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日本を襲うであろう「人口減少」という"難題"〜この病理への処方箋 首都圏から見た地方創生【後編】
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50890
2017.02.19 山下 祐介 首都大学東京准教授 社会学 現代ビジネス
前回記事
多くの日本人が知らない「人口減少」と「東京一極集中」本当の意味 首都圏から見た地方創生 前編(現代ビジネス)
http://www.asyura2.com/17/hasan119/msg/332.html
■地方移住、仕事づくり、働き方改革
前編では人口減少社会における、東京一極集中の意味を問うた。ここからは、現在の地方創生の施策の内容を検討してみよう。
いま各地で地方創生の総合戦略が策定されているが、大きくわけて次の三つが主流のようである。@地方移住、A仕事づくり、B働き方改革(ワークライフバランス)。これにC子育て支援やD地域間の連携づくりを加えれば、国が示す地方創生の全体像になろう。
いま政府が提示しているこれらの施策がはたして人口減少対策になるのか、まずは批判的に検討した上で、なおもそれを進めなければならないとしたら、人口減少対策としてどのような点に配慮する必要があるのかという形で、議論を展開していきたい。
■@地方移住
政府は年間10万人を東京から地方へと移す目標だという(東京圏への転入6万人減、東京圏からの転出4万人増の計算)。
こうした方向に沿って、全国各地で移住を進める政策がはじまっている。移住対策こそが地方創生だといわんばかりの雰囲気さえある。
しかし、ごく単純に考えれば、移住では人口は増えない。
もちろん、その地区町村のみを考えれば、人が移ってくれば人口増であり、かつそれが子育て世代の夫婦であれば、その地域の出生率もその数は伸びることになる。
しかしながら、それは別の地域のマイナスを生じているので、日本全体としても人口移動はかえって余計な仕事を増やし、マイナスにつながっていく可能性がある。定着できずに行ったり来たりが増えれば、その人自身も出生や子育てどころではあるまい。
地方移住が日本全体の人口増加につながるとすれば、それは次の条件を満たしたときである。すなわち、移住したことによって、産む子どもの数が一人でも多くなった場合である。
むろん、そうしたことを簡単に比較はできない。ただし、この点で少し付け加えれば、Uターンなどで家族や親族など人間関係の豊かな場所に戻る場合には、子どもの数が増える可能性はあるが、Iターンの場合、人間関係で孤立してしまえば、かえって子育て力を失うことがあるかもしれない。
都市部よりは農村部で、首都圏よりは地方で出生力は高いので、地方・農村への移住はそうしたことに期待して進められているのだろうが、人それぞれに実際の条件は違うはずで、農村への移動が孤立につながる人もいるだろう。
また移住は人生において大きな決断なので、その失敗はその人にとって大きな損失になる。実際に移住が行われたとして、それが定着につながるかどうかもわからず、それをただカウントして、移住が多い、少ないなどというのはナンセンスである。
もっとも、こうした議論は、若い子育て世代に限ってのことである。これに対し、子育てを終えた年代の人々の移動(とくに退職後の移動)は、全体として人口が増えるわけではないので、地方移住は人口減少問題とは本来関係がない。
ただし、子育て世代ではなくとも、地方への移住が進み人口が増えれば、その分その地域で消費する量は大きくなり、経済が回復するという論理で期待はできるということであろう。
つまりは人口を移住によって回復することで経済規模を取り戻し、そこで暮らす若い人々の経済力を安定化させるというわけだが、ここでもまた転出された方の経済規模の縮小を伴っているわけで、人口過集中地帯から、過疎地帯への移住でなければ肯定できないことになる。
移住で重要なことは、移った人の数や地域経済規模の回復ではない。人が移動することで、移った人も、受け入れた地域も、そしてさらにはその人を排出した地域も、ともに活き活きとした状態になることである。
そのためには、人口獲得ゲームに陥らず、各地で「一緒に地域を作る・守る」仲間を一人でも多く作り出していく努力をすることがなにより大切になる。
■A仕事づくり
むろん移住が起きれば、受け入れ側の経済力はいくらかでも回復することは想定できる。しかし、地域の経済力が大きくなれば、それだけ人口出生力が回復するのかどうか。このことについては検討の余地がある。
