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最近、放送関係者の失言が相次ぐアメリカ。毎日のようにFワードやNワードというものが簡単に口から飛び出しては、処分を受けたり、物議をかもしだしたりという事故が起こっている。
Fワードというのは動詞・名詞を兼ねたFuckのことで、INGがついて形容表現になることはビートたけしの映画「Brother」を見た人は誰でもしっているだろう。なんでFuckがそんなにいけないのかというと、英米圏に共通する宗教の使用する聖書(Holy Bible)では姦淫が一番いけない行為だとされているからである。
Fuck youというのがアメリカ最大の暴言である、とバイリンガル教育を受けていなくて何も知らない私は山田詠美の小説でそれを学んだ。日本でいうなら私の地域の場合「いてもうたろか」である。しかしこれはFuckとは何のつながりもない。いてまう、というのは首都でいう「ぶっ殺すぞ」と同義、つまり殺害する行為を意味する。淫行(生命を作りだす)と殺人(生命を奪う)とではかなり違う気がするがそれが文化間における発想の違い。戦争でいえば「お前ら根絶やしにするぞ」というのが我々。「お前ら強姦して白色種を繁殖させるぞ」というのが欧米。
そしてNワード。これがニガー。黒人奴隷のことであり、他人種への侮蔑語と比べても(たとえばアジア人はチンク、ヒスパニックはスピック、ウェットバック、白人はレッドネックなど)インパクトは異常に大きくアメリカでは人種的に最大のタブーといえる。なんだ、ニガーなんて言葉はヒップホップの歌詞や黒人のスタンダップでいくらでも常用されているじゃないか・・・・・それを言っていいのは黒人が黒人に言う場合だけであり、それも放送では無論、修正が加えられる。ニガーと言って裁かれなかったのはオノ・ヨーコのプラスチック・オノ・バンドが演奏した「女性は世界のニガー」の時で、リードボーカルのジョン・レノンとヨーコが二人して「黒人のことだけでなく、奴隷的扱いを受けるのはユニバーサルな問題だ」などと無理のある言い訳をしていたものだ。シナ発言を繰り返す石原慎太郎はアメリカの政治家はプライベートな会話ではニガーと平気で言うことをあげているが、アメリカ人は白人もラテン系もアジア人も黒人のいないところでは「ニガー」と言う、これが統計には出ない真実である。
バンク・オブ・アメリカの女性行員がツイートでそのFとNをドッキングさせたFuckin' Niggerという言葉を使って解雇される事件が起きたくらいからそれまで表面化にあった人種的スラーというものがそれまで必死でリベラルが工作してきた「差別のない社会」の偽善の皮を徐々に侵食しはじめてきた。
そして新大統領のトランプは明確な言葉でその姿勢を語った。
「もうこれからはポリティカル・コレクトネスなんかやってる時代じゃない。自分達を守るのが先決だ」
それを言っちゃおしまいだが、トランプはそれを言葉にした。ポリティカル・コレクトネスというのは簡単にいうなら、「差別・偏見・不公正をあらわす言動を是正する」ための機能、暗黙の了解のことである。
ポリコレの例。
ニガーなんてもってのほかで使用禁止。
障害者を迷惑がらない。
入学・就職に人種的偏りがないよう枠を設ける。
外国人の言葉や習慣の違いをけなしてはいけない。
メリー・クリスマスは他宗教を鑑みない言葉なので代表者は控える。
変な名前の人を笑ってはいけない。
Mrs.という言葉が男への従属を喚起するということでMsを使うべし。
田代まさしの黒塗りされた過去の汚点点点を問わない。
(日本でポリティカル・コレクトネスとして一つの象徴的な活動をしたのが小池百合子。彼女はいわゆる風営のトルコ風呂という言葉がトルコ人の名誉を傷つけるとしてソープランドへの名称替えをする法的手続に働きかけた)
これらは複雑な社会ヒエラルキーや経済格差、文化的差異を乗り越えて生きていく現在の市民(特に都市生活者)にとってかかせない「他者と共存するための考慮」のありかたであり「とっぱらってしまってOK」などという暴言におよんだトランプはトラブルが起こることも当然の心構えとして持て、人にいい顔をする偽善をやめて自分を守れ、という強気の教育でもって国民の意識を変化させることがグレートなアメリカへ復帰する道だという指針のつもりのようだ。
ヒトラー以降に、こんな国家元首はいままでの先進国にいたのかはしらない。後進国でしかありえないようなアンチ・レベラルぶりには非情にすがすがしいものをかんじるが、そう正直に感想を表現することもポリティカル・コレクトネスでははじかれる行為である。であった。時代は変わったのだ。
