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前回の中国人女性との出会いからおよそ2年経たない頃、私は中国浙江省の杭州大学(現在の浙江大学)の漢語進修コースに入った。ここでの留学生活もさることながら、私は1年の留学生活中に中国の数カ所の都市に行った。写真は大連の空港。
<コラム>私を家に招待してくれた中国人に禁断の質問、その答えは…
http://www.recordchina.co.jp/b428727-s169-c30.html
2018年1月13日(土) 13時30分
前回の中国人女性との出会いからおよそ2年経たない頃、私は中国浙江省の杭州大学(現在の浙江大学。浙江大学と杭州大学が吸収合併された)の漢語進修コースに入った。ここでの留学生活もさることながら、私は1年の留学生活中に中国の数カ所の都市に行った。その中で、私はあの日本で知り会った、北京の中国人女性(以後北京の姉さんと呼ぶ)の実家である大連に遊びに行った。
留学生活中に北京の姉さんの家に行った時に来ていた姉さんのお母さんが、「今度大連にも遊びにおいで、待っているから」と言ってくれていたのだが、社交辞令とか挨拶代わりかな?としか思っていなかったのでその時は聞き流した。そうしたら、ある日手紙が来た。手紙には、「いつ大連に遊びに来るのか?」と書いてあった。「えーーーーーー?あれって社交辞令とかじゃなかったの?」とびっくりして、返事を書いた。
返事を書く前に、杭州―大連の交通等を調べた。そうしたら、当時杭州大連便の飛行機は週に1便しかなかった。つまり、大連に行ったら杭州に帰るのは1週間後ということになる。それはとてもホテルの滞在費やなにかも大変だし、困った!どうしよ?と思いその旨を手紙の返事に書いた。そうしたら、大連から返事が来て、「1週間私たちの家に滞在したら良いだけのこと。だから心配しないように!」という内容であった。
「えーーーーーー!」とまたまた驚いた私であったが、あちらはどうやら社交辞令ではなさそうなのでとりあえず飛行機のチケットを手配し、大連行きを実現することになった。実は当時留学しに来たものの、中国語を話す機会は授業で中国人教師と話すか、街に買い物に行くくらいで、期待していた中国の学生とはほとんど話す事がなかったから「こんなんで中国語上達するのか?」という思いもあった。
当時は中国人と交流するというのが困難だった。それは当時の中国の事情が大きく関係していたからだ。当時は、中国人が外国人と接触することを陰でしっかり管理監督されていた。中国人の学生等が我々外国人の留学生楼(建物)に来て、我々の部屋に到達するまでの間の過程でまず、彼らは受け付けで自分の身分証明書を預けていかなければならない。そして、彼らの身分証明書の詳細は留学生楼の受付の人間により事細かに記録され、その内容は公安当局に提出される。さらには受付ではどの中国人がいつどこの部屋に出入りした、誰と誰が交際している等の細かい事が記録簿に記載されていた。何故このようなことを私が知っていたかというと、たまたま受付の管理人さんに10分程留守番を頼まれた際に例の記録簿が私の目の前にあり、私はこっそり見てしまったからだ。うわさに聞いていたあの記録簿だった!
