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(回答先: 特攻隊員は「志願して死んでいった」のか 投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 11 日 06:04:48)
昭和天皇の特攻命令で無意味な特攻をせざるを得なくなった
2014年9月、宮内庁が公開した『昭和天皇実録』(『実録』)には以下の記述がある(1945年3月26日の項)。
「御文庫において軍令部総長及川古志郎に謁を賜う。なおこの日午前十一時二分、聯合艦隊司令長官は天一号作戦の発動を令する」と記されている。「天一号作戦」とは、沖縄方面での航空特攻を主体とするもの。及川が作戦の詳細を説明したとみられる。
さらに4日後の30日、天皇は及川に会い「天一号作戦に関する御言葉への連合艦隊司令長官よりの奉答を受け」(『実録』)た。
及川が答えを言うからには、昭和天皇から何か質問されたはずだ。『実録』はその内容を記していない。しかし、その会話をうかがうヒントがある。宇垣纏(まとめ)海軍中将の日記『戦藻録』だ。1945年4月7日、つまり「大和」が撃沈されたその日に以下の記述がある。
「抑々(そもそも)茲(ここ)に至れる主因は軍令部総長奏上の際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ」
宇垣によれば、沖縄の作戦に関し及川から説明を受けた天皇は「航空部隊だけか」という趣旨の「御下問」をした。「水上部隊はどうするのだ。『大和』は出撃しないのか」と催促したわけではない。しかし、及川は大元帥=昭和天皇の意志を忖度した。それが第二艦隊の特攻につながったとみられる。
とはいえ、昭和天皇の言葉だけで特攻が決まったわけではない。前述のように、もともと海軍の一部には、「大和」を特攻させたい勢力があった。昭和天皇の一言は、そうした勢力を後押ししたのだ。
しかし、第二艦隊は特攻に納得しなかった。連合艦隊からは説得のため、草鹿龍之介参謀長(中将)を山口県・徳山沖に停泊する「大和」に向かわせた。納得しない伊藤らに対し、草鹿は言った。
「要するに、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」
一億=国民すべてが本当に特攻したら、国家も民族も消滅する。それでは戦争を続ける意味がない。「一億総特攻」は比喩でしかない。草鹿の言葉はおよそ論理的ではないが、論理を超えた説得力があったようだ。「とにかく特攻したほしい」。そういう連合艦隊の本音に対し、伊藤は「そうか、それなら分かった」と応じた。
自分の命が削られていく音
1945年4月6日、午後3時45分。豊田連合艦隊司令長官は第二艦隊に電文を発した。
「(前略)帝国部隊ハ陸軍ト協力 空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル攻撃ヲ決行セントスル。
皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ 茲ニ殊ニ海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタル(後略)」
この「特攻」を「命令」していることを確認しておきたい。というのは戦後、特攻を指揮した将官などが「特攻は兵士たちの意志だった」といった旨の発言をし、今日に至るまでそう信じられているむきがあるからだ。
自らの意志で特攻に飛び立った兵士は、確かに多かった。しかし、そうではない兵士もたくさんいた。
筆者はこれまで、実際に特攻で出撃した兵士30人に取材してきた。この中に、特攻するかしないか選択を任された者は1人もいなかった。特攻「大和」艦隊の人々がそうであるように、初めから特攻と決まった「作戦」に送り出された者がいたのだ。
根拠もなく「意志だった」と言い張る将官は、そうでないと自分の責任が追及されることを恐れてのことか、そうでなければ自分に催眠術をかけて罪の意識から逃れようとしたのだろう。
艦隊による「特攻」を知った「雪風」の西崎さんは、居住区で瞑想していた。
「父の形見の腕時計をしていたんです。ふだんは聞こえない、『カチカチ』という音、秒針の音が聞こえました。自分の命が削られていく気がしました」
1942年に海軍特別年少兵一期生として入団した西崎さんはこのとき19歳。「酒も女も知らないで死ぬのか」と戦友に話すと「俺は国のためではなく、家族のために戦う」と言った。「おれも家族、それに友だちのために戦おう」と応じた。
同4月6日、前述の10隻からなる第二艦隊が沖縄を目指して山口県・徳山沖を出撃した。開戦前、米英とならぶ世界屈指の軍事力を誇った帝国海軍が、最後に送り出した艦隊となった。沖縄の陸軍は米軍に押されつつあったが、翌日反転攻勢に出る計画であり、特攻「大和」艦隊はこれに呼応する狙いもあった。
