原子力発電は本当に危険か? 非常事態を日常の視点で考えてはいけない 2018年3月14日 2011年3月11日午後2時46分18秒――東日本大震災が発生してから7年が過ぎた。この大災害は国土にも社会にも私達の心も、大きく傷つけた。その影響は今なお新たであり、今後も長期間に渡って続くだろう。 「あの瞬間」から、といえば格好をつけすぎだけれど、私はこの7年間、ある疑問について考え続けている。ひょっとするとそれは答えの出ない質問なのかも知れないが、それでも考えないわけにはいかず、調べ、考え、立ち止まり、また調べ、を繰り返している。 疑問とは、私達は、見るべきものを全然見ていないのではないかということだ。 巨大災害に直面すれば、誰しも何らかの意見を持ち、時に行動するであろう。が、その行動が正しいかどうかは、まず事態を正しく認識しているかにかかっている。なにかを見落としたり、見ていても解釈を誤ると、認識は狂い、行動は空回りする。 「自分は、社会は、日本は、なにかを見落として、この7年間空回りしているのではないか」――と、私は考え続けている。 原発事故で露呈した、見ているようで見ていない私たち 分かりやすい例から説明しよう。 震災により東京電力福島第一原子力発電所の事故が発生し、放射性物質が原子炉から放出され、風に乗って拡散する事態となった。 当時、ネットで頻繁に見られたのが「生き物がおかしくなっている」という投稿だった。 椿の葉っぱの形がおかしい、苺の形がおかしい、蟻の群れがぐるぐる一カ所で渦を巻く不審な挙動をしている――みな、放射線の影響を疑い、不安になっていた。はなはだしい例では、「水たまりに黄色い粉が浮いている。原子炉から出たウラン(イエローケーキ)じゃないか」というのもあった。 が、もちろん、それらはすべて以前から普通にあったものだ。 椿の葉の奇形は、ありふれたもので、その形から金魚葉椿という名前までついていた。店頭に並ぶ形の揃った苺は、農家の高い栽培技術の賜物であって、形が不揃いなのが当たり前。主に加工用に使われるので、そのまま売られることはあまりないだけのことだった。 蟻の行進が渦を巻くのは、通称「死の渦」などと呼ばれる現象だった。蟻は脚から分泌するホルモンで、次に続く蟻に道を教える。ホルモンの足跡が運悪く円を描いてしまうと、蟻はその場でくるくると渦を巻いて回り始め、結果ホルモンの足跡がますます強化されて渦から出られなくなってしまう。 水たまりに浮く黄色い粉は、主に松などの植物の花粉だった。花粉の飛ぶ季節になれば、原発事故が起きるはるか以前から、当たり前にあった現象だった。 つまり、「放射能の影響かも知れない」と騒いだ人達は、毎年、日常の中で見ているものを、意識していなかったのである。見ているものが見えていなかったのだ。それが、「放射能が」という疑念で周囲を見回したところで初めて気がついたので、騒いでしまったのだった。 これらの事実は、私達が、日頃当たり前に見ている風景を、実際にはいかに「見ていないか」を示している。意識して観察しないと、自然の実相は頭に入ってこない。
これは「日常的な人間の感覚」は、事実を見据えるにあたって非常に当てにならないことを意味している。「だって普通に考えてこうでしょ」というのは、間違いに落ち込む近道だ。 だから科学は、人間の感覚に惑わされないようにしつつ、自然のありようを理解する方法を発達させた。 「核廃棄物は無害になるまで10万年」の意味 原発事故が起き、ご多分に漏れず私も原発というものについて調べ始めた。その一部は当時書き続けていた「人と技術と情報の界面を探る」という連載の中に、「原子力発電を考える」という名称で書いたのだが、執筆中から引っかかっていた疑問があった。 それは「本当に原子力発電は危険なのか」ということだ。 「なにをいうか、あれほどの事故を起こしたものが危険でないはずがない」というのが大方の反応だろう。 だが、正確には「原子力発電は危険」なのではなく「原子力には原子力特有の危険性がある」ということだ。