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「20代で借金作って夜逃げ…一寸先は闇だった」ダイソー社長が告白 100均の帝王「小心者」の兵法
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53177
2017.12.05 週刊現代 :現代ビジネス
借金を抱え広島から上京。トラックで移動販売を始めるも火事ですべてを失い、人生の怖さを知った。それでもお客様第一主義を貫き、一代で100均の頂点を極めた矢野社長に人生哲学を聞いた。
――昨年度の売り上げは年間4200億円。国内に3150店、海外の26の国と地域に1800店、合計4950店。販売する商品数は約7万点で、1ヵ月に700点もの新商品を開発している。
『ダイソー(大創産業)』は、まさに100均(100円ショップ)の雄となったわけですが、振り返ってみていかがですか。
「10年前までは、『100均なんて底の浅い商売だから、やがては潰れる』と確信を持っていました。ものごとは、ずっとはうまくいかないんですよ。店舗数が増えるのが怖くて『出すな。出すな』と周囲に言ってきた。
基本的に私は小心者なんです。ずっと、この性格はいやじゃなあと思っていた。なんでこんな心配性で、人の何倍も気を遣う性格なんじゃろと。でも臆病で悲観的だったからこそ、ここまでこられた。
『もっといいものを作らないとすぐお客さんに飽きられる』という恐れが、新しい商品開発にもつながった。ありがたいことですよ」
――矢野博丈社長(74歳)とは、同じ広島出身なので非常に親近感を感じていました。
以前から社長は「自分は大した人間じゃない」と謙遜されていましたが、とはいえ、ここまでダイソーを大きくしたわけですから、商売の才能があったんじゃないですか。
「そんなものないですよ。ただ、働くのは大好きでした。肉体労働が好きなんです。資金繰りが悪くなって、不安になると、自分で倉庫に行って商品出しをする。するとストレスもなくなるし、落ち着くんです」
――そもそも100均を始めたきっかけは何だったんですか。
「簡単に言うと計算がめんどくさかったから。最初はトラックに商品を積んで移動販売をやっていたんですが、お客さんが次々にやってきて、『これいくら?』『これは?』と聞くんです。手が回らなくて、『全部100円でいいや』と言ってしまった。
当時('70年代前半)は原価70円のフライパンが150円で飛ぶように売れた時代。それを100円で売れば利益は30円しかない。まずいなと思いましたが、結果的にはそれがよかった。人生には無駄がないと言いますが、自分に不利な選択をしたことが結果オーライでした。
儲けよう儲けようと思っているころは儲からんのですよ。かつてダイソーが倒産の危機をむかえたとき、あえてバイヤーに『倒産回避以外の価値観を求めるな』と言ったんです。
倒産さえせにゃええんじゃ、儲けようと思うな。利益より、売れりゃあええんじゃと、そう考えるようになってから、道が拓けました」
――「しょせんは100円均一だ」とバカにされたこともあったとか。
「スーパーなどで店頭販売をさせてもらうときに名刺を出すと、100均の文字を見て『安売りかあ』と言われるんです。
そんなときは『100万円の車なら安物ですが、100万円の家具なら高級品です。うちは100円の高級品を売っているんです』と言い返してきました。
それでも、お客さんから『安物買いの銭失い』と言われたときはショックでした。どうせこんな安物すぐ壊れるから買うだけおカネがもったいないと。100円で100円の価値のものしか買えなかったらお客さんは興味をもちません。100円でこれだけのものが買えるのかと思ってもらえないとダメなんです。
いま思えば、100円という上限があったのがよかった。そのなかで商品をどう工夫するか、流通コストをどう抑えるかに集中することができた」
計算だけで商売はできない
――小売業の場合、成功すると大手量販店が参入してきて、中小企業のシェアを奪っていきますが、なぜダイソーはここまで大きくなれたのでしょうか。
「100均は手間がかかりすぎるんです。
過去にダイエーが88円均一セールをやるというから、店舗から追い出されたことがありました。
しかし、利益の計算ばかりしていたから結局上手くいかずに、またウチが戻ることになった。
あと、うちは一つの商品を1万個、10万個単位で発注するんです。そうすることで、コストも抑えられる。
もちろん在庫を抱えるリスクはあるけど、そうしないと量販店には勝てません。
たとえ利益が10円でも1日に10万個売れば100万円です。1ヵ月で3000万円になる。とにかく数を売ることを目標にしたんです。
実際、計算してみると売り上げと在庫が合わないんですけど、僕はバカだから計算しなかった。
商売は、計算じゃはかりきれないところがある。でも今日が食えているんならそれでいいと思っていました。
業界内では『ダイソーは儲かっていない』『あんな方法でやっていけるはずがない』とも言われましたが、気には留めませんでした。
むしろ私は『いい会社だ』と言われることのほうが怖い。これでいいんだと思った瞬間に成長は止まってしまいますから」
――経営が苦しいときには、イトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊氏からねぎらいの電話がかかってきたそうですね。
「『経営者にとってカネがないのは日常茶飯事だから、一人で苦しむなよ。なんかあったらカネを貸してやるから』と言ってもらって、ずいぶん勇気づけられました。
セブン−イレブンの鈴木敏文名誉顧問にも可愛がってもらったし、なぜか目上の人には好かれましたね」
家もトラックも燃えたけど
――ここまで偉くなると、昔の苦労を忘れてふんぞり返る人もいますが、矢野社長は変わらない。矢野社長の口癖は今でも「すいません、すいません」。本当に珍しいタイプの社長だと思います。
