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緩む財政 元大蔵幹部の悔恨録
赤字国債の大量発行が当たり前になってしまった日本の財政。敗戦直後のハイパーインフレの記憶は高度経済成長にかき消され、借金を膨らます失敗の歴史を繰り返してしまった。当時の大蔵省(現・財務省)幹部は何を考え、どう対応しようとしたのか。取材班は退官後に現役当時を振り返る内部資料「口述筆記」を情報公開請求で得た。大蔵幹部の「悔恨録」は未来への警句でもある。
退官後に現役当時を振り返る内部資料「口述筆記」
(飛田臨太郎、池田将)
渋沢敬三氏「考え方少し甘かった」 終戦後のハイパーインフレ
(終戦後の極度のインフレは)いつ、いかなる形で、いかなる速度で出てくるか、はっきりとつかんでいなかった。むしろ多少楽になるんじゃないかという考え方を持っていたと白状せざるをえない。あの頃の考え方は少し甘かった。
終戦時の日本の財政は最悪の状態だった。戦時国債の大半は金利を低く抑えるため日銀と大蔵省預金部が引き受けており、国の借金は国民所得比で250%を超えた。終戦とともに激しいインフレが襲い破綻状況に陥る。終戦後、蔵相を務めた渋沢敬三氏は警戒感が薄かったと自戒する。渋沢氏は預金封鎖、新円切り替え、財産税導入を打ち出すことになる。
財産税をとって、日本の財政をきれいにし、政府補償はある程度、はっきりしたものだけ払って、一度すっきりした形にしてみたいということだけが私の考え方だった。あの時代はほかのことはあまり考えられない時代だった。
財産税は不動産や現預金などを対象に国民に大規模課税する歴史上まれに見る大事件だった。預金封鎖と新円切り替えを先行させ、財産税の課税対象の資産を国が先に差し押さえたと言える。1000兆円の借金を抱える現代の財政状況は終戦前にも似る。当時の経験は、国の財政が行き詰まれば、結局、国民がツケを払わされるという現実を突きつけている。
しぶさわ・けいぞう(元蔵相)
在任期間 1945年10月〜46年5月
収録日 51年5月8日
谷村裕氏「試練というかテスト」 戦後初の赤字国債(1965年度)
日本の財政としては一つの試練というか、テストを受けたんだと思う。その後、経済が立ち直った後で、国債を減らしていったところまでは良かったが、一般経費が膨らみ過ぎちゃった。今から思うと全く考えもしない姿になってきた。
終戦後のデフォルトの教訓を踏まえ、1960年代前半まで日本は財政均衡主義を通した。だが東京五輪後の65年、いわゆる「昭和40年不況」で税収が落ち、一時的措置として戦後初の赤字国債発行に踏み切る。その後の数年、経済が立ち直り国債発行額は減っていったが、一度緩んだ財政規律は元にもどらない。65年を転機に歳出は増加の一途をたどり続ける。
財政がいったん膨らんだら、なかなか圧縮できないことは今日の政治の現実的な姿であり、この現実がある限り、補整的な財政政策というような器用なまねはできないことも戒心してかかる必要がある。
谷村裕氏は58年、自民党から赤字国債発行を迫られた際、こう予見していた反対派だった。だが、結局、65年に主計局長として赤字国債発行の中心的役割を果たすことになる。「一度限り」という政治・経済界の論調に谷村氏や財務省も押されていった。当時、財務省内で「麻薬」とも呼ばれた赤字国債。日本財政史の最初のテストの結果は、50余年を経た今日の財政の姿が物語っている。
たにむら・ひろし(元大蔵次官)
在任期間 1967年1月〜68年6月
収録日 80年10月6日
長岡実氏「それでだめならもう勘弁」 赤字国債の発行再開(75年度)
いつまでもこんなことを繰り返していけば、ますます慢性病患者になる。この際、起死回生の策として財政も大変無理するけれど、それでだめならもう勘弁してもらえると総理や政治家にも分かってもらえると、思い詰めた時期だった。
一度限りのはずだった赤字国債。だが石油危機などの景気低迷で1975年から発行を再開する。借金は当初の2兆円から5兆円、10兆円と膨らみ続けていった。79年から次官を務めた長岡実氏は当時の旧大蔵省の焦りを表現する。主計局長OBの福田赳夫首相が経済成長を取り戻すために打ち出したのは、さらなる借金増での大規模な財政出動だった。
