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橘玲の世界投資見聞録
2017年3月2日 橘玲
アルゼンチンで左派ポピュリズムが定期的に台頭する理由
[橘玲の世界投資見聞録]
ここ何回か、米大統領選とからめてアメリカの話を書いてきたが、昨年秋に中南米カリブを旅した話が途中で終わっていて、せっかく遠くまで行ったので、2回に分けてアルゼンチンとブラジルの印象を記しておきたい。
アルゼンチンはスペイン語圏であることから、アルゼンチン人=スペイン系と思われがちだが、現代史を辿ると、ヨーロッパ系アルゼンチン人の多くはイタリアからの移民の子孫だ。アルゼンチンの人口は約4000万人だが、他の民族との混血も含めれば、そのうちイタリア系は約3000万人で74%を占める。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパのなかでもとりわけ貧しいイタリア南部から、大量の移民が港湾労働者として活況に沸くブエノスアイレスに押し寄せたことで、アルゼンチンはイタリア本国(人口約6000万人)に次ぐ「(スペイン語を話す)イタリア人の国」になったのだ。
[参考記事]
●同じ南米の大国なのに、アルゼンチンがブラジルとは全く印象が異なる理由
夜のブエノスアイレス。ライトアップされたオベリスコ(古代エジプトの太陽の塔) (Photo:©Alt Invest Com)
アルゼンチンは「民主主義」のせいで地方にバラマキを約束する左派ポピュリズムが台頭する
アルゼンチンは、首都への極端な一極集中という特異な構造の国でもある。観光ガイドブックを見ても、ブエノスアイレス以外に紹介されているのはブラジル国境のイグアスの滝と、アウトドア派に人気の南部の景勝地パタゴニアくらいで、「都市」はまったくない。アルゼンチンは、大西洋貿易の拠点として発展した港町ブエノスアイレス(人口約300万人)と、牧畜や農業で生計を立てる広大なパンパ(草原地帯)のふたつの「国」が合併して成立したのだ。
こうした状況は、東南アジアならタイに似ている。バンコク首都圏の人口1500万人に対し、第二の都市であるイサーン(東北地方)のナコンラチャシマは560万人、日本人にも人気の北部のチェンマイは約390万人と人口に大きな差があるが、都市間の「格差」はそれ以上で、アジア有数の近代都市となったバンコクに比べ、それ以外は地方都市というより田舎町にちかい。
その結果、タイの政治が民主化すると、バンコクと地方の利害対立が際立ってきた。これを利用したのがチェンマイ出身のタクシンで、ポピュリズム的なばらまき政策で地方の貧しい有権者の支持を獲得しバンコクの既成政党を圧倒した。これが王室を中心とする権力層への重大な挑戦と見なされたことで、たび重なるデモや暴動を経てタイは軍政に戻ることになった。
アルゼンチンの政治もこれと同じで、ペロンと妻のエビータに象徴される左派ポピュリストが民主選挙で権力を獲得すると、既得権を脅かされたブエノスアイレスの富裕層が軍部と結託してクーデターを起こすという歴史を繰り返してきた。
今世紀に入ってからもアルゼンチンは、2001年に放漫財政と対外債務の急増で大規模な金融危機を起こし、2014年にもアメリカの投資ファンドに元本返済ができず実質的なデフォルトに陥るなど経済的な混乱を繰り返しているが、その原因は「民主主義」にあり、地方の貧しい大衆の票を集めるために政治家は“ばらまき”を約束せざるを得ないのだ。
ブエノスアイレスの繁華街であるフロリダ通りには「カンビオ、カンビオ」と連呼する客引きがたくさんいるが、「Cambio」は両替のことだ。クリスティーナ・キルチネル前大統領時代の放漫財政と悪性インフレによって、政権末期(2015年)には対米ドルの公定レートと闇レートの差が50%も開いた。その結果、闇両替が巨大ビジネスになったのだ。
いまどき先進国はもちろん、新興国でも旅行者相手に闇両替を行なうところはあまりない(アジアではミャンマーくらいだろうか)。アルゼンチンは「中進国」とされているが、ブエノスアイレスの街に闇両替商が溢れていることにこの国が抱える困難が象徴されている。
