「混沌の大国」中国と中国人を知る エコノミスト 田代秀敏氏 http://www.ikaganamonoka.com/intr/tashiro1/ 食べられるものはすべからく食べる
田代 「何でそんな当たり前のことを言うのか」ということです。
あいさつでも、日本人はすぐに「暑いですね」とか「暖かくなりました」とか天気の話をしますが、中国人は天候のことを挨拶に使いません。中国人にすれば「わかってるよ、同じところにいるんだから。そんなわかりきったことを口にすることに、なんの意味があるのか」ということです。 運営者 それじゃ話の接ぎ穂というのが・・・ 田代 彼らは話の接ぎどころが違うだけなんです。天気の話はしません。 中国のおもしろさは、あいさつをしないことにもあります。おはようもお休みも、ただいまも行ってきますもありません。なぜならば見れば明らかだから。 中国でただいまというのは、「私は来ました」で、答える方も「あなたは来ました」という言い方ですから、単なる確認事項ですよね。 運営者 「アイム・ホーム」に近い感じですね。 田代 おはようも言う必要はありませんよね。お互いの起きていることはわかるわけですから。 運営者 解らんでもないですけどね。 田代 中国の文化は日本とはコード体系が全然違うんですよ。 ただ問題は、日本人と中国人とが、同じ服を着て、お互いに黙って座っていたら、相手が日本人か中国人か、全然わからないですよね。それくらい、日本人と中国人とは、人種的には非常によく似ている。だから、日中双方とも、お互いに「そこまで言わなくてもわかるでしょ」と思っているわけですが、そこがお互いの国に行って暮らしている日本人と中国人にとっては悩みの種なんです。 運営者 なるほど。 話が戻りますが、「おいしそう」というのは褒め言葉なんですか。 田代 中国人が日本の家庭で飼われているチャウチャウ犬を見て、「あれは今、ちょうど食べ頃ですね。そろそろ食べるんでしょ?」「日本では食べないですよ」「なんてもったいない。それなら私がこれから料理して、田代さんにご馳走しますよ」「それはちょっとやめてください」なんて会話が実際にあるんです。 食べられるものは、すべからく食べようとしますね。 運営者 本当にテーブル以外の4つ足のものは食べるんですね。 田代 日本では、「人を食う」というのは人をバカにする意味ですよね。でも中国では実際に食べちゃうんです。 運営者 「水滸伝」の世界になってきたなあ。 中国人を食事に誘うときはよほど考えたほうがよい
田代 中国では、古代の王様が「美食に飽きた」と料理人に言ったら、料理人が自分の子供を調理して王様に差し出して褒められたというのが、忠義のエピソードとして伝えられていますよ。
あるいは、垓下の戦いで、大英雄である項羽が虞美人の行く末を嘆き哀しんだ歌は有名です。その後彼は自ら虞を刺し殺したのですが、その続きを読んでみると項羽は虞を食べちゃってるんですね。日本の漢文の教科書は、そこは省略してしまっています。 孔子の弟子で論語に最も頻繁に登場する子路は、衛の国の高官になったのですが、政敵に倒され、塩漬けの刑で「醢」にされてしまいました。孔子は嘆き哀しんで、自分の家にある醢、つまり塩漬け肉を捨てさせ、それ以降、口にすることはなかったと、伝えられています。 運営者 つまりそれまでは、人肉の醢を食べていたかもしれないのですね。 田代 それまで孔子が食べていた「醢」が人肉の塩漬けでなかったとは、『論語』にも『礼記』にも明記されていませんし、後世の儒家たちもその点を追求していません。喫人つまり人肉食は中国の文化ですから、喫人の経験の有無は、人物に対する評価の基準ではないのですね。 運営者 という文化であったということですね。 田代 善いか悪いかの問題ではないんですよ。喫人の習慣が有ったと中国を非難するのは、自分の民族が世界で一番というエスノセントリズム(自民族中心主義)でしかありません。 運営者 もちろん。文化的差異を論じているわけですから。 田代 重要なのは、それくらい、中国人にとって、食べることがとても大切だということなんです。 ですから、うかつに中国の人に、「食事をしましょう」と言わないほうがいいです。 運営者 なぜなんですか。 田代 中国人に対して「食事をしましょう」ということは、「あなたと私は、切っても切れない仲になりましょう」と誘っているのと同じことなんです。 