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胡耀邦元総書記の追悼集会(北京・天安門広場 1989年4月)
WEB特集 天安門事件 30年後も続くトラウマ/nhk
2019年6月6日 19時50分国際特集
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190606/k10011942051000.html
30年前の1989年6月4日に北京で起きた天安門事件は、いまでも中国に暗い影を落とし、中国政府が触れたがらない「最大のタブー」といわれる。
事件はどのように悲惨な結末へとつながっていったのか、私たちは半年をかけて証言者たちを追った。(文責:中国総局記者 奥谷龍太)
失われた命の重さ
軍が学生たちのデモを武力で鎮圧した6月4日の朝、「同級生のところに行ってきます」という書き置きを息子の部屋で見つけた。
前日の夜に、天安門広場に出かけていたのだ。
息子はいつまで待っても家に戻らない。不安と焦燥のなか、必死で探す張さん夫婦。
数日後、銃弾を受けて息絶えた息子が、服を着たまま、広場近くの道ばたに埋められているのが見つかったと、市民が張さん夫婦に知らせてきた。
張さんは、気が狂う思いだったという。
張さんは、息子が殺害された真相の究明と賠償、そして責任追及を中国政府に求めてきたが、30年間無視されてきただけでなく、当局が交代で張さんを尾行し、誰と会っているかを監視。
外国の記者とも会えないように妨害し続けてきた。
天安門事件の遺族で作るグループ
事件から30年を迎えたことし、子どもが犠牲となった母親ら127人は、公開書簡をネット上に公表。
しかし、中国政府からは何の返答もない。
張さんは「暗闇の中で暮らしてきた。光は差してこない。しかし、死ぬまで闘い続ける」という。
一緒によく天安門広場に通っていたが、6月3日の夜は、たまたまほかに用事があって広場に行かなかった。
しかし、親友は広場の西の大通りで鎮圧部隊に撃たれて亡くなった。
大学は亡くなった学生は6人とするだけで名前を公表せず、単に学生名簿から消す、という措置をとった。
こうして呉さんは親友が亡くなったことを初めて知った。
衝撃と悲しみに押しつぶされ、それ以来、ずっと親友の命の価値は何だったのか、自分が生き残った意味は何だったのか、問い続けてきた。
呉さんは、キリスト教徒となり、教えを広めるということに自分の“生”の意味を見いだすこととなった。元学生の中にキリスト教徒になった人は少なくない。
多くの市民は、政府に対して批判の声をあげるといかに酷い目に遭うかを骨の髄まで思い知ることになった。
デモの純粋な思いと高揚感
胡耀邦元総書記の追悼集会(北京・天安門広場 1989年4月)
1989年4月に始まった学生らのデモ。
学生らの要求は当初、極めて純粋なものだった。改革開放が始まったばかりの1980年代。一部の共産党幹部だけがその恩恵にあずかり、大部分の国民は貧しく、しかも仕事は国が配置して決めるなど、自由のない暮らしをしていた。
改革を推し進めていた胡耀邦元総書記の急死をきっかけに、元総書記の追悼集会が、汚職反対や言論の自由を求める民主化デモに発展した。
デモの拡大を招いたのが、4月26日に共産党の機関紙「人民日報」が一面トップで発表した社説だった。
「デモは共産党打倒を企てる動乱だ」と決めつけたのだ。
当時、学生だった江棋生さんは、当局の監視の目をかいくぐって取材に応じた。「共産党を打倒したいのではなく、中国をもっとよくしたかった。動乱ということを訂正さえしてくれれば広場から撤退しただろう」と話す。
5月に入ると、デモはさらに拡大。
政府のかたくなな姿勢に業を煮やした学生たちはハンガーストライキに打って出た。季節外れの暑さが続く広場で、次々と学生が倒れ、あちこちで救急車のサイレンが鳴り響いた。
市民の多くも、学生の訴えに共感した。
メディアや政府機関の職員も加わり、100万人規模の人々が北京の街を埋め尽くした。
若き日の筆者もこの時、留学生として北京の街にいた。
ふだん互いにつっけんどんな市民が、この時ばかりは笑顔で声を掛け合い、街全体が一体感と高揚感に包まれていたのを覚えている。