お父さんは医者でいわゆるエリート家系なのに、なぜそこまで自虐的なのでしょうか。
「親が医者といえば裕福な家庭に育ったと思うかもしれませんが、親父は貧しい人からは治療費を取らなかったので、実家はものすごく貧乏でした。
兄貴たちは医学部に進学したので、母親からはよく『お前も医者になれ』と言われましたが、いまとなれば医者にならずによかったと思います。まあデキが悪かったので、医者にはなれなかったんですけど。
高校時代はボクシングに明け暮れて、五輪強化選手までいきましたが、勉強は本当にしなかった。
でも親父から大学にだけは行けと言われて、浪人の末、中央大学の二部(夜間)に入学。昼間は八百屋で毎日働きました。僕は『恵まれる不幸せ、恵まれない幸せ』という言葉が好きなんですが、家が貧乏だったからこそ、おカネの大切さに早くから気づくことができた」
――そうしてご自身で稼いだおカネで、学費もぜんぶ自分で出して、大学時代に結婚までされた。ただ、奥さんの実家の養殖業を継ぐために広島に戻ってからは大変だったそうですね。
「嫁さんの実家がフグやブリの養殖をやっていまして、それを継いだのですが、経費ばかりかかって……。気がついたら実の親や兄弟からの借金が700万円に膨れ上がっていた。
さらに義理の親父が、網を新調するために1000万円の借金をしてくれと頼んでくる。これはもう無理だと思って、家財道具をトラックに積んで、嫁さんと子供たちと一緒に夜逃げして、上京したんです。
東京に向かう道中は、明日からどうやって食っていくか、もう不安で不安で。このまま東京を通り過ぎて仙台か北海道にでも逃げようかと思っていました。
東京に行く途中で安い木賃宿に家族で泊まったとき、嫁さんが子供に『いい宿じゃないの』と言ってくれた。その言葉に救われました。
嫁さんは100均を始めてからも主婦目線で便利な調理用品などを開発し、会社を支えてくれた。あの嫁さんがいなければ、今のダイソーはなかったです」
――東京では、図書月販という会社で百科事典を売っていたそうですね。
「条件がよかったのでやったのですが、ぜんぜんダメでした。この性格だから押しが弱くて、お客さんが迷惑そうな顔をすると、『すいません、また今度来ます』と言ってすぐ引き下がってしまう。
その点、100均は押しもセールストークも必要ない。魅力的な商品をたくさん並べればどんどん売れる」
――'72年にトラックで雑貨を移動販売する「矢野商店」を創業。最初はスーパーの店頭や公民館などでベニヤ板を広げて販売していたそうですが、このころも、相変わらず悲観的だったとか。
「こんな商売、長く続くはずがないと思っていました。女房と『年商1億円を目指して頑張ろう』と励まし合っていましたが、子供らには『悪いけど中学を出たらすぐ働いてくれ』とも言っていました。
それでも『日本一(商品数を)売るトラック』になろうと、他の店が300種類の商品を持ってくるなら、ウチは600種類持っていき、チラシも他の店の倍、刷りました。当時は手刷りなので手が疲れるんだけど、人よりしんどいことをするしかなかった。
ところが、せっかく商売が軌道に乗ってきた直後に、落とし穴が待っていた。火事に遭遇して、家も新調したトラックもぜんぶ燃えてしまったんです。放火でした。しかも保険をかけていなかったので、賠償金も一切出なかった。
予想もしないことで、一瞬にしてすべてを失って、人生は怖い、一寸先は闇だと学びました。それ以来、将来の不安とずっと向き合ってきました」
わからないから面白い
――以来、防衛に対する気持ちが強くなったそうですが、一方で野外販売から、「店舗内で売る」という新しい販売方法にも挑戦されています。
「最初に声をかけていただいたのはスーパーのユニーさんでした。店舗の4階を催事場にしたから、そこで100均をやってくれと依頼があったのですが、正直、絶対にうまくいくはずがないと思っていました。
100均は、人がたくさん集まる店頭じゃないと誰も買ってくれない。エレベーターもない4階までお客さんが来るはずがない。
ところが、しばらくして店に行くと目を疑うような光景が広がっていました。たくさんのお客さんがウチを目当てに4階まで来てくれたんです。そこで店舗を構えても売れるんだとわかった」
――勢いに乗った矢野商店は、'77年に「大創産業」と名を変えて店舗を拡大。「世界のダイソー」と呼ばれるまでになりました。
「年商1億円なんて絶対不可能だと思っていたのに、いまや1時間に1億円の売り上げを稼ぐようになったわけですから、人生はわからんもんです。
海外進出も成功するとは思っていなかったけど、実際にやってみると思いもかけないことが起こりました。シンガポールでは使い捨てカイロが爆発的に売れたんです。現地の人が海外旅行に行く際に、寒いだろうと買っていくのです。
灼熱のサウジアラビアでは、意外にも手袋などの防寒具が売れた。気温が20度以下になると、みんな寒い寒いと言うんです。
モンゴルではアイスクリーム器が飛ぶように売れました。外は零下でもゲル(テント)のなかはストーブをがんがん焚くので暑いんです。このように、ときに計算できないことが商売には起こる。だから面白いし怖いんです」
――いまモノが売れない時代ですが、今後、小売業界はどうなっていくのでしょうか。
「商品の進化のスピードが勝つか、お客さんが飽きるのが先か。難しい話はようわかりません。ただ私らは、お客さんのために『100円で買えるいいもの』を作り続けていくだけです」
聞き手・大下英治(おおした・えいじ)
44年広島県生まれ。『週刊文春』の記者を経て、作家として活躍。著書に『石破茂の「日本創生」』『永田町知謀戦2 竹下・金丸と二階俊博』などがある。近著『百円の男 ダイソー矢野博丈』(さくら舎)が10月5日発売
「週刊現代」2017年10月14日・21日合併号より
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