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緊急調査から見えた「働き方改革」の実態  「比較優位説」(前編)頑健なモデルで社会を考える オーバーブッキングと監視社会
http://www.asyura2.com/17/hasan121/msg/109.html
投稿者 軽毛 日時 2017 年 4 月 14 日 06:20:23: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 

緊急調査から見えた「働き方改革」の実態

記者の眼

2017年4月14日(金)
広岡 延隆

 長時間労働の是正を旗印に行われている「働き方改革」。厚生労働省が労働基準法違反への対応を厳格化している影響で、経営者の危機意識が高まっていることもあるのだろう。今や、国内で取り組んでいない企業を探すほうが難しい状態だ。

 肝心なのは、改革を推進する現場がどのように捉えているかだ。そこで、日経ビジネスは3月末、インターネットで働き方改革の実態に関する緊急調査を実施した。1026人もの回答を得た。本記事では、緊急調査に対して寄せられたコメントを中心に、論点を整理していきたい。なお、引用したコメントについては、意図を損ねない範囲で文言を一部整えている。(データを分析した記事は日経ビジネス本誌で2回に渡って掲載しています。 2017年4月3日号「改革するほど消費減退のワケ」、2017年4月10日号「現場は答えを知っている」)

論点1:労働時間

 今回の調査では実態としての残業時間が改革前後でどのように推移したかを聞いた。「実態としての」という回りくどい言い方をしなければならないのは、日本企業には違法な「サービス残業」がはびこっている実態があるからだ。そこで、同時にサービス残業の推移も尋ねている。

 その結果、実質残業時間とサービス残業時間のいずれも減少したことが確認された。一般にサービス残業が発生するのは、会社から一定の時間以上の残業を認めないなどと様々な形で言われるため。残業そのものが減れば、正確に出退勤時間を報告することができるようになる。一定の成果を上げていると言えそうだ。

労働時間とともにサービス残業も減る


 「不要な残業(すぐやらなくてもよいこと)をせず、必要な業務が終われば早い時間でも退社しやすくなった」

 見過ごせないのは、「結局はサービス残業もしくは家に持ち帰って業務することになり、ますます実態がわからなくなってしまう」「退勤扱いにした後に、事実上の残業をするケースが多くある」など、サービス残業が生まれていると訴える声が上がったことだ。

 「会社側は残業時間の削減を要請するが、会社側からの削減のための具体的な提案や行動がないこと」

 「(会社側が残業時間の)上限を設けるだけで、仕事の中身を考えようとしていない」

 「勤怠システムのプルダウンに『自己啓発・私的コミュニケーション』が存在し多くの人達は、それを選択している」

 仕事を見直さずに残業時間抑制の号令だけをかければ、むしろサービス残業の温床となりかねないということだろう。

 どうすればサービス残業を無くせるのだろうか。以下にサービス残業がなくなったと答えた人の意見を抜粋する。

 「勤怠管理簿・パソコンログ・事務所施錠時間等の整合性を取り、不整合であった場合、社内処分を受ける可能性が出る制度に変わったため」

 「部下にサービス残業させると、その上司が処罰されることになったため」

論点2:生産性の位置付け

 現在の働き方改革を巡る議論の特徴は、「労働者保護」の観点が前面に打ち出されていることだ。過労死が後を絶たないという状況を考えれば当然のことといえるが、現場からは下記のような声も上がってきた。

 「労働時間ばかりフォーカスすると本質からそれてしまう。時間成果を高めるために、働き方は改革すべきで、時短がゴールではない」

 「いつの間にか残業を減らすことが目的になっているように見える。本質は生産性の向上であり、その結果としての労働時間削減だ」

 「働き方改革よりも、事業運営の有効性、合理性の向上を図り、賃金の向上につなげるべき。次に労働時間の短縮。そうであれば、消費拡大につながるのでは」

 「まず、生産性をあげる取り組みが重要。会社が人生のすべてのような人の意識を変えることも必要」

 働き方改革ブームにのって労働時間短縮を進めたところで、企業競争力が落ちるようなことがあれば、結局給与や雇用の面でしわよせを受けるのは現場だ。生産性が上がらなければ持続的な取り組みにならないということは、現場のビジネスパーソンが最も知っているということだろう。

