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<コラム>日本人の私が中国人と長く付き合うことができるわけ 
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投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 2 月 13 日 02:11:50: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

中国は人口が多いので質の良い人間も質の悪い人間も日本よりは実数が多いのである。このような中で私は質の良い中国人と知り合うことが出来、付き合うことができているのは大変にラッキーと言えるであろう。資料写真。


<コラム>日本人の私が中国人と長く付き合うことができるわけ
http://www.recordchina.co.jp/b567635-s169-c30.html
2018年2月13日(火) 0時10分


この会社に就職してから数週間後だったか?中国広西チワン族自治区のこの会社の本部から新しい男性社員(T氏)が来日した。年齢は私と同じだった。日本語もある程度達者で頭の切れそうな男性だったが、彼が来てから1週間くらいしてから社員同士の世代の差というのか?私が会社にいると1日1回ほどT氏は年齢的には重鎮のJ氏といつも喧嘩をしていた。

何で言い争いをしているかは私には分からなかったが、後で2人が外に出かけた時に社長が私に「世代の差とも言うのか、仕方ないですね」と言っていた。さらに私が驚いたのが、J氏は当時の中国の国営企業の窓際社員だったことだ。私は「えっ?中国にも窓際社員とかいるんですか?」と訪ねたら、「いますよ。しかもある部屋にそういった仕事のできない社員ばかりを集めた部署というか部屋があって、みんな一日中新聞などを読んで時間を潰しているんです」ということだった。私は社長のこの話を聞いて、あー、だからJ氏はいつもここにいても新聞を読んでいる時間が長いのかと納得した。

そう言えば、私が入社して1、2カ月したころも電話をして、契約を取り付けるのはいつも社長で、J氏は電話に出てもいつも電話は社長に回していた。当時の私の中国語能力でもJ氏が電話で契約等の話をしていないことは分かっていた。そして、T氏は社長同様に契約にこぎつけるべく毎日奮闘していた。T氏はタルク(我々が使用しているベビーパウダーや化粧品のフェイスパウダーの原料になるもの)の担当であった。

T氏はとても気さくで優しいのだが、今で言うところのちょっとキレやすい性格でもあったのと当時は多少の自信過剰であった。だが、社長はそんな彼の性格もしっかりと把握していて操縦も上手かった。社長は何しろ余程の事がない限りキレるとか怒るということをしない人だった。T氏とJ氏が言い争いをしても最初は黙って聞いているが、2人の争いが終わったら社長が穏やかに、建設的に話をしていさめていた。後で社長は私に「もう、あの2人には困りますよー。T氏は若いからすぐにカッとするし、J氏は仕事ができないから…」とぼやきが入ることがあった。

ジェネレーションギャップは日本人中国人に関係なくあるようだ。だが、年齢的に間に挟まれた社長は大変そうだった。社長は当時40代前半くらいで、J氏は当時50代だったと思うので、年齢的に歳が下の社長にしてみたらちょっとやりにくかったのだと思う。

そして、ある日、社長がお客様のところに行っていたのか?今では具体的な記憶がないが、社長がオフィスにおらず、その時は私とJ氏の2人だけだった。すると、J氏は私に「オフィスの備品をもう少し揃えないといけないから、今カタログを見ているから、後でここに電話して注文してください」と言った。ただ、私は社長がいないのにいくらなんでも勝手に電話はできないので、電話をするふりをして、「電話がお話中で繋がらない」とJ氏に嘘を言ってその場をしのいだ。

そうしているうちに社長が帰ってきて私は事の顛末を話したら社長が「そうしてくれてよかったですよ。会社にも予算があるし、やたらに高いものを勝手に買われても困る。J氏はそのところが全く分かっていないから困ったもんです。ここは中国の国営企業とは違いますよ。J氏はまだそうした感覚が抜けていないのかもしれません」と再びぼやきが入った。と、私と話が済んだ社長はJ氏に改めて話をしていた。その話の中で社長はJ氏に「私が留守の時に勝手に備品を購入するよう彼女に言いつけないように!彼女も立場上困ってしまうのですよ」と言っていた。

こうした小さな争い事がここには多かったが社長のあのポジティブと言うのか?明るい性格が会社の雰囲気を良くしていた。会社では仕事の上でも多少のトラブルなどもあり、その上社員同士の争いの仲裁などもやらなければならない社長はとても大変そうだった。

私以外は皆中国人だったが、社長とT氏は同じ広西チワン族自治区の出身でJ氏は江蘇省の出身だった。広西チワン族自治区と江蘇省では言葉も風習も恐らくまるでと言って良いほど違うので、こうした地域性から来る気質が長い時間一緒にいれば出てくることもあるのだろうと私は客観的に感じていた。この地域性に加え年代世代の差が出て来るわけだから何か争いが起きたらそれは大変である。これをいさめる社長はもっと大変なのであった。

