のものだから、何か重大な価値があるもののように思えないのかもしれない。

傍から見たら才能があるとすぐに分かるのに、自分自身がそれを否定してしまい、「磨けば光る」ものを放置した挙げ句に捨て去るようなことをしてしまう。

得意を捨てて苦手で生きるのだから、生きにくい人生になってしまうのは当然だ。

本当は自分の中にある才能や能力を大事に、そして慈しんで育てて上げなければいけないのだが、まわりが「出る杭は打て」と言わんばかりに、寄ってたかって潰してしまう。

人は不思議なことに、肯定的な意見よりも否定的な意見の方を強く認識してしまう癖があって、そういった否定を投げかけられると動揺し、無意識にそれを受け入れてしまう。そして今度は、自分で自分を否定するようになってしまう。

「出る杭は打たれる」というのは、誰にとっても他人事ではない。それは、誰にでも起こりえる経験だ。

もしかしたら、あなたにも希有な才能があって、まだ種が発芽していないのに、発芽する前から踏みにじられてしまっているのかもしれない。

世の中は何でもそのようになってしまっているので、それはあなたも無縁ではなかったはずだ。とすれば、本当に必要なのは、自分で自分の才能を慈しみ、育て、愛し、信じることだと言うしかない。


人は不思議なことに、肯定的な意見よりも否定的な意見の方を強く認識してしまう癖があって、そういった否定を投げかけられると動揺し、無意識にそれを受け入れてしまう。そして今度は、自分で自分を否定するようになってしまう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150320T0529230900.html


10. 中川隆[-13492] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:42:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

内田樹×白井聡 ベストセラー論客が暴く、戦後日本人の精神構造
「トップが大人への成長を放棄、日本は“子供と老人しかいない国”になってしまった」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150524-00048243-playboyz-pol
週プレNEWS 5月24日(日)6時0分配信


日本戦後史論 – 2015/2/28
内田樹 (著), 白井聡 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2%E8%AB%96-%E5%86%85%E7%94%B0%E6%A8%B9/dp/419863906X


という対談本が注目を集めている。

著者は内田樹(たつる)氏と白井聡氏の人気論客ふたりで、憲法改正、集団的自衛権の行使容認、原発再稼働など、ここ数年、日本が直面する諸問題について「戦後の歩み」という視点から分析し、警鐘を鳴らしている。

戦後日本は「対米従属を通じて対米自立を実現する」という「葛藤」の中で成長してきた。だが、ここ10年、日本は葛藤を捨て思考が停止していると、ふたりは怒りを露(あらわ)にして訴える。

(前編記事→ 内田樹×白井聡、ベストセラー論客が怒りの対談!)

* * *

―なぜ、日本人は考える力を失い、成長や成熟を拒否するようになったのでしょう?

内田 「青年」がいなくなったことが大きく関与していると思います。

日本社会に子供と大人の両方をブリッジする「青年」という立場が生まれたのが、明治40年代です。それ以前は、子供は元服を経て、いきなり大人として扱われた。

明治維新の後、欧米列強に伍して一気に近代化を遂げなければならないという時には子供と大人の中間に青年という社会的な層が構想された。近代化のためには、十分な社会的能力がありながら環境の変化に対応できる柔軟性を備えた集団がどうしても必要だったからです。

夏目漱石が『三四郎』や『坊っちゃん』を、森鴎外が『青年』を書いたのは、それまで存在しなかった「青年」をロールモデルとして提示するためでした。

白井 それらは青年が大人になろうと葛藤する物語ですね。

内田 そうです。『坊っちゃん』の主人公が松山の中学校を辞めたのは1905年です。当時20歳なら、「坊っちゃん」は1885年生まれということになる。

つまり、敗戦の年、1945年に「坊っちゃん」は60歳だったということです。この世代が日露戦争、第1次世界大戦、大正デモクラシー、大恐慌、満州事変以後の戦争を経験し、敗戦までの日本を事実上牽引(けんいん)してきたわけです。彼らが近現代日本において、子供たちの自己造形のロールモデルだった。善し悪しは別にして、「坊っちゃん」や「三四郎」的な青年たちをモデルに子供たちは大人になる道筋を学ぶことができた。

その「青年」たちが消えたのが東京オリンピックの頃です。「坊っちゃん」が80歳になった頃に「青年」たちは社会的な指南力を失った。そして、子供たちは成長の手がかりを失ったのです。
白井 本当の大人というのは理想を持っていて、その理想とは程遠い現実との間で葛藤する。その葛藤に耐えることができるのが「大人」だと思うんです。葛藤を避けて「現実がこうだから仕方ないだろう」って諦めるのは大人じゃなくて「老人」なんですよ。

日本の社会からそういう大人がいなくなったので、「青年」も必要なくなった。ひたすら現実を受け入れるしかないなら、最初から理想なんて持たないほうが効率的です。そうやって日本は「子供からいきなり老人になることを要求される社会」へと変質したのだと思います。子供と老人しかいない。

内田 今の日本に、かつての元服に相当するような通過儀礼があるかといえば「就活」がそれに当たるかもしれません。ただし、就活は子供たちがある日突然、全員同じ服装をして、同じ言葉遣いをして、同じ価値観を共有することを制度的に求められるわけで、別に子供たちに「大人になること」を求めているわけではない。

むしろ、理想も正義感も捨てて、上の人間の言うことに無反省に従属する「イエスマン」になるための儀礼でしかない。

白井 その結果、日本はこの20年ぐらいで、普通の企業でも官僚の世界でも大学でも上層部は「イエスマン」しかいない社会になってしまった。

表向きは「個性が大事」とか言いながら、少しでも会社や上司に批評的なことを言ったり、大多数の人間と違う視点で考えたりする人間というのは非常に嫌われる。葛藤していない人間、つまり成熟していない大人のほうが出世できる仕組みになっている。

一方、上に立つ人間も自分が葛藤を捨てているので、下から何か異論を挟まれると、その異論を処理する能力もない。そう考えると日本社会の一番上にいる安倍首相というのは、そうした人間の典型で、彼のようなキャラクターというのが日本人のデフォルトになりつつあるということだと思うんです。

もちろん安倍首相にだって、個人的な内面の葛藤があったはずです。でも、彼はどこかの段階でそうした葛藤を殺しちゃったんでしょう。葛藤している人というのは、自分の中にもうひとりの自分がいて、絶えず「本当にそれでいいのか?」「違うんじゃないか?」と、心の中の「相方」が話しかけてくる。ですから、葛藤している人間は他人の意見もよく聞く。

最近の沖縄問題に関する議論でもそうですが、安倍さんが異論に対してまったく対話できないのは、彼が内的な葛藤をすべて捨てて、自分の中にシンプルなキャラクターを設定したことで成功を収めたからだと思います。その結果、自分に対してイエスという声しか聞こえない。

日本人が青年期を失い、社会が葛藤や逡巡(しゅんじゅん)を受け入れなくなって、大人への「成長」を放棄した人間がトップにまで上り詰めるような国になったということでしょう。

―日本はこの先どうなってしまうのでしょう?

内田 子供たちがバカをしても、まっとうな大人が要所を押さえていれば社会は回る。それくらいの余裕をもって社会は制度設計されています。でも、今ほど子供が増えて、大人が減ってくると、システムが綻(ほころ)びてくる。

集団が生き延びるためには、一定数の大人がどうしても必要です。「他の連中が好き勝手に子供をやっていても、せめて自分くらいは大人にならないと社会は回らない」と腹をくくる人が出てこないと話にならない。

白井 去年、大学の授業で延々と原発問題の話をしていたのですが、原発被災地から避難してきた学生がいて、「事故が起きた時、周りの大人たちは2、3日で帰れると思っていたけれど、自分はもう二度と故郷に戻れないと直感した」と言うんですね。

その学生が「授業を受けて、一番大事なことは自分の頭で考えることだと思った」とレポートに書いてきた。

原発事故の被害者だからこそ、自分は成熟しなければならない、大人にならなきゃいけない、周りの大人たちは見かけと違って大人じゃなかったと気づいたということですよね。そういう若者がどんどん増えてこないといけない。

内田 最近、政権与党や官邸があからさまな形で大手メディアに圧力をかけたり、メディアの側がそれに迎合したりというのが問題になっているけれど、それで徹底的な報道管制ができるわけではない。統制の及ばないメディアはいくらでもあるし、海外の新聞の日本についての報道もネットで簡単に読める。戦前とは状況が違います。

今の日本の状況を正確に理解して、自分の頭で考えて、大人になる道筋は整っている。あとは本人の決意の問題です。


11. 中川隆[-13491] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:43:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

「美意識が低い」日本の受験エリート達の末路
オウム真理教が体現する、受験エリートの闇
山口 周 : コーン・フェリー・ヘイグループ 2017年08月31日
http://toyokeizai.net/articles/-/186380


世界のトップエリートたちは現在、必死に美意識を鍛えています。

一方、日本では偏差値は高いが美意識が低く、それが看過できない問題の元凶になっているようです


現在、世界のエリートは必死になって「美意識」を鍛えています。グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む、ニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、こけおどしの教養を身に付けるためではありません。彼らは極めて功利的な目的で、「美意識」を鍛えているのです。

なぜならば、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足を置いた経営、いわばサイエンス重視の意思決定では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです。

「偏差値は高いが美意識は低い」エリートたち

一方、残念ながら現在の日本企業の多くは、経営にかかわる人たちの美意識がほとんど問われません。すなわち、日本のエリート組織の多くは「偏差値は高いが美意識は低い」という状態で、計測可能な指標だけをひたすら伸ばしていく、一種のゲームのような状態に陥っています。ここでは「真・善・美」が問われず、それが、DeNAのコンプガチャやWELQ問題をはじめとして、続発する企業のコンプライアンス違反の元凶になっています。

「偏差値は高いが美意識は低い」という問題の闇を語るうえで避けては通れないのは、オウム真理教です。この宗教集団の特徴の一つとして、幹部が極めて高学歴の人間によって占められていた、という点が挙げられます。有罪判決を受けたオウム真理教幹部のリストを並べてみると、東大医学部を筆頭に、おそらく平均の偏差値が70を超えるのではないかというくらい、高学歴の人物を幹部に据えていたことがわかります。

地下鉄サリン事件が世間を震撼させたとき、これらの名だたる有名大学を卒業したエリートたちが、なぜあのように邪悪で愚かな営みに手を染めたのか、ということがしきりにワイドショーなどで騒がれました。しかし私は、当初からこの問いの立て方はポイントを外していると思っていました。


