http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/418.html
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ある程度大きな噴火は関東から中部での大地震とリンク
御鉢の噴火:
天平噴火
742年12月24日(天平14年11月23日)、太鼓が鳴るような音とともに噴火した。噴火日を11月28日(旧暦10月23日)とする説もある。
宝永噴火
1706年1月29日(宝永2年12月15日)に噴火し周辺の寺社が焼失した。
1923年(大正12年)7月11日朝9時には大音響とともに噴火し、噴煙のため登山者1名が死亡した。
上の噴火後に起こった大地震:
745年6月1日(6月5日)(天平17年4月27日) 天平地震 - M 7.9
1707年
10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震(南海トラフ全域が震源域) - M 8.4〜8.6
1923年(大正12年)
9月1日11時58分頃 関東地震(大正関東地震、関東大震災) - M 7.9
http://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/2/3/23736.html
霧島連山・御鉢「小規模噴火のおそれ」警戒レベル2へ引き上げ
2018年02月09日 17時13分
気象庁
きょうの霧島連山御鉢のようす(気象庁の火山監視カメラより)
気象庁は9日午後、九州南部に位置する霧島連山の御鉢で小規模な噴火が発生するおそれがあるとして、噴火警戒レベルを「2」に引き上げ、火口周辺への立ち入りを規制すると発表した。
御鉢は、9日午前8時ごろから火山性地震が相次ぎ、午前11時までに19回発生したあとも、さらに増加傾向が続いており、午後3時までの発生回数は61回(速報値)にのぼった。
現在、気象庁の機動調査班が現地調査を行なっているが、火山活動が高まっており、今後、小規模な噴火に発生するおそれがあるとして、午後2時40分に噴火警戒レベルを2に引き上げた。
火口から約1キロ範囲では噴火に伴って飛散する噴石に警戒するよう、宮崎県の都城市、小林市、高原町と鹿児島県霧島市に対して呼びかけている。
宮崎県と鹿児島県にまたがる霧島連山は、新燃岳をはじめ、御鉢や高千穂峰など複数の火山と、韓国岳、大浪池などの火砕丘が連なって火山群を構成している。気象庁によると御鉢が最後に噴火した1923(大正12)年7月には、ひとりが死亡している。
■国内の火山の現状については、ハザードラボ「火山マップ」をご覧ください
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%89%A2
御鉢(おはち、みはち)は、九州南部に連なる霧島山の火山である。高千穂峰火山の西に接し、有史以降も噴火を繰り返している活火山である。古くから噴火を繰り返していたため江戸時代以前は火常峰と呼ばれていたが、火口の形状が飯櫃に似ていることから俗に御鉢とも呼ばれており、明治以降は御鉢の呼称が一般的となった。火口内と西斜面は鹿児島県霧島市、北斜面は宮崎県小林市、南斜面は宮崎県都城市に属する。
噴火史
西から
西より御鉢火口
御鉢は高千穂峰が形成された後、今から3000年前以降に活動を開始した。有史以降の霧島山において最も活発に活動している火山である。以下、主要な噴火について述べる。他にも多数の噴火記録がある。
江戸時代以前
天平噴火
742年12月24日(天平14年11月23日)、太鼓が鳴るような音とともに噴火した。噴火日を11月28日(旧暦10月23日)とする説もある。
延暦噴火
788年4月14日(延暦7年3月4日)に噴火した。噴出物は片添スコリアと呼ばれている。
文暦噴火
1235年1月18日(文暦元年12月28日)に雷鳴のような音や火焔、火光を伴い噴火した。霧島山について記録に残っているものの中では最大規模の噴火であり、大量の噴石、火山灰および溶岩を噴出した。周辺にあった多くの寺社が焼失し、降り積もった火山灰は火口から20キロメートル離れた場所においても深さ60センチメートルに達した。噴出物は特に火口東側に広く分布し高原スコリアと呼ばれている。
永禄噴火
1566年10月21日(永禄9年9月9日)に噴火し焼死者多数の記録がある。
宝永噴火
1706年1月29日(宝永2年12月15日)に噴火し周辺の寺社が焼失した。
明治時代