それでも希望がないわけではなく、2015年の政権交代はクーデターではなく民主的な選挙で実現し、中道右派のマウリシオ・マクリが選ばれた。マクリは就任早々、パナマ文書に名前が載っていることを暴かれ辞任要求デモの洗礼を受けたが、投資ファンドとの和解によって国際金融市場への復帰を果たし、財政改革を進めたことで公定レートと闇レートの差もほとんどなくなった。
土産物店で話を訊いたら、以前は米ドルの支払いは闇レートで計算していたが、いまではドルとペソを公定レートで換算しているという。「カンビオ」と連呼するひとたちも、そのうち姿を消すことになるだろう。
だが、話はこれで終わりではない。経済改革が成功して財政に余裕ができると、地方の貧困層への再分配を約束する左派ポピュリズムの政治家が登場し、ふたたびばらまき政策を始めるだろう。こうして財政赤字と対外債務の膨張、悪性インフレに襲われることになるが、これは「グローバリストの陰謀」ではなく、この国の政治にビルトインされた循環構造なのだ。
5月広場。正面に見えるのが大統領官邸 (Photo:©Alt Invest Com)
ブエノスアイレスの治安は言われているほど悪くはない
中南米旅行で必ず訊かれるのが「治安は大丈夫ですか」という質問だ。そのなかでもブエノスアイレスは、ペルーやボリビアのひとたちからも「あそこは治安が悪い」といわれるほど評判は芳しくない。
ただ実際に訪れてみると、夜でも女性が1人で歩いているほどで、危惧していたようなことはまったくなかった。
ブエノスアイレスの街は、幅110メートルの世界でもっとも広い「7月9日大通り」が南北に走り、ラプラタ川の河口に面した東側のレティーロ地区が繁華街だ。歩行者天国のフロリダ通りには土産物店が並び、その周辺にホテルやカフェが集まっているが、このあたりは昼はもちろん夜歩いてもまったく問題ない。
幅110メートルの「7月9日大通り」 (Photo:©Alt Invest Com)
レティーロの北にはブエノスアイレス最大のターミナル駅があり、郊外からの通勤客などでいつも賑わっている。ただし、駅から河口に向かうあたりはビジャ(Villa)と呼ばれる貧困地区があり、近くの広場には酔いつぶれて昏倒している姿が目立つ。とはいえほとんどがふつうのひとたちで、治安が悪いといっても、女性がハンドバッグを前に抱えて歩いているくらいだ(携帯やカメラを見えるようにしていると注意される)。
レティーロ駅の豪華な内装 (Photo:©Alt Invest Com)
駅に近い公園で寝ている(倒れている?)ひとたち (Photo:©Alt Invest Com)
レティーロの南側にはミュージカル『エビータ』で知られる大統領官邸と5月広場、メトロポリタン大聖堂などの観光名所がある。ここは旅行者を狙った引ったくりが多いことで悪名高かったが、私が訪れたときはパナマ文書問題で反マクリの市民団体が広場を占拠していて(幸いなことに)まったく不安はなかった。
5月広場は市民団体に占拠されていた (Photo:©Alt Invest Com)
7月9日大通りを渡った西側には世界三大オペラ座のひとつコロン劇場があり、その裏手は洒落たカフェやレストランがある住宅街だ。「世界で二番目に美しい書店」といわれるアテネ書店はグランスプレンディッド劇場を改築した店で、大通りから歩いて10分ほどのレコレータ地区にあるが、日が落ちてからもカップルや若い女性のグループなど地元のひとたちがふつうに歩いていた。
劇場を改築した「世界で二番目に美しい書店」。店頭ではハリーポッター・シリーズの新刊のイベントが行なわれていた (Photo:©Alt Invest Com)
5月広場からさらに南に下ると少しずつ雰囲気が変わり、教会の入口に物乞いが目立つようになる。高速道路を超えると下町ボカで、人気サッカーチーム、ボカ・ジュニアーズの本拠地として知られるが、最近では赤、青、黄、緑などカラフルにペインティングされた家が並ぶ“タンゴ発祥の地”カニミート通りの方が有名になった。ただ、この近くには大きなビジャ(スラム街)があるので、バスかタクシーで行くようにいわれた。