ワイドショーのコメンテーターに言わせれば、オウムの幹部連中は、受験エリートである「にもかかわらず」、愚かで邪悪な宗教に帰依した、つまり二つの事実を整合性の取れないものとして逆接でつないだわけですが、私は逆に、彼らがまさに受験エリートである「からこそ」、オウム真理教に帰依していったのだろうと思っていました。

その理由は、オウム真理教が提唱していた奇妙な位階システムにあります。オウム真理教では、修行のステージが、小乗から大乗、大乗から金剛乗へと上がっていくという非常に単純でわかりやすい階層を提示したうえで、教祖の主張する修行を行えば、あっという間に階層を上りきって解脱することができる、と語られていました。

これはまさに、オウム真理教に帰依していった受験エリートたちが、かつて塾で言われていたのと同じことです。オウム真理教幹部の多くが、事件の後になんらかの手記や回想録を著しています。これらを読むと、彼らのほとんどが、大学を出た後に社会に出たものの、世の中の理不尽さや不条理さに傷つき、憤り、絶望して、オウム真理教に傾斜していったことがわかります。

オウム真理教における「著しい美の欠如」

このように、わかりやすい位階システム、つまり強く「サイエンス」が支配している組織において、どのように「アート」が取り扱われていたのか。オウム真理教における「アート」について、小説家の宮内勝典氏は著書『善悪の彼岸へ』の中で、次のように指摘しています。

オウムシスターズの舞いを見たとき、あまりの下手さに驚いた。素人以下のレベルだった。呆気にとられながら、これは笑って見過ごせない大切なことだ、という気がしてならなかった。オウムの記者会見のとき、背後に映し出されるマンダラがあまりにも稚拙すぎることが、無意識のままずっと心にひっかかっていたからだ。(中略)

麻原彰晃の著作、オウム真理教のメディア表現に通底している特徴を端的に言えば、「美」がないということに尽きるだろう。出家者たちの集う僧院であるはずのサティアンが、美意識などかけらもない工場のような建物であったことを思い出してほしい。

偏差値教育しか受けてこなかった世代は、あれほど美意識や心性の欠落した麻原の本を読んで、なんら違和感もなく、階層性ばかりを強調する一見論理的な教義に同調してしまったのだ。後にオウムの信者たちと語りあって、かれらがまったくと言っていいほど文学書に親しんでいなかったことに気づかされた。かれらは「美」を知らない。仏教のなかに鳴り響いている音色を聴きとることができない。言葉の微妙なニュアンスを汲みとり、真贋を見ぬいていく能力も、洞察力もなかった。

宮内勝典『善悪の彼岸へ』


宮内氏のこれらの指摘をまとめれば、オウム真理教という組織の特徴は、「極端な美意識の欠如」と「極端な階層性」ということになります。これを本書の枠組みで説明すれば、アートとサイエンスのバランスが、極端にサイエンス側に振れた組織であったと言い換えることができます。


情緒や感性を育む機会を与えられず、受験勉強に勝ち残った偏差値エリートたち。彼らは、いわば「極端に単純化された階層性への適応者」でした。極端に単純化されたシステムの中であれば、安心して輝いていられる人たち。

しかし、実際の社会は不条理と不合理に満ちており、そこでは「清濁併せ呑む」バランス感覚が必要になります。彼らはそのような社会にうまく適応できず、オウム真理教へと傾斜し、やがて外界をマーヤー(幻)として消去させようとしました。

さて、ここまで、オウム真理教という、かつて日本を震撼させた新興宗教集団の特徴について考察してきましたが、読者の皆さんは、なぜビジネスとはまったく関係のないカルト教団の話をしているんだろう?と思われたかもしれません。

しかし、私は、宮内氏が指摘した「美意識の欠如」と「極端なシステム志向」というオウム真理教という組織の特徴が、ある種の組織と非常に類似している点に以前から引っかかっていました。

戦略コンサル、新興ベンチャーとの類似点

「業界の特性」ということでひっくるめられると迷惑だという反論もあるかと思いますが、あえて名指しで、オウム真理教と類似しているなと筆者が感じる二つの業界を挙げるとすれば、それは戦略系コンサルティング業界と新興ベンチャー業界ということになります。

私が電通を退職して米国の戦略系コンサルティングの会社に転職したのは2002年のことです。オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたのは1995年のことで、私はこの事件をきっかけにしてカルト教団に興味を持ち、研究をするようになったのですが、2002年に戦略コンサルティングの会社に転職し、昇進や評価のシステムに関する説明を入社時研修で受けた際に、すぐに「この組織はオウムの仕組みとそっくりだな」と感じたことを、よく覚えています。

いくつかの具体例を挙げて説明してみましょう。たとえば、極端に階層的でシステマティックである、という側面です。通常の企業ではだいたい8〜9程度の等級が設定されていることが多いのですが、コンサルティング会社には基本的に4階層しかありません。新卒で入るとアナリストになり、やがて中堅のアソシエイトへと昇格し、その中のごく一部がさらにマネジャーへと昇進し、さらに選び抜かれた人が最終的にはパートナーになるという、極めてシンプルな仕組みです。


最近ではさまざまな組織で「多様性」が大きなテーマになり、その要請を受けて複数のキャリアのハシゴを用意する、いわゆる「複線型人事等級制度」の導入が進んでいますが、戦略コンサルティングの業界というのはその真逆で、極めて単線的かつ階層の明確な等級制度になっているわけです。

その階層性の明確さがはっきりと表れているのが報酬制度です。ざっくりとまとめれば、戦略系コンサルティング会社での報酬水準は、一階層上がるごとに倍になります。つまり新卒を1にすれば、中堅は2、マネジャーは4、パートナーが8ということになります。一般的な企業の昇給水準が数%程度であることを考えると、各ステップに100%の階差があるというのはちょっと驚きですが、これも階層性を明確にするための一つの要因となっています。

昇進のためには「生産性」だけが問われる

そしてさらに、ここが非常に重要なポイントなのですが、「何ができれば階層を上がれるか、どうすれば上がれるか」が非常に明確です。昇進の条件は極めてメカニカルなもので、人望や見識といった情緒的な側面はほとんど含まれません。具体的な説明は守秘義務があるので割愛しますが、大まかに説明すれば、コンサルティングに求められる全般的なスキルの項目に対して、どれくらいの充足度があるかによって判定されるという考え方で、一言で言えば「生産性」だけが問われ、人望や美意識は問われない、ということです。

こういったわかりやすい階層性、どうすれば上に行けるのかが明確なシステムは、前述したオウム真理教の仕組みと非常に類似しているんですね。

オウム真理教の教祖だった麻原彰晃が、弟子に対して語った講話の記録が残っているのですが、これを読んでみると非常に興味深い。というのも、麻原はことあるごとに「小乗、大乗、金剛乗」の3ステージを示し、どのような修行をすればこのステージを駆け上がっていけるかを繰り返し帰依者に訴えているのですが、これはコンサルティングファームの上級役員の語り口と非常に似ています。

同様のわかりやすさは新興ベンチャー企業においても見られます。そこで問われるのは見識や人望ではなく「早く結果を出すこと」でしかありません。以前、DeNAが主催した投資家向けの説明会に参加させてもらったことがあるのですが、事業の起案や投資に関する意思決定は徹頭徹尾、経済的な側面に基づいており、事業の意義やビジョンについては「それが経済的利益に結びつくと考えられる際には作成されるだけで、別に必要ない」とのコメントに慄然(りつぜん)とさせられたことがあります。

システムとしてわかりやすいと言えば、これ以上にわかりやすい仕組みはないわけで、とにかく結果さえ出せれば、大手企業に勤めている人が数十年かけて上るようなキャリアの階段を、数年で一挙に駆け上がって高額の報酬を得ることができる仕組みになっているわけです。


さらに指摘すれば、一見すると人材の交流があまりないように思われる「戦略コンサルティング業界」と「新興ベンチャー業界」ですが、昨今では「新卒で戦略コンサルティング会社に入り、途中から新興ベンチャー企業に転職する」というのは一つのキャリアパターンになりつつあります。

たとえば、DeNAの創業メンバーのほとんどが、戦略コンサルティング会社の出身者であったことを思い返せば、これらの業界に集まる人たちに共通する「思考の様式」がおわかりいただけると思います。その思考様式とはつまり「社会というシステムの是非を問わず、そのシステムの中で高い得点を取ることだけにしか興味がない」という考え方です。

「システムによく適応する」≠「よりよい人生」


『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』(光文社)。
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4334039960/asyuracom-22


ここにこそ「エリートこそ美意識を鍛えるべきである」というアイデアの根幹につながる問題があります。エリートというのはシステムに対して最高度の適応力を持っている人たちです。この「システムへの適応力」こそが、彼らをエリートたらしめているわけですが、ここに問題がある。「システムによく適応する」ということと「よりよい生を営む」というのは、まったく違うことだからです。

多くのエリートは、システムに適応し、より早く組織の階段を駆け上がって、高い地位と年収を手にすることを「よりよい人生」だと考えています。しかし、そのような志向の行き着く先には、多くの場合、破綻が待ち受けていることになります。

わかりやすいシステムを一種のゲームとして与えられ、それを上手にこなせばどんどん年収も地位も上がっていくというとき、システムに適応し、言うなればハムスターのようにカラカラとシステムの歯車を回している自分を、より高い次元から俯瞰的に眺める。そのようなメタ認知の能力を獲得し、自分の「ありさま」について、システム内の評価とは別のモノサシで評価するためにも「美意識」が求められる、ということです。



12. 中川隆[-13490] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:45:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

世にも奇妙な物語 「23分間の奇跡」

キャスト: 賀来千賀子
放送日: 1991年 冬の特別編

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%96%E3%81%AB%E3%82%82%E5%A5%87%E5%A6%99%E3%81%AA%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%80%8023%E5%88%86%E9%96%93%E3%81%AE%E5%A5%87%E8%B7%A1

教室の中、子供達の前で一人の中年女性教師が泣いている。
そこへ、時報と同時に別の女性教師が入って来る。
「子供達はどうなる」と訴えていた中年教師を教室から送り出し、
その教師は子供達に語り掛ける。

最初は、不審気な表情を見せる子供達。
だが、教師が子供達の名前や特技などを言い当て、それを三日間で
覚えて来たと話すと、次第に心を開き始める。
次に教師は、教室に掛かった額の中の言葉の意味を問い掛ける。

