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九州玄海訴訟【第24回裁判のご報告】
宮城県からの避難者斎藤直志さんの意見陳述です。
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1 私は、福島第一原発事故当時、宮城県亘理郡で妻と暮らしていました。妻の
お腹には7か月の命が宿っていました。
宮城県亘理郡は、宮城県の太平洋沿い、福島県とのほぼ県境にあり、福島第一原
発から約70qに位置しています。私も妻も、亘理郡山元町で生まれました。あ
の事故さえなければ、私たち家族は、今でも生まれ育った亘理郡で生活していた
はずでした。
2 平成23年3月11日、私は、当時勤めていた亘理郡山元町のペット用食品
の加工工場で地震を迎えました。高台にあった工場から、慣れ親しんだ街を津波
が飲み込んでいく光景を前にただ立ち尽くしていました。私の自宅も浸水しまし
たが、不幸中の幸いで居住できないわけではなく、妻も無事でしたが、妻は弟を
失い、両親が住む実家も半壊しました。
津波が引いた後は、瓦礫の撤去や行方不明になった友人らの捜索などに必死で、
原発のことを心配する余裕などありませんでした。ライフラインが途切れ、情報
ネットワークも断絶されている中、原発事故の情報を得ることもできませんでし
た。
水道が復旧するまで、約3週間ありました。給水車による給水があるにはあった
のですが、野外で長い時間並ばされることもありました。そのため、私たちは、
生活用水として、津波で陸に上がってきた海水や山の湧水を汲んできて使用して
いました。そうした水を飲料水や家事洗濯などに使用して日常生活を送っていま
した。食料の入手も困難でしたので、祖父母の家の庭で栽培されていた野菜を食
べていました。私も、身重の妻も、実はそうした水や野菜が放射性物質で汚染さ
れているなどとは、思いもしませんでした。
3 私が勤めていた食品工場は山側にあり、建物も強固だったので津波や震災の
被害はほとんどありませんでしたが、原発事故の影響で商品が売れなくなり閉鎖
に追い込まれました。私も、平成23年5月1日、福岡県の工場に転勤を命じら
れました。妊娠中の妻や家族を残していくことが気がかりでしたが、震災直後と
いうこともあって亘理郡にいても仕事はなく、転勤に応じるしか選択肢はありま
せんでした。一番辛かったのは、転勤のことを父に告げたときの、「親を捨てる
のか!」の一言でした。私の実家は江戸末期から続く老舗旅館で、7代目館主の
父は、何とか津波被害からの再建を急いでいるときでした。いずれ工場が再開す
るまでの辛抱で、工場が再開すれば亘理郡に戻ってくる、と自分を納得させるし
かありませんでした。
いざ福岡に来ると、原発事故や放射能汚染に関するあまりの情報の格差に戸惑い
ました。私たちが暮らしていた亘理郡もかなりの濃度の放射性物質に汚染されて
いることを知りました。安全と信じて疑わなかった山の湧水や祖父母が育てた路
地栽培の野菜をとっていた妻とお腹の子どもの健康を案じずにはおれませんでし
た。
妻を直ちに福岡に呼ぶことを考えました。しかし、この時、妻は、切迫早産のお
それがあり入院していました。
妻は、亘理郡に残って妻の両親と一緒に住むことになりました。
平成23年6月17日、息子が誕生しました。大震災、原発事故が発生した中で、
無事に生まれてくれたことに感謝しました。
一方で、私は、妻と息子が心配でなりませんでした。すぐにでも福岡県に連れて
きたいという気持ちがありました。家と息子を失った妻の両親から、妻とこれか
ら生まれる孫を奪うことも私を苦しめました。そのような妻を私以外に身寄りの
ない福岡に呼ぶことが本当に夫として父として責任ある行動なのか、苦しい葛藤
の日々でした。
妻も、当初は幼馴染の友人たちと互いの子供達の成長を見ながら子育てすること
を望んでいましたが、子育て世代は全国に散ってしまいました。
4 福岡に来てから約一年後の平成24年4月30日、私の生活も安定し、妻と
息子を福岡に呼び寄せました。やっと父親になれた気がしました。我が子を抱き、
放射線の感受性が強いと言われる胎児や乳児の期間、息子を亘理郡に残してきた
ことについて、自責の念にかられました。