ポリティカル・コレクトネスを大統領が直々に廃止せんとするアメリカ。真っ先に、これが如実に大きく影響するのが、人種間、国家間の関係だろう。
イスラム教徒はテロリストと思え(アルカイダのリーダーは「ムスリムとユダヤは必ず最後に殺し合いになる」と公言し、それがイスラム教の教義であると説いていた。それでもまだ、宗教的にはむしろ正しいイスラム過激派を一部の異常者だとするようなポリコレが発動されていたのである)
黒人は全て知恵の遅れた盗人だと思え(ますます他の人種に比べて知的さの劣る黒人への差別は強くなる。だいたい今までのリベラルによる平等賛歌に無理があることは誰の眼にも明らかであったが、隔離・区別を許さないのがポリコレである。)
ヒスパニックは教育のない犯罪者予備軍である(すでにトランプは選挙キャンペーン中からそう言っているに等しい発言で物議をかもしだしてきた。アメリカの凶悪犯罪は黒人のラティーノのオンパレードであることはれっきとした事実であり史実であるが、それを大統領叩きさえできるメディアも語れない不自由がポリコレである。)
アジア人は白人にとってかわろうとしている経済動物である(黒人やヒスパニックとアジア系の違いは、白人の土壌で白人に対抗できる資質と能力を持つところである。そして犯罪率が低い。白人が危惧するのは、中東人のテロ、黒人の暴動、ヒスパニックの繁殖、そしてインドを含むアジア人のさらなる上層ヒエラルキーへの進出と不動産の買い占めであろう。それをうっかり指摘しようものなら、ポリコレによるカンフーキックが飛んでくる)
さて、ポリコレはトランプ大統領からの弾圧に打ち克つことができるか。平等のお題目を唱えては、いつもの言葉狩りによって大統領の社会生命までを奪うことで復活をとげるのか。
日本には言いたいことをいってわざとポリコレを遵守しないことを売りにしている言論人がいる。「シナ」発言の石原慎太郎などはまだ正統派の可愛い坊ちゃんである。口を開くたびに馬鹿と怒鳴る癖のついた大島渚などは優しくて人のいいご隠居である。
本物の毒舌は真理を語る。ポリコレが間違っていることまで暴いてしまうのである。その極みが元・内閣メンバーであり笑点のメンバーでもあった、立川談志(本名:日景忠男)だろう。私はTVにたまに出てくる談志師匠の発言をたまたま長期にわたって拾ってきただけで、その思想の全てを知るわけではないが、およそ人の考え得るすべてのタブーに挑戦してポリコレを打ち砕いてきた第一人者はこの男である。
社会によって「そういう発言はよくない」とされていることでも自己見解の正当性を主張するためなら躊躇せず言論にする・・・・古典落語家の立川談志の姿勢は見事であるが、それに対抗するのが西の漫才師、横山やすし。自伝で「チョンコ」をいう言葉を使った伝説から、タクシー運転手を「駕籠かき」と侮辱して処分をうけた過去から、様々な問題発言で知られる横山だが、談志との違いはあまりに大きい。
立川談志は知能が高く頭の良い人間だからこそ読書と思索とディベートによって物事を見極め、真理を語る実力をみにつけたのである。その点、横山は知能が低く、頭が非常に悪い。ただ、たんに国鉄職員のだらずな親に甘やかされて育てられたため我慢がきかずぶちきれて暴言をはいてしまう癖がやめられない駄々っ子である。周囲の人間は「お前はバカなんだから何も言うな」といってケツを思い切り蹴こんで膝からこかしてやりたい衝動を抑えるのに必死なのである。
その二人が一色淡にされるかもしれないのが、トランプ主義がまかりとおる今のご時世。頭のいい人間(立川談志・ビートたけし)の毒舌と、頭の悪い人間(横山やすし・山本晋也)の毒舌が、同じ反倫理的だということで同等の評価や糾弾の対象になってしまうその混乱こそが、保守が本来忌み嫌うべき大衆によって引き起こされる無秩序状態ではないかと思われるが。ポリコレが打倒されたあとに、なにが残るのか、言いたい放題になればそれでいいのか、そこまでトランプは考えているのだろうか。
ちなみにリベラルが圧倒的に勝利した戦後、とくに60年代後半以後の世界の中で、あくまでポリコレ無視の独尊ぶりをつづけた二人、立川談志(賢)のほうは発言をよく思わなかった男に襲われ日本刀で怪我をさせられている。横山(呆)は自宅前の暗闇に待ち伏せした男によって「この歯抜けアトピー死ね!」と言って激しく殴打されクモ膜下出血を起こし小便をもらしながら失神している。なんまいだー
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