「平等 自由 平和」

そこで、一人の少女が教師の着ていた服について尋ねた。
こんな服は嫌いかと教師が尋ねると、少女は服を褒めた。

「じゃあ、これからは、みんなにも同じ服を着て貰いましょうね。
そうすれば、明日着て行く服を考えなくてもいいでしょう?
みんな同じ服、これが平等だと思わない?」

この意見に、一人の少年が食って掛かる。
すると、教師は続けた。

「そう、何を着るのも勝手、それが自由というのよ。」

これにも反抗する少年。
少年の父親は、どこかに連れて行かれていたのだった。
教師は、「大人でも学校に行く」「すぐに帰って来る」と言う。
すると、少年は机の中から新聞の切り抜きを取り出す。

「クーデターが起きて、日本の憲法が変わっちゃったんだ!」
「憲法って何?」
「国の決まりだよ。」

教師は、これにも優しい口調で答える。
「国の決まりでも、間違っていたら変えなきゃね?」
そして、女性は明日から「お泊り」に行く事を発表した。
キレイな部屋で美味しいものを食べると聞き、喜ぶ子供達。
何が食べたいかを子供達に尋ねた教師は、おもむろに言い出す。

「さぁ、みんな目を閉じてお祈りしましょう。
『神様、お菓子を下さい』。」

くすくす笑いをこらえながら女性の言葉に従う子供達。
当然お菓子は現れない。

「じゃあ『指導者様』に変えてみたらどうかしら?」

子供達の机の上にお菓子を置いていく女性。
目を開けてお菓子を見つけ、喜ぶ子供達。
だが、一人反抗していた少年は、薄目を開けて全てを見ていた。

「お菓子を置いたのは『指導者様』じゃなくて
 先生じゃないか!」

微笑む女性。

「そう、実際にお菓子を机の上に置いたのは先生です」

あっさりと認められ、きょとんとする子供。
女性は、少年を賢いと褒めながら言葉を続ける。

「いくら誰かに祈っても、本当は何も出て来ません。
もし、何かしてくれる人がいるとすれば、それは神様なんかじゃ
なくて、先生や他の人の力なの。」

言葉に詰まる少年を、他の子供達も褒め始める。

続けて教師は、新学期のクラス委員を誰にしようか話し始めると、
子供達は少年がいいと口々に言い出す。
まんざらでもない様子の少年。
教師は、クラス委員の最初の仕事として、掛けられた額を外して
しまおうと提案する。

ある少女が「大切なものでは?」と言い出す。

「本当に大切なのは、中に書かれた言葉でしょう?
だったら、それはみんなの心の中に掛けておけばいいわよね。」

子供達は納得し、額を外した少年はそれを窓から投げ捨てた。
地面で砕ける額を見て、歓喜する子供達。

子供達を見て微笑む女性の腕時計は、丁度23分を経過していた。
そして、女性は自分の服と同じ制服と新しい教科書を取り出す。

「古い教科書を破った人から、取りに来て下さい。」

もう、疑問を唱える子供はいなかった。


13. 中川隆[-13489] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:48:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

リベラル風の上流国民だと、心の奥底ではアジア人を嫌っているくせに、表面上は“心優しい天使”を演じて「博愛主義者」だ。

その中でも、とりわけ悪質なのが、お嬢様大学に通ってピンク左翼に染まったインテリ女性である。彼女たちは街角で移民排除を訴えている日本人を見ると、「何、あの下品な人たち !! 右翼ってホントに嫌よねぇぇ〜」と口にするが、道路工事の現場で働くベトナム人とか、古ぼけた団地に居坐る支那人、怪しげな飲み屋に務める朝鮮人と親しくなることはない。もちろん、恋愛対象なんて論外。

そもそも、名門の一流校には穢らわしいアジア人が居ないし、たとえ同じクラスに留学生がいても、奇妙な顔をした外人は「ご学友」じゃない。それに、ご自慢の英語を駆使して会話を楽しむのは、憧れの西歐人だけ。香港出身の支那人とか、マニラからやって来たフィリピン人じゃ嬉しくないし、日本人の友達に“ひけらかす”こともできない。

だいたい、英語を話したからといって、アングロ・アメリカ人になる訳じゃないのに、まるで「上等な人間」にでも成ったかのようにウキウキするんだから、植民地のアジア人と同じじゃないか。こういうバイリンガルの日本人に出逢ったら、

「わぁぁ、すご〜い、まるでフィリピン人みたい!」

と褒めてやれ。苦虫を噛み潰したようにムっとするから。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68722954.html

私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。

私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。
その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。

バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。
http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.php


14. 中川隆[-13488] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:49:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

2017年12月21日 才能を潰すのが得意な日本

From 小浜逸郎@評論家/国士舘大学客員教授

以前このメルマガに、
「日本からはもうノーベル賞受賞者は出ない?」
という稿を寄せました。
https://38news.jp/economy/11171

ノーベル賞受賞者で京都大学iPS細胞研究所長の
山中伸弥さんが「ご支援のお願い」として
寄付を募っているのです。
そのなかで山中さんは、
「弊所の教職員は9割以上が非正規雇用」と
書いていました。
研究所の財源のほとんどが期限付きだからです。
https://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/fund/

10年、20年という長期間を要する基礎研究に、
政府や大学は十分な資金を与えず、
しかも短期間に成果を出す研究のみを
優遇する方向にシフトしています。

非正規雇用では給料が不十分なだけではなく、
安心して研究に打ち込めません。
それで、若い優秀な人たちが
基礎研究を諦めてしまう傾向が増大しています。

12月13日18時ごろのNHKラジオ番組に、
一昨年、ノーベル物理学賞を受賞した
梶田隆章さんが出演していました。
梶田さんは、
ニュートリノが質量を持つことを示す
「ニュートリノ振動」の発見という偉大な
業績を成し遂げた方です。

この番組で、梶田さんは、
自分が若い頃は、カミオカンデなどの
巨大な装置による実験を長いこと繰り返し、
結果を理論にまとめ上げることが可能だったが、
今では、基礎研究に取り組もうと思っても、
期限付きの研究費しか得られないので、
若い人たちが自分の若い時のように、
腰を据えて研究に集中することができないと、
山中さんと同じことを話していました。

この問題は、自分たちがいくら頑張っても
どうすることもできない。
できるだけ広くみなさんにこの事情を
知ってもらうほかないと、
切々と訴える梶田さんの声が、
今も耳に残っています。

12月5日には、日本のスパコン開発の第一人者
齋藤元章さんが詐欺容疑で逮捕されました。

齋藤さんは天才です。
2014年に株式会社ExaScalerを立ち上げ、
理化学研究所(RIKEN)および、
高エネルギー加速器研究機構(KEK)と
共同研究契約を結び、
わずか七カ月で「Suiren」を開発します。
これが、スパコンの省エネ性能を競うGreen500で
2位にランクイン。
2015年には、同じくGreen500)で、
RIKENの「Shoubu」、KEKの「Suiren Blue」および
「Suiren」の3台が1位から3位までを独占します。

2017年1月には、科学技術振興機構(JST)が、
未来創造ベンチャータイプの新規課題の緊急募集に、
ExaScalerのスパコンが採択されたと発表。
開発期間2017年1月から12月まででしたが、
齋藤さんは、その締め切り直前に
逮捕されてしまいました。

逮捕容疑は、技術開発助成金を得るのに、
報告書を他の目的に書き換えて
四億円程度の水増し請求をしたというもの。
もちろん容疑が事実なら、いいとは言いませんが、
まだ実際に四億円をもらったわけでもないし、
他の研究者の言によれば、
この程度のことは日常茶飯事だそうです。
注意勧告して書き直させれば済む話。

なぜこういうことになるのか。
政府が先端技術研究のための資金を出し惜しみ、
国家的プロジェクトに
十分なお金をつぎ込まないからです。

齋藤さんは、雑誌『正論』2017年2月号で、
次のように訴えています。

このままでは日本はスパコンで中国に
負けてしまう。中国が一位になると、
エネルギー、安全保障、食料、医療、
自然災害対策など、すべての面で中国に
支配されてしまいかねない。
自分たちのプロジェクトのために
せめて三百億円の資金がほしい、と。

国家の命運がかかっている問題で、
政府がちゃんと資金援助をしないから
最高の頭脳を潰すことになるのです。
これによる日本全体の損失は計り知れません。

三橋さんの著書の題名ではありませんが、
こうして財務省の緊縮路線が日本を滅ぼします。

日本は江戸時代以来の倹約道徳教国家で、
いつも小さなことを大げさに騒ぎ立てて、
物事の優先順位を間違えます。

さらに想像をたくましくすれば、
逮捕した東京地検特捜部にも
反日勢力が入り込んでいるのではないか。
つい数日前も、リニア新幹線の工事をめぐって、
大手ゼネコン四社が談合の疑いで
特捜部の捜査を受けました。
これでリニア新幹線工事はまた遅れるでしょう。
齋藤さん逮捕にしてもリニア新幹線にしても、
某国の勢力が手をまわしているという
陰謀論に与したくなります。

もしそうでないとすれば、
東京地検特捜部や公取委は、
大局を見失い、正義漢ぶって摘発教条主義に
陥っているのです。
亡国を目指す官庁がまた増えました。
https://38news.jp/economy/11433


15. 中川隆[-13487] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:51:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

詐欺に引っ掛かる日本人 / 怨念を動機にする英語教育 (Part 1)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691413.html

詐欺師が得意とする人、苦手とする人


Robert Vaughn 1Jaime Murray 1Oceans Eleven
(左: 英国のTVドラマ『ハッスル』で詐欺師を演じるロバート・ヴォーン / 中央: 『ハッスル』で共演したジェイミー・マレー / 右: 映画『オーシャンズ11』で詐欺師を演じたブラッド・ピットとジョージ・クルーニー )

  世の中に詐欺師が多いのは周知の事実。ただ、ここで問題なのは、誰が本物の詐欺師で、どいつが“詐欺師もどき”なのか判らない点である。というのも、プロの詐欺師なら確信犯だから仕方ないけど、騙されていることに気付かぬまま詐欺師に協力する者や、嘘つきに唆(そそのか)されて共犯になる者、あるいは本気でそのホラ話を信じている者、さらに厄介なのは単なる馬鹿がいるからだ。

  世間のオっちやんやオバちゃんは、新聞やテレビで金融詐欺とか投資詐欺を目にすると、「こんな詐欺に引っ掛かるなんて、まったくどんな頭をしてやがんるだ? 」と嘲笑し、「愚かな奴だ !」と斬り捨てることがある。しかし、騙された者がみんなアホ・馬鹿・間抜けとは限らない。実際は、知能が高ければ高いほど、持ち掛けられた取引を自分の利益になるはずだと思い込み、虎の子のお金ばかりか、時には他人のお金まで流用して儲けを摑もうと試みる。事件が明るみに出た後で、「ああだった」「こうだ」と後知恵をつけることは可能だが、騙されている間は気付かぬものだ。「カモ」は現実と虚構の区別がつかない“世界”に放り込まれているので、何処までがフィクションで、どこが本当なのか判別できないのである。

