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吉本芸人が年末のTV番組で披露した「時事ネタ」がちょっとした評判になった。そういうことがあると必ず食指を動かしてやってくるのがテレビ朝日である。
在日・年寄・障害者。テレ朝は弱者のふりをした集団に発言権を持たせることを、日課・使命にしている。中卒の吉本芸人が少年ジャンプを捨てて新聞を読んでいることを必死に自慢すると、もうその後押しをしたい衝動が抑えられないのである。
そして急遽、芸人のアサナマデビューが決定。東大の学者などを相手に主張を展開した。やはり中卒の芸人出である山本太郎がそうであったように、いくら政治意識を持ったところで学力がついていかないので、常識以前の言論のモロさが露呈してしまう。しかし芸人は「無知だからこそ言える」などとまた朝日の喜びそうな大衆丸出しの言い訳をし、さらに沖縄に出向して公演までにおよぶ。毒をくらわば、というわけだ。
この手の芸人に発言権を持たせてみることは、オバカな裾野を広げて全体の言論のグレードを劣化させることなので(それがアサヒの狙いだが)、この芸人に「もうわかったよコール」を送って去らせるのがいいのか、それともインテリでないなりの主張を続け、批判されたり壁にぶちあたったりしながら社会へ向けて正義に思う考えを発信することが芸人としての役割なのだと応援するべきか。
チベットよわーの答え:私は笑芸の専門家は面白くなければいけないと思っている。村本はこのままいくと熱く語れば風刺だというような思い違いを暴走させる可能性になびいているように見受けられる。どこまでいっても、表現者として面白いのかどうか、芸を洗練させているのかどうか、をチェックすることを怠るとフランキー堺になってしまう。風刺は芸の一部分であり、面白いということが前提でないといけない。
雑煮の椀へ差しこむ朝日
お次は、なんなんだこれは。キッコの日記のキッコの初春俳句である。俳句なのか和歌なのかも知らないが、一体この暗号のような戯文になんか意味でもあんのか?キッコ本人はこれを解説して椀と犬の鳴き声であるワン、をかけているのだという。
くだっらねえな、俳句という伝統文化を隠れ蓑にしていれば寒いことを言っても許されると甘えてないか?雑煮なんか陽の光を差し込んでありがたがるようなもんじゃないだろ、なんかオチャラケだな。
チベットよわーの答え:俳句が悪いとはいわないが、正直、表現のフォームとして腐っている。もっと語感や音韻の妙を使い合わせて実戦的な現代詩を平行して追及すべきである。温故知新、古い皮の中に惰眠をとらず常に生命の息吹に言葉を舞わせるのが本当の文学である。
久しぶりリチャード・コシミズ(なんでもユダヤだ朝鮮だと騒ぎ出すワンパターン芸をブログで展開するお笑い芸人。)がなにやっているのか覗いてみると、名古屋の裁判所を相手に駄々こね祭りをおこし音頭をとっていた。全く暇な奴だ。
正義のジャーナリストの私をおそれているのは、名古屋地裁(か高裁かしらんが)に不正がはびこるからなのだ、だとかいってテメエで起こした単純で愚劣な過去の悪事についてまっとうな人間から訴訟をうけているだけという現実を無視して、見えない巨悪に必死で立ち向かう芸を披露する60代の芸人。
チベットよわーの答え:ま、ネタをしながら、暇つぶしにきた信者の賽銭をひろって生きていくのがこの男の真実なのだから、こうやっていくのが、コシミズにとって残された活動の選択肢なのだろう。これでよし。
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