その点、私は1人だけの日本人だったのである意味気楽であった。おじさんばかりの職場だったが、女性ということで丁重に扱ってくれていた。仕事に関しては時には厳しく指導をされたが、これが後に私の生活で大変役に立つことになったので、今では社長には本当に感謝している。中国の習慣や決まりでわからない事があれば懇切丁寧に教えてくれ、ある日から社長の代わりに中国にFAXの文章を書いてくれ!と言われた時にも社長が「大丈夫、文法的に間違いがあれば私がちゃんと添削します。ここは良いでしょう?駅前留学のNOVAみたいで。アハハ!」と言ってくれた。あの時、社長の添削のおかげで貿易ビジネスの初歩の文章が書けるようになっていた。もう、ここに居たら実践あるのみで毎日が勉強だった。

反対に中国人の社長が日本人の風習などでわからない事は私に聞いていた。そうして両国の人種や文化と風習が入り混じったこの会社は私にはとても居心地が良かった。

だが、毎日が平和というわけでもない。トラブルも時々発生していた。そのトラブルのほとんどが中国側の不手際だった。日本ではおよそありえないような内容だった。社長も頭を痛めていたが、そこは社長の裁量でいつも円満に解決していた。

私のいた会社は中国からの鉱山物を日本の商社や企業に販売していたのだが、中国と日本の企業の間に立っているので双方からのコミッションをもらって会社の生計を立てていた。なので、契約上トラブルでもあろうものなら、こちらのミスでコミッションが減ってしまう可能性もあるのでもう解決には特に力を注いでいた。

中国からの鉱山物は中国の工場などで多少の加工をした後に中国の港から香港等を経由するか、中国の港によっては直接日本の港に到着していた。そして、日本の港に到着した後は日本の港で検品が行われ、契約書通りの内容かどうかをチェックされるのだが、数回この検品する中で重量が契約書と合わないことがあった。1キロ2キロ程度なら誤差ということで日本の企業も納得するのだが、100キロ単位で少なかったことがあり、日本企業からは当然クレームが入り、社長が中国側に連絡をして原因を探るととんでもない事がわかった。

それは、トラックで運ぶ際に運転手の休憩を狙って、情報を聞きつけた不届き者がトラックの積荷を抜き取ってしまうのであった(恐らくこの後転売する)。今なら良くテレビで紹介されるであろう内容である。中国ではこうしたことが当時割りと多かったようだった。

社長は当然頭を悩ませ、中国側の企業に事情と解決策を見出すべく交渉が始まる。その様子を私はいつも側で聞いていたのだが、中国人同士の交渉もこれまた一筋縄ではいかないこともあった。しかしそこは社長のあの持ち前の明るい前向きな性格と本来の実直な性格でいつも無事に解決していた。日本のお客様もそんな社長の事を理解してくれていて、次もちゃんと継続的に社長との取引をしてくれていた会社が多かった。

社長は明るく前向きな性格だが、ある日、私の親の世代でも経験したことのないような話を聞かされて驚いた。

社長は広西チワン族自治区の日本では全然聞いたことがない小さな村の出身であった。確か長男ではなく、末っ子だと聞いた。当時中国は大学の進学は今のように厳しくはなかったが、簡単に入れるものでもなかった。社長は北京大学の日本語学科にその村でただ1人入ったそう。当時の中国は“当案”と言って個人の情報が入った書類を持って大学入学や就職先に渡るのであった。個人情報と言っても単なる履歴書ではなく、家族構成、家族の思想や共産党などの忠誠心、本人の思想、宗教感などなど、日本ではおよそ記入されることのない、中国ならではの内容だ。社長の話だと試験も確かにやさしくはないが、この書類の中味が左右した可能性が高いという。

当時広西チワン族自治区の小さな村から中国の中央政府のある北京の北京大学(日本の東京大学に匹敵する)の日本語学科に入ったというのはもう村の自慢の男子であったに違いない。

そんな社長の大学生活は平和な学生生活ではなかった。あの文化大革命が起こったのだ。そのせいで学業は半ば中止になり、学生は文化大革命に翻弄されてしまった。あげくの果てに学生によっては下放(地方の農村に飛ばされ過酷な労働を強いられる)され、学生生活を謳歌(おうか)するどころか地獄であったに違いない。案の定社長も下放された。

中国全土は毛沢東一色になっていたという。それが証拠に社長に見せてもらった当時の中国語の辞書の随所には毛沢東語録が書かれてあった。毛沢東語録も見せてくれた。当時学生はこの毛沢東語録を全て暗記しなければいけなかったそうだ。今の若い世代の中国人には恐らく想像もつかないことである。私たち日本人にも想像がつかない。社長が学生時代の中国は今で言うところの北朝鮮の状況と類似しているかもしれない。

今の60代の中国人の青春時代は大変に過酷な時代であったと言えるので、この年代の中国人の多くは忍耐が備わっているように思う。恐らく過酷な青春時代で培われたものであろうと想像する。そんな過酷な時代を生き抜いてきたと思われる私の就職した会社の社長はいつもとても明るく、私がミスをしてしまった時も決して大声で怒鳴ったり、くどくどと無意味な事を言って説教したりるすことは決してなかった。沈着冷静に私に「人間は完璧ではありません。ミスはすることもあります。ミスをしたら今後は同じミスをしなければ良いのです。きちんと学習すれば良いのです!そして、分からない事があったら私や他の社員に聞けば良いのですよ!」と言ってくれた。