ブエノスアイレスを訪れたのは今回がはじめてで、経済危機のときとは雰囲気がちがうのかもしれないが、少なくとも繁華街や観光地では治安が悪いという感じはまったくなかった。もっとも貧困問題を扱うNPO団体によれば、ブエノスアイレスの住人の1割はビジャのスラムに暮らしており、生活保護などの社会福祉制度がほとんど整備されていないため、露天商などインフォーマルビジネスか、違法な商売でしか生きていく術のない生活を余儀なくされているという。
歩行者天国フロリダ通りの露天商 (Photo:©Alt Invest Com)
アルゼンチン観光の目玉、イグアスの滝の楽しみ方
ここでアルゼンチン観光の目玉であるイグアスの滝についても書いておこう。
北米のナイアガラ、アフリカ南部のビクトリアの滝も訪れたが、「世界三大瀑布」ではイグアスがいちばん印象に残った。
イグアスの滝はアルゼンチンとブラジルの国境にあるが、滝の8割はアルゼンチン側で、「悪魔の喉笛」と呼ばれる最大の滝つぼをボートで体験する人気のアトラクション「アベントゥラ・ナウティカ」もある。滝の観光拠点はプエルト・イグアスの町で、ブエノスアイレスからは飛行機で2時間ほどだ。町から滝のある国立公園までは20キロほど離れており、バスで往復する。
「悪魔の喉笛」に向かうボート (Photo:©Alt Invest Com)
2016年5月からブラジルのビザ申請料金が10400円(日本国内の領事館で申請した場合)に値上げされたため、アルゼンチン側から国境を越えてブラジル側の滝を見にいくのは躊躇されるが、旅行記などを見るかぎり、バスで国境を越えてブラジル側のフォス・ド・イグアスに行くだけならパスポートチェックは行なわれていないようだ(乗客が申し出ないかぎり路線バスは入国管理所に止まらないというが、確かめたわけではない)。
国立公園のなかに1軒だけ、ホテル(シェラトン・イグアス・リゾート&スパ)がある。料金は私が訪れたときで1泊3万5000円と、プエルト・イグアスの宿泊施設に比べれば割高だが、せっかくなら滝まで歩いていけるこちらに泊まることをお勧めしたい。観光客の来ない早朝なら、イグアスの滝の雄大な景観を独り占めするぜいたくを味わえるからだ。
イグアスといえば滝つぼへのボートツアーが定番だが、じつはいちばんの魅力は整備された滝めぐりの遊歩道にある。遊歩道は上下2本があり、悪魔の喉笛を正面から眺める下の遊歩道が自撮りスポットとして人気だが、流れ落ちる滝を間近で眺める上の遊歩道の方がずっと面白い。
周囲に誰ひとりいないなか、身を乗り出せばそのまま滝つぼに落ちていく大瀑布の上に立つという経験はめったにできないから、いい思い出になった。
下の遊歩道の自撮りスポット (Photo:©Alt Invest Com)
整備された上の遊歩道。早朝は誰もいない (Photo:©Alt Invest Com)
足下で大迫力の滝が流れ落ちていく (Photo:©Alt Invest Com)
プエルト・イグアスの町まで出ればブラジル側に行くバスがあるが、ホテルで車を手配してもらっても、国境を越えてフォス・ド・イグアス空港まで40米ドル(約4400円)だった。ブラジルのビザは事前に五反田駅前の総領事館で取得していたので入国審査もかんたんに済んだ。ブエノスアイレスやプエルト・イグアスでもビザが取れるようだが、日本の領事館と同じ手続きなら、ブラジルから出国する航空券と銀行預金の残高証明が必要になる。
若い女性がランチに1人で巨大なサーロインステーキを食べているくらい、アルゼンチン人は牛肉の消費量が多い。旅行者がアルゼンチンで必ず訊かれるのは、「ステーキ食べたか?」だ。牛舎で飼育される脂身の多い和牛に比べ、こちらは放牧された赤身の肉で、さっぱりした味で思ったよりたくさん食べられる。
ヒレステーキ。脂身がなくさっぱりした味 (Photo:©Alt Invest Com)