論点3:「働き方改革」のネーミング

 「働き方改革」という言葉の主語は「現場のビジネスパーソン」だ。だが、経営者が指示してやらせているのだから「働かせ方改革」と呼ぶのが正しいのではないか。そうした、素朴な疑問を呈したコメントは多かった。調査当時、本サイトに関連記事が掲載されていた影響もあっただろうが、そもそも、多くの人が心に引っかかるものを覚えていたということだろう。

 「働き方改革と銘打って、働く人の意識を変えることを手段としているうちは改革は進まないと思う。これを成功させるためには経営者の意識を変えることのみが鍵である。働かせ方改革である」

 「名前自体胡散臭い」

 「ネーミングが間違っている。せめて労働時間改革とか」

 私自身は、今は以下のコメントの考え方に近い。

 「『働き方改革』というあまりキャッチーでないネーミングに当初疑問を持っていたが、うまく広まっているようなので期待している」

 もちろん「働き方改革」が一義的に経営の問題であることは疑いがない。過重労働が常態化している企業が経営危機に直面しているというニュースが、毎日のようにあることからも明らかだ。

 ただ、現場の実態や問題点を知っているのは、誰よりも現場の人間だ。そうである以上、現場のビジネスパーソンが自発的に「働き方改革」を進めることが、改革を実りあるものにするのに何よりも効果的だ。きちんと働き方改革が進むことは、働き手にとってもメリットのある話だ。要所でリーダーシップを発揮しつつ、現場の自発的な取り組みを引き出す環境を整えるのが経営の役割ということだろう。

 上記を踏まえ、個人的な提案がある。経営者は「働かせ方改革」という言葉だけを使い、社員は「働き方改革」という言葉だけを使うことにするのはどうだろう。言葉遊びと思われるかもしれないが、言葉の力は案外大きい。まずは経団連と連合あたりで始めてもらえれば、労使で協力する改革だという機運がもっと醸成されるような気がするのだが…。


このコラムについて

記者の眼
日経ビジネスに在籍する30人以上の記者が、日々の取材で得た情報を基に、独自の視点で執筆するコラムです。原則平日毎日の公開になります。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/221102/041300444/


 

 
「比較優位説」(前編)――頑健なモデルで社会を考える

「日経ビジネスベーシック」から

今回のキーワード:比較優位
2017年4月14日(金)
飯田 泰之
 体系的に理解しよう! とすると、なかなか手強いのが経済学(エコノミクス)。とりあえず、耳にしたことがある経済学用語の定義だけでも、「なるほど」と腑に落ちる形で学んでみませんか。テレビでもお馴染みの、明治大学政治経済学部准教授の飯田泰之さんが、ちょっと他所では読めない角度から、経済学のキーワードを読み解きます。

飯田泰之(いいだ・やすゆき)
明治大学政治経済学部准教授
1975年東京生まれ。マクロ経済学を専門とするエコノミスト。シノドスマネージング・ ディレクター、規制改革推進会議委員、財務省財務総合政策研究所上席客員研究員。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。
 自由で競争的な市場では、取引を行った全員が得をすることになります。
 え、そんなお花畑はこの世にない?

 いえ、売り手にとっても買い手にとっても「得」だから、取引が成立するのです(もちろん、後で振り返ってみたら思っていたほどの得がなかったということはあるでしょうが)。

 そしてこの話には国境は関係ありません(→こちら)。価値観のズレやすれ違いがあるならば、むしろ、自由な取引が当事者双方の経済的な幸せさを向上させます。

 これは価値観だけではなく、2つの国の間で技術力が異なる場合にも成立します。

 生産技術に注目して自由な取引の効能を説明する――それが「比較優位説」です。このように、数学的なモデルを援用しながら社会問題を考える……というスタイルの元祖が、比較優位説に出てくる「機会費用」です(本当は先行する研究があるのですが学説史の詳細はさておき)。

 二国間の貿易に「機会費用」という概念を持ち込むことで組み立てられる比較優位説の論理は、非常に「頑健」です。

「頑健である」とはどういうことか

 ちなみにこの「頑健(robust)」「頑健性(robustness)」という評価軸は経済学に限らず、理論的に物事を考える際に非常に重要な概念なので、少し解説しておきましょう。

 経済学の理論は、非常に多くの仮定をおいた上で作成されます。多くの仮定を用いるほど詳細な分析が可能になるのです。その一方で、その仮定が現実と異なっていると理論は不正確なものになるでしょう。

