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戦後最大の経済事件「イトマン事件」とは何だったのか? 住銀はあらゆる手でカネをむしり取られた
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50867
2017.02.18 週刊現代 :現代ビジネス
地上げに観光開発、絵画売買――。闇社会の住人は、あらゆる手で住銀のカネをむしり取ろうとした。なぜ誰も止められなかったのか、そのすべてが明らかになる。
イトマン事件/大阪市にあった繊維商社・伊藤万をめぐって起きた特別背任事件。法外な価格での絵画取引やゴルフ場投資を持ちかけられ、多額の資金が闇社会に流出した。伊藤寿永光、許永中、河村社長は逮捕、有罪判決が下った
■「天皇の腹心」の暴走
楡 バブル経済を象徴する経済事件はたくさんありますが、'90年に発覚したイトマン事件が異彩を放っているのは登場人物のキャラクターが際立っているところです。
住友銀行会長で「天皇」と呼ばれた磯田一郎、イトマン社長の河村良彦、暴力団とも接点があったと言われていながらイトマン常務に招聘された伊藤寿永光、在日韓国人のフィクサー・許永中。さながら経済事件のオールスターキャストです。
大塚 確かに多額の借金を抱え最終的に所得隠しが発覚した末野興産や、蛇の目ミシンの株買い占めで罪に問われた光進など、企業が絡んだ事件はあったけど、それぞれ中心人物は1人。イトマンのように主要キャストが何人も登場する事件は珍しい。
國重 イトマンは住友銀行をメインバンクとする中堅商社でしたが、オイルショックなどで経営が低迷していました。
河村さんは'75年に住友銀行からイトマン再建を命じられて社長に就任しました。もともと伊藤忠や丸紅などの商社を担当していた河村さんは、高卒のノンキャリですが磯田さんの腹心とも呼ぶべき人物で、専門商社から総合商社への転換を託され躍起になっていた。
一方で住友銀行が平和相互銀行を吸収合併する裏で動いたり、銀行の不良債権を引き受けたりと汚れ役を買って出ていました。
その河村さん主導でイトマンは本業とは別の不動産業に手を出し、大金を突っ込むようになりました。大きかったのはイトマン本社を建てる名目で行った南青山の地上げで、合計で1000億円近いカネが動いていた。この地上げを進める際、山口組とつながりのある伊藤寿永光が住友銀行を通じて関与しています。
私は'88年ごろにそういった話を聞くようになり、「イトマンがおかしい。河村さんの暴走を止めないと、住友銀行が大変なことになる」と思った。そこで大塚さんに「イトマンのことを調べてほしい」とお願いして、取材を始めました。
■住銀内部の異常な実態
大塚 ただ当時は株も地価も上がり続けているバブル経済の絶頂期。「債務が急増している」くらいの記事を書いてもイトマンの経営は何も変わらないと感じていました。
國重 だけどその河村さんの暴走が、株価が下がり始めた'90年になっても止まらなかった。雅叙園観光への資本参加をきっかけに伊藤寿永光との関係を深め、彼の協和綜合開発研究所と提携を結びました。
さらに彼にイトマンの不動産事業を任せるようになります。雅叙園観光の債権者許永中がイトマンに絡んでくるのも'90年ごろで、関与する企業から500億円規模で絵画を購入するようになった。
また、許永中はほかにも自身が経営するゴルフ場への投資話を持ちかけるなど、あらゆる方法でイトマンから資金を引っ張り出そうとしてきました。
楡 '90年2月には伊藤寿永光がイトマンに入社、6月に常務に就任しました。不思議なのは住友銀行にいるイトマン担当の行員です。彼らはイトマンの異変に気付いていなかったんですか。
大塚 何も知らなかった。正確に言うと、「天皇」磯田一郎の存在があったから、きちんとチェックできなかったんです。