1880年(明治13年)9月に噴煙が観察され、その後火口底に深さ3メートルの池ができた。1886年(明治19年)10月から火口底に大量の硫黄が堆積するようになり、硫黄の採掘が行われるようになった。1887年8月上旬になると火口底の池は深さ12メートルにもなり、時折高温になることもあった。12月中旬には池の水が沸き立つ様子や水位の低下が観察されている。
翌1888年(明治21年)1月12日に火口から噴煙や噴石の放出が始まり、1月26日午後3時頃に爆発があった。火口には硫黄採掘の作業者がいたが急遽下山し被害者はなかった。その後数日間にわたって爆発を繰り返し噴石や火山灰を放出した[1]。この年は2月21日と5月9日にも噴火している。翌1889年(明治22年)12月10日と12月18日にも噴火し、麓の高原村(後の高原町)では昼でも空が真っ暗になるほどの噴煙に覆われた。
1891年(明治24年)6月19日、一日の間に14回の噴火があり噴石を放出した。同年11月10日にも一日で14-15回の噴火が繰り返され、山腹で植物の葉が枯れる被害があった。1894年(明治27年)2月25日に爆発的な噴火があり、噴石と火山灰を放出した。
1895年(明治28年)10月16日午後0時30分に噴火し高温の噴石を放出した。中には直径2メートルに及ぶものもあり、登山者3名が噴石に当たって死亡し、周辺で22棟の家屋が焼失した。鹿児島市内で爆発音が聞かれ、火口東側の広範囲に火山灰が降り積もった。同年12月18日午後3時30分にも噴火し、高温の噴石が火口東側に飛散した。このとき都城では硫黄臭のある火山灰が降っている。その後たびたび噴火し、1896年3月15日には1名、1900年2月16日には2名の登山者が噴石に当たって死亡した。空振や火山灰が四国南部にまで及んだこともある。噴火は1903年(明治36年)に一旦収束している。
大正時代以降
1913年(大正2年)5月19日から加久藤村(後のえびの市)で地震が多発する前兆現象があった。半年後の11月8日夜11時に爆発し、高温の噴石と火山灰を放出した。12月9日と翌1914年1月8日にも爆発し噴石を放出している。1923年(大正12年)7月11日朝9時には大音響とともに噴火し、噴煙のため登山者1名が死亡した。
2002年以降、しばしば火山性微動が観測されている。
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上の噴火史と日本の地震年表を比べると驚くべきことが分かる。3年以内のみを引用する。
745年6月1日(6月5日)(天平17年4月27日) 天平地震 - M 7.9。岐阜県美濃地方で地震。天皇平城京に復都(『続日本紀』)。愛知県〜岐阜県を南北に走る養老断層の1つ前の活動(次が1586年の天正地震)とする説がある。
1707年
10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震(南海トラフ全域が震源域) - M 8.4〜8.6(Mw 8.7[96]〜9.3[97][98])、死者4,900〜2万人以上、倒潰・流出家屋6万〜8万軒。関東から九州までの太平洋岸に津波、東海道宿場町・伊豆・伊勢・紀伊・阿波・土佐沿岸各地が亡所となるなど大きな被害(『楽只堂年録』、『谷陵記』)。地震から49日後に富士山の宝永大噴火。道後温泉の湧出が数か月間止まる。
10月29日(宝永4年10月5日) 宝永富士宮地震 - 富士宮で地震、M 7.0、宝永地震の16時間後、明朝に発生、東海道宿場町で家屋倒壊など被害。村山浅間神社および社領の家が残らず潰れ、村山で死者4人(『楽只堂年録』)。宝永地震の最大余震[99]。
11月21日(宝永4年10月28日) 周防・長門で地震 - M 5.5、上徳地村で潰家289、死者3人(『毛利十一代史』)。
1880年(明治13年)2月22日 横浜で地震 - M 5.5〜6.0、煙突多数倒壊。地震学会(現在の日本地震学会。世界初の地震学会)が結成されるきっかけになる。
1881年(明治14年)10月25日 国後島で地震 - M 7.0、津軽でも揺れる。
地震観測網整備(1885年 - 観測所による地震報告開始)
1889年(明治22年)7月28日 熊本地震 - M 6.3、死者20人。
1891年(明治24年)10月28日 濃尾地震 - M 8.0、濃尾平野北西部などで最大震度7相当と推定[112][113]。死者・行方不明者7,273人。根尾谷断層の発生。
1892年(明治25年)12月9日・11日 石川県・富山県で地震 - M 6.4(9日)、弱い津波。死者計2人。