 ここで重要になるのが頑健性です。仮定の一部が満たされていなくても、または仮定と現実が多少ずれていても結論が大きく変わらない理論を「このモデルの結論は頑健である」と評価したりします。仮定がそっくりそのまま当てはまらなくても、それなりに同じ結論が得られるのが「良い理論」のひとつの条件というわけです。これは経済学に限った話ではありません。難解で複雑な理屈ほど有用というわけではないのです。

 さて、比較優位説の説明に戻りましょう。

 比較優位説の主張は明確です。結論から先にまとめておきましょう。

・他国より低い機会費用で生産できる財を「比較優位財」と呼ぶ
・全ての国に(少なくとも1つは)比較優位な財がある
・比較優位財の生産を増加させ、それ以外の財を輸入するという活動を通じて全ての国の経済状況は改善される

 ここではもっとも単純な二国の貿易について考えます。世界にはE国P国の二カ国しかないと考えて読み進んでください。

 E国とP国の主要産品は、どちらも「綿織物」と「ワイン」だとしましょう。そして、綿織物1反,ワイン1本をつくるために必要な労働者の数は両国で、

生産に要する人数 綿織物 ワイン
E国 1人 2人
P国 3人 3人
 とします。

 この表は、1反の綿織物を作るのに、E国なら1人で済むのにP国だと3人必要ということを表しています(品質は同じだとしましょう)。一方、ワイン1本を作るのに、E国なら2人で済むのに、P国だと3人必要というわけです。

 つまり、綿織物でもワインでも、E国のほうがP国より生産性が高い(綿織物なら3倍、ワインなら3/2=1.5倍)ことになります。気候がよいとか、労働者の能力が高いとか……理由はここでは考えませんがなにはともあれ、E国の方が技術水準が高い状態です。

 比較優位説が登場する以前の貿易理論では,国別の生産技術の優劣によって輸出・輸入が決まると考えられていました。このような考え方を「絶対優位説」と言います。

 この例では、P国の綿織物の生産性はE国の3割以下(1/3倍)、ワインの生産性はE国の7割以下(2/3倍)なのだから、P国はE国から綿織物もワインも輸入するだろう、というわけです。

最強国なら、輸入する必要がない?

 絶対優位説に従うと、綿織物、ワイン、ともにP国の技術水準はE国を下回るため,輸出するものがありません。そのためP国は、金・銀・財産などをE国に支払って財を購入することになるでしょう。そして、このような国富の流出は防がなければならない…だから「貿易制限や、他国より優位な産業を育成するための、幼稚産業保護が必要だ」という話に行き着くのが絶対優位説の特徴です。

 具体的には関税を課すなどして、輸入品を閉め出すわけです。…また最近聞いたような話になってきましたね。

 しかし、落ち着いて考えてみてください。仮に絶対優位に従って貿易が行われているなら、P国からE国に国富が永遠に流出していくことになります。しかし、P国は無限に金・銀をもっているわけではないでしょう。そして、E国も食べられない金・銀・財宝ばかりを永遠にほしがり続けるというのも考えづらい。金・銀・財宝は「将来欲しいものと交換できる」からこそ意味を持ちます。E国にとって唯一の「外国」はP国です。E国はそのP国から何も買わないのですから……そもそもなんで金・銀をため込もうとするのでしょう。絶対優位説は突き詰めていくと多くの矛盾が明らかになっていきます。

 また、現実の問題としてほとんどの産業について絶対優位を誇っていた18世紀の英国は輸入大国でもありました。そして、1960年代の米国はほとんどあらゆる財について世界最高水準の生産技術を誇っていましたが、世界中から多種多様な商品を輸入しており、むしろ貿易赤字が大きな問題になったくらいです。

 貿易構造を決めるのはどうも「絶対的な技術水準」ではないようです。

 そこで比較優位説は「ある商品の生産性の国際比較」ではなく,(ひとつの国の内での)商品間の生産性の差――生産に要する機会費用に注目しました。

 たとえば,E国では綿織物を1反増産するために必要な労働者数(1名)を確保するためにはワインの生産に従事する労働者を1人(ワイン生産0.5本分)を削らなければなりません。綿織物を1反増産するために、ワインを0.5本あきらめなければならないという状況を「E国の、綿織物1反の機会費用はワイン0.5本である」といいます。逆に、ワイン1本分の機会費用は綿織物2反分となります。