  したがって、騙されるのは頭の善し悪しではない。犯罪に詳しい専門家によれば、詐欺師を手こずらせる程の切れ者でも、その人に適した手法を使えばすぐ乗ってくるという。頭の良い人は、最初、何となく不正な取引と勘ぐるものの、あれこれ考えた末、欲の皮が膨張するせいか、やっぱり“エサ”に食いつくそうだ。そして、意外なことに、ほとんどのカモは上流階級の出身者であるという。(デイヴィッド・W・モラー 『詐欺師入門』 山本光伸訳、光文社、1999年 p.127) アメリカたど、それは金を儲けた者とか、金目当てで結婚した者、誰かの財産を相続した人を意味するらしい。彼らは自然と優越感を持つような地位に就いており、とりわけ資金調達や投資話に対しては、しっかりつとした判断を下せると思っている。だが本当は、出世を狙っている友人がいたり、仕事仲間が手助けしてくれたお陰なのだ。ところが、こうした自惚れ屋は、自分が優れているから大金を手にできたのだ、と思い込む。こんな具合だから、自信や幻想を抱く者の中には、次第に自分を天才的人物と考える輩(やから)がいるそうだ。

  例えば、土地開発で50万ドルないし100万ドルを儲けた実業家は、自分が幸運であったことや、人を強引に丸め込んだことを綺麗さっぱり忘れ、自分には先見の明があるとか洞察力に富んでいると思ってしまう。詐欺師によると、不動産業者はカモの中でも最も“美味しい”獲物であるらしい。実業家も似たようなもので、彼らは儲け話しに敏感で、詐欺グループが雇った「おとり」や「インサイド・マン」に引っ掛かりやすく、擦り寄ってくる犯罪者の魅力に惹きつけられやすいそうだ。しかも、このカモは大博打に賭ける資金を豊富に持っているし、たとえ手元に現金が無くても何処からか資金を調達できるから、詐欺師にしたら笑いが止まらない。その他、銀行家や遺産を担当する遺言執行人、信託資金の管財人とか監督者も驚くほど簡単に騙されるという。例えば、「ビッグW」という詐欺師は、コネチカット州に住む敬虔な教会管財人を騙し、大金を巻き上げたことがあるそうだ。詐欺師の業界では、医者や弁護士、大学教授も例外ではないという。

  それにしても、詐欺師は心理戦の達人だ。彼らはカモの欲望や虚栄心、自尊心につけ込むのが上手い。詐欺師が狡賢いのは当然だが、彼らは見た目や感じが良く、どんな人とでも親しくなれる。15分もあれば誰とでも仲良くなれるし、1日か2日あれば親友の域にまで達することができるという。(上掲書 p.132) 彼らは全国をあちこち動き回っており、客船や列車の中でカモを見つけると、偶然を装って罠に嵌めようとするらしい。彼らはお金の嗅覚に優れており、狙ったカモに接近する“コツ”を心得ている。詐欺師は何よりもまず聞き上手になるらしい。そうすれば、相手の目的地や職業、および経済状況が直ぐに分かり、趣味とか家族、友人、浮気相手のことまで聞き出せるという。詐欺師はカモを見つけたその日に騙すこともあるが、完全に引っ掛かるまで“ゆっくり”と時間をかけたほうが安全、と踏むこともあるそうだ。

  詐欺師によると、世間には何度でも騙せる「旨いカモ」がいる一方で、なかなか騙せないタイプの人もいるという。カモには共通する特徴があるそうで、それは「みんな嘘つきである」ということだ。たいていのカモは、自分がどれくらい金があるのか、どんな投資を行っているのか、どれほど良い家柄の出身なのか、妻や子供がどれほど素晴らしいのか、について嘘をつくらしい。中には豊富な恋愛体験について長々と話す者もいるそうだ。ほとんどの場合、カモがこうした嘘をつくのは、自分の利益を図るためで、詐欺師は容易にカモの見栄を“見抜き”、そこをくすぐって仕事に取りかかる。一方、被害者は得意になって自慢話を語り、それが元で大損をする破目になるから実に憐れだ。しかも、カモにされたと判ったら、その経緯(いきさつ)についても嘘をつく。知識人とか社会的身分が高い者は、自分が間抜けだったことを認めたがらず、自己防衛のために適当な話をでっち上げ、次第に自分でもその捏造話を信じてしまうらしい。詐欺師によれば、これは致し方ないことであり、大目に見ているそうだ。

  では、騙されない人というのは、一体どんなタイプなのか? ズバリ、それは正直な人。詐欺師は何が誠実で何を不誠実であるかを知っている者に手を焼く。こうした人物は、静かに湧き起こる心の声に耳を傾けるので、絶対に誘惑に乗ってこない。大半の詐欺師は彼らに出逢っても、決して馬鹿にすることはせず、ただ困惑するだけである。ベテラン詐欺師はほとんど同じ言葉を口にするという。本当に正直者は騙せない。(上掲書 p.143) 象牙の塔で屁理屈を並べている大学教授より、現実の世界で詐欺を実行する犯罪者の意見の方が、よっぽど貴重であり、含蓄に富んでいる。

アジア人を理想とする英語教育

  前置きが随分と長くなってしまったが、英語教育の改革を検討し、提唱する人々を判断するうえで、詐欺師の見解はとても参考になる。なぜなら、高学歴を誇る保護者や知識人を気取る評論家が、いかに文科省の“甘い罠”に嵌まっているのか、が判るからだ。各マスコミの報道によれば、2020年から小学校で本格的な英語教育が実施されるそうで、3、4年生で英語の授業が「外国語活動」となり、5、6年生の段階で「教科」になるらしい。小学校とは縁の薄い大人だと、「どうして小学三年生から英語を始めるんだ?」と訝しむが、文科省には大義名分があるという。役人の「弁明」に一々文句をつけてもしょうがないけど、教育審議会とか外国語専門部会の連中が言うには、以下の様な理由がある。例えば、

  グローバル化により、個々人が国際的に流通する商品やサービス、国際的な活動に触れ、参画する機会が増大するとともに、誰もが世界において活躍する可能性が広がっている。

  さらに、IT革命の進展により、国を超えて、知識や情報を入手、理解し、さらに発信、対話する能力、いわゆるグローバル・リテラシーの確立が求められている。

  また、インターネットの普及や外国人労働者の増加などによって、国内においても外国語でコミュニケーションを図る機会が増えている。

  まったくもう、こんな「言い訳」を聴けば、「あぁ〜あ、また“グローバル化”かよぉ〜」とボヤきたくなる。何かと言えば、政治家や官僚は「グローバル時代だ、国際化社会になった」と騒ぐ。「グローバル(地球的)」と言ったって、要は歐米世界のことだろう。一般の日本人が「グローバル時代」と耳にして、アルバニアとかモルドバ、シエラレオネ、アンゴラ、モルディブ、トルクメニスタンなどを思い浮かべるのか? だいたい、一般の日本人が英語の地図を広げて、「ここがザンビアで、あっちがベニン」とか、「ウズベクスタンとカザフスタンはここ」と指すことは出来ない。地理どころが、どんな民族がいて、何語を話しているのかさえ判らないのだ。日本人が英語を用いて話す相手というのは、もっぱらアメリカやヨーロッパの白人である。つまり、英語を難なく喋るゲルマン語族の人々なのだ。

  将来、貿易商とか国際弁護士、科学者、旅行業者になろうとする人なら別だが、普通の日本人には英語の会話能力とか、文章作成能力は必要ない。確かに、こうした能力はあってもいいが、それを習得する時間と金銭を考えれば、本当にそれを身につける必要があるのかと首を傾げたくなる。一般人が漠然と思い描くのは、西歐白人と楽しく会話する自分の姿くらいだ。英会話スクールに通っている人の中には、ビジネス上やむを得ず勉強する破目になった者もいるが、流暢に喋れる日本人を見て憧れたとか、「白人と喋れるようになったらいいなぁ」という軽い気持ちで入ってくる人もいるはずだ。大半の日本人は口にしないけど、いくら英語を話すからと言っても、フィリピン人やインド人とコミュニケーションを取りたいとは思わない。アジア人と親しく会話するために、小中高大と学校で10年間も費やす者は居るまい。その証拠に、英会話学校の宣伝には、ユアン・マクレガーとかキャメロン・ディアスのような白人ばかりが起用され、ウィル・スミス(Will Smith)といった黒人とか、マレー・アブラハム(Fahrid Murray Abraham)のようなシリア系アメリカ人、あるいはジャッキー・チェンみたいな香港の支那人が採用される事はまずない。

Ewan McGregor 8Cameron Diaz 2Will Smith 4Murray Abraham 1
(左: ユアン・マクレガー / キャメロン・ディアス / ウィル・スミス / 右: マレー・アブラハム)

  筆者は日本人が西歐人と接触し、直に意見を交わしたり、彼らと親睦を深めることや、様々な活動を共にするといったことに異論はない。ただ、文科省の役人や霞ヶ関の議員が、我が国の子供をアジア人並みに格下げしようと謀っているから反対なのだ。察するに、教育行政を司る役人は、英語教育を用いて日本版のフィリピン人を生産したいのだろう。よく日本にやって来るフィリピ人とは、スペイン人に征服され、アメリカ人に売り飛ばされた南洋土人に過ぎない。彼らは形式的に独立してもアメリカの属州民で、国内政治に於いても支那系の華僑に支配されている。上流階級の支那人にとったら、ルソン島のタガログ族など「南蛮人」の類いで、マムシやトカゲと同じだ。彼らの「仲間」というのは、同じ言葉と文化を共有する華僑のみ。ゴミ捨て場に生まれ育ったフィリピン土人は、「エンターテイナー」と称してキャバレーで働き、裸踊りか売春が本業だ。彼女達も英語を話すが、日本人男性はコミュニケーションより“スキンシップ”を取りたがる。

  英語に夢中な日本人は、フィリピン人如きになるべく勉強している訳ではないが、役人たちは庶民の子供をアジア人と見なしている。「国際化時代だから、アジアの民に後れを取るな」と言いたいのだろう。文科省曰わく、