そもそも国際的に見て、低経済国は人口増に悩み、日本を含め高経済国で人口減少が進むことが予想されているのだから、経済力を伸ばせば人口回復につながるという説には理がない。むしろ経済の高度化は出生力を低下させる可能性さえある。
むろん、子育てしやすい仕事が増えれば、子どもの数は増えるだろうから、仕事づくりをすべて否定するべきでもない。問題はつまりは次のことになる。子育てしやすい仕事とは何か、それはどのようにすれば増やすことができるのか、である。
すでに述べたように、現状の経済状況では、新たな産業づくりは基本的には頭打ちで、そうした形で今回の人口減少問題を乗りこえようとすれば、この過当競争に打ち勝ったごく一部の地域しか生き残れないことになる。国家をあげての人口減少対策としてはそれではあまりに無策である。
もっとも、仕事は新たに作る必要はなく、むしろ地方には仕事は余っている。そしてその余っている仕事こそ、子育てにとって本来よい条件を備えたものである可能性がある。すなわち農林漁業や自営業(商業・工業・サービス業など)など、経営体と家族が一体となっている産業である。
また製造業も、会社職員が一地域に集まり、近住することが多いので、職域社会が充実し、これもまた家族内での様々な問題解決を促進する可能性がある。いまでもいわゆる企業城下町的な都市で、出生率が高めに出るのはそのためだと思われる。
団塊世代までは専業主婦型の家族で子育てをしていたので今よりも子どもが多かったかのように解されているが、むしろそれ以上に職域社会が充実していたことを強調すべきだろう(会社の寮や社宅、官舎などの暮らしはその典型)。
結婚もしばしば職域内で行われていて、それ故結婚退職の女性同士が強くつながり合い、子ども同士もまたつながりあう社会構成を実現していたから、第二次ベビーブームまでは、日本の子育て力は維持されていたというべきだろう。
つまりは経済領域と暮らしの領域が相互に重なりあうような仕事ならば、お互いの助け合いも発展するので、子育て力が回復する可能性がある。逆に、もっとも子育て力の弱い職業形態が、郊外からの大都市部への通勤をともなうサラリーマンであり、あるいはまた職域社会からはじかれた派遣や臨時による雇用者である。
職域と家庭の分離度が高い仕事、あるいは職域での人間関係の安定性に欠く仕事は、たとえ提供できたとしても、子育て力の回復どころか、むしろ出生力を弱めることにつながるだろう。
■B働き方改革、C子育て支援
だとすれば、「仕事づくり」よりも「働き方改革」の方が人口減少問題を解決するにはもっとも良い方策であり、また「仕事づくり」もその「働き方」しだいで、人口維持に寄与することもあれば、逆効果を及ぼすことにもなるということができる。
問題は、その分岐点はどこかということ、そしていま地方創生で語られている「働き方改革」は、はたして人口増に寄与するものなのかどうかということになる。
地方創生における政府の働き方改革の方向性は、いまのところ明瞭とはいえない。
しかしその後発表された「一億総活躍社会」の中身を見ると、稼ぐために老若男女が力をあわせる趣旨のものであり、経済浮揚策としての色彩が強いもののように見える。
働き方改革と少子化対策がつながり合う前線は女性の働き方だが、そこでもまずは日本の経済力を支えるために女性の参画を求めたうえで(そこにはむろん、男女平等という目標もある)、その仕事と家庭とのワークライフバランスを追求するという内容になっている。
しかしこれでは結局、人口よりも経済が優先となっていて、本来目指すべき人口減少対策としては一歩引いたものというべきだろう。
人口減少問題にしっかりと向き合うのなら、出産・子育て期間は女性には専念してもらいつつ、男性や子どもを産まない人に比べて社会の中で不利にならない制度を整えるべきだということになるはずである。
さらに言えば、家庭や地域での参画を重視して就業せずに子育てに専念する専業主婦(主夫)や、仕事と育児を両立させたい男性への配慮にも欠け、今の流れは家庭よりも仕事、暮らしよりも経済を優先する施策へと今後ますます展開していくものといえる。
だがこれ以上、家庭や地域から人を奪えば、人口減少阻止や地方創生どころではなくなる。
国民総動員で大人は都心に向かい、子どもは郊外に取り残され、その育児は行政がサービス供給して負担するが、そこでかかる費用はさらに国と家族が負担しなければならない。