 あるものを手に入れるために犠牲になるもの・こと・カネが機会費用でしたね(こちら)。

 一方、P国では綿織物生産を1反増やすにはワイン1本分の労働者をワイン工場から織物工場に異動させればよい。ということは、「P国の、綿織物1反の機会費用はワイン1本」です。逆も同じです。

生産性ではなく「他国より機会費用が低い財」が「比較優位財」

 ここでそれぞれの機会費用をまとめてみましょう。

【綿織物一反の機会費用】
E国:ワイン0.5本
P国:ワイン1本

【ワイン1本の機会費用】
E国:綿織物2反
P国:綿織物1反

 ですね。このとき、綿織物の機会費用が低いのはE国ですから、「E国は綿織物に比較優位がある」ことになります(生産効率ではE国の方が高いのですが、なぜ「優位」というのか。これは後編で詳述しましょう)。一方でワインの機会費用が低いのはP国です。これを「P国の比較優位財はワインである」と表現します。

それぞれの機会費用は逆数の関係にある

 ここで、ある国の「ワインの機会費用」と「綿織物の機会費用」はそれぞれ逆数の関係にあることに注目しましょう(P国の場合は1ですが、1の逆数は1)。分子・分母を逆にしているわけですから、綿織物とワインについて同時に比較優位をもつことは不可能、ということになります。

*逆数……分子分母を逆にした数の関係。2/3の逆数は3/2、4の逆数は1/4など。逆数を掛け合わせると1になります。元の大小関係と逆数の大小関係は必ず逆になります。A>Bならば1/A<1/Bですよね。
 綿織物の機会費用が「E国でワイン1/2本」<「P国でワイン1本」
 ワインの機会費用はその逆数ですから「E国で綿織物2反」>「Pで綿織物1反」

 …のように、逆数では大小関係は逆転します。

 比較優位は分数・逆数の性質(のみ)から導かれているため、経済状況がどう変化しようがその結論部分が変わらないという意味で頑健というわけです。

 各国が比較優位の財を輸出すると考えれば、全ての国には輸入する品があると言うことになります。これならば絶対優位説のような矛盾は発生しません。

 ではこのような比較優位に基づいた貿易は各国の経済的な豊かさに何をもたらすのでしょう?

(後編に続きます)

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このコラムについて

「日経ビジネスベーシック」から
このコラムでは、「日経ビジネスBasic」に掲載した記事の一部をご紹介します。日経ビジネスBasicは、経済ニュースを十分に読み解くための用語解説や、背景やいきさつの説明、関連する話題、若手ビジネスパーソンの仕事や生活に役立つ情報などを掲載しています。すべての記事は、日経ビジネスの電子版である「日経ビジネスDigital」を定期購読すれば無料でお読みいただけます。詳しくはこちらをごらんください。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/041300033/041300022/

 


オーバーブッキングと監視社会

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明

2017年4月14日(金)
小田嶋 隆

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/041300090/illustration.png

 4月9日、シカゴのオヘア空港にいたケンタッキー州ルイビルへ向けて出発予定のユナイテッド航空3411便内で、トラブルが発生した。

 乗客に説明された話では、「オーバーブッキングにより、4人の乗客を降ろさないと出発できない」という。4人の乗務員をルイビルに運ぶ必要が発生したために、代わりに4人の乗客に降りてもらわないといけない。でないと、定員オーバーで離陸できない、ということらしい。

 スタッフは一定の条件(800ドル=約8万8000円、宿泊先、翌日の便のチケット)を提示した上で、降りる乗客を募った。しかし、降りてくれる乗客の数は4人に満たなかった。そこで、降りる乗客をコンピュータで選んだ上、対象の乗客を説得した。が、その1人は「翌日では間に合わない予定がある」と拒絶した。

 シカゴ航空局の係官が呼ばれ、その乗客(後にベトナム系米国人の医師であることが判明した)を強制的に座席から排除して飛行機から降ろした。動画で撮影されているのは、その時の係官による処置の一部だ。

 排除された乗客は、血を流し、ぐったりと横たわった状態で文字通りに引きずり出されている。
 ショッキングな映像だ(こちら)。

 動画は、私のツイッターのタイムラインにもすぐに到着した。
 見てみると、なるほどひどい。
 21世紀の文明国でこのようなあからさまな暴力が白昼堂々敢行されたことにただただ驚く。
 今回は、この動画を見て考えたことについて書く。