しかし、中国政府は5月19日、戒厳令を布告する。
少しずつ、軍が北京中心部の天安門広場へ向けて展開。大勢の市民が街に繰り出し、軍のトラックを取り囲んで撤退するように説得した。
まだこの時は、大部分の市民が、まさか軍が市民や学生に銃を発砲するとは想像していなかった。
しかし、共産党をよく知る知識人らの中には悪い予感がした人たちも少なくなかった。
当時、事態をなんとか穏便に収めようと動いた人たちがいた。
その1人が、当時、民間企業の幹部で、学生と党幹部の双方に人脈を持つ周舵さん。
戒厳令が出される前に、広場から撤収しないと大変なことになると学生を説得した。
しかし、高揚感に包まれた広場では、理性的に妥協の道を探る意見より、常に過激な意見のほうが発言力を持ったという。
周さんは「デモの中に入れば、誰もが影響を受けて流れに巻き込まれる。その場の状況を支配しようとしても不可能な雰囲気だった」と振り返る。
「四君子」右から3人目が周さん
しかし、周さんは6月に入って、のちに獄中でノーベル平和賞を受賞することになる、友人の劉暁波氏とともにハンガーストライキに加わる。
行動をともにした台湾の歌手と、もう1人の知識人の4人は「四君子」と呼ばれた。
学生たちの味方だという姿勢を示す一方で、自分たちが参加することで、運動が過激になるのを少しでも抑えたかったのだという。
軍の突入
そして、3日の夜。軍は北京の東西南北すべての方向から一斉に進軍を始めた。
深夜、広場の学生のもとに、死傷者が出ているという情報が伝わった。西側から突入した「38軍」と呼ばれる部隊が、広場から7キロほどのところで、軍の行く手を阻もうとする市民に対して発砲を始めたのだ。
この時、留学生だった筆者は広場から遠く離れた住宅にいたが、深夜に、群衆の「うぉー」という叫び声と、乾いた銃声がしたのを覚えている。
しかし、その銃声の現場では想像を超える悲惨な情景が展開していた。最も多くの犠牲者が出たのが「木※せい地」と呼ばれる地区だった。
証言者によると、軍は街灯の電気を切断。暗闇の中を発砲しながら進んできた。カメラのフラッシュにまで反応して銃を撃ち、学生や市民が次々と倒れたという。
周舵さんは、このままでは広場を死守する大勢の学生が犠牲になることを懸念。4日の午前4時ごろ、暗闇の中で銃を持った部隊の前に決死の覚悟で歩み出て、学生らが撤退する退路を開けるよう交渉した。
軍は同意し、広場の東南の方角が開けられた。
広場に戻った周さんはほかの「四君子」のメンバーとともに、悲壮な表情で撤退を拒む学生らを必死で説得。ぎりぎりのタイミングで、残っていた数千人の学生を逃がすことに成功した。
※せい=「木へん」に「犀」
事件3日後の天安門広場(画像)→http://img.asyura2.com/x0/d9/17324.jpg
周さんの献身的な行動がなければ、広場全体が血に染められていたことは想像に難くない。
しかし、周さんは事件後拘束され、監獄で10か月を過ごした。
もしデモに参加し、広場にいなければ、ビジネスを続けるなどしてもっといい暮らしができたはずだと話す周氏。
「その時々で自分がすべきと思ったことを最大限やっただけだ。全く後悔はしていない」と笑った。
30年後
いま、中国の若い人たちの多くは天安門事件を知らない。政府が事件を思い起こさせるものを言論統制によって徹底的に排除しているためだ。
そして、当時の民主化運動を知る人々も、監視を受けることを恐れて怒りや悔しさを抑え込み、公の場やネットで発言することを控え、黙り込んでいる。
親友を失った呉さんは言う。
「怒りは問題を解決しない。しかし、忘却はもっと恐ろしい。事件は永遠に記録されるべきだ」
中国、そして世界各国に事件の当事者を訪ね、新たな史料を発掘。事件をめぐる数々の謎に迫る、NHKスペシャル「天安門事件 運命を決めた50日」は、6月9日(日)午後9時から、総合テレビで放送します。ぜひ、ご覧ください。
- 「天安門事件30年その傷痕と中国の行方」統制の下でも、果敢に抵抗を試みるネット世論/加藤青延・nhk 仁王像 2019/6/12 20:01:03
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