各省の方で要求に困って、大蔵省の方から「もっとつけてやるから持ってこい」と言ったのは、あながち、うそではない。そこまでして景気を押し上げたかったというのが当時の事情だった。
「臨時異例の財政運営」と銘打った78年度予算は無理やり予算を増やした。公債依存度は実質37%に達する超大型予算となった。当時、主計局長だった長岡氏は幹部に向かってこう述べている。
予算の破綻は来るところまで来た。クレージーな状態。これだけのことを財政がやれば、企業も個人もその気になって安定成長の軌道が回復されるだろう。いわば、最後の賭けに挑むということだ。
ながおか・みのる(元大蔵次官)
在任期間 1979年7月〜80年6月
収録日 83年12月1日
斎藤次郎氏「米国、常に頭痛い問題」 バブル崩壊で大減税(94年度〜)
バブル不況の長期化で減税が当然のこととして語られる雰囲気だった。財政の悪化が進行するなかで、大規模減税だけを先行させて、将来の増税を何ら担保しないままで良いのかという思いは当時の私どもの共通の懸念だった。
バブル景気で一時的に税収が増え、1991年度には赤字国債発行を回避した。だが、3年後に再び「麻薬」に手を染めることになる。93〜95年に次官を務めたのは「10年に一度の大物」と評された斎藤次郎氏。就任当初は「赤字国債を再び出さないことが眼目」と強調していたが、バブル不況対策として5兆円を超える所得税の大減税を余儀なくされる。
クリントン大統領が登場し、対日要求が一段とエスカレートした。日本にとって対米協調はあらゆる意味で国是であり、日本の国益を考えつつ、どうやって米国の要請に応えるかがポイントだった。米国の政策スタンスは私どもにとって常に頭の痛い問題だった。
93年に誕生したクリントン政権は巨額の貿易赤字を抱えていた。米国製品をより多く買うよう求め、さらに日本国内の消費喚起のため大減税まで要求した。内外の圧力によって実施された所得税の大減税は、その後の日本の税収の調達力を著しく弱めた。危機感を強めた斎藤氏は消費税率7%相当の「国民福祉税構想」を進めるが頓挫する。
さいとう・じろう(元大蔵次官)
在任期間 1993年6月〜95年5月
収録日 2004年11月10日
田波耕治氏「ここまでやらないと…」尾原栄夫氏「悪夢のごとくよみがえる」 アジア通貨危機 不良債権深刻化(97年度)
田波耕治氏
1996年に誕生した橋本龍太郎政権は財政再建を掲げた。97年に消費税を5%に、さらに6年間で新規赤字国債をゼロにする健全化計画を掲げた。好転するかに見えた日本の財政再建。だが、再び“危機”が襲う。
本当の危機だったかどうなのか、あるいはここまでやらないと立ち直れなかったのかは正直言って良く分からない。
尾原栄夫氏
98年に次官に就任した田波耕治氏はこう振り返る。アジア通貨危機、山一証券の経営破綻――。バブル経済とその崩壊により不良債権問題が深刻になった。98年から3年間で10兆円超の経済対策が4度打ち出された。金融危機を防げなかった大蔵省にもはや発言力はなかった。借金は98年から3年間で100兆円増え、その後、数年ごとに100兆円規模で増え続ける構図が固まった。
(バブルの)後始末の最後は公的資金を含めて財政が全部受け持った。もはやバブル後ではないと言われているが、財政面での負担はこれから国民が背負う以外にない。それが終わらないとバブル崩壊の後始末は完全に終わらない。
田波次官当時の主税局長、尾原栄夫氏は述懐する。バブル崩壊・金融危機への責任と財政再建とのはざまで苦しむ財政当局者の思いがにじむ。
いつもどうすればよかったのかというのは、悪夢のごとくよみがえる時がある。
おはら・しげお(元主税局長)
在任期間 1998年1月〜2001年7月
収録日 06年9月22日
たなみ・こうじ(元大蔵次官)
在任期間 1998年1月〜99年7月
収録日 2008年2月14日
[日経新聞3月10日朝刊P.9]
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