最近はそうでもないようだけど、一昔前にしばしばあったトラブルで、こんなものがあります。中国人の女性の留学生が大学院でがんばっているんだけど、学力不足で博士号がとれそうもない。そこで、大学院の指導教授は、「研究者への道をあきらめさせ、転身を図らせたほうがいい」と考えている。そこで、その指導教授は中国人の女性大学院生を食事に誘い、そうした趣旨を伝えようとする。でも、これが、トラブルのもとになります。 日本の会社でサラリーマンが上司から食事に誘われると、「降格? 転勤? 下手すると解雇?」かとヒヤリとしますよね。ところが中国人はそうは思いません。食事に誘うことは、これから特別な関係になりましょうという意味か、特別な関係をこれからも継続発展しましょうという意味なんです。 運営者 へー。 田代 だから、日本人の指導教授から食事に誘われた中国人の大学院の女学生は、「一晩考えさせてください」と答えるわけです。そのうえで、「お受けします」となって、教授から指定されたレストランに向かう彼女は、「先生からプロポーズされるんだ」と思っているかもしれません。 食事の席で指導教授が「君の学力では博士号の取得は難しいから、別の道を考えたほうがいいよ」とか言っても、彼女の頭にはそんなことは入ってきません。食事に呼ばれ、それを受けているということで、頭がいっぱいになっているんですから。 しばらくして何が起きるか。彼女は大学の学長に、「私は○△教授から食事に誘われて応じたのに、いつまでたっても正式にプロポーズされません。今の奥さんと離婚したという話も聞きません。何ということでしょうか」と、ねじ込むことになるわけです。 ですから、中国でよく挨拶に使われる言葉に、「喫飯了◯」(チー・ファン・ラー・マ)があります。直訳すると「飯を食べましたか」ですが、単なる挨拶であって、食事に誘っているのではありません。日本人が「熱いですね」と挨拶しても、涼しい喫茶店に行きましょうと誘っているのではないのと同じです。日本人が同じ季節にいることを確かめ合うことで挨拶するように、中国人は同じく食後であることを確かめ合って挨拶しているのです。 自分が認めた人に対してはとことん礼を尽くす 運営者 中国では、親族以外の人と食事をするということは、とてもまれなことなのでしょうか?
田代 中国でビジネスをするとき、飛び込み営業をやると、「お話を聞きましょう。ああそうですか。分かりました。では、またね」と、あしらわれます。 それにも懲りずに何回か行っていると、そのうちお茶が出るようになります。 さらに頑張ると、お茶にお菓子がつくようになります。 もっと頑張ってると、食事に誘われます。それで、ようやく「商談に応じましょう」ということなんです。 運営者 なるほど。 田代 人前で一緒に食事をしているということは、「自分はこの人間と特別な関係にあると思われてもかまいません」という意味なんです。だから、中国ビジネスの第一段階は、相手を何とか食事に持ち込むことなんです。これが難しい。 そういうわけですから、男女であれば、食事を申し込むというのは大変なことなんです。 運営者 西洋でも、そういうことではあるんですけどね。 田代 それよりも、もっと重たいんです。日本は軽すぎますね。これも善い悪いの問題ではないですけど。 運営者 ということですね。 田代 それから、中国の宴会には決して二次会がありません。それは、食べるという瞬間を共有していることを大切に思っているからなんです。 運営者 大切に思っているのなら、二次会にも行けばよいのでは。 田代 二次会という言葉自体がないんですよ。 中国人は、人間と人間の関係を、ある意味で日本人よりもずっと大切にします。 「この人は自分の朋友(ポンヨー、友人)だ」と思った相手への友情は日本人以上に厚いです。 運営者 そのつながりの厚さというのは、どのようなものだと考えればよいでしょうか。 田代 あくまで、自分が認めた人に対しては礼を尽くすということです。 例えば上海に行ったときに、北京の友人に電話をしたら、ホントにやってくるんです。それで「実は私、すぐまた帰らなければなりません」といって、30分話しただけで、北京に帰っちゃうんです。 運営者 すごいなあ。というか、ちょっと重たい友情ですね。 中国の食事の席に取り箸がない理由 田代 そう。だから中国では、友達になるというのはそのくらい重たいことなんです。