そもそも行財政改革が「地方よ稼げ」の出発点であったのに、稼がせるためにさらに財政出動するというのでは大いなる矛盾というべきではないか。これはまた家族の側でも同じであり、例えば13万円の月収で月12万円の保育料を払っているという笑えない話が、現実に起きているのである。
つまりは経済中心でものを考えるのか、家族や地域、暮らしの側からものを考えるのかというところに分岐点はある。
働き方改革にしても、仕事づくりにしても、人口出生力を維持するためのものであったはずなのに、どこかでその目的を外れて、経済を維持するためというものにすり替わっている。
そして地方移住も同様に、人口という数勘定で人を見るのか、それともコミュニティの成員として人を迎え入れるのかに、政策の進め方としての大きな方向の相違があり、別れ目があるといえるだろう。
■D都市計画と農村計画
こうしたことを進めるためにも、都市のスリム化(コンパクトシティ)と、都心と郊外との再バランスへの誘導が求められる。この文脈から第4のテーマ、地域間の連携づくりについても簡単に補足しておこう。
小さな拠点、コンパクトシティなどの具体的な政策がすでにあがっているが、これらもまたその理念次第で方向は変わる。地域間連携を行政効率化・市場優先のために進めれば、過疎地から都市の一定の空間に人々を集住させる方策がこれらの具体像になる。
他方で暮らし重視、地域優先で考えるなら、既存の集落を維持するための各地の拠点作りと交通ネットワーク形成になり、またコンパクトシティも、広がった郊外とバイパス沿いの大型店舗の解消、そして何より都心への人口と事業者の回帰を進めることになる。
■競争=依存から抜け出る道はあるか――国民の課題
経済成長が今も求められている。人口減に入ってもなおも経済成長が必要だというその理由は、おそらく次のようになっている。
――人口減少社会に入った。今後その経済が人口とともに小さくなれば、財政力が縮減する。そうなればいままで提供できていたサービスが提供できなくなる。サービスを維持し、今の豊かさを維持するためには、人口は減っても経済力が低下しないようになる方策を考えねばならない。そして経済が小さくなれば、子どもを産む数も減り、ますます人口が減って負のスパイラルが進むだろう。まずはそのためにも新たな仕事づくりが実現されることが必要だ――と。
ところが、ここには大きな見落としがいくつも存在する。
まずは、人口がようやく減少に入ったのだから、その人口規模=財政規模にみあったかたちで、サービスや豊かさをスリム化すればよいという考え方がある(@)。
他方で、必要な財源が足りないのなら、増税すればよいという考え方もある(A)。
このうちAに関しては、増税すれば経済が必要以上に縮小するリスクがあると反論されるかもしれない。
だがまた逆に、増税で問題が解決すれば、社会の安定化につながり、経済力も回復するという方向で考えることも可能である。しかしまたそれには、すでにこの国の借金は膨大であり、小手先の成長や増税では決して補えないという反論もでるのかもしれない。
ともあれここに本当に現れているものは単純な経済至上主義ではなく、バブル崩壊以降、その出血を止めるために処方した際に生じた、この国が抱える巨大な借金を今後一体どうするのかという問題意識である。
その借金を返すためにも国力を維持しなければならないという形で、この間さらなる借金を重ねてきたのでもあり、この増え続ける借財に対して今後どうやって国家として対応していくのかという財政問題が、人口問題以前に大きく立ちふさがっているのである。
だからこそ、その一つの解がアベノミクスなのであった。
そしてバブル崩壊の原因を考えれば、つまりはこの国がグローバル経済戦争のなかに深く引きずり込まれてしまったという事情を十分に汲み取らなくてはならない。この経済戦争に勝たなければ、この国は持たない。そういう危機感が、この国の方向性を決定づけつつある。
この状態に対し、「この経済戦争をどこまで闘う必要があるのか」という形で議論することもできる。だがここでは戦い続けることを前提にして議論を進めてみよう。
というのもグローバル経済戦争を闘うにしても、戦いには二つの側面があり、一方で外向けに闘う局面があれば、他方で内向けに様々な諸問題を解決し、国内の統合を図る側面もあって(いわば銃後の戦い)、グローバル経済戦争だけが戦いではないからである。
人口問題は後者の戦いである。それどころか人口統計(statistics)は、国家(state)そのものでもあった。それゆえ人口問題が解決されない限り、経済力の維持ものぞめず、仕事づくりや稼ぐ力を国民に求めるばかりでは、ついには疲弊し国力そのものを喪失することになろう。
