http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/496.html
Tweet |
相次ぐ企業の不正でも事故は起きていない…日本企業にコンプライアンスは馴染まないのか
http://biz-journal.jp/2018/01/post_22022.html
2018.01.18 文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授 Business Journal
日産自動車の無資格者による完成検査と神戸製鋼所の検査データ改ざんにはじまり、SUBARU(スバル)、三菱マテリアル子会社の三菱電線工業、東レ子会社の東レハイブリッドコード)と続く、日本企業の品質管理問題は、三菱電線と東レハイブリッドの社長辞任にまで発展している。これら不正行為が30〜40年前から行われていたということを考えると、問題の根は深く、今後も他社で同様の品質管理問題が発覚してもおかしくはない。
マスコミは「日本のものづくり品質の危機」「日本の現場力の疲弊」といった表現を使う。基本的に「がんばる現場」に対して、過度なコスト削減や生産性向上などのプレッシャーをかけてコンプライアンス(法令・規則遵守)を蔑ろにさせるマネジメントが悪いという論調だ。それも事実ではあるが、一連の問題は、日本的組織の成り立ちと昨今急速に重視されるようになったコンプライアンスに対する認識に関わるものであるといえる。
コントロール(実質支配力)と権威(支配権)を分ける傾向の強い日本的組織において、下部は上部に対してコントロールを有し、上部は下部に対して権威を有するかたちをとる。つまり最上部は下部に対する権威のみ、最下部は上部に対するコントロールのみを有するという組織構造になる。組織を支える下部構造(最下部)としての現場は、上部組織に対して大きなコントロール力を有するのである。これは、一般に「強い現場」とか「現場力」と呼ばれている。アメリカ的組織のように各組織階層が下部組織に対してコントロールと権威を合わせもってパワー(権力)を行使するのとは大きく異なる。
また、アメリカ的組織のように変化に対して制度を変えて適応する(意思決定主導)のと異なり、日本的組織では、ゆるい制度とその解釈運用で変化に対応する(インプリメンテーション主導)という特徴がある。現場での運用の自由度の高さは、現場の主体性と自律性を意味する。これが、日本的組織の強みといわれるものである。この現場の主体性と自律性が品質と組み合わさったのが、世界を席巻した日本品質を生み出したQCサークルなどの「終わることのない」カイゼン運動である。
■コンプライアンスとカイゼン
主体性と自律性を有する現場の常識は、裁量と改善という努力と工夫こそが良いもの、良い品質を生むという認識である。法令により固定化された手続きであるコンプライアンスは品質を担保するという意味で信用されていないのであろう。コンプライアンスという概念が導入されるはるか前からカイゼンで勝負しているのであるから、当然と言えば当然だ。
今回の騒動でマネジメントは、現場の現状を把握できていなかったともいわれるが、品質問題が起きなければ、マネジメントとしても問題はないという認識であろう。つまり、マネジメントもコンプライアンスは脇に置いて、安全性に問題がなければ「問題ない」という認識なのだ。
要求仕様も過剰品質というべきかもしれない。神戸製鋼所のケースでは、納入先企業であるJRや自動車メーカーも早々に品質に問題はないと発表している。実際、今回のケースはタカタとは異なり、事故などの品質に由来する問題を起こしていない。自動車は個人顧客対象なので話は少し異なるが、証明ができないとはいえ、今回の長期間の無資格検査に起因する問題が起こったとはいわれていない。
この現場での品質追求最優先の姿勢は、明らかに日本的組織の強みである。日産自動車も神戸製鋼所も優れた品質管理を表彰するデミング賞を受賞している。
現場は長いこと、世界から賞賛を浴びた、正しいと信じるカイゼンを日常のなかで行ってきている。ゆえに日産自動車の工場で無資格検査の問題が指摘された後も、無資格検査を続けていた工場があったというのも、現場のこのような意識の表れであろう。変わったのは環境であり、環境とはコンプライアンスである。これまで問題ではなかったこと、つまり品質を最優先に置き、そのために効率化も含めてカイゼンを通してプロセス(手続き)を変化させていく行為が、コンプライアンスに抵触するようになったということである。
■日本的組織にとってのコンプライアンス
コンプライアンスとは、踏むべき固定的なプロセスのことであり、プロセスを改善して変更していく日本的組織の品質管理の核となるカイゼンとは、相反するといえる。つまり、プロセスを変えていくカイゼンは、コンプライアンスと相性が悪いのである。現場としては、世の中が変わり、強みが突如否定され、弱みになったともいえよう。
そもそも30年や40年前に日本にコンプライアンスの認識などなかった。確かに、企業活動が法令に則って行われなくてはならないのは当たり前のことではある。しかし、日本でコンプライアンスが今日のように重要視されるようになったのは、小泉内閣の下で規制緩和が行われた2000年代以降のことであり、その歴史は意外に短い。経済活動がグローバル化するなかで、コンプライアンスが世界中で重視されてきているのは事実である。
では日本社会におけるコンプライアンスに対する認識はどのようなものであろうか。かつてJRが国鉄であったころ、公務員である国鉄の職員には争議権が認められていなかったので、労働組合は順法闘争という闘争戦術を編み出した。順法闘争とは、規則などを完全に励行することによって、合法的にストライキと同様の効果が期待できる闘争戦術のことである。
考えれば、規則を厳密に励行すると運行に支障をきたすというのは、奇妙な話である。現実の支障のない運行は、コンプライアンスを遵守していないということである。こうした認識は、内部統制も含めて、現在の日本的組織では変わっていないのではないか。今回の品質管理問題は、現場主義の限界と言うが、現場だけではなく、日本的組織そのものの問題といえるであろう。
企業活動のグローバル化がいっそう進むなか、コンプライアンスの重視は企業として避けては通れないが、厳しいコンプライアンスは日本的組織において現場でのプロセスのカイゼンにブレーキをかけることも事実である。ひいては、日本的組織にとってコンプライアンスは、組織スピードの低下をもたらすという認識も必要である。
(文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授)
▲上へ ★阿修羅♪ > 経世済民125掲示板 次へ 前へ
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 経世済民125掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。