連合艦隊の方針では、航空機による援護はしないことになっていた。だが翌7日、かつて「大和」に乗っており、この時は鹿児島県鹿屋を基地とする第五航空艦隊司令長官だった宇垣は、自身の判断で特攻「大和」艦隊の直衛機を出した。しかしわずか10機。時間は午前6時から10時までだけだった。
そのわずかな護衛機がいなくなるのを見計らったように、米軍機の空襲は正午ごろから始まった。それ以降の凄惨な戦闘については、拙著『戦艦大和 生還者たちの証言から』(岩波新書、2007年)を参照して頂きたい。
水上特攻の成果は…
「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が戦死した。生還者は276人。一割にも満たなかった。軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「磯風」、さらに「濱風」「朝霜」「霞」も沈んだ。艦隊全体では4044人が死んだ(前掲『戦艦大和 生還者たちの証言から』)。たった。
この水上特攻で米軍が直接的に被ったのは戦闘機3、爆撃機4、雷撃機3の計10機の損失と戦死が12人。これが「大和」以下六隻と、4044人の命と引き替えた、直接的な戦果である。鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。沖縄を取り巻く米軍を蹴散らすどころか、敵艦の陰すらみることはなかった。
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特攻作戦の人間学:戦艦大和の場合
昭和天皇の特攻命令を誰も拒否できなかった
1945年4月6日,第二艦隊司令長官・伊藤整一中将座乗の巨大戦艦「大和」は,9隻の艦艇をしたがえて徳山沖を出航,沖縄本島西部海域をめざす征途についた。連合艦隊の生き残りをあつめた最後の艦隊出撃である。作戦計画では航空機による護衛は皆無。燃料は全艦片道分しか搭載せず,生還を期さない海上特攻であった。
作戦構想の内容とは,はじめ敵迎撃機の攻撃を吸収する海上の“囮”となって特攻機の突撃を助け,次に敵上陸地点へ殴り込んで徹底的な艦砲射撃を加え,最後に銃をとって陸上戦をたたかう,というものであった。しかしこんな計画が実行できるはずはない。実際,南西海域の制空権と制海権はすでにアメリカ側に握られている。その海域を,わずか10隻の残存艦隊が航空機による護衛もなく進攻すればどうなるかは問うまでもない。出撃命令の下命以前から,伊藤・第二艦隊司令長官は断固反対との意見具申をおこなった。
伊藤中将の頑強な反対を異例の事態と認めた中央は,説得のための特使として,連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将を派遣, “説得”は成功した。しかしそれは,「一億総特攻の模範となるよう,立派に死んでもらいたい」という言葉によってであった。
本作戦発動の一週間前,及川軍令部総長が沖縄方面の戦況ついて,「航空機による特攻攻撃を激しくやります」と天皇に報告した。
すると天皇から重ねて,
「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」
と“御下問”があった。及川総長はこれを
「水上部隊は何をしているのか」
という叱正の言葉と解した。
及川総長から連絡を受けた豊田連合艦隊司令長官は,さっそく
「畏レ多キオ言葉ヲ拝シ恐懼二堪エズ」
にはじまる緊急電を発し,あくまで作戦の完遂を期すべし,と呼びかけた。
「海上部隊はあるか?」
という疑問の言葉は
「あるなら使ってはどうか」
という間接的・暗示的命令として解されうる。
「海上部隊はないのか?」
という否定疑問文では,こうした間接的・暗示的命令性がいっそう強まるだけではなく,
「あるのになぜ使わないのか!」
という“叱正”のニュアンスまでが加わってくる。
こうして及川総長と海軍首脳部は
「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか?」
という“御下問”を深読みし,そこにまず
「あるなら使ってはどうか?」
という間接的・暗示的な命令を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて,空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。天皇に対しても,特攻機に対しても面子まるつぶれではないか。間接的・暗示的な命令は
「あるのになぜ使わないのか!」
という“叱正”と解され,“恐懼”の感情を誘発し,海上部隊活用への「焦り」を生む。
海軍上層部の空気は変化し,ついには海上特攻艦隊という構想へ到達したと推定されるのだ。それだけではない。天皇の発言を契機として生じた海軍上層部の空気のこうした変化こそが,草鹿特使の“説得”の真の内容であったと推定することによって,伊藤中将の態度急変の謎も初めて解けるのだ。
こうして,戦艦大和がひきいる10隻の特攻艦隊は,死の南西海域へ向って出撃して行った。
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