  国際的には、国家戦略として、小学校段階における英語教育を実施する国が急速に増加している。例えば、アジアの非英語圏を見ると、1996年にタイが必修化し、97年には韓国、2001年には中国が段階的に必修化を開始した。EUにおいては、母語以外に2つの言語を学ぶべきとし、早い時期からの外国語教育を推進している。例えば、フランスは2002年に必修化の方針を決定し、2007年から実施する方向で取組を進めている。

  日本の子供が目指す理想がタイ人とか朝鮮人、支那人とは恐れ入る。タイ人の一部が英語を習得するのは、上流階級に昇りたいとか、西歐人相手の商売で儲けたい、という後進国の悲願が基になっている。貧乏で薄汚い環境から抜け出す手段としての英語なんだから何とも憐れだ。南鮮人の場合はもっと切迫しており、「地獄と変わらない朝鮮(ヘル・コリア)」から脱出するため、寝る暇を惜しんで英語を勉強する者が多い。中には、米国の大学を卒業しなければ明るい未来が無いから必死で勉強する者もいる。科擧の因襲が色濃く残る朝鮮では、何でも試験、学歴、派閥、人脈だ。エリート・コース以外に楽しい人生は無いし、一旦そこからはみ出せば二度と戻ることはできない。大手の会社をクビになれば、屋台を引いて小銭を稼ぐしかないし、それがイヤなら天国に一番近い日本へ密入国だ。

kids in thai 2Filipino girls 6chinese girl 2
(左: タイ人の子供たち / 中央: フィリピン人の女性 / 右: 支那人の女性 )

  支那人が英語を学ぶのは一に「銭」、次に「金」、三、四が無くても五番目に「札」、と「お金」がすべてで、最初から最後まで利益が目的。キリスト教徒にとってイエズスが「アルファでありオメガである」ならば、支那人にとっての神様はキリスト教徒が唾棄する「マモン(強欲の神)」である。1億人か2億人がゼニの亡者となって英語を勉強するんだから、優秀な人物が出てくるのは当然だ。支那人は書物の中にゼニが隠れていると思っているんだから。日本の小学校で、先生が児童に向かって、「さあ、みなさん、英語の教科書を開いてくださぁ〜い。小判が見えますよぉ !」と教えるのか? アバ(ABBA)の曲「マネー、マネー、マネー」だって歌わないぞ。

  文科省の例は狡猾だ。フランス人が英語の授業を必須化したって不思議じゃない。英語の語彙にはフランス語やラテン語を語源とする単語が多いし、文法だって似ているから、フランス人の子供にしたら、ちょいとした方言を学ぶようなものである。一般の日本人は英語やドイツ語、スペイン語、イタリア語を話せるというフランス人を紹介されると、「わぁぁ、凄いなぁ」と感心するが、英語やドイツ語は姉妹語に当たる西ゲルマン語だし、スペイン語やイタリア語は同じロマンス語に属する言葉だから難しくはない。江戸っ子に津軽弁や名古屋弁、博多弁、薩摩弁を喋れと命じれば、即座には無理だが、時間をかければ不可能ではないだろう。日本人は気付かないけど、全国の方言を平仮名とかアルファベットで書き記すと、まるで外国語のように思えてくる。しかし、基本的な文法や語彙は同じだし、いくら発音やイントネーションが違うといっても、習得する速度を考えれば、ヨーロッパ人より日本人の方が早い。

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(写真 / フランス人の女性と子供たち)

  小学校からの英語教育となれば、その効果を疑って反対を表明する人もいるけど、普通の親は英語教育の導入に賛成しがちだ。というのも、自分が英語を上手に喋れないからである。一般国民の中には、「小さい頃から“ちゃんとした”英語教育を受けてこなかったせいで苦手なんだ」と恨む人が多い。中学生や高校生の頃、英語が不得意で、期末試験などで酷い点数しか取れなかった、大学受験で猛勉強したけど結局は失敗した、と様々な体験を持経て、後悔の念に駆られている人が親となっているんだから、「我が子には同じ苦痛を味合わせたくない」と考えても無理はない。だから、「まだ小学生では早いかな」と躊躇(ためら)う親でも、テレビに登場する大学教授や教育評論家から、「あなたのお子さんも小さい時から英語に慣れ親しめば、ネイティヴのように英語がペラペラと話せますよ」と聞かされれば、「そうよ。私が不得意だったのは、小さい頃から英語に触れていなかったせいだわ」と思ってしまう。自分で勉強しなかった親に限って、教育制度が悪い、学校の教師がネイティヴ・スピーカーじゃない、文法一辺倒で会話を軽視している、などと不満をぶちまける。自分の怠け癖を棚に上げて、政府の教育方針に異を唱え、自分の子供に「果たせぬ夢」を押しつけるんだから、英語教育への恨みは相当なものだ。

Watanabe Shoichi(左 / 渡部昇一 )

  英会話を等閑(なおざり)にしてきた学校に腹を立てる日本人はかなりいて、故・渡部昇一先生が喝破したように、「ルサンチマン(恨み)」の上に教育改革は成り立っている。上智大学で教鞭を執っていた渡部教授は、英文法の形成に興味を惹かれ、ドイツのミュンスター大学で博士号(PhD)を取得し、『イギリス文法史』、『英語学史』『イギリス国学史』といった名著を世に出していた。(ちなみに、渡部先生は上智大学で名誉教授になったけど、本当はミュンスター大学の名誉博士号の方がすごい。日本の名誉博士号は退職者への単なるプレゼントだが、ドイツの大学が授ける「エメリタス(emeritus)」は輝かしい業績のある者だけに贈られる称号なのだ。)

  ドイツ人の学者が「えっ、ドイツの大学で博士になったの?」と驚嘆する渡部先生によれば、日本の英語教育における目的は、流暢に喋る事ではなく、良い文章を書けることにあるそうだ。英語をペラペラと喋るだけなら乞食にでも出来るが、立派な論文を書くには“しっかり”と文法を勉強し、論理的な文章を構成できる知能を養わねばならない。 歐米の大学に留学したことがある者なら解ると思うが、教授たちは学生がどのような「論文」を書けるかで判断する。いくら授業中にテキパキと発言できても、肝心の学術論文が凡庸なら評価が低く、文法がいい加減で不明確な論述だと却下されてしまう。だから、英語の書物を読む日本人は、著者が何を述べているのか明確に理解せねばならず、その為には日本語で“はっきり”と意味が取れないと咀嚼(そしゃく)したことにはならない。簡単な日常会話なら“おおよそ”の意味さえ解ればいいけれど、学問の世界だと“ちょろまかし”は御法度だ。したがって、日本の英語教育は正確な読解力と作文能力を重視すべし、というのが渡部先生の持論である。もちろん、何らかの特殊な職業に就く人には英会話能力が必要だと述べていたが、一般の子供にまで会話能力の習得を押しつけるとなれば、ネイティヴ・スピーカーを教師に雇い、厖大な授業数を設けなければならない。もしそうなったら、教育現場は大慌てだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691413.html


16. 中川隆[-13486] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:52:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

グローバル企業が支援する愚民か政策 / 怨念を動機にする英語教育 (part 2)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691561.html

「お遊び」としての英語教科

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(左: 『個人教授』でのナタリー・ドロン / 右: 実際に英語を教える教師 )

  教育改革の理念はご立派だけど、実際、学校側はどのような「英語教育」を行ってきたのか? 「小学校英語活動実施状況調査」によると、公立小学校の総合学習において、約8割の学校が英語活動を実施しており、特別活動等も含め何らかの形で英語活動を実施している学校は、93.6%に及んでいるそうだ。第6学年では、英語活動を実施している学校のうち、97.1%が「歌やゲームなど英語に親しむ活動」を行い、94.8%が「簡単な英会話(挨拶や自己紹介など)の練習」に取り組んでいるという。また、73%が「英語の発音の練習」を行っているそうで、年間の平均授業実施時数は、第6学年で13.7単位時間(1単位時間は45分)であるらしい。


  「英語の授業」といっても、外人教師が子供たちと一緒に歌ったり、大袈裟なジェスチャーで挨拶する程度なんだから、実質的には「遊びの時間」である。文科省は具体例を挙げているので、ちょっと紹介したい。


  @ 例えば、自分の好きなものについて話すという言語の使用場面を設定して、実際に英語を使って、自分が好きな食べ物について話しあったりする(コミュニケーション)。その際、国語科の内容とも関連させながら、日本語になった外国語にはどのようなものがあるかを学習する(言語・文化理解)。また、apple, orangeなどの単語を通して英語の音声に触れてみたり、I like apples.などの表現例を使ってみたりする(スキル)。


  A例えば、友達を誘うという言語の使用場面を設定して、実際に英語を使って、自分が好きな遊びに友だちを誘ってみる(コミュニケーション)。その際、日本の遊びと世界の遊びについて比較対照してみる(言語・文化理解)。また、ohajiki, baseballなどの単語を通して英語の音声に触れてみたり,Let's play ohajiki.などの表現例を使ってみたりする(スキル)。

  もう、論じることすら馬鹿らしくなる。確かに、小学生なら教師の言葉を真似て、上手に「アップル」とか「オレンジ」と発音できるだろう。しかし、自分が欲する事や感じた事をそのまま文章にできまい。「リンゴが好き !」といった簡単な文章なら英語で表現できようが、気に入った服や玩具を買ってもらいたい時など、“微妙”な呼吸を必要とする場合には、慣れ親しんだ日本語となるだろう。例えば、母親と一緒に百貨店を訪れた少年が、「ねぇ、ママ、僕、あのオモチャがおうちにあったら、毎日ママに見せてあげられるんだけどなぁ」とねだることもあるし、父親に連れられた娘が「パパ、私このお人形が前から欲しかったんだけど、クリスマスまで我慢するね」と哀しそうな目をして、暗に買ってくれとせがむこともある。(賢い子供なら、“こっそり”とお爺ちゃんやお婆ちゃんに「おねだり」を考える。なぜなら、こうした小悪魔は祖父母が孫に甘いことを熟知しているからだ。) 子供は一番便利な言葉を選んで生活するものだ。両親が日本人なら、いくら学校で英語を学んでも無駄である。子供は親に向かって日本語を話すし、親の方も日本語で答えるはずだ。

特に、子供を叱る場合、「こらぁぁ、何やってんの!! そんなことしたらダメぢゃない !」と言うだろうし、オモチャを買ってくれとせがまれた時も、「泣いたってアカンで。無理なもんは無理や !!」と日本語で却下するだろう。したがって、日常会話の80%ないし99%が日本語なら、学校の授業なんか焼け石に水である。

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(左: フィリピン人の女中 / 右: ベイナム人の労働者 )

  「外国語専門部会」のメンバーは、机上の空論を弄ぶ連中だから単なる馬鹿ですまされるが、その方針を支持する経済界の連中には用心が必要である。彼らは「グローバル化に伴う英語の重要性」を看板に掲げているけど、本音ではアジア人労働者と一緒に作業が出来る日本人を求めているだけだ。英語を用いてコミュニケーションをはかる相手とは、教養と財産を持つ西歐白人ではない。稚拙な英語教育で低脳成人となった日本人は、工場や下請け企業でアジア系従業員と同列になり、カタコトの英語で仕事をする破目になる。大手企業が輸入するフィリピン人やマレー人、ベトナム人、支那人などに日本語を習得させるのは困難だから、簡単な「共通語」を職場の言葉にする方がいい。英語なら多少発音がおかしくても通じるし、移民労働者も多少の予備知識を備えているから、日本人の現場監督でも何とかなる。「グローバル化」と言えば響きが良いが、その根底には、日本人に対する待遇をアジア人並に引き下げ、低賃金労働者としてこき使おうとする目論見は明らかだ。子供の将来を案じ、私塾にまで通わせる日本人の親は、我が子をフィリピン人並に育てるべくお金を払っている訳ではない。しかし、お遊びの英語教育を受ける子供は、数学や理科、国語などの授業数を削られるから、総合的な学力低下は避けられず、卒業してから就く仕事は限られている。だいたい、望んでもいない低級な職種とか、厭々ながらの職業に就いた若者が、やる気と向上心を持って働くのか? 職場意識の低下は明らかだ。

どんな外人を雇うのか ?