 動画を見ての印象は、とにかく
「あきれた」
 ということだ。そう申し上げるほかに言葉が見つからない。

 ……と言いたいところなのだが、原稿を書く人間は、そう言いながらも言葉を探しにかかってしまう。なんというのか、職業的なクセとして、別の角度からものを見ようとしてしまうわけだ。自分ながらいやらしい態度だと思っている。

 それでも、そういう見方が身に付いてしまっていることはいかんともしがたいわけで、つまり私は、動画の中で起こっている事態の評価とは別に、こんなふうに、こういう出来事の一部始終がその場で撮影されて、すぐさま世界中に拡散されている現実のありように注目しないとダメだぞ、と、原稿のネタみたいなことを考えながら動画を眺めていることに気づいて、ちょっとげんなりしている次第なのである。

 ともあれ、この動画のツイートに付加されていたコメントの中で、幾人かの人々が指摘していたように、こんなこと(つまり、オーバーブッキングの乗客を強制的に排除すること)は、世界中のあらゆる場所で毎日のように起こっている日常的な出来事なのであって、動画を見てびっくりしている私たちの方が、単に世間知らずだったというだけの話なのかもしれない。

 なるほど。
 この程度の暴力は、あるいは日常に属する範囲のものなのかもしれない。

 ただ、それはそれとして、
「野蛮な出来事が起こっていること」
 と、
「野蛮な出来事が撮影されてシェアされるようになったこと」
 は、切り分けて考えなければならない。

 後者が、前者を必要以上に強調していることが事実なのだとしても、だからといって前者が免罪されるわけではない。

 まぎらわしい書き方をしてしまった。もう一度言い直す。

 つまり、誰もがスマホを持つ時代になって、身の回りで起きている野蛮な出来事や暴力的な事件が、その場で撮影されて拡散されるのが当たり前になったことで、この世界の残酷さや野蛮さが、実態以上に強調されているのだとしても、だからといって、動画の中で起こっている野蛮さや残酷さが軽視されて良いことにはならないということだ。

 この種の(つまり「野蛮な」ということだが)動画がリツイートされてくるたびに思うことだが、私は、動画から受け取る印象そのものよりも、動画に対する率直な感情を表明している人たちと、その人たちの感情を冷笑する人々の間でやりとりされる不毛な口論に、毎度のことながらうんざりさせられる。

 動画の残酷さを嘆く人々も、動画の残酷さへの反応の大仰さを冷笑する人々も、大筋としては、自分の率直な印象を語っているだけなのだろうとは思う。

 ただ、SNSのような場所でやりとりされる「感想」は、個人の感想である事情とは別に、その人間の「対外アピール」として互いにぶつかり合うことになっている。

 と、暴力に辟易している人々と、暴力への反発を表明する人間の偽善に腹を立てている人々が、お互いを誹謗しあうみたいな展開になって、事件そのものは背景に退く結果になる。

 この口論は、動画の中で展開されている暴力以上に見物人をうんざりさせる。
 そういうふうにして、世の中は動いている。

 つまり、私たちは、公然とやりこめてもかまわない相手を発見するべく、今日もスマホの画面をスクロールさせているということだ。

 もしかしたら、われわれが、暴力が記録されている動画に群がるのは、暴力を恐れているからではなくて、むしろ、暴力がもたらす興奮に嗜癖しているからなのかもしれない。

 でなくても、暴力が扱われている動画を見た人間の何割かは、しばらくの間、暴力的な反応を示し続ける。
 SNSは、そういう世界にわれわれを誘引している。

 別の見方をすればだが、今回のケースのように、航空会社の暴挙が全世界に向けて可視化され、結果として当該の会社の株価の暴落を招いたことは、顧客サービスにたずさわる業界の人間たちに、ひとつの教訓を与えたはずだ。

 顧客は、常に秘密裏に自分たちの仕事ぶりを撮影している。
 とすれば、あらゆる機会において、最善のサービスを提供していないと、今回のケースのように、いつ、不適切な一部分を切り取って撮影されて、告発されることにもなりかねないぞ、と。

 実際、SNSならびにネット動画の普及は、サービス業に大きな脅威をもたらしている。
 今回の事件以外にも、特定の企業なり店舗が、顧客への対応のまずさをツイッターやフェイスブックに晒された結果、苦境に陥ったケースは少なくない。

