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目青不動に隠された近代日本発展の秘密 明治維新と廃仏毀釈によって中央政府の徴税機関から一転して迫害の対象となった仏教寺院
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投稿者 軽毛 日時 2017 年 2 月 08 日 19:10:17: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 

目青不動に隠された近代日本発展の秘密

目黒、目白、目赤、そして目黄、目青から見た東京史
2017.2.8(水) 伊東 乾
死後も納税? 仏当局、墓の下の死者に資産税請求
仏パリのペール・ラシェーズ墓地にある石の十字架〔AFPBB News〕
江戸=東京の「五色不動」を訪ねる小さな旅。トランプ政権の陥穴などを記す方がビューは立つと思いますが、かまびすしい世間の雑音の中で、底流を流れる静かな基調音に耳を澄ませるのも大事なことと思います。

前回も記したとおり、天保あたりの川柳に、

五色にはふたいろ足らぬ不動かな

と歌われたように、本来の「目の字のつく江戸のお不動さま」は目黒と目白、それに家光将軍がお鷹狩りの折に立ち寄った、現在は不忍通り、動坂あたりの「伊賀・赤目不動」を「目赤不動」と改めた駒込南谷寺の3つが知られていました。

家光将軍が定めたとあることから露骨なように、江戸時代までの寺社は幕府の支配化にネットワーク化されていました。

と言うか、もっと露骨に言うなら、幕府の徴税機関そのものだった。

お寺が徴税と言うと、はてなという顔をされることがありますが、寺院は誕生と死亡を管理する「過去帳」つまり、人頭税を挑発する基本台帳「人別帳」を調えた機関として、全国的に組織され、「寺社奉行」がこれを統括していました。

こうした宗教組織を軸に全国の戸籍を整える方法は遠く欧州からもたらされました。

1517年、ドイツのヴィッテンベルクで火を噴いた宗教改革によってアルプス以北の多くの欧州植民地を失ったローマ・カトリック〜ラテン圏が「対抗宗教改革」として東アジアや中南米など、世界に宣教師を遣わした。

その経路を通じて日本にももたらされ、織田信長がこれを基本的に認めて織豊政権で日本国内にも適用されます。そして、「太閤検地」で全国あまねく浸透したものを徳川幕府が永続化したと言って外れはないでしょう。

1590年、小田原攻めに勝利した秀吉は「太閤」を名乗るようになりますが、それよりはるか以前、山崎に明智光秀を討って主君信長のかたきを取ったと公称し始めた直後から、山崎近辺の寺社地から台帳を集めるなど「検地」を本格化させています。

秀吉は何より下から這い上がった人ですから、小さいときからちやほやされて育った殿様2世とは発想も実行力も全く違います。

「家制度」前提のビジネスモデル

今の言葉で「戸籍」と「検地」と言えば距離を感じるかもしれません。が、戦国末期の天正時代に「核家族」などの概念は存在せず、どのような境涯の人でも当時の日本人は1人では生きていけなかった。

共同体があり、それに属することで食べていくことができる仕組み、つまり「封建体制」の中でのみ、生存することができた。

基本的な縁を絶つこと、つまり「村八分」などの「シカト」は、今風に考えるなら、いわば北朝鮮の経済封鎖と似たようなもので、貨幣経済はおろか物々交換からも締め出され、まともな暮らしが不可能であることを意味していました。

つまり「家」が基本だった。それを「戸」と呼ぶわけですね。戸籍というのは、一定有力な百姓家を基本に、その田畑を耕す作男など、一族郎党全部を含めての「戸籍」で、その氏長者が今日でも「戸籍筆頭」と目される。

これと、西欧風の「family register」が基本的に異なるのは、同じ徴税台帳でも、キリスト教では生誕や死亡の単位があくまで個人であるということです。

その個人が「最後の審判」の日、土の中から蘇って、何の誰べえ、という個人の人格を保ったまま審判の場に再び立つ、という一神教の直線的な死生観を基に「徴税」されているので、単位が個人なんですね。

誰と誰から生まれた第何子の誰それである、としてfamily registerに記載され、いわば「マイナンバー」に即して税金を取り立てた。

しかし、室町期の日本にそういう観念もなければ、そこまで細かな戸籍のシステムも存在しなかった。

「大化の改新」で日本に導入された戸籍「庚午年籍」(670年)は租庸調などの税の取立て「傭兵」といった言葉から想起されるように庸は元来、防人その他の労役、軍務の血税でした。

