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データで解明、貧困で「人間らしい生活」はこれだけ剥奪される!
http://diamond.jp/articles/-/157234
2018.1.26 みわよしこ:フリーランス・ライター ダイヤモンド・オンライン
「相対的剥奪指標」というデータで見ると、国民が貧困によって生活のどんなものをあきらめているかがわかる。日本の現状はかなり深刻だ(写真はイメージです)
「健康で文化的な生活」への
距離を測るもう1つの指標
2018年1月22日、通常国会が開始された。審議対象の1つである政府予算案には、厚労大臣が「最大5%引き下げる」とした生活保護基準が含まれている。5年おきに見直される生活保護基準は、2013年の見直しに引き続き、子どものいる世帯に対する引き下げ幅が特に大きい。しかし日本にとって、子どもの貧困の解消は重大な取り組み対象の1つではなかっただろうか。いずれにしても、国会で活発な議論が行われるだろう。
今回は目の前の切実すぎる問題を、「相対的剥奪指標」から俯瞰してみたい。生活の「あきらめ指標」と言い換えてもよいだろう。2017年に開催された社保審・生活保護基準部会での重点的検討課題の1つでもある。
試行という位置づけではあったが、同部会報告書の28ページには、「この検討の結果(略)ひとり親世帯は他の世帯類型に比べて、生活水準が低い可能性があることを確認した」と記述されている。にもかかわらず、ひとり親世帯は大幅な引き下げ対象になっている。
生活保護世帯に限らず、可処分所得は「できる指標」だ。可処分所得が増えれば、購入できるモノ・サービスや実現できる希望が増えていく。しかし厳しい家計の中での「何を実現するか」の選択は、「何をあきらめるか」の選択と裏腹だ。一見、貧困状態にあるとわかりにくい「見た目」の裏にある「あきらめ」を数え上げれば、「実は相対的貧困状態にある」という事実が明らかになるかもしれない。
生活の「あきらめ指標」として広く用いられているのは、相対的剥奪指標だ。
可処分所得が下がると、何かを断念しなくてはならなくなり、「剥奪」が起こる。人によっては、「ポルシェの新車に乗れない」「タワーマンションの最上階に住めない」「子どもを私立大学の医学部に進学されられない」といったことを「剥奪」と感じるかもしれないが、日本の多くの人々はそれらを「ゼイタクな悩み!」と冷笑しそうだ。
しかし「子どもを塾や習い事に通わせられない」となると、「必要なはずなのに、気の毒だ」と感じる人が増えそうだ。さらに「ふりかけを激安パスタにかけたものしか食べられない」「室温が0度以下だけど暖房が使えない」となると、人間らしい生活とは考えられないだろう。
途上国のスラムや難民キャンプよりは恵まれた生活なのかもしれないが、日本の貧困を考えるのなら、最富裕層を含む日本のすべての人々の中、日本社会の中で比較する必要がある。
その社会で「必要」と考えられているモノやサービスを、経済的理由で断念しなくてはならないとき、相対的剥奪が生まれる。この相対的剥奪を数値化すると、「その社会で貧困になる」ということの内容や程度を明らかにすることができる。生活保護世帯に対して相対的剥奪を数値化すると、「健康で文化的な最低限度の生活」とされているものの内実が浮かび上がるはずだ。
「あきらめ」の程度を示す
相対的剥奪指標はこうして算出される
生活保護基準部会は、全国の3万世帯以上(一般3万世帯、生活保護1110世帯)を対象とした2016年の調査結果を分析し、50%以上の人々が「必要」とする13項目の「社会的必需」に対し、経済的理由で「できない」とされている場合に、相対的剥奪が発生しているとした。
ただし、「必需」とされた13項目には、必要性の程度が異なるものが含まれている。たとえば、「お金がないので医者にかかれない」と「お金がないから親戚の葬式に行けない」とでは、重みがかなり異なるだろう。
問題は、必要性の程度を誰がどのように評価するかだ。たとえば、必需13項目の中には「炊飯器の保有」「固定電話の保有」が含まれているが、私はどちらも持っていない。鍋での炊飯は全く苦にならないし、固定電話はなくても困らないからだ。
しかし、同程度の所得で炊飯器や固定電話を持っている人には、その人の「自分には必要」という判断があろう。いずれにしても、他人が「あなたには不要」と安易に言うことはできないはずだ。
生活保護基準部会は、2011年の意識調査で「必需」とした人のパーセンテージによって、必要性の程度を重み付けしている。たとえば、最もパーセンテージが高い「必要な時に医者にかかれる」では93%が「必要」としているのに対し、最も低い「親戚の冠婚葬祭への出席」では56%だ。全項目のパーセンテージの合計は931%=9.31となる。
まず、最も重い2つの「必需」を断念せざるを得ない人を例にとって、相対的剥奪指数を計算してみよう。「必要な時に医者にかかれる」(95%)と、「必要な時に歯医者にかかれる」(93%)の2頁目だ。
カッコ内は、これらの項目を「必要」とした人のパーセンテージである。そのパーセンテージを合計すると、95+93=188%。これを9.31で割ると、この人の相対的剥奪指数は「188÷9.31=20.19」と求められる。
逆に、最も軽い2つである「親戚の冠婚葬祭への出席」(53%)、「急な出費への対応」(57%)を断念している場合には、相対的剥奪指数は同様に「(53+57)÷9.31=11.82」と求められる。「医者や歯医者にかかれない」という人の半分程度だ。
13項目の「必需」のうち断念せざるを得ない項目が多く、それぞれの項目を断念することの重みが大きいほど、「あきらめ」が多い生活となる。そのことが、相対的剥奪指数に現れる。