  もう一つ、英語教育改革に伴う問題として挙げられるのは、どうやって充分なALT(Assistant Language Teacher / 外国語指導助手)を確保するかである。現在、英語の授業は日本人の教師に加えて、英語圏からの補助教員を用いて行われているから、各地方自治体は適切な外人のリクルートに手を焼いているそうだ。ベネッセ教育総合研究所の調査によれば、教育現場は英語を専門とする講師や、日本語がある程度話せるALTを獲得したいそうだが、実際のところ、こうした外人は稀で、日本人教師との意思疎通が困難なうえに、授業の打ち合わせができない。しかも、ALTが2、3で交替してしまうし、ALTによって方針や態度が違いすぎる。もっと悪いことに、指導力が身についていないALTが多いという。これは教師でない筆者も想像ができる。英語を話すアメリカ人やオーストラリア人だからといって、外国人に英語を教える能力があるとは限らない。日本語は文法や語彙、発音の点で英語と全く異なる。とりわけ、日本語を話す子供を相手にする場合、相当な根気と熱意が必要で、教育技術の無い外人を雇ったってトラブルが増すだけだ。もし、日本人教師がサウジ・アラビアに派遣されて、現地の子供に日本語を教える破目になったら、一体どのような事が起こるのか? 想像しただけで恐ろしくなる。

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(写真 / アジアへ派遣された英語教師 )

  充分な外人ALTを確保する場合、自治体が負担する費用も馬鹿にならない。仮にも教師だから、渋谷とか新宿で見つけた不良外人を雇うわけにも行かないので、多くの学校はJETプログラム(外国語青年招致事業 / The Japan Exchange and Teaching Programme)に頼んで、外人教師を斡旋してもらうことになる。しかし、上質な人材を招致するとなれば、それなりの給料や恩給を約束しなければならないし、待遇だって日本人以上に設定しないと承諾されない場合もあるだろう。小さな地方公共団体だと予算不足に悩んでいるので、ALTへの住居手当とか出張費を考えると頭が痛い。こうなれば、民間企業に頼らざるを得ないし、人材派遣業者だって甘い言葉を囁いてくる。ALTの増加要請は、地方自治体にとって財政的なピンチだが、「口入れ屋」にとっては儲けるチャンスだ。海外で安く仕入れた「外人」を日本に輸入して高く売りさばく。これを大手の人材派遣会社が全国展開のビジネスにすれば、大きな利鞘を得ることになる。ついでに不動産屋と結託し、外人教師の住宅もセットにすれば、更なる利益を摑むことができるだろう。

  一方、予算の確保に困った地方の役人は、まず中央に泣きつくから、巨額な補助金が各地に流れることになる。気前の良い中央官庁がバックにつけば、学校側は外人教師に高給を渡すことができ、口入れ屋もピンハネ額が多くなってニコニコ顔。これって、何となく、売春婦を斡旋する女衒(ぜげん)みたいだ。例えば、日本の派遣業者が不景気なアイルランドを訪れ、適当な「教師」を物色したとする。教師としての資質が不充分でも、英語を話す白人を物色できれば、日本で高く販売できるから、多少、交渉金が釣り上がっても採算が合う。どうせ庶民のガキに歌や絵本を教えるだけの「補助教員」だから、教養とか品格は問題じゃない。結局、損をするのは、「お遊び」の英語に時間を費やし、気位だけが高い愚民へと成長する子供たちと、巧妙に税金を吸い取られる親の方である。

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(左: 英語を話す黒人女性  / 右: カナダの白人女性 )

  凡庸な外人ALTをあてがわれる事態となれば、子供を預ける親も心配になるが、子供の方にも別の不満が募ってくる。学校教師は言いづらいだろうが、外人教師の人種や容姿が問題となるからだ。極端な例だが、もしAクラスを担当する外人ALTが金髪碧眼の若いイギリス人女性で、Bクラスを受け持つALTがブリテン国籍者なんだけどジャマイカ系の黒人男性であったら、どんな反応が起こるのか? もちろん、両者も英国で言語学を専攻し、教員免許を持っている。しかし、Bクラスの子供たちは、Aクラスの生徒を羨み、「僕もAクラスの先生がいい」とか「Aクラスの方に移りたい」と言い出す。さらに、保護者からも「どうしてBクラスはイギリス白人の先生じゃないの?」と抗議が来る。

  英語の教師を探す場合、イングランドやアメリカだけではなく、カナダとかオーストラリア、アイルランドも募集地となるが、事によってはインドやエジプト、ケニア、フィリピンだって候補地となり得る。外人講師への出費を抑えようと思えば、アジアかアフリカ出身者の方がいい。でも、子供たちの反応を考えれば、ブリテン連邦や北米出身の白人教師の方が“適切”と思えてくる。あり得ないことだけど、もし中学校の英語教師をイングランドから招くなら、ケンブリッジ公爵夫人となったキャサリン・ミドルトンのような女性の方が好ましく、やがでヘンリー王子と結婚するメーガン・マークルのような黒人女性じゃ二の足を踏んでしまうじゃないか。

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(左: キャサリン妃 / メーガン・マークル / エリザベス女王 / 右: フィリップ殿下)

  確かに、どちらも心優しい女性であるが、マークル氏がイギリス文化を解説するなんて、ちょっと抵抗がある。イギリス系のカナダ人が教えるんなら納得できるけど、支那系とかアフリカ系のカナダ人だと遠慮したい。やはり、英国の言葉や風習を教えてもらうなら、先祖代々イングランドに暮らすアングロ・サクソン系のイギリス人の方がいいし、パキスタン移民3世とかインド系帰化人5世の教師より、オランダ系やドイツ系の移民2世の方がマシだ。何しろ、イングランド王国では女王陛下がドイツ系だし、フィリップ殿下はギリシア出身のドイツ系貴族で、スコットランドのエジンバラ公爵になっている。日本の皇室とは大違いだ。

  ベネッセ教育総合研究所が行ったアンケートに、「英語教育で重要なこと」という項目があり、そこでは外国人との交流に関する質問があった。「とても重要」と答えた人は英語教育賛成派で55.4%を占め、反対派でさえ30.7%であった。最重要とは言えないが「まあ重要」と答えたのは、賛成派で41.6%、反対派では54.9%であった。ということは、賛成派と反対派を問わず、多くの人が外国人との交流に何らかの重要性を見出している訳で、子供たちが進んで外国人に接することを期待していることになる。だが、話しかける相手が西歐白人ではなく、イングランドに移り住んで来たインド人やパキスタン人、トルコ系帰化人の2世や3世、あるいはブリテン国籍を持つアラブ系イスラム教徒であったらどうなるのか? イギリス人とは思えない容姿の教師を前にして、日本の子供たちが積極的に話しかけ、英語やイギリス文化に興味を示すとは思えない。

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(左: インド系男性 / 中央: 英国のジャマイカ人女性 / 右: ムスリム男性 )

  もし、帰宅した息子に母親が、「今日、英語の時間はどうだった?」と尋ね、「う〜ん、別に」といった返事だけしか得られなかったら心配になる。それに、問い詰められた息子が、「あんまり面白くない」とか「あの先生イヤだ」と呟いたらどうするのか? 具体的な将来設計を描けない小学生は、教師によって好き嫌いができてしまい、好きな先生の授業なら喜んで学ぼうとするが、気に入らない教師に当たるとガッカリする。ある心理学の実験によれば、幼児だって美女を見ると自分から抱きつこうとするらしく、ブスだと顔を背け、抱きつこうとしないそうである。幼い子供は理性でなく本能で行動するから、大人は冷や冷やするらしい。こうした行動様式はともかく、高額所得者の親を持つ子供は有利だ。お金持ちの保護者は自由に私立学校を選択できるし、優秀な講師を揃えた英語塾にも通わせることができる。しかし、低所得の家庭だと公立学校へ通わせることしかできない。つまり、「選択肢」の無い親子は、どんな学校でも我慢するしかないのだ。

  「日本の学校における教育理念とは何なのか」については様々な意見があるけれど、「立派な日本国民を育成する」ということに関しては、異論はあるまい。いくら英語を流暢に話して歐米人と対等に議論できるといっても、外国人に対して卑屈なら日本人としては失格だ。英語を習得することだけに労力を費やし、大人になっても自国の文化を知らず、日本語さえも未熟なら、こうした人物は歐米人の小使いに過ぎない。まるでローマ人の将軍に飼われたユダヤ人通訳みたいなもので、便利だけど尊敬に値しない「下僕」である。日本人が思考する時に用いる言語は日本語であり、その性格を形成するのも日本語である。その大切な言葉遣いが幼稚で、日本の歴史についても無知な者が、祖国に誇りを持って生きて行けるのか? アメリカ人やイギリス人は、いくら英語が達者な日本人でも、揉み手すり手でやって来る小僧を「対等な者」とは思わない。現在の英語教育は歐米人に対する劣等感を植え付けるだけで、卑屈な日本人を大量生産する結果になっている。我々は英語が苦手なことで尻込みする必要は無い。もし、「英語を流暢に話せるんだぞ」と自慢するクラスメートに会ったら、「ああ、すごいねぇ。まるでフィリピン人みたい」と褒めてやれ。どんな顔をするのか楽しみだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691561.html