しかし、実際に人間が動くのは困難で、その分の人件費を別の形、例えば布で納めるなどして、個人単位の税という性格を失っていきます。

豪族単位、のちには荘園単位の生産が発展するなか、中央政府はあくまで「国」単位の石高しか把握しておらず、中央から降ってくる「守護」と、ローカルな有力者「地頭」の二重支配が続くわけですが、国の徴税はあくまで「大和国何万石」「周防国何万石」といったザル勘定でしかなかった。

太閤検地は、地頭や豪族どころか、半農の足軽から身を起こし地方のシステムを肌で知っていた秀吉が、全国の本当の「カレント」財貨の流れを再把握した大きな仕事です。

慶長3=1598年に秀吉が没した後、実権を握った家康も1604年に「郷」単位の生産高管理システムを導入、そこから幕府の支配を磐石なものにしていきます。

やや江戸時代の課税システムに深入りしましたが、ポイントは、お寺というのは明治維新までは税務署であったということです。

明治になって実施された「廃仏毀釈」は、別段仏教を排斥したかったわけではなく、旧幕時代の税の取立てシステムを完膚なきまでに破壊し、新政府の取りそこねがないように破却した、というポイントを見逃さないように、というのが話の筋の中心でした。

幕府時代の租税は「米」を基本とし、天下の米は大阪へ、また税の情報は大阪と淀川でつながった伏見奉行所に集中管理、家康がいかに秀吉の作った器の上に乗っかっていたかがよく分かる事実と思います。

秀吉が作った伏見城は廃城とされ、一部は二条城に移され、伏見奉行は京阪の二都を結ぶ河川と、そこで運送される物品、端的には米など税の対象物を管理することで、徳川封建体制下の一大徴税管理センターに変貌していきました。

だから、明治維新は「鳥羽・伏見」で戦われなければならなかった。封建遺制の金脈を押さえ、それを絶つこと。それなくして国家の近代化などはあり得ず、伏見奉行所は徹底して破壊され、奉行所が管理していた荒地の旧伏見城址はさらに荒廃するわけです。

その再利用は結局、維新から30余年を経て、明治天皇がそろそろ高齢化してきたというタイミングで、荒地となっていた伏見城址を巨大な墓稜に見立て直したわけですね。

いまさら言うまでもないでしょうが、現在の「伏見桃山御陵」にほかなりません。

ともあれ、そうしたリアルな「宗教税務署」としての役割を日本のお寺が終えた1867〜68年というのは、いわばローマ・カトリックの徴税支配をルターの宗教改革が脱した1517年に350年遅れた、同じ位相での出来事と言えるかもしれません。

勝手に現れた五色不動

明治維新と廃仏毀釈によって、中央政府の徴税機関から、一転して迫害の対象となった仏教寺院ですが、西南戦争も収まり、日本が本格的な近代国家として再生し始める頃には、先祖代々のお墓などもありますし、自ずと古来信仰の命脈を復活させていきます。

まあ、いわば「葬式仏教」の始まりとも言えるのですが・・・。

さて、そんな中で、かつてであれば将軍家光が命名しなければ名乗れなかった「江戸の三不動」ならぬ「東京の五色不動」を自称するお寺が登場し始めるわけです。

元来は目黒、目白、そして目赤と続いて250年ほどが経過し、「五色にはふたいろ足らぬ」という陰陽五行説に従って赤、黒、白のほかに「黄色」と「青」が加えられるわけです。

しかし目が黒かったり白かったり、赤く充血したりするのは普通としても「目が黄色い」なんてことがあったら、黄疸の疑いで肝臓の検査をした方がよさそうだし、「青い目」をしていれば米国生まれのセルロイド人形を考えた方が適切でしょう。

実際、世は明治となり、「ざんぎりあたまをたたいてみれば文明開化の音がする」ので、青い目のお不動さんあたりは、時勢に合っていたのかもしれません。

調べてみると「目黄不動」としては墨田区東駒形の最勝寺や台東区三ノ輪の永久寺、また「目青不動」は昔は赤坂三分坂にあった(またしても)最勝寺が、明治15年前後から「五色不動」を名乗り始めているらしいことが分かります。