そして、原子力工学が決して危険に対して無策でいたわけではないということも見えてくる。 例えば、「発電の結果発生する核廃棄物は10万年間、環境中に漏れ出さないように保管する必要がある」という事実がある。 「10万年も! なんという危険性だ」と思う方がほとんどだろう。が、10万年という時間にどのような意味があるかをきちんと理解している人は少ないようだ。 10万年というのは核廃棄物に含まれる放射性同位体の出す放射線が、稼働前の核燃料と同じレベルになるまでの時間だ。核分裂反応でエネルギーを取り出すと、後には様々な種類の放射性同位体を含む使用済み核燃料が残る。最初の核燃料1トンが出す放射線と、使用済み核燃料1トンの出す放射線が等しくなるのに10万年かかるということである。 「元に戻るのにそれほどの時間がかかるとは!」と驚くところだ。が、具体的な減り方を見ていくと、想像していたのと様子が少し違うことがわかる。 「10万年かかる」というと、10万年の間、ずっと非常に危険な状態が続くように思うが、そうではない。 このグラフはベクレル単位で測定する放射性同位体の量が、時間と共にどう減っていくかを示したものだ。様々な元素の放射性同位体にはそれぞれ固有の半減期がある。半減期の時間が過ぎると半分に減る。2回半減期が過ぎると1/4になるし、3回過ぎれば1/8だ。半減期の短い同位体は、大量の放射線を出して急速に消えていくし、長い同位体はだらだらと少量の放射線を出しつつ、ゆっくりと減っていく。 グラフ(縦軸も横軸も対数であることに注意してほしい)を見ると、発電前の核燃料1トンは1000GBqの放射性同位体を含んでいる。それが、使用後は一気に100億GBqまで増える。実に1000万倍だ。比較を容易にするために指数表記で書くと、1000GBqは10^12Bqで、100億GBqは10^19Bqである。 もっとも危険な期間は最初の10年程度 しかし一気に放射線を出す同位体は短寿命なので、急速に消えていく。このため、放射性同位体の量も急減する。最初の10年でだいたい1/500程度まで減る。そして50年程度で1/1000になり、100年で1/5000ぐらいにまで減る。1000年ともなると1/10万ぐらいになる。 このあたりで強力な短寿命の同位体が消えてしまい、後には長寿命の弱い同位体が残るので減り方はゆっくりになる。それでも元の核燃料の2倍程度まで減るのは1万年後。使用直後に1000万倍もあったことを考えると、もとの核燃料の2倍というのは大した放射線を出すわけではない。10万年のうち9万年はそんな状態で、だらだら、ゆっくりと放射線が弱くなっていくのである。 10万年保管が必要ということは、10万年ずっと同じように危険ということを意味しない。本当の本当に危険なのは最初の10年程度なのだ。 このグラフを理解すると、地層処分の印象も変わってくる。「危険なものを埋めて知らんぷりするのか」「本当に漏れてこないのか」などと考えがちだが、100年もすれば埋めても問題ない程度に放射線が減衰している、ということなのである。(中略) 科学的に、定量的に、考え続けることの大事さ このように考えて、私は震災から7年後の今も、ぐるぐると思考を巡らし、迷っている。何かを見落としていないか。日常的な感覚を信用して、自然の有り様を間違って理解していないか。ちょっと目には分かりやすい言説にのって、かえって社会を退歩させ、破壊する思潮や運動に加担していないか。 「そういうお前は、原子力をどう考えているのか」という問いならば、今のところ私は、今後100年程度は日本社会にとって原子力発電は必要ではないかと考えている。 これには色々な理由がある。エネルギー安全保障的観点もあるし、今後の廃炉に必要な原子力技術者を定常的に育成するという観点もある。 100年というのは、おそらくその間の技術開発で原子力発電以上に利便性が高く危険性の小さい発電手法が実用化する、と考えているからだ。