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FBI長官の解任を受けて米メディアが類似性を宣伝するウォーターゲート事件は世界を戦争へ導いた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201705110000/
2017.05.12 11:26:15 櫻井ジャーナル
ジェームズ・コミーFBI長官が5月9日に解任された後、アメリカの有力メディア内では新たなウォーターゲート事件だという騒ぎが起こっている。コミー解任でドナルド・トランプ政権はこれまで以上に不安定化したことは間違いないだろう。では、そのウォーターゲート事件とは何だったのだろうか?
ウォーターゲート事件の主役、リチャード・ニクソンは1969年に大統領となり、72年の選挙で再選された。この当時、アメリカでは平和を望む声が高まり、1972年の選挙では戦争に反対する意思を明確にしていたジョージ・マクガバンが民主党の候補に選ばれている。これは支配層にとって衝撃だった。
ニクソンも1970年代に入るとデタント(緊張緩和)政策を推進、1972年2月には中国を訪問して毛沢東や周恩来と会談している。その一方、ベトナム戦争から手を引く動きも見せ、1973年1月にはパリ休戦協定が調印されて停戦が実現した。ベトナム戦争は朝鮮戦争と同様、対中国戦の一環だった可能性が高いことを本ブログでは何度か指摘した。中国との関係修復に乗り出す政策へ変更したことから、ベトナム戦争を継続する理由もなくなったと言える。協定が調印されて2年後に北ベトナム軍がサイゴン(現在のホーチミン)へ無血入城した。
こうした流れを止め、アメリカを戦争へ引き戻すことになるのがウォーターゲート事件にほかならない。この事件ではワシントン・ポスト紙が活躍、今でも「言論の自由」の象徴だと崇めている人も少なくないようだが、実態は違う。CIAの秘密工作人脈と深く結びついているのだ。
事件当時の社主、キャサリン・グラハムは世界銀行の初代総裁の娘で、親友のポリー・ウィズナーが結婚していたフランク・ウィズナーは秘密工作を指揮していた人物。アレン・ダレスの側近で、ふたりともウォール街の弁護士だった。
また、キャサリンの夫でキャサリンの前の社主だったフィリップ・グラハムはアレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズとメディアをコントロールする秘密プロジェクト、モッキンバードを指揮していた。
ウォーターゲート事件では、カール・バーンシュタインとボブ・ウッドワードというふたりの若手記者が取材の中心になった。このうちウッドワードは海軍の情報将校だった人物で報道の世界では素人に近く、取材の大半はバーンシュタインが担当したようだ。ウッドワードの功績は情報源のディープスロートを連れてきたことにあるとされている。
その後、ウッドワードはワシントン・ポスト紙で出世するが、バーンシュタインは1977年に同紙を辞め、その直後に「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。それによると、400名以上のジャーナリストがCIAのために働き、1950年から66年にかけて、ニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供しているとCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)
西側の有力メディアはCIAの強い影響下にあることを明らかにしたのだが、そうした状況はその後強まり、最近も偽情報で世界を核戦争へと導こうとしている。そした実態に気づく人が増えてきた現在、インターネットに大きな影響力を持つ巨大企業が情報をコントロールしはじめてきた。
ニクソン失脚後に誕生したジェラルド・フォード政権ではデタント派が粛清される。その黒幕的な存在がポール・ニッツェたち。ニッツェは1940年にナチスとの関係が疑われて捜査の対象になり、ネルソン・ロックフェラーのオフィスへ逃げ込んでいる。