友達になった中国人はこちらの無理をきいてくれます。しかし、むこうもこちらに無理をいってきます。どこまで無理をきいてやり、きいてくれるか。それが友情の尺度なんです。 だから、中国で会食は、お互いの人物を測りあう重要な場面であって、神経を使って、へとへとになります。 運営者 そうすると、日本人がそれを意識せずに中国人と会食するのはまずいですね。 田代 大変に軽蔑されます。 運営者 なるほど。 田代 テーブル・マナーも大切です。中国のテーブル・マナーでは、取り箸というのはないんです。自分の直箸で、相手が食べる分を取ってあげるんです。 運営者 あっ、さっき田代さんが私の分を取ってくれたのはそれですね。 田代 お互いがそうするわけです。 これは、ある意味では毒殺防止法でもあります。最初から取り分けてあったら、自分の皿に盛ってある料理にだけ毒が入っている可能性がありますからね。 運営者 日本の酒席のマナーでお流れ頂戴やら返杯やらをするのも、同じ理由です。 田代 ところが中国では、お酒は上から下に注ぐものなんです。上の立場のものが、下の立場の者にお酌します。 だから中国の宴会に行くと、そこにいる共産党の一番偉い人が、テーブルの間を走り回って、お酌しています。 運営者 日本人はそれを見て感動するかもしれないけれど、実は中国ではそれは普通なんですね。 田代 そうです。お互いがお酌をするということは、対等な立場であるということを表すわけですから。 運営者 日本ではお酌をしてもらうのは目上のように思いますが、中国ではそうではないわけですね。 田代 そうです。対等な関係にはなかなか持ち込めないです。 「自己人」=「刎頸の友」 運営者 中国の社会は、昔の日本と同様に、お互い同等の権利を持つ者が集まった社会ではなく、身分に上下をつけて固定化したがる社会という感じでしょうか。
田代 中国人は日本人とは違って、組織に何の執着もありません。 だから転職は当たり前だし、外国に移民することも当たり前なんです。自分の可能性を生かせる場所が中国よりも日本であるのなら、日本に行く。 その意味では、中国型組織というのはありえません。 運営者 では、個人の一対一の関係ではどうでしょうか。対等なパートナーというのはありえるのでしょうか。 田代 中国人の持っている人間関係の観念は、同心円状なんです。 つまり、まず中心に自分がいます。自分のすぐ周りには、「自己人」(ジー・ズー・レン)=「自己と同じ人」という、最も親しい友人が一人か二人います。これは、「自分と同じ人だと思ってもらってよい」、「この人とだったら、私は一緒に殺されても悔いはない」というくらいの友人です。 運営者 「刎頸の友」ですね。 田代 そうです。わかりやすいのは「三国志演義」に出てくる劉備と関羽と張飛との関係ですよね。 運営者 「桃園の誓い」ですね。 田代 彼らは居酒屋で意気投合し、裏庭に行って、「同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、願わくば同年、同月、同日に死せん事を」と誓います。これが「自己人」です。 その周りに、そこまでいかない友人がいます。「一緒に死ぬつもりはないんだけれど、利益は一緒にしよう」という人たちです。 そういうふうに、距離が遠くなればなるほど、だんだん扱いが落ちていきます。 これは非常に明確で、中国の人たちは、「この人は自分の自己人だ」と思ったら、どこまでも無理をききます。 たとえば、「今日は給料日ですよね。給料を全額貸してください」と言われた時に、何も聞かずにぽんと貸すのが自己人なんです。しかも一切証文など取りません。そこで証文を求めたら、その時点で自己人としての友情は終わりです。 運営者 なるほど、よくわかります。今のお話を知らずに「三国志」を読んでも、登場人物の行動がよくわからなくて、「なんでこんなに他人のためにバカみたいなことしてるんだろ」と思うところが多いのですが、今のお話で合点がいきました。 田代 自己人との約束は何があっても守る、それが守れないと中国人社会では生きていけません。 http://www.ikaganamonoka.com/intr/tashiro1/
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