太陽光発電は候補の一つだし、100年もあれば核融合発電も可能になるだろう。それまでは、原子力には他に代替できない利便性があり、「10万年の危険性」に注意しつつ使うしかなかろうと見ている。 が、もちろん私が絶対正しいという保証なんかない。 あなたが「原発の存続に反対だ」というならば、その考えを私は尊重する。(後略) http://2013tora.jp/kabu405.html 2018年4月6日 【上島嘉郎】「非現実的な理想主義」がもたらす混乱 財務省の森友文書改竄問題を追及し続ける朝日新聞。その陰に隠れて目立ちませんが、長年の主張である「反原発」にも一層力を注いでいます。 「反原発」「脱原発」といった主張を展開すること、そうした願望や希望を表明するのは自由ですが、中身をみれば、政策論として提示するにはあまりに現実から乖離しています。 昨年12月、広島市の住民らが四国電力伊方原子力発電所三号機の運転差し止めを求めた仮処分の即時抗告審で、広島高裁の野々上友之裁判長は運転停止を命じる決定を下しました。 その理由として野々上裁判長は伊方原発から約130キロ離れた阿蘇山の巨大噴火の可能性を挙げ、約9万年前に起きた「破局的噴火」が発生したら「火砕流が伊方原発敷地内に到達する可能性は否定できず、原発立地には適さない」と述べました。 この決定について、朝日新聞は社説で《伊方差し止め 火山国への根源的問い》(同年12月15日付)と題し、〈原子力規制委員会や電力会社は決定を真摯に受け止めるべき〉で、〈再稼働を進める政府は教訓に立ち返り、火山国で原発が成り立つかも検討すべきだ〉と主張しました。 広島高裁の判断も、朝日の社説も、「非現実的な理想主義」を謳って国民の頭から「現実」思考を消し去るものではないかと思います。かりに阿蘇山で「破局的噴火」が起きたら九州全体が火砕流で灰燼に帰し、日本全体にも被害が及ぶでしょう。 野々上裁判長は「破局的噴火」の発生確率が「日本の火山全体で1万年に1回程度」であることを認め、そうしたリスクについても、無視し得るものとして容認するという社会通念が国内に定着している、と述べながら、運転差し止め理由に「1万年に1回程度の火山の破局的噴火」を挙げたのです。 これは冷静な法理や科学的知見に基づく判断というより、現実の世界にはあり得ない「ゼロリスク信仰」で、それへの帰依を求めたものと言わざるを得ません。それに従うのなら、九州新幹線や在来線も運行を停止し、九州自動車道も閉鎖すべきとなるでしょう。 原発の「安全性」を追求することは不可欠だとして、それでも「安心」という人間の心理を完全に満たすことはできません。「安全」は科学的な指標に基づいて評価可能ですが、「安心」は個々人によって違います。 安心が得られないものはすべて利用を止めるべきとするなら、言い古されたことですが、マッチは火事の元、刃物は殺人の道具、自動車は交通事故の元凶として人間社会から取り除くことになる。 昭和21年(1946)から平成27年(2015)までの日本全国の交通事故死者数(累計)を調べたことがあります。実に62万6000余に及びます。自動車という文明の利器によって「交通戦争」が引き起こされ、約70年の間に私たちはこれだけの人命を失ったのです。 にもかかわらず、私たちは「クルマとの共存」という道を放棄していません。様々な技術改良が施され、人間側の自動車の取り扱いルールも向上し、事故死者数はどんどん減ってきました。 プロメテウスから火をもたらされてから、人類はその炎によって繁栄し、また災禍を被ってきました。科学が発達し、人間がどれほど高度な技術を掌中にしようとも、人間は「運命」から逃れられないし、運命は人の世に完全なる「安心」を保証しない。 2015年に政府はエネルギー基本計画に基づくエネルギーミックス(電源構成)を策定し、2030年時点において原子力発電の比率を2010年時点の29%から20〜22%に低減し、再生可能エネルギー(水力発電を含む)を2010年時点の10%から22〜24%と原子力を上回る設定にしました。