関西系の住友銀行は関東での地盤を固めるため平和相互銀行を吸収したかった。その実現に動いたのが河村社長。小宮山一族が持っていた平和相互銀行の株式の約34%を川崎定徳の佐藤茂社長が買い取った際、その資金をイトマングループが融資した。
以来、磯田さんはさらに河村さんを重用するようになった。だから、いかに住友の担当者といえども、イトマンの経営にうっかり口を出すことはできなかったんです。
國重 恐ろしいことに、他の取引銀行もイトマンの経営実態は見ていなかった。彼らは住友銀行だけを見ていて、「住友がイトマンに金を貸すんだったら俺たちも貸す」という構図だった。ところが肝心の住友銀行がちゃんと見ていなかった。
楡 いくら当時の銀行がめちゃくちゃだとはいえ、にわかには信じがたい話です。私はイトマン事件を下敷きに河村さんをモデルにした小説『修羅の宴』を書いた際、取材を通じて「気の毒な人だな」という印象を持ちました。
住銀では常務にまでなったけれど、所詮はノンキャリ。イトマンに転出させられ、そこでは不良債権を押し付けられる。
大塚 転出直後から気の毒なことが多かったように思います。磯田さんから1000億円以上の負債を抱えている杉山商事を押し付けられたりしていました。
楡 イトマンは河村さんにとって自分の城だった。この城だけは絶対に明け渡さない。そのためにはどんな手を使っても稼がないといけない。そういう強迫観念に駆られて突っ走ってしまったんじゃないでしょうか。
國重 「繊維商社から総合商社へ」と息巻いていた河村さんでしたが、'80年代後半に石油の業者間転売に失敗して大損してからは「これからは不動産しかない」と思ったのかもしれません。彼なりに真剣に考えた結果とは思いますが。
そんな河村さんを止められるのは磯田さんしかいなかった。その磯田さんを動かすために、私は内部告発文書を大蔵省の土田正顕銀行局長宛てに極秘裏に出し、同時に大塚さんと記事化の準備を進めたんです。
■世相もデタラメだった
大塚 株価が下がったのもあり、「そろそろ(記事として)いけるだろう」という話がこの頃から、私と國重さんのあいだで出ていました。磯田さんへの取材はすでに進めていましたが、'90年2月ごろからはイトマン問題について質問をぶつけるようになりました。
この年の3月に取材した時点で磯田さんは、河村社長が伊藤寿永光とその背後にいる暴力団関係者に食いつかれることを懸念していた。「1000億円くらいやれば奴らもイトマンと縁を切るだろう」と言っていたのが印象的でした。
國重 大塚さんが書いたイトマンの記事が最初に日経に掲載されたのは5月24日の朝刊でしたね。イトマンの決算発表の当日で「伊藤万、土地・債務圧縮急ぐ 住銀、融資規制受け協力」という見出しがついていた。
大塚 もちろんイトマンの河村社長は、住銀内に情報を漏らしている人間がいると大激怒。住銀との対立姿勢を深めていくことになった。
楡 イトマンとその周辺の異常な経営を表に出していく作業をしながら、お二人はどういう精神状態だったんですか。
國重 私のほうは次第に「磯田さんに一刻も早く身を引いてもらうしかない」という気持ちになっていました。というのも、当初は「俺が決着をつける」と言っていた磯田さんのイトマンに対するトーンがだんだん変わってきたんです。
楡 磯田さんの娘さんがイトマンの絵画取引疑惑に関わっていることが明らかになってきたからでしょうか。
國重 それも関係あるでしょう。もし磯田さんがイトマンの件に決着をつけられないのなら、辞めてもらうしかない。その気持ちで、私はより情報収集に精を出し、告発文書を銀行局長やマスコミに送り続けました。
大塚 磯田さんが重用していた河村社長ですが、伊藤寿永光が入り込んでからは歯止めをかけられなくなってしまっていた。磯田さんは夏ごろからどんどんやつれていきました。最後には破滅しか待っていないということを悟っていたんでしょう。
私のほうはといえば、特ダネをモノにしている高揚感はありませんでした。でも9月16日3面に載せた「伊藤万グループ 不動産業などへの貸付金1兆円を超す 住銀、資産内容の調査急ぐ」という記事は社会的な反響が大きかった。