17. 中川隆[-13485] koaQ7Jey 2018年7月02日 09:53:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16303]

内田樹の研究室 2018.01.31
『街場の文体論』韓国語版序文


これが韓国語訳されることになったわけですけれど、果たして僕がこの授業で取り上げたさまざまなトピックが隣国の読者たちにとっても同じような切実さを持つものかどうか、確信がありません。でも、一つ言えるのは、韓国でも日本でも、言語が遭遇している危機についてはおそらくそれほどの違いはないということです。それは母語が痩せ細っているということです。序文として、それについて少しだけ思うことを書いてみたいと思います。

母語が痩せ細っているというのは、現実的には英語が支配的な言語になりつつあるということです。すでに各種の学会ではそうなりつつあります。

自然科学系の学会ではしばしば日本人だけの集まりでも発表や質疑は英語で行われます。研究者たちは英語で論文を読んで、英語で論文を書いて、英語で議論する。

韓国でも事情は同じだと聞いています。どちらも英語での大学の授業数が増えています。

「留学生数」や「海外提携校数」や「英語で開講されている授業数」や「外国人教員数」が多い学校に助成金がたくさん分配される。

だから、どの大学も必死になって英語に教育資源を集中的に分配するようになっています。

日本では中学高校で英語の授業は英語で行うことが定められました。

こういう流れを「国際化」とか「グローバル化」といって肯定的に語る人がたくさんいます。でも、それはそんなに喜ばしいことなんでしょうか。

とりあえず日本において統計的に一つだけわかっていることは、母語の教育を疎かにして、限られた教育資源を英語に集中するようになってから英語力が低下したということです。

この現実に慌てた政府は日本人が英語ができないのは学習開始年齢が遅いからだという根拠のない解釈に飛びついて、英語教育の開始年齢をさらに引き下げて、小学校3年生からの英語教育開始を決めました。結果はまだ出ていませんが、英語力を含めてすべての学力が低下することになるだろうと僕は予測しています。

なぜそんなことが起きるのか。それは言語政策を起案している日本の政治家や官僚や学者たちが「言葉を使う」という営みの複雑さを知らないからです。

彼らは言語というものを自転車や計算機のような「道具」だと思っている。こちらに道具を操作する主体がいて、あちらに道具がある。性能のよい道具を手に入れ、操作技術に習熟すれば仕事が捗る。そう思っている。

でも、それは違います。言葉は道具じゃない。僕たちが言葉を使うというより、僕たち自身が言葉で作られているのです。僕たちが言葉を支配しているのではなく、むしろ僕たちが言葉によって支配されているのです。

言葉は僕たちの血であり、肉であり、骨であり、皮膚である。それがどのような質のものか、どのようなかたちのものか、どのような特性を持ったものかによって、僕たち自身のものの考え方も、感じ方も、生き方もすべてが影響を受ける。

英語を巧妙に操れるようになるということは、「英語を母語とする種族のものの考え方、感じ方」をわが身に刻み込み、刷り込んでゆくということです。そのことの重大さに人々はあまりに無自覚だと思います。

アメリカの植民地であったフィリピンでは英語が使えないとビジネスマンとしても公務員としても教師としてもジャーナリストとしてもよい職には就けません。だから、地位のある人たちはみんなみごとな英語を話します。

フィリピンの生活言語はタガログ語です。でも、タガログ語ではビジネスをすることも政治や経済について語ることもできません。そのための語彙が母語にはないからです。

フィリピン人のある大学の先生がこう語っていました。「英語で話せることは実利的(practical)であるが、母語では話せないことは悲劇的(tragical)だ。」

なぜ悲劇的であるのか。それはこのような言語環境に置かれている限り、フィリピン起源の政治理論や芸術運動が出現する可能性が絶望的に低いからです。

知的なイノベーションは(ほとんどの場合)母語による思考から生まれてくるからです。
母語が痩せ細っていれば、知的なイノベーションは始まらない。

例えば僕たちは母語でしか新語(neologism)を創ることができません。新語というのは、勝手に作れるわけではありません。条件があります。それは生まれて初めて耳にした語であるにもかかわらず、聞いた瞬間に母語話者たちにはその語義もニュアンスもわかるということです。だから、あっという間に広がる。これは外国語ではできません。自分で新語を作ってみても(例えば、不規則変化は覚えるのが面倒だからこれからは“I went”ではなく”I goed”にしようと僕が提案してみても)「そんな言葉はない」と冷笑されるだけです。

新しい言葉を創れないということは、新しい概念や新しいロジックを創ることができないということです。創造的なアイディアが思い浮かんだ時のことを思い出せばわかります。それは「喉元まで出かかっているのだけれど、まだ言葉にならない」というもどかしさを伴う経験です。アイディアは身体の奥の方から泡のように湧き出てくるのだけれど、まだはっきりしたかたちをとることができないでいる。最終的にそれなりの言葉になるのですけれど、それは手持ちの言葉を引き延ばしたり、押し拡げたり、これまでそんな語義で使った前例のない使い方をしたことでようやく達成されます。創造的な概念がかたちをとる時には母語もまた変容する。知的創造と母語の富裕化は同期する。

言葉を使うというのは、そういう力動的なプロセスなのです。道具を使うのとは違います。

鋏を手に持っている時にその新しい使い方を思いついたら、鋏がその思いに合わせて形状を変え、材質を変え、機能を変えるということはあり得ません。その「あり得ない」ことが母語においては起きる。それを考えれば、母語の運用がいかに生成的なものであるかが想像できると思います。そして、この知的創造は(例外的な語学の天才を除けば)母語によってしかできません。既存の言葉を引き延ばしたり、押し拡げたり、たわめたり、それまでにない新しい語義を盛り込んだりすることは母語についてしかできないからです。

ですから、母語が痩せ細るというのは、その言語集団の知的創造にとっては致命的なことなのです。

植民地帝国はどこでも自分たちの言語を習得することを植民地現地人たちに強要しました。

宗主国の言語は強国の言語であり、当然「グローバル」な言語であるわけですから、植民地化された人たちはそれを習得したことで、政治的にも経済的にも学術的にも実力をつけて、国際社会の中で以前よりは高い地位に達してよいはずです(日本の英語政策はまさにそのような発想に基づいて実施されています)。

でも、歴史はそのような実例を一つも教えてくれません。

なぜ宗主国は植民地に「グローバルな言語」の使用を強要するのか。

それは宗主国の言語を習得した植民地人たちには母語を富裕化する動機が失われるからです。そして、母語が痩せ細ると知的創造の機会が失われる。

植民地人たちは、自分たちの歴史的現実について語ろうとする場合でさえ宗主国のロジック、宗主国の歴史観、宗主国の世界戦略に即してしか語れないようになる。父祖伝来の「家産」的な生きる知恵と技術を伝え、それに即して生きることができなくなる。母語が痩せ細るというのはそういうことです。

僕が「クリエイティブ・ライティング」という授業を始めたのは、「グローバル化」潮流の中で日本語が痩せ細り始めているということに強い危機感を抱いたからです。

でも、母語を豊かなものにすることは集団の知的創造性において必須であるということが言語政策を考えている人たちには理解されていません。その結果、日本の知的生産力は21世紀に入ってから急激に劣化しました。

一昨年の秋にはForeign Affairs Magazine が昨年春にはNature がそれぞれ日本の研究力の劣化について長文の分析記事を掲載しました。それほど危機的な状況であるのにもかかわらず、日本の教育行政はすでに失敗が明らかになった「グローバル化に最適化する教育」をさらに加速させる政策をいまも次々と採択しています。これは日本の知的生産力に回復不能の傷をもたらす結果になるでしょう。

誤解して欲しくないのですが、僕は外国語教育の重要性を否定しているわけではありません。僕自身は最初に中学生で漢文と英語を習い、大学ではフランス語を集中的に学びました。その後は(どれもものにはなりませんでしたけれど)ドイツ語、ラテン語、ヘブライ語を独学しました。去年からは韓国語の勉強も始めました。新しい外国語を学ぶとは、異国の人々の自分たちとはまったく異なる宇宙観や倫理規範や美意識に触れることです。それによって自分の母語的偏見が揺り動かされることに僕はいつも深い驚きと喜びを経験しています。そして、これらの外国語との触れ合いは間違いなく僕の母語運用能力を高め、もし僕が母語においてなにごとか知的創造を果たしたとすれば、それに深く関与したと思います。

でも、いま「グローバル化」の名の下で行われているのは「母語的偏見を揺り動かされる」ような生成的で鮮烈な経験ではありません。「英語ができないと出世ができない、金が稼げない、人にバカにされる」というような怯えに動機づけられた外国語との出会いが生産的なものになると僕にはどうしても思えないのです。

この本は「母語が痩せ細っている」という危機感の中で行われた授業の記録です。きっと韓国にも自国語の豊かさと創造性について、僕に似た危機感を抱いている人がいるのではないかと思います。そういう人たちにぜひ読んで欲しいと思います。
http://blog.tatsuru.com/


18. 中川隆[-13419] koaQ7Jey 2018年7月08日 22:19:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16381]

内田樹 2018年07月07日 敗北主義について


日替わりで行政の不祥事が報道されているので、この記事が新聞に出る頃に日本の政局がどうなっているのか皆目見当もつかない。だが、どちらに転ぼうとも「行き着くところまで行く」という流れに変わりはないだろう。

「行き着くところまで行く」というのは、言い換えると「このままの方向に進むととんでもないことになるということがわかっていても、手をつかねて何もしない」ということである。「最悪の事態が到来するまで何もしない」というのは日本人の宿痾である。

組織的危機の到来を警告する人間は日本社会では嫌われる。

事故を起こした原発でも、コンプライアンス違反や法令違反を犯した企業でも、「こんなことを続けていると、いつかたいへんなことになる」ということを現場の人間は知っていたはずである。自分たちがやるべき手順を抜かし、守るべきルールを守らず、定められた仕様に違反していたことは現場にいる人間は知っている。知らないはずがない。でも、それを上司に伝えると「嫌な顔」をされた。ここでそれを指摘すれば、経営陣はこれまでそれを放置してきたことの責任を問われる。壊れたシステムの補正のためにはそれなりのリソースを割かねばならない。仕事が増えるし、利益が減るし、外に漏れれば会社の評判に傷がつく。だったら「見なかったこと」にして、先送りした方がいい。人々はそう考えた。