土産物も当然、革製品。レティーロの繁華街には革のジャンパーなどを扱う店がずらりと並んでいて、その場で採寸して1日で仕立ててくれる。革製品はほとんど持っていないのだが、あまりに安いので思わず1着買ってしまった。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)など。最新刊は、小説『ダブルマリッジ』(文藝春秋刊)。
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2016年12月22日 橘玲
同じ南米の大国なのに、
アルゼンチンがブラジルとは全く印象が異なる理由
[橘玲の世界投資見聞録]
アルゼンチンはブラジルと並ぶ南米の大国だが、ふたつの国の印象はまったく異なる。サッカーでいえば、歴代のアルゼンチン代表はリオネル・メッシやディエゴ・マラドーナのように、ヨーロッパ系白人か、白人とインディオの混血であるメスティーソがほとんどだ。それに対してブラジルは、ペレからロナウジーニョ、ネイマールまで、アフリカ人の血を受け継ぐ選手が真っ先に頭に浮かぶ。隣国にもかかわらず、ここまではっきりと人種的なちがいがあるのはなぜだろう。
最初に思いつくのは、ブラジルが旧ポルトガル領で、アルゼンチンが旧スペイン領だということだ。
コロンブスがインディアス(アメリカ大陸)を“発見”すると、大航海時代の両雄であったスペインとポルトガルの間で支配領域争いが起こった。これを調停したのが1494年のトルデシリャス条約で、西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることとされた。
この条約はもともとは大西洋の島々を分割するためのもので、当時、南米大陸のことはまったく知られていなかった。だがこの分界線を延長すると巨大な大陸にぶつかったことで、その東側(ブラジル)がポルトガル領となり、それ以外がスペイン領とされたのだ。
だがこれだけでは、なぜふたつの国で人種構成が大きく異なるのかはわからない。じつはこのことは、単純な地理から説明できる。
ブエノスアイレスのシンボル、オベリスコ (Photo:©Alt Invest Com)
アルゼンチンに黒人が少ない理由
アフリカ大陸と南米大陸は、ハート型をふたつに切って、膨らんだ部分を向かい合わせにしたような配置になっている。アフリカ大陸で中南米カリブにもっとも近いのはセネガルからナイジェリアにかけての西アフリカで、大陸奥地から狩り集められた黒人たちは、奴隷海岸の港から次々と“出荷”された。
奴隷の輸出先は17世紀にサトウキビの一大産地になったカリブの島々だが、次いで南米にヨーロッパ人が進出すると、赤道に近い(現在の)ブラジル北部もサトウキビの栽培に適していることがわかった。そこで宗主国のポルトガルは、サトウキビの一大プランテーションを開発すべく大量の奴隷をアフリカから送り込んだ。
その後、砂糖が安価かつ大量に製造できるようになり価格が暴落、サトウキビ農園の経営も悪化したが、こんどはヨーロッパでコーヒーが大流行した。南米大陸のなかでコーヒー栽培に適しているのは、大陸中央部のアンデス山脈の東側、現在のサン・パウロ近郊の丘陵地帯だった。こうして北部のサトウキビ農園にいた黒人奴隷が大挙して南に下り、ブラジル全土にアフリカ系人種が広がることになった。
それに対して現在のアルゼンチンはハート型の先端に位置し、広大なラプラタ川河口は良港ではあるものの、17〜18世紀の航海術では世界のどこからも遠すぎた。地中海に近い寒冷な気候ではサトウキビもコーヒー栽培にも適さず、この地を訪れたスペイン人たちはポトシ銀山で一攫千金の夢に沸くアンデス山脈を目指して移動していった。
ラプラタ川の広大な河口をウルグアイ側から眺める (Photo:©Alt Invest Com)
しかしその間、アンデス山脈東部のパンパスと呼ばれる広大な草原地帯では奇妙なことが起こっていた。スペイン人が旧大陸から連れてきた牛が、天敵のいないこの地で大繁殖したのだ。この大規模な「家畜の野生化」によって、ラプラタ地域の牛の数は19世紀に1500万〜2000万頭まで増えたとされる。