 とすると、ネット炎上のおかげで、世界のサービスは向上し、われわれの社会は、より快適になるのだろうか。

 おそらく否だ。

 監視カメラが増えたことで、犯人が捕獲されやすくなったことはおそらく事実なのだろうし、監視カメラの威圧が犯罪予備軍の人間たちに犯行の自粛を促す効果も期待できるのだとは思う。

 が、映像やインターネットによる相互監視を強化することが、単純にこの社会で暮らす人間のモラルを向上させるのかというと、そう簡単には話は進まないと思う。

 あるタイプの人々は監視に対して疑心暗鬼を募らせるようになるだろうし、そうでない人々も、自分が監視されていることに少なからぬ圧力を感じはするはずで、その圧力の結果は、必ずしも良い方向にだけ作用するとは限らない。

 個人的にだが、私は、内圧の高い組織は暴力への傾斜を強めると思っている。

 これは、先日お会いした津田大介さんが言っていたことだが、昭和の時代の都立高校は、万事締め付けが緩かった。制服も無ければ校則もほとんど有名無実化しており、授業の出席すら問われない放牧場のような場所だった。おかげで、生徒の学力が低迷していた半面、いじめは見たことがない、と、津田さんは、ご自身が通った都立北園高校の例を引きながら、そんな話をしてくれた。

 私自身も、津田さんが通っていた時代の少し前の、似たような都立高校でぶらぶらしていた人間だが、たしかに、いじめは見たことがない。

 要するに、監視の緩さによって助長されるタイプの逸脱もあれば、厳しい監視がもたらす逸脱もあるということなのであろう。

 暴力でも規則でもノルマでも相互監視でも、高い圧力でコントロールされている組織の中の人間は、その圧力を内部に向けるようになる。ブラック企業であれ体育会の運動部であれカルト宗教の教団であれ、強い圧力によって統御された組織の内部では、いじめが起こりやすい。なんとなれば、いじめというのは、圧力が弱い屈曲点に集中するその結果だからだ。

 今回のオーバーブッキング自体、ユナイテッド航空の経営の苦しさの顕在化局面(つまり、常に“過度なオーバーブッキング”気味の予約処理をしていないと経営が成り立たない綱渡りの座席運営を余儀なくされているということ)と言えないこともない。高校の物理の時間に習った通りだ。圧力は、常に弱い部分に集中することになっている。

 とすれば、コンピュータによって選ばれた(←この情報が事実なのか、航空会社の対外アナウンスにすぎないのか、あるいはコンピュータによる選択の根拠が単なるランダム変数を噛ませた結果なのか、あるいは、座席の値段や乗客の属性を加味した上での処理結果なのか、私はいまのところ判断できずにいる)乗客が、アジア系の出自を持つ人間であったことは、偶然ではないのかもしれない。

 偶然でないのだとすると、それは何だろう。
 差別だろうか。

 個人的な話をすれば、私も、2000年にインドでオーバーブッキングに遭遇したことがある。
 その時の状況をお知らせする。

 成田への直行便を待つデリー国際空港で、搭乗便にオーバーブッキングが発生したというアナウンスがあった。

 客に向かって平然と「オーバーブッキング」という言葉を使う神経にも驚かされたのだが、その時、航空会社は、「チケットの○○番から××番までの乗客はシンガポール経由のトランジット便にチェンジされる」という旨を空港内放送と電光掲示板で通告してきた。お詫びも何も無く、である。

 私は、その搭乗便変更の該当者だったわけだが、チケット変更のために列に並んでいる20人ほどの人々を見ると、どうやらほとんどが日本人のツアー客だった。

 もともとの便の乗客に占める日本人乗客の比率は、3割ほどに過ぎない。
 にもかかわらず、トランジット便に乗せ換えられる客には、ほとんど全員日本人が選ばれている。
 これは、偶然だろうか。

