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正常でない性の話。
いきなり私事ですが、私は実はゲイでして、いや、そうじゃなかった。私の周囲で実際に起きた話なのだが、職場の最高責任者が昨年、無警告で解雇されてしまった。一体、なにがあったのか?と思いきや、なんとLGBTがらみの不祥事に巻き込まれたのだった。
(LGBT。つまりレタス・挽肉・ベーコン・トマト。チーズは無しでOK。いや、そうでなく、レズ・ゲイ・バイ・性転換者、の略である。)
ゲイの男性が、同僚達から口頭でのハラスメントを受け続けたことを苦に裁判を起こした。その責任を経営者がとらされてしまったのである。そんなことはどんな所でも転がっているような話であり、法的処置をとったからといって原告の言い分が全て認められるはずもないのだが、今の時代はこのLGBTに関わる人権というものの重さがあまりに強いのである。
LGBTを激しく嫌う代表はやはりイスラム圏だろう。彼らにとってアッラーの創造が全てなのだから、生命を授かる尊い生殖のシステムを否定するようなことは厳禁である。
実はそのイスラム教徒と同じくらい同性愛を非難しているのが、キリスト教である。こちらも聖書で複数個所、同性愛を禁じてあるのだから原理主義者は忌み嫌う。
10億宗教などを敵に回しながらも先進国を中心にその地位を徐々に高めてきた同性愛のコミュニティーはとうとう日本においてもポリコレの看板を大きくあげながら影響力を持つところまできている。
その一つの象徴的出来事がこないだのフジテレビ特番の顛末だろう。
出演者の石橋貴明が四半世紀前のバラエティー番組で演じていた「ホモ田ホモ男」という同性愛者を露骨に仄めかしたキャラクターを復活させて東京の夜を闊歩する企画が放送された直後、たくさんの苦情がよせられとうとうフジテレビが後日謝罪にまで追い込められたのである。
同性愛者を中傷していた、ということである。注意が足りなかった、ということである。
ホモというのは生物学上の変異、医学上の病名であるのに関わらず、安易に笑いものにするような風潮をテレビが煽ってどうするんだ、という批判は昔からあった。タモリ、ビートたけしのような優れたMCまでが平然とホモをからかい、幼稚で分別のない笑いをとっていたのが日本のTVの常識だったのだ。今、そうはいかなくなった時代の変節というものの前に物わかりのいい顔で反省会を開き自粛のムードにさせられている関係者はまるで石橋の「ホモ男」を失敗作として抹殺してしまったようである。
石橋が大昔に演じていたホモキャラは、本当に同性愛者への差別を助長し、同性愛者コミュニティーを侮蔑するものだったのか?私はそうは思わない。それどころか、石橋は「アブノーマルな個性の中にこそ笑芸の神髄がある」ということを芸人生命をかけたホモ芝居で訴えていたのではないか。石橋は「人と違う」ことの悲しさ、寂しさ、可笑しさ、をスーパースターである自らがホモの役を演じることで表現し、ホモにまつわる偏見や疎外と闘っていたのではないか。こばかにして嘲笑するだけの企画に、岸田今日子が共演することなどあるわけがない。岸田の出演も「優麗な人々の持つ風流さ、上品さ」をポジティブなものとして描くための演出だった。
残念なことは、過去にそれだけ画期的な寸劇にとりくんだ石橋が、そのときのスピリットを忘れ、「ホモ田ホモ男」をただのコスプレにしていたことだろう。石橋の芸の金字塔的な役に彼はもはや全力投入することができず、視聴者にも「非常識な台本に従っただけ」にしか受け取られない。もはや、そこにはホモ男を演じれる石橋はいなかったのだ。
(余談)
とんねるずと人気を二分した関西のダウンタウンは、やはり90年代にはタブーを解放するような方向に番組を作っていた。そこで松本人志が演じたのは知的障害者のヒーローだった。その名も「アホアホマン」である。これは石橋の「ホモ田ホモ男」への返答のようなものだったと私は考えている。しかし松本の場合、たとえば同じような特番の企画で「アホアホマン」の格好で出てくれ、とプロデューサーに催促された場合、おそらく「できない」と答えただろう。
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