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70年代の漫画・アニメに「ハレンチ学園」という人気作があった。私は大衆食堂の本棚で一度手にしただけである。二度目がなかったのはあまりの内容だったからだ。
主要登場人物であるらしい教師のユニークな男が東北の田舎へ里帰りし、老いた母親の溺愛あふれる歓迎を受ける。息子かわいさに我を忘れてまとわりつく母に「いい加減にしろ」と突き放す教師はそのまま彼女を連続で殴打して撲殺してしまうのだ。そして息絶えた母を前に男は「わーっ!!さっきまで元気だったのに、どうして死んでしまったのですか〜」といって号泣するのである。
これを当時の言葉では精神分裂といった。二度目がなかった理由である。しかし作者の永井豪はそれからも人気作家としてヒット作をとばしていたのだから、日本の出版界、それを許容する社会そのものも今とは違う様相だったことが想像できる。一体、時代と共に何が解放されたのかしばし疑問に感じるものだ。
なんで私はこんな話をするのか。それは一人の元TVパーソナリティー(新潟県民)の死に過剰な報道を行う日本のメディアにふと思うことがあったからだ。
30代の女性が乳がんで死亡。これは特に珍しいことではない。癌検はたいてい40代からの懸念であるとされることが標準的だが、女性の乳がんだけは少し早めの対策が必要だという啓蒙のありかたが先進国ではもう前の世紀からさかんだった。亡くなったのは不運だが女性の老化にとっての折り返しとされる35歳を待たずにこの世を去ったのは美しく生涯を遂げる宿命だったのかもしれない。
私の目に留まったのは、その配偶者である河原者の「号泣ツイート」であった。今までの人生の中でアタクシがぁ〜こんなに泣いたのはジ・ジッ・ジィつうにぃ〜はじめてでござぁありまぁすぅぅチャカチャンチャン(三味線の音・・・歌舞伎はこんなんじゃなかったか)だって。私は即座に「ハレンチ学園」を想起してしまったのである。「泣いてんじゃねえ、殺したのはテメエだろう」そう感じたからだ。
亡くなった女性は、成人する年齢を過ぎてからも処女説を自分で広めていたことはTV番組で放送された通りで、親元を離れて都内の大学に4年通う間、友達以上の関係になる異性はいなかったという。よっぽど変わった家庭環境や心身の不都合がないとした場合、たいていは全くそういう機会が無かったというわけではなく、なんらかの失敗や事故がからんでいるはずであるがそういうわけでもない、と。世の中にはこの女性のように「なんとなく天使キャラ」ということも稀有ながらあるのだろう。(*1)
かたや夫の河原者は昔から女癖が悪く、つぎつぎと不特定多数の相手とねんごろになり、特殊業界(伝統芸能、相撲、ヤクザなど)の人間なのにかかわらず表のメディアにそのプレイボーイぶりが何度も暴露されていたとおりである。そんなことは個人の自由であり、異性にもてることは長所であり、私の知り合いにいた「風俗1000人斬り」を自慢する自称“〇原の伝説”オヤジなんかよりはよっぽどマシだと思うところであるが、そうも思えなくなった。
平成の風俗はゴム付き、キスなし、が当たり前。いくら如何わしい行為にいそしんだところで、直接の体液交換にはなかなか至らない。娑婆の事情はそれとは違い、なんでもあり、である。風俗よりずっと危険なのが、出会いからラブホまでの直線上にたむろした男女(とは限らないが)のゴム無しの色事である。
日本人の場合、女のほうが「ゴムをつける」ように要求することが習慣としてないのではないかと私は常々疑っていた。自分自身の経験からしても邦人からそういわれたことは一度もないし、友人の話をまとめても独身は風俗以外では使わない、のが基本であるようだ。しかも日本人はおそらくコンドームを「避妊具」としてしか認識していない、これ間違いない。。無論、本当に避妊だけが目的ならそんなものは要らない。はなから日を外すか、敏感になってから何度もぎりぎりで寸止めして長引かせるやり方を避ければまず100%安全である。なんのための防具なのかというと、それは性病を防ぐため、である。これが世界の常識だ。(*2)