「イトマンについて調査・報告せよ」と命じられた住友銀行が日銀に提出した資料に基づいて書いた内容だったからです。
國重 3面でも十分効果はあったのですが、もし日経の1面トップに「イトマンが経営危機」なんて書いていたら、日本経済全体が大パニックになったでしょう。
楡 私は正直、イトマンのデタラメな経営が明らかになった時、あまり驚きませんでした。というのも、日本の世相そのものがデタラメだったから。
私は当時アメリカ資本の会社にいて事業の用地の確保に奔走しましたが、どこも地価は常軌を逸していた。コンプライアンスなんてものもなくて、地上げ屋が上げてきた土地をなんでも買ってしまえばいいという風潮がありました。
國重 私は許永中に直接会ったわけではありませんが、たしかに当時は、銀行員でもフィクサーやヤクザと関係を持つことが当たり前のようにありました。
大塚 イトマン事件で流れたカネは、最終的に伊藤寿永光、許永中、そして暴力団に流れこんだと言われていますが、結局それがいくらくらいなのかはわからない。様々な会社が介在していて、そのあいだでカネが闇に消えていったからです。ただ、イトマンの負債だけが残ったという形になっている。
國重 9月16日の記事が出てから、住銀以外の銀行はイトマンから急速に資金を引き揚げました。そこからの進展は早かった。10月には磯田さんが、表向きは別の事件の責任を取る形だけれど、会長を辞任。11月には伊藤寿永光がイトマン常務を辞任しました。
私のほうは、イトマンに会社更生法を適用すべく走り回り、翌日には裁判所で手続きを始められるところまで漕ぎつけたんですが、最後の最後で巽外夫頭取が翻意して実現できなかった。
楡 國重さんは著書で「会社更生法を申し立てていたとしたら。その後の日本の金融史は大きく変わり、改革が早まって、『失われた10年』もなかったのではなかろうか」と書いていますね。
國重 ええ。日本長期信用銀行は潰れなかったかもしれない。
大塚 私はそうは思わないな。株価と地価が下げ止まらない限り、金融機関全体の損失は変わらないから。
楡 極端に振れるのが日本人の特性だから、痛い目に遭うとみんな意気消沈しちゃう。もっとベンチャー企業とかの有望性を銀行が見定めるべきなのに、リスクを取りたくないから担保とかそういうところばかりに目を向けています。
大塚 イトマンを含めたバブルとその崩壊によるしっぺ返しに懲りてしまったのが現状ですね。
國重 銀行は貸し出しに慎重になっています。日銀の黒田東彦総裁が超金融緩和で金を流そうとしているけど、担保のないところには銀行は絶対に貸さなくなった。
大塚 日銀は簡単に言えば軽いバブルを作ろうとしているんだけど、まったくそういう状況にならない。バブルではある意味で小規模なイトマン事件が起こるのが必然なんだけど、そんな兆しもありません。
バブル崩壊から四半世紀が過ぎても銀行はまだ首をすくめている。銀行からどんどん金が流れるようになるのは、イトマン事件の記憶のない世代が中心になるまで待たないといけないんじゃないでしょうか。
國重惇史(くにしげ・あつし)
45年生まれ。東大卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)に入行。イトマン事件の真相を綴った著書『住友銀行秘史』(講談社)はベストセラーに
大塚将司(おおつか・しょうじ)
50年生まれ。早大院修了後日経新聞に入社。エース記者としてイトマン事件など数々のスクープを掲載。退社後は作家・評論家として活動
楡周平(にれ・しゅうへい)
57年生まれ。慶大院修了後米国系企業に就職、退社後作家活動に専念。著書にイトマン事件をもとにした小説『修羅の宴』(講談社)など多数
「週刊現代」2017年2月4日号より
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