これは他の中国人社員に対しても同じで、決してアグレッシブになったりせずに、社長はいつも沈着冷静にどこが間違ってこうなった、今後どこをどう直せば良いのかをとくとくと説明していた。だから私ももう1人の男性社員もこの社長を全面的に信頼していた。

こうして私の会社員生活は4年以上が過ぎていた。私が入社して数年後、私は社長から「私の故郷の南寧に是非行って下さいよ!とても良いところですよ。近くにはあの有名な桂林もありますよ。もし、来てくれたら私の家内と娘に案内させますから!」と言ってくれ、私は母と母の友人と本当に行った。

そうして、現地南寧に到着すると社長の奥様と娘さんが迎えに来てくれた。そこでとても珍しい料理をご馳走になった。それは南の地方特有とも言えるかぼちゃの花と葉っぱの炒め物だった。後に他の地方の中国人に聞いたらそんな料理は食べたことがない!と言っていた。

この数年後、社長の奥様と娘さんは社長と暮らす為に日本に来日した。社長のご家族は私に対してもとても親切にしてくれて、娘さんはすぐに私と仲良くなってくれて友達のようになった。社長の一家はその後日本での永住権を取得し、娘さんにも妹ができた。上の娘さんは日本の大学に入り、しばらくは日本にいたがその後中国に帰国し、中国で結婚した。

そして、私もこの娘さんの結婚式に招待され、生まれて初めて中国人の結婚式に参加した。当時私は上海の暮らしを終えて、日本で生活し始め、私にも子どもが生まれていて、私は自分の子どもと一緒に彼女の住む南寧に行き、彼女の結婚式に参加した。彼女は私の子どもを見てとても感慨深そうにしていた。私が結婚する前、彼女は17才の高校生だった。年月が経ち、私は結婚し子どもができ、彼女も適齢期になり、結婚したのだから。

彼女は日本の永住権を持っているので結婚した後も1年に数回南寧から日本にやって来て両親の住んでいる家に来ていた。実はこの当時、私は上海での4年の駐在生活をするためにこの会社を退社した。そして駐在生活を終えてから子どもが生まれて、子どもが幼稚園に入園した数年後、社長から連絡があった。現在人手が足りないということで私に再び来てほしいということだったが、当時子どもがまだ幼稚園だったのと、幼稚園の迎えの時間が早く、仕事をしてしまうと時間のやりくりが難しいので社長に話したら「あーそれなら子どもの幼稚園が終わってからでいいのと、子ども連れで出社してくださいよ。うちにも小学生の次女がいるから2人で遊ばせたら良いんだし、そうしてくれますか?」と言われ私は再び元の会社で働くことになった。

結局社長と奥様のお言葉に甘えて週に数回子連れで出社して働いた。この後社長も奥様もある程度に年齢になったのと、奥様が腎臓を悪くされていて奥様も毎日会社に出て働く事がなかなか大変になったので、会社はたたむことになり、社長夫婦は日本で生まれた次女のために日本で生活していたが、この次女が高校生になった時に次女は全寮制の東京ではない高校に入学した。

社長夫婦は1年の半分を日本で過ごし半分を中国で暮らすという生活スタイルになっていったそう。私はこの後に数回社長ご夫妻を再会し、長女とも再会したが、最近はめっきり会う機会がなく、今では専らSNSで長女と会話をしている。

私が今でも中国人と長く付き合うことができるのも、北京の姉さんとこの社長一家との出会いのおかげと言える。もし、私の雇い主の中国人が拝金主義とか日本を理解しないような人だったら私も多分すぐに辞めていたのかもしれないが、あの穏やかで明るい社長とそのご家族に支えてもらい、仕事を教えてもらったおかげで私の中国人に対する印象はちまたの日本人が抱く印象とは違う意味で良いものとなった。

中国は人口が多いので、質の良い人間も質の悪い人間も日本よりは実数が多いのである。このような中で私は質の良い中国人と知り合うことができ、付き合うことができているのは大変にラッキーと言えるであろう。一つ言えるのは、どこの国の人間に限らず、質の良い人間と付き合う為には自分自身も質を良くする必要があるし、特に外国人と付き合うにはやはりお互いに相手の国の事を理解しようという姿勢が1番大切だと思う。

■筆者プロフィール:茶妹小丸子
1967年生まれ。千葉県出身。中国浙江省杭州大学(現浙江大学)漢語進修コースに1年留学。広西チワン族自治区外貿公司駐日本代表事務所に5年の勤務、上海に4年間駐在した経験を持つ。バリバリのキャリアウーマンでもない、半分パートタイムで半分専業主婦が30年間自分の目で見て聞いた事を日本の皆さんに紹介できたら!と思っている。


 

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