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日本の学生が、海外並みに勉強する日はやってくるのでしょうか?(写真:IYO / PIXTA)
日本の大学教育が機能不全を起こす根本原因 単なる「卒業厳格化」だけでは何も解決しない
http://toyokeizai.net/articles/-/159139
2017年02月23日 雨宮 紫苑 :フリーライター 東洋経済
2人に1人が大学に進学する日本では、「大卒」はもはや決して珍しいステータスではない。しかし、就活や就職後に大卒者が優遇されることも現実だ。学問をするために進学するというよりも、「就職するためにとりあえず進学する」という学生も少なくない。大学も積極的に「就職塾」としての役割を担っていて、卒業生の就職先を「実績」として掲げている。
■卒業を厳しくするだけでは解決しない
高等教育機関であるはずの大学は、なぜここまで威厳がなくなってしまったのだろうか。さまざまな原因が考えられるが、いちばんの理由としては、「卒業が簡単である」ことが挙げられるだろう。事実、中央教育審議会による『学士課程教育の構築に向けて』という答申では、「学生を本気で学ばせるとともに、単位制度を実質化させることは、入難出易といわれてきた我が国の大学において大きな課題」とされている。
日本の大学では基本的に入学試験でふるい分けを行うので、入学後は勉強をそれなりにやっていれば、問題なく卒業ができる大学・学部が多いのが実情だ。しかし、それは大学が、中身のない空っぽの学位を学生に与えているにすぎない。だからこそ、学生にしっかりと勉強させ、大学が高等教育機関としての価値を取り戻すために、「卒業を難しくすべき」という主張は理解できる。
だが実際、「卒業を難しくする」とはどういうことなのだろう。筆者は立教大学のドイツ文学専攻を卒業した後、ドイツでも大学に入学し、日本とドイツの両方で学生を経験した。その経験を踏まえ、「卒業を難しくする」ことについて考えてみたいと思う。
卒業が難しいドイツでは、卒業を延ばしたり、中退する学生が多い。ドイツの統計局の発表によると、2014年に規定学期数(基本的には6学期)で卒業した学生は、46%となっている。また、ドイツ大学科学研究センター(DZHW)の統計では、2010年の学士の中退率は28%だった。つまり、最低在籍期間で卒業するのは2人に1人以下、中退者は4人に1人以上もいるのだ。
これに対して日本はどうだろう。文部科学省の統計では、2007年は78.1%の学生が規定学期数で卒業、2012年の中退率は2.65%となっている。大学に入学した8割弱の学生が、所定修業期間に卒業しているのだ。そう考えると、「卒業しやすい環境」であることは間違いない。逆にドイツは、「卒業しづらい環境」といえる。取得単位数を考えても、立教大学ドイツ文学専攻の場合、卒業要件は124単位だったが、入学したドイツの大学は180単位となっていた。それだけでも、卒業のハードルが高くなる。
■ドイツの学生生活はシビアなものだ
ドイツの大学での授業の様子も紹介しておこう。筆者が所属していた学部は、ひとつのモジュールに対し、講義とゼミナールがセットになっていた。たとえば「EUの政治の仕組み」というモジュールなら、月曜日の講義で「EU議会」について学び、水曜日のゼミで「EU議会の問題点」について話し合う。ゼミでは、学生がプレゼンテーションをして、それに対し議論する。
授業にある程度慣れたらバイトをしようと思っていたのだが、すぐにそれは甘い考えだったと気づいた。言葉の問題ももちろんあるが、とにかくやることが多いのだ。ゼミは週3回あったが、議論に参加するために、毎回大量の資料を読み込んでいかなくてはいけない。講義も、テスト前にまとめるには量が多すぎるので、つねにある程度理解している状態を維持しなくてはいけない。グループワークやプレゼン、学期内リポートなどで、頭はつねにパンク一歩手前の状態だった。
単位の取り方も、日本とは違う。日本では、講義とテストやリポートがセットになっているのが主流だ。だがドイツでは、履修登録とテストの登録は別で、テストを受けたい学期に別途申し込む必要がある。ドイツには、同じ必修の授業を3回落とすと学籍を失うという、厳しいルールがある。たとえば、経済学部の必修である「簿記」を3回落としたら、経済学部の学籍を失い、2度とドイツ国内で経済学部に入学することはできない。そのため、学生の多くは、テスト1カ月前からアルバイトやクラブ活動を休み、さながらセンター試験直前の受験生のような「勉強モード」に入る。
また、テストの多くは、記述式だ。知識の量を測るというよりは、理解度を測る問題が並んでいる。口頭試験もあり、「州と国の役割は、ドイツ基本法でどのように定められているか」というような質問に、その場で答えなくてはいけない。期末リポートは10〜15ページの分量が必要で、しっかりと出典を明記しなくてはいけない。出典のミスがあった場合、内容がよくとも落第する可能性が高い。
プレゼンや学期内リポートの点数が悪いと、テストを受けることすらできないこともある。ドイツでは、これらをすべてクリアして、初めて「大学卒業」の肩書を手に入れることができるのだ。だからこそ、「大卒」の肩書に価値がある。ドイツの大学といってもさまざまだが、私が経験したドイツの学生生活は、このようにシビアなものだった。
だがその分、勉強に集中できるような制度が整っている。授業料は1学期300ユーロ以下(約3万6000円)が多く、家賃が格安の寮が完備されていて、学生証で地域内のバスや電車は乗り放題、博物館や美術館などでも優遇され、国からの経済支援も充実している。だからこそ学生は、「学生だから勉強しています」と胸を張って、勉学にいそしむのだ。
残念ながら、日本には胸を張って「勉強している」と言える学生は多くはない。だからこそ、「学生に勉強をさせろ」というのは、当然の主張だ。実際、横浜国立大学は大学の成績(GPA)2.0以上、山口大学はTOEICの点数を卒業要件に定めるなど、卒業のハードルを上げている大学もある。
■成績や専攻を軽んじる日本社会
しかし、学生が勉強しないのは、単に怠惰だからではないのではないか。一部の理系学部や医学部を除き、成績や専攻を軽んじる社会では、大学で勉強する必要がないのだ。なぜなら、まだまだ就職時に大学名や大卒資格を重視する学歴主義が残り、大学教育の中身自体が信用されていないからである。偏差値が違う大学の成績を比較することはできないため、大学名を重視するのは、ある意味合理的かもしれない。また、有名大学に合格した学生を評価すること自体が間違い、というわけでもない。とはいえ、大学名で学位の価値が決まるのなら、学生が「なにも入学してから必死に勉強することはない」と思うのは仕方ないことだろう。
「学生が勉強しない」ことの根本的な問題は、「学生の勉学に対する姿勢」ではなく、大学名を重視する学歴主義や、大卒であるという事実だけを採用の指標にする考え方にある。事実、偏差値という概念が存在しないドイツでは、専攻した学問と、得た成績が重視されるため、学生たちは大学で必死に勉強しているのだ。求められているのは、「学生が勉強しないから卒業を難しくする」といった、その場しのぎの対処療法ではない。「大学で勉強した内容を評価する社会」への、評価基準の本質的な変革が必要とされているのだ。
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