様々な理由で、現在は上記2つの最勝寺は全く別の場所に移されています。現在で言えば墨田区にあった最勝寺は「駒形橋」の架橋工事に伴って大正2年、南葛飾郡(現在は江戸川区)平井に移転、港区赤坂の最勝寺は明治42〜44年にかけて、現在の世田谷区太子堂に移転します。

各々その地で「目青」「目黄」のお不動様と呼ばれているようですが、これでは本来の由来のわけが分かりません。

しかし、少なくとも「目青不動」については、非常に分かりやすい経緯が見え隠れしています。

元は赤坂三分坂にあったものが、江戸初期の1604年に青山百人町(青山南町)に移転、このお寺の境内に明治8(1875)年、100坪の土地で寺子屋ならぬ幼童学校が設立され、これは現在の港区立青南小学校にそのまま続いているそうです。

青南小学校は1906年の開校、公立の名門として知られ越境入学も多く、俳人の中村草田男、作家・精神科医の斉藤茂太・北杜夫兄弟、俳優仲代達矢、アーチストでジョン・レノン未亡人であるヨーコ・オノなど、多彩なOBOGを輩出しています。

実は私が通った幼稚園は現在「骨董どおり」と呼ばれるすぐ横の道から入った場所にあり、同級生でも優秀な子は青南小学校に進んでいきました。

最勝寺に話を戻すと、続く明治15年頃、「麻布谷町」現在のアークヒルズ、サントリーホールのあるあたりですが(東京で自動車を運転される方は飯倉方向と六本木方向に分かれる「谷町ジャンクション」をご存知でしょう)にあった「観行寺」が廃寺となり、そこにあった不動明王像が最勝寺に移されたらしい。

最勝寺は明治末年、最終的に世田谷区に移ります。正確な跡地までは確認できていませんが、青南小学校のあたりは区画が整理されて現在は青山墓地となっている。

この立地は実に分かりやすい。赤坂御所、神宮外苑に青山通りを挟んで相対する場所に、明治の元勲から日清日露の両戦争で命を落とした人々のお墓を集め、近代日本建設者たちの廟堂に改めたわけですね。

外苑通りを挟んで東側には乃木坂=乃木神社もあります。言うまでもなく明治天皇に準じた人物ですが、乃木希典その人のお墓は実は青山墓地にあります。ほかにも軍人や政治家が多数眠っており、

黒田清隆、副島種臣、後藤新平、西周、三島通庸、松方正義、小村寿太郎、森有礼、山本権兵衛、緒方竹虎、井上準之助、加藤友三郎、小磯国昭・・・と首相や重要閣僚を歴任した人物のオンパレード状態です。

さらには大久保利通、犬養毅、井上準之助など非業の死を遂げた人々、A級戦犯として極東軍事法廷で裁かれていたさなかに命を落とした松岡洋右といった人々も埋葬されています。

目青不動というのは、「青山に移った麻布谷町、溜池のお不動さん」の新しいニックネームだったと考えて、まず間違いないと思います。

それが国家の方針で、皇居に隣接する近代日本の墓地として整えられ、その過程で「目青不動」も山手線の外、現在は環状7号線の近くにあたる世田谷区太子堂に移転させられていた・・・どうやらそんな具合らしい。

実のところ、青山墓地を歩いてみると、鳥居のついたお墓がたくさんあるのに驚かされます。そこで、埋葬者の名をよく見てみると、明治の元勲だったりすることが多い。

なんでそんなことを知っているかというと、別段水木しげるさんのように墓歩きが趣味だからではなく、私の両親が入っている教会墓地も青山霊園の一隅にあるので、この45年ほど、小学校1年次に父が亡くなって以来、日常的に「目青不動」跡地に、それと知らずして足を踏み入れていたからにほかなりません。

でも、正直言って、立派なお墓は手入れも行き届いており、あまり興味ありません。実は花屋から父の墓に行く途中の、ほとんど手を入れた形跡のない古いお墓に花を一輪供えるのを、この25年来の習慣としています。

家族の墓碑数基とともに、ほとんど忘れ去られているそのお墓の主は兆民先生と呼ばれた中江篤介氏、ルソーの社会契約論を「民約論」として翻訳紹介し、「三酔人経綸問答」で完全民主制や非戦論を展開した人のお墓は質素で、鳥居も何もありません。そういうお墓にこそ、小さな花ですが手向けたいと思う。

目青不動の跡地には、様々な近代日本の原点が眠っていたのでした。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49112  

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