もともとは家畜だった野生の牛がここまで増えると、こんどはその牛を目当てに生計を立てようとする男たちが現われた。これが「ガウチョ」で、その語源が「孤児」や「放浪者」であることからわかるように、彼らは夢を追って南米に渡ったものの、社会の主流から落ちこぼれ食い詰めたスペイン系白人だった。
西部劇に出てくるアメリカ(北米)のカウボーイは、広大な土地で牛を飼育する牧場主に雇われていた。それに対してガウチョは、野生の牛の集団に寄生する自由業だった。
当時、ヨーロッパから南米に渡るのはほとんどが男で、南米大陸には白人女性がきわめて少なかった。もちろんパンパスで牛とともに放浪するガウチョと生活を共にしようとする白人女性などいるはずもなく、ガウチョはインディオの女性を妻とし、子どもをつくるようになった。
このようにしてアルゼンチンの草原地帯に生まれたガウチョの文化は、のちに「南米のパリ」と呼ばれるようになるブエノスアイレスに暮らす、洗練されたヨーロッパ系白人の文化とはまったく異なるものだった。
パンパスのガウチョは、「ポンチョをまとい、ギターを奏で、ナイフを操り、乗馬の達人で、3個の石を皮ひもで繋いだボレアドーラスという石投げ縄を巧みに使い、独自に発達した社交儀礼で仁義を切ればタダ飯が食えるなど、ひとつの等質的な生活文化をもつ集団」をなすにいたった。その後のアルゼンチンの歴史は都市(ブエノスアイレス)と地方(パンパス)の対立に振り回されることになるが、それは建国当初から運命づけられていたのだ。
アルゼンチンは「もうひとつのイタリア」だった
アルゼンチンは混乱のなかで1829年にスペインから独立したが、その頃にはブエノスアイレスは南米の主要な貿易港として発展していた。その歴史は複雑なのだが、要は現代のグローバル化論争と同じ理由で社会が不安定化していった。
独立によって宗主国のくびきから離れ、どの国とも自由に交易できるようになったことは、ブエノスアイレスの富裕な商人たちに大きな利益をもたらし、「南米のパリ」と呼ばれる活況をもたらした。それに対してパンパスのひとびとは、国際競争にさらされて地場産業が壊滅的な打撃を受けることになる。彼らは当時、ポンチョを1着7ペソで売っていたのだが、イギリスの業者は機械織りの布地で類似品を大量生産し、1着3ペソで売りまくった。こうしてパンパスのひとたちは、「グローバル資本主義」による自由貿易が自分たちの生活を破壊しているのだと考えるようになる。彼ら「無学な大衆」を動員するのがアルゼンチンのポピュリズムなのだが、それについてはあとで触れるとして、アルゼンチンのヨーロッパ系白人についてもうすこし述べておこう。
「南米のパリ」を象徴するブエノスアイレスのコロン劇場。パリのオペラ座、ミラノのスカラ座と並ぶ世界三大劇場のひとつ (Photo:©Alt Invest Com)
コロン劇場の豪華な客席 (Photo:©Alt Invest Com)
最初に述べたように、アルゼンチンの有名サッカー選手は白人かメスティーソだ。このとき私たちは、ごく自然に白人=スペイン系と考える。たしかに南米を植民地化したのはスペインだが、実はアルゼンチンではスペイン系白人はもはや多数派ではなくなっている。
サッカー日本代表の長友佑都が所属するインテルは、インテルナツィオナーレ(英語でInternational)のチーム名に象徴されるように、国境の壁をなくし外国人選手にも広く門戸を開くことをチームのポリシーとしている。長友が加入した当時、そのインテルにはサネッティやカンビアッソなどアルゼンチンを代表する選手が所属していた。
私はずっと、なぜイタリアのチームにアルゼンチン代表がこんなにたくさんいるのか不思議だったのだが、じつは彼らはイタリア系アルゼンチン人だった。もともとスペイン語とイタリア語は方言のような関係で、お互いに母語でしゃべってもなんとなく会話が成立するようだが、イタリア人の家庭に生まれればイタリア語をふつうに話せるか、すくなくもと理解できるようになるだろう。これはチーム内のコミュニケーションが重要なサッカーにとって大きなアドバンテージで、だからこそイタリア系アルゼンチン人のサッカー選手がセリエA(イタリアサッカー1部リーグ)で大きな成功を収めたのだ。