そんな状況の中、北京の姉さんのお母さんから大連行きの誘いが来て、私はこれなら中国人とじっくりと交流ができるかもしれないという期待もあって、大連行きを決行することにしたのだった。
大連空港に到着すると、北京の姉さんの両親と姉さんの弟さんが迎えに来てくれていた。姉さんのお父さん、姉さんの弟さんには初めて会った。私が到着し、近寄って行くと姉さんのお母さんはとても喜んでくれた。私は手紙でも書いた通り、杭州―大連の便は週に1度しかない、「杭州に帰るのは1週間後になってしまうが、本当に良いのか?」と再度念押ししたら、「全然問題ないから、そんなこと心配しなくていいいから!」と言ってくれた。
そして、当時の私は知らなかったのだが、30年前、中国では外国人は中国人の家庭に宿泊するのはご法度。私はそうとも知らずに1週間も宿泊していた。それを知った時にはちょっと恐ろしくなった。あの当時もし、誰かが公安に密告でもしたら、北京の姉さんの両親は公安に連行され、大変なことになっていたかもしれなかったからだ。
そんなことはおかまいなしとばかりに、北京の姉さんの両親と弟さんは私の大連滞在スケジュールを着々と計画していた。そして、北京の姉さんには姉さんがいることも判明した。知的そうな穏やかな大きなお姉さんだった。だから、北京の姉さんは次女になる。
当時の中国人の住宅事情は今の中国からは想像できないほどすごい環境だった。狭いし、衛生的な住環境とはとても言えなかった。さらには、食料事情も今のように豊富ではなかったが、大連は海に面しているので海産物は当時でも豊富だった。
私の部屋には暖かな布団がちゃんと用意されていて、部屋も暖かかった。そのうちに大きなお姉さんも来て、私のために滞在活動スケジュールを立てようということになり、家族会議が始まった(笑)。
もう、私は何が何だかわからないので、黙って見ているだけだった。当時北京の姉さんの弟さんは日本企業のキャノン大連支社に勤めていた。だからか?日本語も多少話せていた。そして、日本語を少し話せる人がもう1人いた。それは姉さんのお父さんだ。
当時の60代の中国人ではそう珍しくないのかもしれないが、北京の姉さんのお母さんによると、あの第2次世界大戦の当時、大連の両親の住んでいたアパートには日本人の家族も何世帯か住んでいた。その当時、国民にとっては生きて行くことが困難な時代だったので、日中両国政府が如何にいがみ合おうとも、国民はそんな事とは裏腹に、相手が中国人だろうと日本人だろうと助け合って生きていたという。「だから、私たちは日本人の素晴らしさも知っているから、政府が言うような残虐だとかは信じてはいない」と言っていた。
そうした事情や環境からお父さんは日本語も耳にしていたのか、結構単語を知っていた。私が持っていた地球の歩き方を見て、日本語を読み出していた。そんな日本びいきと言える北京の姉さんの家族であった。
そして、私はついに禁断の話題を口にした。もうズバリフィルターをかけないズバリ直球の質問だった。それは「過去には日本は中国に侵略して、中国の国民に嫌な思いをさせました。だから、中国の国民やあなたたちは日本人に対しての感情は良いものではないでしょう?なのにどうして私に大連に遊びに来て!なんて言ったのですか?」と婉曲表現はまるでない、直球質問。
この私の質問に大連のお母さんは「そりゃー、戦争はとても辛いし悲しい、しかし、これは国民の責任ではない、政府同士のこと。さらに私は当時日本人とも交流があったから、日本人がとても素晴らしい民族だということを知っている。だから嫌いということはない。第一、もし、私たちが日本や日本人が嫌いなら、自分の娘が日本に医学の勉強に行きたい!と言った時に賛成するはずがないよ」と言っていた。そりゃーそうだ!
さらに、お母さんは「そうそう、私の娘が日本に滞在中はあなたのお父様をはじめ、ご家族に本当にお世話になっているそうだね。本当に有り難いことだよ。どうやって恩返しをしたら良いのやら?と思うけど思いつかない。だからせめてあなたが大連にいる間は自分たちと一緒に楽しんでもらいたいし、あなたを自分の子どものように思いたい!」と言ってくれた。この言葉を聞いてなんか涙が出そうになった。中国人ってこんなにも情が熱いんだなー!とあの当時にも感じていた。そして、私の大連1週間ホームステイが始まろうとしていた。
■筆者プロフィール:茶妹小丸子
1967年生まれ。千葉県出身。中国浙江省杭州大学(現浙江大学)漢語進修コースに1年留学。広西チワン族自治区外貿公司駐日本代表事務所に5年の勤務、上海に4年間駐在した経験を持つ。バリバリのキャリアウーマンでもない、半分パートタイムで半分専業主婦が30年間自分の目で見て聞いた事を日本の皆さんに紹介できたら!と思っている。
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