だが、まさにその経済的な対外戦争の総力戦のみを、政府はいま国民に求めているように見える。「一億総活躍社会」など、70年前の大政翼賛で使用したのと似た用語を使っているのはどういう意図なのだろうか。
しかしより重要なことには、経済力と人口力は背反関係にある可能性が高いのである。この点は、太平洋戦争時の日本と現在とでは、おそらく国民の側に大きな変化がおきている。
ここでこの国民の問題について、ここではさらに次のように、今起きている人口減少の原因を追求する形で議論しておきたい。
今起きている人口減少の正体は何か。それはおそらく、国民の国家に対する強い依存である。
経済成長を目標に掲げ、それを実現することで必要な財源を確保する。これが政府が今示している道だとすると、この道を進めば進むほど国民は家庭や地域から離れ、産業労働者としてのより強い奉仕を求められることになる。
だがこの奉仕を確保するために行政・市場サービスがより懇切丁寧に提供されれば、国民の国家への依存がより強固になり、ますます国民同士の支え合いや自立は失われていくだろう。その結果、国民の依存はさらに強まり、今よりもますます国民へのサービスは増え、財源がさらに必要となっていくに違いない。
だが、現実としてもはや経済成長の余地はほとんど残されておらず、人口が増えない中でこれ以上経済力を高めるためには、さらに暮らしを犠牲にしなければならない。
しかし暮らしを犠牲にすればさらに人口は減る。そして人口が減れば減るほど、暮らしの不安はつのって、ますます国家への依存は強くなる。たしかに経済成長できれば解決する問題もあるのかもしれないが、以前と違って努力しても結果が出ないので、ますます不安と不満が蓄積されていく。そして結婚できない、子どもを作らない要因を、国が悪いから、社会が悪いからに転化していくことになる。
――経済競争への邁進を国民にこれ以上呼びかけるのは、日本国民の日本国家への信頼や統合力を削ぐ可能性が非常に高いといわねばならないだろう。これはおそらく、愛国心を重視する安倍政権が目指しているものでさえないはずだ。
だが、なぜこれほどまで国民は、国家にすがろうとするのだろうか。ここまで行政・市場サービスが巨大化し、それに頼らなければ生きていけない状況に陥ったのはなぜなのか、そのプロセスが分析されねばならない。
半世紀前までは、ここまで国民の国家依存・市場依存は強くはなかったからである。ここには経済界の意向はあるが、それ以上に政治が関わっている。そして政治が世論や選挙を背景に動いている以上、この国家依存の形成は、国民の総合的な意志に関わっているはずである。
こうした依存を作り上げてきた要素として、とくに次の点を強調しておきたい。
まずは選挙である。とくにその国民の関わり方である。国民は選挙の際、政治家にマニフェストを求めるようになった。一見真っ当な手法だが、政府が「あれをしてくれる」「これをしてくれる」と国民に応えるのが政治だということになれば、これは強い国家依存につながることになる。
依存はまた、税と国民の関わりにおいても同様の心理を生み出している。
新自由主義は、国民にどこかで自分にとって得にならないなら税は払いたくないという傾向性を生んだ。税への抵抗は財源を縮小させるので政策はターゲット志向を強めて「弱い者を助ける」方向に向けられ、万人に恩恵が見えにくい政策を繰り広げてしまった。
税を支払っても自分にはその恩恵が戻ってこないので、ますます税を払いたくなくなるという悪循環を生んでいる。
他方で依存が強まると、例えば本来セーフティーネットである生活保護も、「権利なのだからよこせ」ということにもつながっていく。政府は国民に負担を求められないまま、広がるサービスの財源確保を求めることになっていく。
経済・財政・行政に頼り切った国民の暮らしの実態が、政治に「さらなる成長」という形でしか答を描けない状況へと追い込んでいる。そう議論することもできそうである。
だが「さらなる成長」を目指し、競争を煽れば煽るほど、国民の依存は高まり、成長が実現しなければ切り捨てられる危険も増えるので、国民の不安はますます増大する。
こういう国民に「さらなる成長」はもはや不可能である。錬金術でも行わねばならず、だからこそイノベーションやインバウンド、CCRC(Continuing Care Retirement Community)やDMO(Destination Management/Marketing Organization)など、まともな政策立案とは思えない「賭け」のようなメニューが地方創生でも平気で連発されたのだろう。