私たち家族は宮城県からの避難者ですので、国や東電から何の補償も援助も受け
ていません。息子に甲状腺検査を受けさせたいと福岡県の病院に連絡しましたが
たらいまわしにされて、検査を受けさせてあげることすら叶いませんでした。
平成25年3月頃から、体調に変化が生じてきていることを自覚するようになり
ました。心療内科を受診し、PTSDとうつ病を併発していると診断されました。
私の身体は、津波で友人や知人、そして義弟を失ったショックや、幼い我が子を
被曝させてしまったことへの自責の念に耐え切れなくなっていました。平成25
年12月、約20年間勤めてきた会社を退社しました。全てを失いました。
5 亘理郡は、私と妻の生まれ故郷で、ふるさとでした。亘理郡には、私と妻の
両親、親族、友人がいます。私と妻は、私たちの故郷を今でも愛していますし、
息子には私たちが愛する故郷で、私たちが愛する人々に囲まれて育ってほしかっ
たと今でも思います。私自身は福岡での職を失いましたので、帰ることができる
のなら、今すぐにも帰りたい、それでも、幼い息子を放射性物質に汚染された亘
理郡に帰すことはできません。亘理郡で太平洋に流れ込む阿武隈川は飯館村の方
から流れてきます。海にも連れて行けない、川で魚を釣ることも、山で山菜を取
ることもできない、このような故郷でどうやって子育てをすれば良いのでしょう
か。
何とか実家の旅館を立て直そうとしていた父も昨年2月に他界しました。旅館の
経営は、父の努力も虚しく、原発事故後の観光客の激減により借金経営を続けて
おり、きょうだいで話し合った結果、今年7月に廃業しました。200年以上続
いた老舗旅館ののれんは8代で途絶えることになりました。旅館の廃業を決める
前に、一度、家族で帰省したことがあります。その時に実の姉の口から出た「故
郷を捨てた男」「家族で逃げた」という言葉は今も頭にこびりついています。こ
れが避難した者に対する残った者の本音なのだと思い知った瞬間でした。逃げる
も地獄、残るも地獄。大震災を何とか生き延びた人々に容赦なく打ち込まれた人
間関係の亀裂と軋轢は、原発事故がもたらした一番残酷な被害だと思います。
6 私は、現在、福岡地方裁判所で、国と東京電力を相手取って損害賠償を求め
る訴訟に参加しています。同じような集団訴訟は全国各地で提起されていますが、
本年10月10日に言い渡された生業訴訟の判決において、福島地裁は、津波襲
来の危険を認識しながら対策を先送りしてきた国と東京電力の責任を厳しく断罪
しました。にもかかわらず、今なお様々な危険性を指摘されながら、「世界最高
水準の安全性」などとうそぶいて川内原発や玄海原発を再稼働させようとしてい
る国と九州電力の姿勢は、ただ安心して生活できる場所を求めて九州に逃れてき
た私たち避難者を弄んでいるとしか思えません。
国と九州電力に尋ねたいと思います。私たち家族の苦しみだけでは足りませんか。
裁判官にお尋ねしたいと思います。私たち家族の悲しみだけでは足りませんか。
あなた方は、原発によって、ふるさとを、人生を奪われる幾万もの人々の悲しみ
の連鎖を断ち切ることができる選ばれた方々です。
この原発の問題を私たちの世代で解決し、私たち家族の悲しみを最後にしてくだ
さるよう心から願い、私の意見陳述とします。
以上
【公正決定を求めるあなたの声を 要請ハガキに!】
再稼動差止めをめぐる仮処分の審尋は、わずか4回の期日をもって9月29日に
終了しました。来年早々にも、決定が下されると予想されることから、佐賀地方
裁判所(裁判長あて)の『公正決定を求めるハガキ要請』に取り組むこととなり
ました。原告の皆さん、私たちの声を裁判所へ届けましょう。
★郵送の方には、無料の私製ハガキを同封していますのでご利用ください。
★ホームページをご覧になられている方は、事務局まで『裁判所へのひと言』で
メッセージを添えて返信していただければ、代書して提出いたします。書式は問
いません。
最終締め切り 2017年12月25日
■九州玄海訴訟今後の予定■
第25回期日 5月11日(金)
佐賀地方裁判所にて。14:00〜
模擬法廷・報告集会は佐賀県立美術館ホール
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