もうひとつ不思議だったのは、イタリア現代史の最大のスキャンダルである「P2事件」で、フリーメーソンの秘密組織P2を創設したマフィアの大物が、南米諸国とりわけアルゼンチンとのあいだに強固な闇のメットワークを築き上げたことだ。
[参考記事]
●バチカン市国「神の資金」を扱う闇の男たち -前編-
●バチカン市国「神の資金」を扱う闇の男たち -後編-
なぜイタリアの闇組織がアルゼンチンの独裁政権とつながるのかそのときはわからなかったが、じつはこれも簡単に説明できる。アルゼンチンの人口は約4000万人だが、他の民族との混血も含めれば、そのうちイタリア系は約3000万人で74%を占めるとされている。イタリアの人口が約6000万人だから、じつはアルゼンチンは本国に次ぐ「もうひとつのイタリア」なのだ。ブエノスアイレスのひとたちの憩いの場がスペイン風のバルではなくイタリア風のカフェであるように、政治や経済など表の世界だけでなく、マフィアの裏の世界でもイタリアとアルゼンチンは深くつながっているのだ。
ブエノスアイレスは商業都市として発展したが、社会の上層を占めるスペイン系白人はそれほど多くなく、彼らはブラジルのポルトガル系白人と同じように、黒人を家産奴隷として優雅に暮らしていた。
だが1862年に、さまざまな確執の末にブエノスアイレス州がアルゼンチン連邦に加わる頃には、南米有数の港を持つブエノスアイレスは自由貿易によって大繁栄期を迎えていた。最初は1860年代の牧羊ブームで、羊毛の輸出はたちまち伝統的な牛革や塩漬け牛肉を追い抜いた。次いで小麦やトウモロコシの栽培が始まり、イギリス資本で開発された鉄道が内陸に延びるにしたがって耕作面積も飛躍的に拡大した。そして20世紀になると冷凍技術による肉の保存と船舶輸送が普及し、ブエノスアイレスには冷凍加工プラントが建ち並んだ。
こうした活況を見て南欧諸国、とりわけ貧しいイタリア南部からアルゼンチンに向けて大規模な移住がはじまり、1871年から1914年の間に定着移民数は310万人を数え、1914年の人口調査では総人口780万人のうち3分の1が外国生まれとなった。
こうした移民は最初のうちは農業従事者が多かったが、大土地所有制のもとでは土地が手に入りにくいため、大半は都市に仕事を求めるようになる。ブエノスアイレスの港で荷揚げなどの肉体労働に従事していた貧しい移民たちのなかから生まれたのが、哀愁に満ちたタンゴだ。もともとアルゼンチンの人種構成は、半分以上がアフリカ系やインディオの血を引いた浅黒い肌のひとだったというが、この時期に都市部は白人だけになってしまったのだ。
ブエノスアイレスの貧しい港湾労働者が生んだタンゴ。いまではすっかり観光客向けのイベントになった (Photo:©Alt Invest Com)
南米を代表するポピュリスト「エビータ」が生まれた背景
経済が発展して中間層が増えると、それにともなって「格差」が大きな社会問題になるのはいつの時代でも同じだ。アルゼンチンでは19世紀後半から都市の貧しい労働者を率いた急進左派政党が台頭し、ゼネストなど激しい労働運動を繰り広げた。従来の政治勢力では左派(マルキスト)の勢いをとめることはできず、1930年9月に軍部が決起して保守党政権を樹立した。アルゼンチンは南米でもっとも開明的で民主的な政治を行なっていたのだが、これ以降、民主選挙では左派に勝てないことが明らかになって、保守派は軍部を背景として不正選挙をつづけることになる。
第二次世界大戦が起こると、アルゼンチンでは連合国(アメリカ)につくか、枢軸国(ドイツ)につくかで国論が二分する。自由貿易から利益を得ていたアルゼンチンはアメリカの保護主義を嫌って当初は枢軸国寄りの中立を維持したが、アメリカから借款や武器貸与を止められたことで政局は混乱し、ふたたび軍部がクーデターを起こすことになる。こうして軍事政権が誕生するのだが、そのなかにフアン・ドミンゴ・ペロンという大佐がいた。ペロンの妻はマリア・エバ・ドゥアルテで、愛称は「エビータ」。その後二人は、南米を代表する“ポピュリスト”として知られるようになる。