フォード政権の粛清で大きな意味を持っていたポストがCIA長官と国防長官。議会で情報機関の秘密工作の一部を明らかにしたウィリアム・コルビーCIA長官が解任されてジョージ・H・W・ブッシュが後任の長官になり、国防長官はジェームズ・シュレシンジャーからドナルド・ラムズフェルドに替えられた。そのほかリチャード・チェイニーが大統領首席補佐官に就任、ポール・ウォルフォウィッツやリチャード・パイプスはCIAの内部でソ連脅威論を正当化するために偽情報を発信するチームBのメンバーになった。このチームを始動させたのはブッシュだ。
平和に生活することを望み、戦争に反対する人びとをアメリカの支配層は危険だと考える。そうした人びとを監視するため、FBIは1950年代からCOINTELPROというプロジェクトを実行、CIAは1967年からMHケイオスという作戦を始めている。1970年代の前半に内部告発があるまで存在すら否定されていた電子情報機関のNSAも監視を続けてきた。
MHケイオスが明るみに出たのは1974年12月22日。調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュがニューヨーク・タイムズ紙でこの事実に触れる記事を書いたのだ。記事が出る前にハーシュはコルビーCIA長官を取材、それを聞いた長官は防諜部門を統括していたジェームズ・アングルトンを呼ぶ。そこで郵便物の違法開封を認めたアングルトンをコルビーは追い出してしまった。(John Rranelagh, "The Agency," Touchstone, 1987)
それだけでなく、コルビーは議会の公聴会でNSAの通話傍受、ベトナム戦争における住民皆殺し作戦のフェニックス・プログラム、そしてMHケイオスについて証言している。支配層にとって都合の悪い話を公にしたわけだ。フォード政権で解任された理由はこうした彼の姿勢にあった。
フォード政権では後にネオコンと呼ばれるグループが台頭してくるが、ウォルフォウィッツを含む若手メンバーを育成していたのがヘンリー・ジャクソン上院議員のオフィス。マクガバンが民主党の大統領候補に選ばれた際、同党の内部に反マクガバンのグループが結成されているが、その中心はジャクソン議員だった。
ネオコンが形成される上で重要な役割を果たした人物は少なくないが、その中でも理論的な支柱だったレオ・ストラウス、軍事外交政策で中心的な存在だったジェームス・バーンハム、大学時代のウォルフォウィッツに大きな影響を与えた軍事戦略の専門家だったアルバート・ウールステッター、ソ連脅威論や中国脅威論の発信源だったアンドリュー・マーシャルを忘れてはならないだろう。
ニクソン大統領に大きな問題があったことは事実だが、ウォーターゲート事件が緊張緩和の流れを断ち切り、世界を戦争へと引き戻す役割を果たしたことも忘れてはならない。
第2次世界大戦後、1963年6月10にアメリカン大学でソ連との平和共存を訴えたジョン・F・ケネディ大統領は64年11月22日に暗殺、67年4月4日にベトナム戦争を批判したマーチン・ルーサー・キング牧師は68年4月4日に暗殺、ケネディ大統領やキング牧師と同じ考えだったロバート・ケネディ上院議員は68年6月6日に暗殺されている。アメリカで平和を訴えるのは命がけだ。
なお、ウォーターゲート事件の発端になった侵入事件を起こしたチームはCIAの秘密工作部門と関係が深く、チームを指揮していたひとりハワード・ハントもCIAの幹部だった。死の直前、ケネディ大統領暗殺に自分は「ベンチウォーマー」として参加したと語っている。万一、リー・ハーベイ・オズワルドを犯人にすることが失敗した場合、ハントたちが犯人にされる手はずになっていたということだ。
つまり、ハントの証言以外の情報を考慮しても、ハントはケネディ大統領の暗殺を含む秘密工作を熟知していた可能性が高い。ニクソンも情報を持っていただろう。ウォーターゲート事件で追い詰められたニクソンはピッグス湾事件の全容を明るみに出すとCIAを脅したと言われているが、これはケネディ大統領暗殺の真相を明らかにするという意味だったようだ。
ウォーターゲート事件でハントは逮捕されるが、妻のドロシーは夫を助けるため、重要資料を持ってシカゴへ向かったと言われている。ところがその旅客機UA553はシカゴ空港で墜落、何を彼女が運んでいたのかは不明だ。ドロシーも情報機関で働いていた経験があり、ヨーロッパでナチスが略奪した財宝の回収工作セイフヘイブン作戦に参加、第2次世界大戦の直後には上海へ来ている。
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