事実上原発への不安感に「配慮」したからですが、現時点では再生可能エネルギーだけで必要な電力を賄えないことは、はっきりしています。 (1)実用可能で安価な大容量蓄電池は実現していない。 (2)太陽光発電は、夜はまったく発電できない、曇りや雨の場合は発電容量が激減する。 (3)風力発電は、風が吹かなければ発電しない。風が強すぎても発電できない。台風襲来などの暴風時には羽根などが破損しかねないので発電を停止しなければならない――等々。 菅直人元首相のように「必要な電力はすべて再生可能エネルギーで賄える」とか、朝日新聞のように〈節電の定着で、原発がなくても深刻な電力不足が心配される状況にはない〉(3月16日付社説)とかいう主張にどれほどの根拠があるか。 この冬、首都圏は大停電の危険性がありました。東京電力が想定する「10年に1度の寒波」による電力需要4960万kwに対し、大雪の影響で太陽光発電が十分機能せず、5000万kwを超える日が度々あったのです。 電力需要に対し電力会社の供給力がどの程度の余力を持っているかを示すのが「供給予備率」です。安定供給を維持するには最低限3%必要とされ、これを切るといつ停電になってもおかしくない。 この冬の需要は供給力の99%と見込まれた日もあり、東京電力は火力発電所をフル稼働させ、また北海道、東北、中部、関西の各電力会社から融通を受け、大口ユーザーに節電を要請して凌ぎました。 夏場も3%近くになることが常態化していて、東京電力単体では綱渡りの供給を続けているのが実態です。 原発停止の代替である火力発電の焚き増しによる化石燃料の負担も増加し、東日本大震災が発生した2011年度からの3年間だけでも計9兆円超。これはざっと消費税3%分が燃料費のため海外に流出した計算になります。 「電気は足りている」というのは種々の負担増の上に成り立っているわけで、それは現在も続き、電力各社の経営を圧迫し、国民も電気料金の値上げ(ほかに再生可能エネルギーの固定価格買取制度による賦課金)という形で負っています。 すべての発電用原子炉の廃止を政府目標とする「原発ゼロ基本法案」を推し進めようとする立憲民主党と、それに賛同する朝日新聞などのマスメディアは、電力事業がいかに精緻に組み立てられ、その維持にどれほどの努力がなされているかを熟考したようには見えません。「非現実的な理想主義」がどれほどの混乱をもたらすか。 福島第一原発事故によって、原子力技術の利用に伴う危険性は国民の間に強烈に印象づけられましたが、それはどれほど正確な科学的知見に基づくものだったか。民主党政権下の政治的混乱とメディアの恣意によっていたずらに増幅された恐怖だったのではないか。 さらには、日本の反原発運動及びそれを主張するメディアが欺瞞的なのは、他国の原発には何も言わないことです。中国や韓国の原発に危険性はなく、日本の原発にだけ危険性があるのか。「反日運動の正体見たり」という気がします。 確かに原子力発電はバラ色ではない。廃炉や廃棄物処理など克服すべき課題も多い。将来の方向性を議論することは不可欠です。その場合、原子力を利用することに伴う危険性と、利用しないことで生じる危険性とを比較衡量することが大切で、そこに科学的知見や合理性を超えて、ある種の政治的偏向や過剰な情緒を持ち込んではならない。朝日新聞にも、立憲民主党の「原発ゼロ法案」にも、それが著しく欠けています。 どんなに想定し、どんなに準備をしようとも、人間は「運命」からは逃れられない。できることは運命や絶望について学び、「ゼロリスク」などという現世にけっしてない言葉と決別することではないでしょうか。人間としての成熟を促さない「議論もどき」がメディアと永田町で喧しいのは、なんとも悲しいことです。 https://38news.jp/politics/11797
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