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日本神社の分布を中国大陸全土で見ると、北は黒河神社、西は戦国時代「趙」の国都「邯鄲」にあった大東亜神社や山西省太原神社、南は海南島北にあった苗栗神社と、広範囲に分布している。写真は筆者提供。
<コラム>中国大陸に約350カ所あった、日本神社の終焉
https://www.recordchina.co.jp/b608338-s134-c30-d1134.html
2018年6月12日(火) 23時30分
日本神社の分布を中国大陸全土で見ると、北は黒河神社、西は戦国時代「趙」の国都「邯鄲」にあった大東亜神社や山西省太原神社、南は海南島北にあった苗栗神社と、広範囲に分布している。神社の一覧写真は、中国大陸にある97カ所(全体の約30%)の日本神社である(現存する神社も含む)。各神社の創立時期・祭神などは、神奈川大学非文字研究センターの「海外神社(跡地)に関するデータベース」や「満洲の神社興亡史(嵯峨井建)」などをご参照願いたい。
旧満州には295カ所の神社が記録されている。日露戦争後の1905年に創建された安東神社(写真1)に始まるが、実に90%以上が偽満州国が成立した1932年3月以降に建てられていることから、偽満州国の皇民化政策によるものだ。また終戦時に150万人近い邦人がいたため、開拓団(開拓地)神社が約30%以上も含まれている。また祭神として一番多いのが天照大神であり、95%を占める。安東神社(現在は丹東市)は日本人が命名した鎮江山の麓(ふもと)に広がる満洲八景第一位に選ばれた桜の名所であった。日露戦争では、黒木為もと第一軍司令官がロシア軍と最初に陸上戦「鴨緑江会戦」が行われた場所でもある。
中国大陸(中華民国)には52カ所があったが、現存しているのは江蘇省南京市五台山にある南京神社参拝殿と山東省シ博市(シ=さんずいに緇の糸なし)シ川区にあるシ川神社本殿である。社務所が現在も使用されている神社も多く見られる。天津神社・南京神社・廈門神社・長春神社などである。石の鳥居が現存している文官屯神社や新京神社などもある。日本神社の跡地だったと分かる石段がそのまま使われている例が多々ある。青島神社(児童公園)・大連神社(解放小学校正門階段)・延吉神社(人民公園大門北)などである。済南神社跡では、当時の石鳥居や石灯篭の残骸が無造作に放置されていた。
戦前は、日本国には伊勢神宮をトップとして日本国が支配する地域に25カ所の神宮(社格は官幣大社)があり、そのうち海外にあったのは、朝鮮神宮(ソウル南山)、台湾神宮(圓山大飯店)そして旅順にあった関東神宮(旅順海軍施設)の3カ所であった。
現在、日本神社の跡地は市街地の中にその形も分からない上海神社・徐州神社・北京神社・奉天神社などがあるが、公園として利用されている青島神社・杭州神社・吉林神社・遼陽神社・延吉神社・鉄嶺神社ほか、烈士公園となっている済南神社・芝罘(煙台)神社・営口神社・鞍山神社など、小学校となっている大連神社・福州神社などがある。
安東神社をスタートに40年間で中国大陸に創建された約350の神社は邦人の引揚げとともに終焉を迎えるが、大半は1930年代後半創建であったのでわずか十数年で多くの神社が消失した。中国大陸最初の安東神社は、終戦後の8月17日夕刻に何者かによって爆破破壊され、関東神宮も終戦後破壊され現在は海軍施設となっている。また、牡丹江神社工藤国之輔宮司はソ連参戦後、御神体を守ろうとしてソ連軍により殺されたという。(写真2)に旧満州にあった日本神社(その1)、(写真3)に旧満州にあった日本神社(その2)、(写真4)に中国大陸(中華民国)にあった日本神社、(写真5)に中国大陸(中華民国)と関東州にあった日本神社を掲載する。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
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