もともとは軍事史の研究家であったペロンがなぜ軍部のなかで急速にちからをつけ、アルゼンチン民衆の個人崇拝の対象になったのかは諸説あるが、地方のガウチョや都市の貧困層に社会福祉を提供しようとしたペロンの「カリスマ型温情主義」が、ゆたかさから拒絶されていたひとびとを引きつけた、ということのようだ。
ペロンの地位を不動のものにしたのは1945年10月9日、軍内反ペロン派のクーデターで拘束されたことで、当時、ペロンと婚約していた26歳のエビータがラジオで国民に釈放を訴え、10月17日に2万を超える労働者が大統領官邸前の五月広場を取り囲み、それに恐れをなした軍部や保守派はペロンに権力を委ねるほかなかった。この場面はミュージカル『エビータ』やマドンナ主演の同名の映画でも有名で、大衆の動員が政治を動かすポピュリズムの典型として現在でもしばしば言及される。
映画『エビータ』でも知られる五月広場。正面に見えるのが大統領官邸。1945年10月17日、ここに2万人の労働者が押し寄せ、ペロンとエビータの名を叫んだ (Photo:©Alt Invest Com)
ペロンは政府介入による賃金引上げ、年金制度拡充、労働組合結成などの政策で大衆の支持に報い、「デスカミサードス(シャツなしの素肌に上着を着る貧乏人)」を自称する労働者たちはことあるごとに政府支持のデモに繰り出した。彼らのあいだで絶大な人気を誇ったのが妻のエビータで、子宮がんで33歳の若さで世を去らなければ、副大統領となって国政に大きな影響を行使したことは確実だった。
エビータの墓にはいまも花が絶えない (Photo:©Alt Invest Com)
ペロンが失脚したあともアルゼンチンの政治は混迷をつづけ、1976年にはホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデターで権力を掌握して独裁政治を行なった。ビデラ政権時代は労働組合員や政治活動家、学生、ジャーナリストなどが大量に逮捕・監禁・拷問され、3万人が行方不明になったとされる。「汚い戦争」と呼ばれるこの“市民に対するテロ”は、いまもアルゼンチン社会に深い傷痕を残している。
民政移管後は、ブエノスアイレスの富裕層や企業が求める新自由主義的な政策と、それに反発する貧困層を動員したポピュリズム的な保護主義のあいだで政権は大きく揺れ、2001年と2014年の二度にわたって債務不履行を起こすなど財政問題が深刻化した。現在は、クリスティーナ・キルチネル前大統領の保護主義政策を批判して大統領選を勝ち抜いた中道右派のマウリシオ・マクリが、国際社会の信頼を回復すべく市場主義的な政策に大きく舵を切ったところだ。
とはいえ、都市(ブエノスアイレス)と地方(パンパス)の著しい格差というアルゼンチンの構造問題は変わっておらず、今後も外部からショックが加わるたびに社会は大きく揺さぶられることになるだろう。
マクリ大統領の名がパナマ文書に載っていたことから、五月広場は「グローバリズム」を批判する市民に占拠されていた (Photo:©Alt Invest Com)
本稿の執筆にあたって高橋均/網野徹哉『ラテンアメリカ文明の興亡』(中央公論社)を参考にしました。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、歴史問題、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。近刊『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)が30万部のベストセラーに。
●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)
http://diamond.jp/articles/-/111434
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