1893年(明治26年)6月4日 色丹島沖地震 - M 7.7、色丹島で2m〜3mの津波。
1894年(明治27年)
3月22日 根室半島沖地震 - M 7.9 - 8.2[114](Mt 8.2)、死者1人。北海道・東北に津波。
6月20日 明治東京地震 - M 7.0、死者31人。
10月22日 庄内地震 - M 7.0、山形県庄内地方の一部で最大震度7相当と推定[115][113]。死者726人。
1895年(明治28年)1月18日 霞ヶ浦付近で地震 - M 7.2、死者6人。
1896年(明治29年)
1月9日 茨城県沖で地震 - M 7.3 [116]。
6月15日 明治三陸地震(三陸沖地震) - M 8.2〜8.5(Ms 7.2〜7.9、Mw 8.5、Mt 8.6)、津波地震、死者・行方不明者2万1,959人。
6月16日 三陸沖で地震 - M 7.5 の地震が2回発生。明治三陸地震の最大余震[89]。
8月31日 陸羽地震 - M 7.2、一部地域で震度7相当と推定[117][113]。死者209人。
1897年(明治30年)
2月20日 宮城県沖地震(仙台沖地震[118]) - M 7.4、地割れや液状化、家屋に被害。
8月5日 三陸沖で地震 - M 7.7(Mw 7.8)、宮城県や岩手県で津波により浸水被害。
1898年(明治31年)
4月23日 宮城県沖で地震 - M 7.2、北海道から近畿にかけて有感、岩手県と宮城県の県境付近で被害。
9月1日 石垣島東方沖(多良間島沖)で地震 - M 7.0。
1899年(明治32年)
3月7日 紀伊大和地震 - M 7.0又はM 6.9[92]、木ノ本・尾鷲で死者7名、三重県を中心に近畿地方南部で被害。深さ40〜50kmのフィリピン海プレート内の地震[119]。
11月25日 日向灘で地震 - 3時34分にM 7.1、3時55分にM 6.9。
1900年(明治33年)5月12日 宮城県北部で地震 - M 7.0、死傷者17人、家屋などに被害。
20世紀前半
日本周辺で発生したマグニチュード5.5以上の地震 (1900 - 2016)
上記の地図の範囲とほぼ同じ東経119度から東経150度、北緯20度から北緯46度の矩形の範囲で1900年から2016年末までに起こった地震は、USGSの地震カタログによると[120]、M8.0以上が14回、M7.0-7.9が163回であった。
注: 2003年9月17日に気象庁マグニチュードの算出方法が改訂され、これに伴い1924年以降に発生したほとんどの地震のマグニチュードも改訂された(一部は先行して2001年4月23日に改訂)。このため、マグニチュードが改訂された地震については改訂前の値を括弧書きで併記している(例: 2001年3月24日 芸予地震 - Mj 6.7(旧Mj 6.4))。
1900年代
1901年(明治34年)8月9日〜10日 青森県東方沖で地震 - 8月9日にM 7.2、8月10日にM 7.4。死者18人。
1902年(明治35年)1月30日 青森県三八上北地方で地震 - M 7.0、死者1人。
1905年(明治38年)
6月2日 芸予地震 - M 7.2、死者11人。
7月7日 福島県沖で地震 - M 7.1[121]。
1923年(大正12年)
6月2日 茨城県沖で地震 - Mj 7.1[4]、千葉県銚子市で最大震度 4。
7月13日 九州地方南東沖で地震 20時13分 - Mj 7.3[4] 深さ44km[4]。宮崎県宮崎市と鹿児島県鹿児島市で最大震度 4。
9月1日11時58分頃 関東地震(大正関東地震、関東大震災) - M 7.9(Ms 8.2、Mt 8.0、Mw 7.9〜8.0[123]Mw 8.2[95])、関東地方南部と山梨県で最大震度 6。神奈川県と千葉県南部のそれぞれ一部で震度7相当と推定[124]。死者・行方不明者10万5,385人(1925年の調査では14万2,800人)[125](日本災害史上最悪)。本震3分後にM7.2、4.5分後にM7.3の地震が起こって地震動は10分以上続いて[126]いる。
同日12時3分頃 相模湾で地震 - Mj 7.3[4]、埼玉県熊谷市と山梨県甲府市で最大震度 5、大正関東地震の余震。
9月2日 千葉県南東沖で地震 - Mj 7.3[4](Mw7.8[127])、山梨県甲府市で最大震度 5、大正関東地震の余震。
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