相対的貧困がもたらすものは
「あきらめ」の急激な増加
では、相対的剥奪指数で何がどの程度明らかになっているのだろうか。生活保護基準部会資料に示されたグラフのいくつかを見てみよう。
下のグラフ「剥奪指数(全世帯)」は、等価所得に対する相対的剥奪指数である。高所得(右側)から低所得(左側)に行けば行くほど、相対的剥奪、すなわち「あきらめ」が増加していく様子が現れている。
よく見ると、「あきらめ」の増加が激しくなっているポイントは2ヵ所ある。等価所得が360〜380万円と、同じく220〜240万円だ。なお、「等価可処分所得」ではなく「等価所得」であることにご注意いただきたい。税金・社会保険料を支払った後の「自分たちが使えるお金」は、さらに少なくなるということだ。
等価所得360〜380万円は、1人世帯なら年間所得360〜380万円、4人世帯なら同じく720〜760万円。「貧しい」とは言えないが、「お金がもっとあれば」と嘆く場面が増え始める所得レベルであることは、生活実感から見てそれほど違和感がないところであろう。
等価所得220〜240万円は、1人世帯なら年間所得220〜240万円、4人世帯なら同じく440〜480万円。単身者の場合、税金や社会保険料を支払うと、場合によっては「生活保護の方がマシ」という状況が発生し得る。複数世帯でも、世帯構成と事情によっては「生活保護の方がマシ」という状況になり得る。ほぼ「相対的貧困より少しはマシ」という状況と見てよいだろう。とはいえ、生活保護基準はさらに低い。貧困線(相対的貧困となる等価可処分所得)よりも低い水準に設定されているからだ。
子どものいる世帯、ひとり親世帯で
ますます苦しくなる生活
相対的剥奪指数を世帯類型別に比較してみると、「同じ所得でも、子どもがいると生活が苦しくなる」という状況が明らかになる。
下のグラフ「剥奪指数(世帯類型別)」は、所得と社会的剥奪指数の関係を、所得類型別に表示したものだ。同じ所得でも、高齢夫婦世帯→高齢単身者世帯→全体→子どものいる世帯→ひとり親世帯の順で、「あきらめ」が増加増加していることは一目瞭然だ。
ひとり親世帯は、サンプル数が少ないためグラフがガタついているのだが、「相対的貧困」をうかがわせる指標の増加は、等価所得300〜400万円の区間のどこかで始まっているようだ。この所得階層は、親1人+子ども1人の2人世帯なら、年間所得430〜570万円程度に該当する。ひとり親で子どもがいて、それほど高い収入を得ることができるのなら、生活能力も職業能力も相当に高いのだろう。それでも相対的貧困に近い、「あきらめ」が多い状態を余儀なくされるのだ。
ちなみに、子どものいる世帯全体では、ジワジワ苦しくなる所得階層が等価所得360万円(夫婦+子ども1人で年収約620万円)、相対的貧困のうかがわれる所得階層は同220万円(同じく年収約380万円)となっている。ひとり親世帯で、大人が1人しかいないことによる費用の増加は、「少なく見積もっても年間50万円」ということになる。
では、子どもに対する相対的剥奪の実態は、どうなっているのだろうか。
生活保護基準部会は、子どものいる世帯を対象に、「有料レジャー施設(遊園地や動物園)につれていく」「子どもの誕生日を祝う」「本や雑誌を買い与える」「小遣いを与える」「塾に通わせる」「習い事をさせる」「高校以後の教育を受けさせる」の7項目に関する「経済的理由であきらめる(あきらめさせる)」という選択の有無も調査している。
下のグラフ「子どもの相対的剥奪」は、以上の7項目のうち、「レジャー施設」「誕生日」「本や雑誌」「小遣い」の4項目について、経済的理由であきらめている親のパーセンテージを所得階層別に整理したものだ。
レジャー施設は、等価所得400万円(親1人+子1人で年収570万円、親2人+子1人で年収690万円)を切ると、「あきらめ」が始まるようだ。「本や雑誌」「小遣い」も、同程度の所得で「あきらめ」が始まっている可能性は見受けられるが、低所得だからといって簡単に断念されるわけではない。むしろ苦しい家計の中で、なんとか子どもに機会を与えようとする親の苦闘がしのばれる。
しかし、等価所得200万円以下(親1人+子1人で年収280万円、親2人+子1人で年収350万円)となると、レジャーに加えて本も雑誌も小遣いもあきらめなくてはならなくなる親が増加する。さらに所得が減少すると、誕生日祝いまで「あきらめ」の対象になる。等価所得120万円(親1人+子1人で年収170万円、親2人+子1人で年収210万円)でも95%の親は誕生日祝いを死守しているが、それ以下の所得では、あきらめる親が急増する。
この状況で生活保護基準を
引き下げても大丈夫なのか?
今国会で可決される可能性が高い生活保護基準引き下げは、生活保護世帯の「あきらめ」を確実に増加させる。子どものいる世帯に対して引き下げ幅を大きくするのなら、親と子の「あきらめ」が確実に増加する。
親は「子どもにはできるだけのことを」と自分の衣食を削リ、自分の健康を害するかもしれない。2013年の引き下げは、実際にそのような生活保護世帯の親を生み出している。逆に、子どもの衣食・育ち・学びを犠牲にした親もいるかもしれない。
いずれにしても、生活保護基準の引き下げは、間違いなく生活保護世帯の「あきらめ」を増加させる。最低賃金を増加させる圧力も減少する。これらが日本の将来に及ぼす悪影響は計り知れないが、現状さえ「明らかになっている」とは言えない。
日本が「健康で文化的」な国家であり、日本人が「健康で文化的」な人々であるかどうかは、今回の引き下げを食い止められるかどうかにかかっているのではないだろうか。
(フリーランス・ライター みわよしこ)
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