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ブログ法螺と戯言(http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/52154291.html)より
+++転載はじめ
(記事の更新は当面不定期です。ご意見はryuuzaki_i@yahoo.co.jpへお寄せください)
最近の数回の記事で「西暦六世紀後半」に相模湾で巨大地震が発生していたのではないかとの「推論」を書きました。そんな折横須賀界隈で悪臭騒ぎが起きたので、何人かの方々が本ブログに関心を抱いてくださったようです。そこで、番外として関連過去記事をまとめておきます。初めて本ブログに足をとめてくださった方々には耳慣れない表現が使われていると思います。が、本記事ではそれらへの説明に字数を費やしません。解説・補足に追われ大筋が見えなくなる事を危惧するからです。また、図の挿入は理解を助けますが、それらは元ブログ記事で掲載しているので、それもここでは割愛します。疑問点については、本文の記事を参照くださるか、本ブログ管理人宛にメール(上記)をお送りください。
日本列島古代史の話を前書きとする。四世紀半ば過ぎから七世紀半ばまでの日本列島には遠く西域ペルシアからの民が渡来し、日本列島古代政治史に本来であれば書きとめられるべき活動をしていた。六世紀半ばごろには、彼らは鹿島を中心とする東国と熊本を中心とする西国に分割して統治していた。しかし、奈良盆地内には、この勢力の支配を拒絶する勢力が存在した。この力の配置関係を変えたのが六世紀末に大陸中国に勃興した隋である。隋は七世紀はじめに日本列島内の力関係に干渉を始めた。具体的には奈良盆地の勢力を唆し、ペルシア系渡来一族の殲滅行動をはじめた。西暦618年に隋は滅びたがその活動を唐が引き継いだ。奈良盆地勢力は、唐の援護をうけ渡来一族を「蝦夷」(えみし)と蔑称し、七世紀半ばから八世紀初頭までの半世紀間にわたり、「蝦夷」の殲滅・征討の軍事行動をくりかえした。最大規模の戦闘は熊本を舞台とした「壬申の乱」、そして日本書紀は書かず常陸国風土記が書く七世紀末の常陸国侵攻である。尤も一部の知識人、技術者は奈良盆地勢力によって保護された。稗田阿礼はその一人で、七世紀半ば以前の東国・西国の政治を奈良勢力に語った。これが古事記の「誦口」である。蛇足であるが、この征討は執拗残虐をきわめ、それが引き起こした一例が八世紀末のアテルイの乱である。残虐殺戮行為からの祟りを恐れて鎮魂のために興されたのが「天照大神」信仰であり、仏法の興隆である。
西域ペルシアからの渡来民はゾロアスター教を信奉しており、天空のシリウス星を拝謁することでご神託が授けられる。この証拠が日本列島に多く残されている。松本清張の小説はとりわけ知られているが、故伊藤義教・京都大学名誉教授の古代ペルシア語解読を通じた研究は詳細を極めている。一方、地上にも厳然とその証が残されている。
一つは、地名である。これについては後述することとして、遺跡・古社の配置である。茨城県には一宮の鹿島神宮、二宮の静(しず)神社、三宮の吉田神社という三大古社がある。この三社は北々西―南々東を向く「直線上」に驚くほどの精度で配置され、その延長上に茨城県の最高峰・八溝山頂がある。同様は、福島県須賀川市の西に位置する古社群でも確認できる。さらには、埼玉県行田の埼玉古墳群を構成する稲荷山古墳とその南々東に位置する埼玉県・志木市の宮戸神社でも認められる。
測地学で使われる球面三角法で以って、これらの方位角を算出すると、その値は微妙に異なる。この方位角が地球上から見たシリウス星の夏至日・深夜の天空上の位置であると考えると、それらの違いが理解できる。シリウス星は恒星であるので天空上では固定されていると仮定できる。一方地球は、回転軸のふらつき、公転軌道もふらつく。その結果地上から見るシリウス星が天空上でゆっくりと位置を変えているように見える。太古の昔のシリウス星の位置がローマ時代の古代文書などから推定できるので、上記の方位角が観測された年代推定を可能にする。
そうして得た推定年代が下記である:http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/52153682.html
須賀川・二等辺三角形・中線(福島県):374年(19年9月23日記事
飯豊山―伊佐須美神社(福島県、陸奥国二宮):450年(19年9月23日記事)