いずれ「たいへんなこと」が起きるだろうが、その時には自分たちはもう満額の退職金を手に退職した後である。短期的に自己利益の多寡だけを見れば「見なかったこと」にする方がたしかに賢い生き方である。現に、「今すぐ非を認めて補正した方がよい」と諫言する人たちは嫌われ、排除され、「全く問題はありません」と言い募る人々が出世を遂げていった。

でも、そうやって、ある日気がついてみると、どれほど危機的な事態に遭遇しても、何もしないで先送りして、ますます事態を悪化させることに長けた人々ばかりで日本社会の指導層が占められるようになった。それが現状である。

「最悪の事態が到来するまで何もしない」というのは、日本の組織に限って言えば、実はそれなりに合理的な解である。そのことは残念ながら認めなければならない。

というのは、日本人は「最悪の事態」について考えると、とたんに思考停止して、絶望に陥り、使い物にならなくなるからである。

ほんとうにそうなのだ。

人口減少についてのデータに基づいて「これから経済成長を望むのは不可能だ」と書いたらたくさんの人に叱られた。「そういう衰亡宿命論を口にするな」「国民を悲観的にさせるな」と言うのである。

別に私は衰亡宿命論を語っているわけではない。私を個人的に知っている人はご存じのとおり、気質的にはたいへん楽観的な人間である。だから、人口が減り、超高齢化した日本でも、それなりに愉快で豊かな生活はできるはずだから、その手立てについてみんなで知恵を出し合おうではないかと申し上げているのである。

なのに「そういう話はするな」と言われる。それよりは原発再稼働とか五輪万博招致とかリニア新幹線とかカジノとか、そういう「景気のいい話」をしろ、と。

そういう話をしたい人はすればいいと思う。

でも、そういうのが全部失敗した後の「プランB」について私が考えても誰の迷惑にもなるまい。

だが、日本人は「今のプランAが失敗した場合のプランBを用意する」ことを「敗北主義」と呼ぶ。そして「敗北主義が敗北を呼び込む。景気の悪い話をする人間が景気を悪くするのだ。この後日本が経済成長しなかったら、それはお前の責任だ」とまで言う。

なるほど、悲観的になると思考能力が低下するという真理は夫子ご自身のそのご発言からあからさまに知れるのである。
http://blogos.com/article/309501/


19. 中川隆[-13441] koaQ7Jey 2018年7月10日 17:44:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16453]

◆ハザードマップと重なった浸水域、それでも犠牲者防げず 7月10日 朝日新聞

住宅地が大規模に冠水した岡山県倉敷市真備(まび)町は、過去にも同じ河川が繰り返し氾濫(はんらん)していた。危険を知らせる洪水ハザードマップは、今回とほぼ同じ浸水域を想定しており、河川改修も計画していた。予測していた災害で、なぜ30人近い犠牲者を出したのか。

【写真】河川の付け替え工事の予定と被害状況


■真備町、水の流れにくい河川

 「一挙に水が出た。急激な水位上昇があった」

 8日夜、倉敷市防災危機管理室の河野裕・危機管理監は、想像以上の速度で河川の水位が上がっていった状況を記者団に語った。

 真備町は1級河川の高梁川へと注ぐ支流の小田川流域にある。住宅地や田んぼが広がるが、堤防の決壊で地区の約4分の1にあたる1200ヘクタールが浸水した。倉敷市はほぼ半数の住家が床上浸水したとみている。

 倉敷市は6日午前11時30分、真備町を含む市内全域の山沿いを対象に「避難準備・高齢者等避難開始」を発令。午後10時には真備町全域に「避難勧告」を発令した。地域防災計画では、小田川の氾濫(はんらん)危険水位に達することなどが発令基準になっているが、見回りに出ていた市職員や消防団の情報から、早めに発令することにした。すぐにエリアメールや防災無線などで住民に情報を伝えた。

 しかし、その後も水位の上昇が続き、7日午前0時47分には国土交通省が小田川右岸で水流が堤防を越えたとの緊急速報を出した。倉敷市では、その約40分後までに真備町全域に避難指示を出した。国交省が堤防の「決壊」を把握したのはその約4分後だった。

 真備町は地区の東側を高梁川、南側を小田川に囲まれている。

 岡山大の前野詩朗教授(河川工学)によると、今回の決壊は、高梁川と小田川の合流地点付近が湾曲して水が流れにくくなっているため、上流側の水位が上昇する「バックウォーター現象」が起きたことが原因とみられる。流れなくなった水は勾配が緩やかな小田川の方にたまりやすく、決壊したという見方だ。

 国交省の資料によると、二つの河川の合流地点付近では、1972年や76年などにも大規模な浸水が発生していた。国交省は湾曲部分よりも下流側に合流地点を付け替えて水を流れやすくする工事を計画し、今秋には工事用道路の建設を始める予定だった。

 一方、倉敷市は洪水時の地区ごとの浸水域を色分けして示したハザードマップを作成していた。今回の水害後、国交省がドローンを飛ばして上空から確認すると、地区内の浸水被害は想定とほぼ重なっていた。倉敷市は全戸にハザードマップを配っていたが、住民の男性(48)は「そんなものがあったとは、知らなかった」と言う。

 想定されていたはずの災害。倉敷市の担当者は9日夜、「命を落とした方がいるということは本当に残念だ」と述べたものの、原因について問われると、「その質問に答えるにはまだ早すぎる」と語った。


■ハザードマップ、1300市町村が公開

 浸水が想定される区域や避難場所などを住民に伝える洪水ハザードマップは、市町村が作成する。

 国や都道府県などの河川管理者が、流域に降る雨の量や堤防が切れる場所などを想定して浸水想定区域図をつくり、市町村が避難場所や経路を記入して完成させる。昨年3月時点で約1300市町村が公開している。倉敷市もその一つだ。

 約7万戸が浸水した2000年9月の東海豪雨やその後の水害で、多くの住民が避難場所を知らなかったことが問題になり、水防法が改正されて、大きな被害が予想される川について作成が義務づけられた。

 東京都荒川区は2016年、荒川で最大規模の洪水が起きた際の浸水想定を国土交通省が公表したことを踏まえ、ハザードマップを改定した。区内の11万5千世帯のうち、9万世帯が最大5メートル以上の浸水被害を受けると想定している。

 15年の関東・東北豪雨では、茨城県常総市を流れる鬼怒川の堤防が決壊した際に、多数の住民が自宅に取り残され、ハザードマップが避難行動に結びつかない実態が明らかになった。国交省は16年に手引を改め、「早期の立ち退き避難が必要な区域」も設定することを盛りこんだ。

 荒川や入間川が流れる埼玉県ふじみ野市では、昨年3月からハザードマップにこうした区域を明記している。担当者は「ただマップをつくるのではなく、中身を住民に知ってもらい、水害のリスクを実感してもらうことが重要」と話す。

 ただ、作成が義務づけられているのは一定規模以上の河川が対象で、中小河川では浸水想定区域図がなく、危険性が示されていない場合がある。昨年7月の九州北部豪雨では、浸水想定区域として示されていなかった筑後川の支流があふれて多くの犠牲者が出た。


(私のコメント)

今回の西日本大水害は、130名を超える死者を出す大災害となりましたが、警報や勧告が出ていても犠牲になられた方は避難することをしていなかった。4年前にも広島では大災害が出ましたが、その広島でまた大水害が出てしまった。山を切り崩して造成された団地に土砂が襲いかかって犠牲者を出してしまった。

災害というのは起きる直前までは、なんともないから大丈夫だろうと思うのでしょうが、それで予想以上の大きな人的な災害になってしまった。事前に水害が予想されてハザードマップも作られていたが、住民の関心は薄く、ハザードマップは配られても多くの住民はそれを知らなかった。

テレビのニュースを見ても、4年前の広島の土砂災害と同じ光景が繰り返されてしまっていた。土砂災害は防ぎようがなく、山を全部コンクリートで固めるわけにも行かない。砂防ダムなどを作っても効果はないだろう。集中豪雨があれば土砂崩れの危険性があるから、居住禁止にすべきですが、それができない。

今回も1000ミリ以上の雨が降ったのだから、山は崩れ川が溢れかえることが予想できたのに、大丈夫だろうといった判断が逃げ遅れる原因になった。毎年のように集中豪雨は発生するようになり、東京でもゼロメートル地帯が有り、堤防が決壊すれば同じように家は水没して逃げ遅れるといったことも考えられる。

東京もたびたび集中豪雨があり、神田川などが氾濫しますが、巨大なゆう水槽を作って川の氾濫を防いでいる。地方の中小河川でも、氾濫する可能性のある川には遊水地を作って、非常時にはそこに水を貯めるようにすべきだろう。用地がなければ農業耕作地を遊水地にして、住宅への被害を防ぐべきだ。

しかしすぐにできる対策といえば、避難所を作って避難することであり、年に一度くらいは避難訓練をして、高齢者なども所在を確認しておくべきなのだ。東日本大震災も、津波に対する訓練をしていたところは全員助かったが、大川小学校のように避難訓練をしていない小学校は大きな犠牲を出してしまった。

原発にしても避難訓練くらいはすべきだったが、やったというようなニュースを聞いたことがない。面倒だと思っても万が一にあった時にはそれが役に立つはずだ。大阪でも大きな震災がありましたが、神戸大震災や東日本大震災の教訓が生かされずに交通が大混乱してしまった。

7月8日にも書いたように、日本人は最悪の事を考えるという事はせず、思考が停止してしまう。最悪のことを考えてそれに対する訓練をしておけば大災害は防げるはずだ。東北では万里の長城のような防潮堤が作られていますが、それよりも避難所を整備して避難訓練をしたほうが、早いし費用もかからない。

しかしいかんせん日本人は最悪の事は考えたがらないから、今回のように130名以上もの犠牲者が出てしまう。ハザードマップも作られて配られていても、それを元に避難訓練をしなければ意味がない。避難をして何もなければ訓練だったと思えばいいのではないだろうか。

大東亜戦争の時も、ドウリットルの空襲があったときは、何の迎撃もできませんでしたが、空襲があるとは予想しておらず、訓練もしていなかったから日本中がパニックになってしまった。それで急遽ミッドウエイ作戦が行われることになりましたが、図上訓練では上手くいかず、それを無視して実行したら、実際にはその通りになってしまった。

東京でも北朝鮮からミサイルが飛んできた時の訓練をすべきなのでしょうが、日本人は最悪のことは考えたくないから訓練は行われない。おそらく近い将来、関東大震災が再び起きるのでしょうが、避難訓練も何もしていないから大災害で多くの犠牲者が出るだろう。
http://2013tora.jp/kabu412.html


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