性病、STDというものの代表は過去30年でいえばHIVだろう。2010年公開の映画「告白」では主演の松たか子が「HIVが死病に至る時代ではない」とまるで厳戒令後の安全宣言のようなセリフを言うのだが、それは裏を返せば感染力の低いHIVというウイルスの恐怖にそれまでどれだけ人類の性が脅かされていたかという証明でもある。
エイズにさえならなければなんでもいい、という合言葉が過去30年あまり蔓延っていたせいで、性感染症の恐怖というものは消え去ったように見えるが実際は安全なセックスなどはこの地球に訪れることはないのだ。
体液を交換する形でのセックスで、一番警戒すべきは肝炎である。これは無数に存在し、AだのBだのという名前がついたものはごくごく一部に過ぎない。まず一度のゴム無しセックスで、この無数の肝炎菌が体内に入ってくるという事実を認識するべきである。
肝炎菌というのは、一言でいうなら、癌の素である。しかも何十年、何百年と消滅しない人間の個体より確実に強い有機物である。
しかも免疫学において、人種間における生物的実験はなされていないので、外来種がどこまで危険かは推測する手段さえないのである。ロシアンルーレットだということだ。
この手の病源体を免疫システムが通過させなければ問題はないはずであるが、実際は通過させてしまってから「なにくそ、二度と許すか」とばかり抗体が発生してそれが機能するまでに何年とかかる。つまり、肝炎に代表されるようなSTDは、もともとワクチンをかたっぱしから投与しておかない限り、まず防ぐことができない。肝炎の殆どのタイプにワクチンはない。セックスにコンドームが必要な最大な理由はここである。
先日、乳がんで逝去した女性は、一体、どうして癌に侵されたのか。遺伝か、外気か、食べ物か、ストレスか、怨念か、それを裁定にかけることは誰にもできないだろう。医者にもわからない、芦屋雁之助ハンやハルク・ホーガン、細木数子にだってわかるわけがないのだ。しかし、それまで汚染されてこなかった体内に、遊び魔の配偶者の体液が頻繁に粘膜や血管を通して送り込まれる生活が何年と続けば、よっぽど配偶者の免疫が強くてSTDをはじめとする害悪微生物が駆除されていない限り、多大な影響をうけたであろうことは楽に想像がつく。
私は私説として、セックスによる血液汚染、その結果としての乳がんへの発展という奇説を持っている。無論、証明する手段はないし、確信しているわけでもないが、案外、知られざる食害に並び、これが現代医学の穴であり、様々な疾病解決への糸口ではないかと睨んでいる。
(*1)今、どれだけの日本人が結婚するまで「娘」であるのかわからない。基本、20歳をすぎて処女というのはどこかに欠陥があるのではないかと思われるのが普通だろう。松本伊代は26歳のときに「処女でないと勝手に決めつけないで」と発言していたが異様だった。恋愛にも家族設計にも全く興味のない私は処女喪失というもののドラマ性は完全に無視できる。しかも多くの女性にとって性の悦びが本当の意味で生活の中心になっていくのは30代後半からだといわれるので(ほんとかどうか知らないが)、10代20代の経験はいづれ時を経て意味をなさなくなるものなのだろう。私にも26歳まで未経験という旧帝大工学部出身の知り合いがいた。初体験がアラブ人とのアナルセックスであるから、あんまり奥手なのもいけないことに思える。私はその話をきいてから「いわないのは犯罪。噴火口に飛び込んで身を清めたい」とからんだら、「3000万円支払うから銀行口座教えろ」という答えが返ってきた。実話である。こういう人間のことを当時の言葉ではとう、統、統合、東郷平八郎
(*2)日本人にその当たり前が欠落しているのは一つに人種の問題がある。同じ言葉を話し、似たような生活環境で生きてきて、まさか隠された病気があるとは疑えないのだ。「人はみかけによらない、人によって全然違う体験をしてきている」という想像力は持てないのである。
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