八溝山―鹿島神社(茨城県、常陸国一宮):464−531年(18年2月5日記事)
稲荷山古墳―宮戸神社(埼玉県志木):519年(18年2月12日記事)
嵯峨愛宕―箸墓古墳(京都・奈良)570年(20年5月10日記事)
雷山―八代(福岡・熊本):657年(18年8月8日)
(八溝―鹿島線の二つの値の意味:八溝山での観測開始年が464年ごろ、鹿島への到達年が531年ごろという意味である。このほか、白山―白山比盗_社、など、多数の計算結果がある)
シリウス星方位から推定した各地の年代から、北の地では古く、南では新しいことがわかる。すなわち、ここで議論の対象となっている渡来民は朝鮮半島を経て日本列島にやって来たのではなく、北から北海道又は東北日本に上陸し南に下ったことを思わせる。
以上が、これから書く相模国論議の前段である。北から南下した渡来民は常陸国・鹿嶋に最重要拠点を置き周辺に二次拠点を設営した。埼玉県の志木は渡来民西進の二次拠点であり、そこから相模・武蔵国に進出した痕跡が認められるはずである。以下はその考察である。
相模国に認められるゾロアスタ教の遺物の筆頭は大山・阿夫利神社である。この呼称はゾロアスタ教の最高神アフラ(英知)・マズダ(天の)に由来する。アフラを中心にして西に松田、東に町田を配する。町田の東にはもう一つのアフリ(麻生里、現在の川崎市麻生区)があるがここではそれには触れない。阿夫利神社が鎮座する大山の南麓に三つの古社とそれらに囲まれた石神(いわのかみ)を祀る神揃丘http://vbsoft.sub.jp/hana/fuusui3.html がある。この石神の丘を設けるにあたってシリウス星の神託を仰いだとすると、その方位角から西暦570年ごろとの年代が推定できる。この丘の呼称は「カミゾロイ」で、ゾロアスタ教に由来すると想像できる。鶴岡八幡宮は頼朝以前からゾロアスタ教に関わる陣屋が存在したことは確かで、その設営位置の決定では、北々星にある富塚八幡宮でのシリウス星神託に仰いだとすると、これも西暦570年ごろ、すなわちほぼ同時期となる。
同一時期に相模湾沿いの異なる地点でシリウス星神託を仰がねばならない状況といえば、天変地異の発生である。すなわち巨大自然災害である。しかし、台風、洪水はほぼ毎年起きるので特別な礼拝所を設ける必要はなかろう。とすればそれは巨大地震しかない。そこで、改めて阿夫利神社の南に配される三古社を見ることにする。一宮である寒川神社は相模川の東岸にあり、祭神は未詳である。二宮は川匂神社(かわわ)で、JR東海道線「二宮」駅から遠くない。祭神は風の神とされる。まさに「匂い」を運ぶ神である。三宮の比々多神社は阿夫利神社と寒川神社の中間にあるが、その祭神は不明である。
ところで、ゾロアスタ教の神々はヒエラルキ構造を形成している。最高神は上述のアフラ・マズダで二層目にアムジャ・スプンタ(大天使)、そして三層目に「ヤザダ」(ヤツド)と称される諸神霊が配されている。第三層は心霊面と物質面にわかれ、物質面は八つの神霊からなっている。八神霊の一人(?柱と書くべきか)である「地の神霊」は「ザム」で「寒(さむ)川」を連想させ、「大地震動」への畏怖をシリウス星に表明し救けを懇願した社屋と考えられる。「水の神霊」は「アナヒター」であり、その音は「比々多」を連想させ、それは大津波に加え湘南海岸に注ぐ河川を伝う津波の遡上への恐怖をシリウス星に訴えた屋であったと思われる。
さて残る川匂神社(かわわ)の祭神は風であり、それは「ワユ(風の神霊)」と呼ばれる。神社名の由来は、風がそもそも「匂い」を運んできたとの故事ではなかろうか、と想像できる。
何せ1500年以上も昔の出来事ゆえ、確たることを言えないことをお断りしておく。
房総半島の階段状の隆起痕、三浦半島に残る幾重もの断層痕は、西暦六世紀ごろの地震発生を否定しない。また日本書紀欽明天皇二八年(五六七)紀には「郡国大水。飢。或人相食。転傍郡穀以相救。」なる記事があり、ここでいう大水は大津波ではなかったかと想像できる。周囲の文脈からは「郡国」がどこにあるのかは推定できない。が、近畿の嵯峨愛宕山―箸墓古墳線構築が同時期であるので、この地震は東海地方から広く東南海域にまたがった地震であったのかもしれない。この事件は渡来民と奈良の勢力との激しい戦闘が始まる70年ほど前に起きている。
+++転載おわり
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