ではここから抜け出る道はあるのか。本来は国民が国家依存・市場依存から自立する必要がある。だが、もはや完全に自立できる人や地域はありえないので、ただ国民の自立をうながすだけでは、問題の解決には向かわないだろう。
念のため補足すれば、経済的自立は、国家や市場あっての自立なので、本当の意味での自立ではない。そして国家からの経済的自立を求めれば、それはタックスヘイブンを求めるような脱国家的な方向へと展開を促すことにもなる。だがこれこそが、国家を崩壊させる原因になろう。
結局、人口減少問題の根幹は、国民が自分の暮らしやこの国のあり方を考える際の価値の問題である。国民自身が何を目指したいのか、経済成長なのか、暮らしを守ることなのか、しっかりと考え選択しなければならないということである。
そして本来は暮らしを守る方に選択しなければならないはずが、国家や中央への依存を強め(これが東京一極集中の正体である)、それに対して国家は競争主義で国民に向き合おうとしたが、それが経済至上主義の陥穽に絡め取られて、国民自身がまわりの暮らしを否定してでも自分の暮らしだけを経済的自立で守ろうと画策していくこととなったと、そういう文脈でこの数十年を理解することは可能なようである。
そしてこうした「自分だけが救われたい」という思いの結果が、負のスパイラルをうんでいるのである。
その背後にはむろん@学歴主義が関わり(教育と文化の問題)、さらにはA職域社会の変化があり、またB自治体合併や公務員改革が関わっていて、2000年代以降の構造改革がすべて、縮小社会化への具体的要因となってしまった。
■首都圏と地方の相依存へ――両者が国家を作っている
経済と暮らしは本来、両立するものである。今後もそうあらねばならないのだが、それがどこかで狂ってしまった。その矛盾が人口減少にまでつながっている。それを修正しなければならない。
地方創生を進めることが、より良い社会転換につがなるかどうかの最大の鍵は、東京一極集中をいかに止められるかにかかっている。
だが、東京一極集中は経済の問題ではない。経済は結果であり、むしろこれは心や価値の問題である。東京一極集中はまた権力の過集中の問題である。
政府の見立て(「地方の仕事づくり」でこの問題は解消する)は間違っている。この一極構造はある時は(経済)成長をもたらす。しかし今はそれが経済成長を強く阻害している。だとすれば、東京一極集中、首都圏一極集中を止めること、この病理への処方箋はそうなるはずである。
そして東京一極集中は、基本的には価値の問題、権力の問題だから、地方は、東京をこれ以上良く見るのをやめること、そして過剰な依存を止めること。そして何より東京こそ、地方への依存をやめること、まずはその依存を認めること(人、モノ、カネの集中化)、そしてその収奪を弱めること、ということになるはずだ。
もっとも首都圏と地方はすでに一体だから、お互いの依存を解いては国家は成り立つことはできない。むしろお互いに依存しあっていること(共依存)を認め、これを自覚的な共生へと今一度戻していくことが、この国を守ることになるだろう(そして「戻していく」というのは、90年代まではそのようにこの国はできていたからである)。
お互いは違うものだが、双方があって国家が成り立っているということをよく知ること、理解することが必要である。地方と首都圏に関わる様々な情報を上手に調整し、共生認識へとつなげていけるような装置を、国家のどこかに取り付けることが望ましい。
むろんメディアがその役割を果たせれば良い。教育は本来はそのための重要な装置だが、財政による縛りがその主体性を拘束している。近年、メディアと教育への国家からの要請はますます強まっている。その解放が、地方分権とともに進められることが本来望ましい。
いま地方創生では、地方の側に変革が求められている。
だが、必要なのは、そうした一方的な変革ではなく、地方と中央の関係をめぐる哲学や思想全体の一新のようだ。地方と首都圏を両立させるようなあらたな道すじが確立され、その考え方が普遍化すれば、問題は自ずと解決する。
逆にそこを逸すれば、東京一極集中は止まらず、事態は収拾のつかない形で瓦解に至るだろう。そして政権が権力を一極に握っている以上、その覚悟次第でこの事態を突破することはできるはずなのである。
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