 おそらく偶然ではない。
 では、差別だったのかというと、必ずしもそうとばかりは言い切れない。
 結果が物語っている。

 つまり、航空会社側からの一方的な搭乗変更通告に対して、抗議したのは、私の同行者(私と同年齢の、英語とイタリア語が達者な編集者兼劇評家だったI氏。既に故人)ただ1人で、ほかの20人ほどの日本人乗客は、いずれも軽く驚きつつも事態を受け容れていた。この「あっさりあきらめる」性質の温順さ(あるいは、単に空港のスタッフに抗議するに足る語学力を身につけていないということなのかもしれないのだが)が評価されて、われわれは、ダブルブッキング処理要員に選ばれていたに違いないということだ。ツアー客なら、まとめて大人数を動かせる。それで日本人となれば言うことなしだ。

 これは、差別といえば差別なのだろうが、日本人の温厚さが評価された結果というふうに見ることもできる。

 たぶん、文部科学省ならびにクールジャパン関係者は後者と見なすことだろう。
 世界に冠たるニッポンの驚くべき美しい民族性のわたくしたち。
 私は当事者なので、断定は避ける。
 文句を言わない人間は、世界中で歓迎されるのだろうとだけ言っておく。

 話をもとに戻す。
 「相互監視による、相互密告社会の到来は、その中で生きる人間の公共心を向上させるのか」という質問だった。
 答えはノーだ。
 相互監視社会の中の人間は、陰険になると思う。
 われわれは、現にそうなりつつある。

 つい昨日(つまり4月の12日)、ユナイテッド航空のケースに関連してなのか、Airbnbのホストが、2月に、アジア人であることを理由にアジア系米国人女性の宿泊を拒否した事例をNBCで報じている(こちら)。

 ネット上には、こういう事件の発生を、トランプ政権の人種や民族への態度を反映したものだとする意見が散見される。

 実際、トランプ大統領が当選した後、アジア系やアラブ系に対するヘイト犯罪が急増したことが報告されている(こちら)。

 政権のトップが他民族への態度を硬化させたからといって、ただちに差別的な犯罪が増えたり、ヘイトグループ(人種や宗教に基づく差別・憎悪を扇動する集団)の活動が活発化するものなのかどうか、たしかなところはわからない。が、政権の態度と世論が、相互依存的な関係にあることは事実だと思う。

 差別的な言論を容認する政府が実権を握っていれば、世論は差別を助長する方向に動き勝ちになる。
 また、世論が全体として差別を強化する方向で推移しているのであれば、政権の側もそうした世論におもねった態度を取るようになる。

 今週号の週刊現代は、巻頭で
「儒教に支配された中国人・韓国人の悲劇」
 というケント・ギルバート氏の寄稿を掲載している(こちら)。

 リンク先の目次でも確認できるが、新聞に掲載されている目次では、
《国より家族、公より私――――「歪んだ儒教思想」が世界でヒンシュクを買っている》
《アメリカ人だから断言できる「日本人と彼らはまったくの別物、全然違う」》
 という内容紹介が印刷されている。

 ほかにも
《ぶっちゃけ座談会 下品で幼稚、自分だけが良ければいい人たち 中国人は中国人が一番嫌い》
 という座談会記事の見出しも掲載されている。

 記事の本文はまだ読んでいないので、内容についてはどうこう言えないのだが、仮にも日本を代表する総合週刊誌がこういう見出しを掲げた広告を打っていることに驚いている。

 世論の動向と政府の態度には強い相関がある。
 どちらがどちらを主導し、いずれの側が相手の側を支配しているのかを、単純に断定することはできない。

 おそらく、両者は相互に影響を与えつつ、互いを引っ張っているのだと思う。
 アメリカの例でも同じことだが、一旦こんなふうに動き始めてしまっている世論の動向を、いったいどうやって引き戻したものなのか、正直なところ、見当がつかない。

 搭乗便の変更を一方的に通告されて、おとなしく従ってしまったあの時のことを思い出している。

 私は、トランジット先のシンガポールのチャンギ空港で、乗継便を待つ4時間の間、不必要な土産物とバカな文房具を山ほど買った。ほかの乗客もほぼ同じだ。クレジットカードと待ち時間を持たされた日本人は、際限なくモノを買う人間になる。あるいは航空会社の狙いはそこのところにあったのかもしれない。

 引きずり下ろされるのとどっちがマシなのかは、分からない。
 だが、もう一度ああいうことにならないように、できれば、抗議するに足るボキャブラリーを備えた人間になりたいものだと思っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

国内線ですが、何度応募しても振り替え便(とお小遣い)に当たりません。
でも、いつかは、と思っています。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

このコラムについて

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/041300090


 


 

 

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