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軍艦島での朝鮮人徴用工への差別と虐待
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 08 日 15:24:13: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 慰安婦強制連行・吉田証言はやはり事実だった 投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 08 日 09:42:48)

軍艦島での朝鮮人徴用工への差別と虐待
歴史的事実を否定する「産業遺産情報センター」
世界文化遺産に登録された軍艦島(端島)などの解説を行う施設「産業遺産情報センター」が15日から一般公開された。しかし、懸念されてきたとおり、朝鮮人徴用工への差別や虐待はなかったとする展示内容になっている。ネトウヨサイトならともかく、よりによって政府が運営する施設で歴史的事実を歪曲する展示を行っているのだ。

元島民が「差別はなかった」と言っているから差別はなかったというトリック
また、情報センターでは差別や虐待を「経験しなかった」「聞いたことがない」という一部元島民の証言を引用して差別・虐待はなかった、としているが、これは歴史的事実を否定する手段としてよく使われるトリックに過ぎない。加藤センター長は「虐待を受けたという証言はなかった」などと言っているそうだが、あらかじめ以下のような当事者証言を排除しておいてこんなことを言うのだから話にならない。

徐正雨(ソ・ジョンウ)氏(1928年生れ、2001年死去)証言:[3]

 (略)忘れもしません、一四歳のときです。面(村)役場から徴用の赤紙がきて、私は日本に連行されてきたのです。徴用といっても、突然の強制であり、手当たり次第の強制連行と同じです。お分かりでしょう、一四歳といえば、今の中学二年生ですよ。(略)旅館に一泊し、翌朝、トラックを何台も何台も連ねて、長崎から諌早くらいの距離を行き、そこからは汽車で釜山へ運ばれ、連絡船で下関に着きました。そして夜行列車で長崎へは朝着きましたが、ここに連れて来られたのは三〇〇人ほどで、その全員が大波止から終着地の端島へと送られたのです。

(略)

 ごらんのとおり、島は高いコンクリートの絶壁に囲まれています。見えるものは海、海ばかりです。こんな小さな島に、九階建ての高層ビルがひしめいています。(略)私たち朝鮮人は、この角の、隅の二階建てと四階建ての建物に入れられました。一人一畳にも満たない狭い部屋に七、八人いっしょでした。外見はモルタルや鉄筋ですが、中はボロボロでした。私が入れられたのは、ここです。この室番B一〇二とあるこの部屋です。(略)私たちは糠米袋のような服を与えられて、到着の翌日から働かされました。(略)

 この海の下が炭坑です。エレベーターで竪坑を地中深く降り、下は石炭がどんどん運ばれて広いものですが、掘さく場となると、うつぶせで掘るしかない狭さで、暑くて、苦しくて、疲労のあまり眠くなり、ガスもたまりますし、それに一方では落盤の危険もあるしで、このままでは生きて帰れないと思いました。落盤で月に四、五人は死んでいたでしょう。今のような、安全を考えた炭坑では全然ないですよ。(略)こんな重労働に、食事は豆カス八〇%、玄米二〇%のめしと、鰯を丸だきにして潰したものがおかずで、私は毎日のように下痢して、激しく衰弱しました。それでも仕事を休もうものなら、監督が来て、ほら、そこの診療所が当時は管理事務所でしたから、そこへ連れて行って、リンチを受けました。どんなにきつくても「はい、働きに行きます」と言うまで殴られました。「勝手はデキン」と何度聞かされたことでしょう。(略)仲間のうち自殺した者や、高浜へ泳いで逃げようとして溺れ死んだ者など、四、五〇人はいます。(略)島にいた同胞の数は、私たちより先に二〇〇人ばかりいましたから、合計で五、六〇〇人だったでしょう。上下各五室の二階屋一棟と、各階五、六室の四階建て四棟に詰め込まれていました。あの同胞たちのことを思うと、いつまでも胸がしめつけられる思いがします。軍艦島なんていっていますが、私に言わせれば、絶対に逃げられない監獄島です。

チェ・チャンソプ氏(1929年生れ)証言:[4]

 ーーいつ、どのようにして日本へ連行されましたか。

 一九四三年二月、小学校を卒業して高等国民学校に通っているときだった。まだ一四歳だった。(略)学校で木銃を持ってする青年訓練の最中にいきなり捕まえられて、益山の郡庁に連れていかれた。郡守の林春成が私を見て「なぜこんな子供を連れてきたのか」と職員を叱りつけたが、「人数を満たすため」ということで、そのまま一晩都庁に寝かされ、翌日、咸悦駅から汽車で釜山へ運ばれた。

(略)
 ――端島へはどのようにして行ったのですか。

 釜山からは日本人が引率して連行した。(略)端島がどんな所か何も話さず、無条件に良い所だと騙して、あの手この手で逃亡を防ぎながら連行した。恐ろしい炭鉱と知っていれば、逃げ出さなければならなかったのに。私は国民学校で一番なり二番で、日本語もよくできたし、字も書けたので、逃げようと思えば逃げ出せたのに、その機会を逃してしまった……。

 ――端島に着いてから、どうなりましたか。

 島の北側中央部にある九階建の建物(略)の地下一階に、三室に分けて約四〇名が入れられ、(略)日差しも入らない部屋で湿気がひどく、きつい仕事から帰って風呂に入り、いざ眠ろうとしても汗がだらだら流れて眠れなかった。

 ――どんな労働をさせられたのですか。また労働現場はどんなところでしたか。

 石炭を掘り出す仕事、採炭だ。わずか一週間だけ採炭現場を見学させて、仕事に就かせた。一番方、二番方、三番方というふうに三交代で一日一六時間労働のときと、二交代で一日一二時間労働のときとあった。(略)汁かけ飯一杯食っただけで長時間働くのだから、みんな栄養失調状態になった。仕事が終わって、七メートルはある防波堤の上に毛布を敷いて体を休めていると、脚が痙攣を起こした。周りで「俺、死にそうだ」という呻き声も聞こえた。(略)

(略)

 ――島から脱出した人はいなかったのですか。

 いたけれども、ひどい目に遇った。木浦や井邑の水泳が上手な人たちが丸太で筏を作り、海を渡ろうとしたが、途中で疲れ果てて捕まったり、陸地まで行って捕まった人もあり、ゴムのチューブで皮膚も剥げるほど叩かれた。悲鳴を聞いて駆けつけた私たちの目の前でさんざん拷問された。六七号棟のところに当時あった空き地でのことだ。大体二名ほどで、彼らは投獄されたらしく、島からいなくなった。(略)

 ――抵抗事件などはなかったのですか。

 そんな余地はなかった。生きるか死ぬかの岐路に立たされ、「生きていたくも死にたくもなし」という気持ちで、刑務所に閉じ込められているのと同じだった。

ここで種明かしをしておくと、端島には彼らのように強制連行された人々だけでなく、もっと前の時点で日本に移住し、端島には単身または家族連れで、いわば「出稼ぎ」のような形で働きに来ていた朝鮮人たちもいた。そうした人たちは島を出る自由もあり、労働条件もましだったのだろう。だから「景気が良く、家族連れで来た」「みんな友達。差別したことはない」などという元島民の「証言」は、本人にとっては嘘ではないとしても、強制連行被害者たちの体験した現実とはかけ離れたものなのだ。

端島には約1000人(隣の高島炭鉱には約3000人)の朝鮮人が連行されたと推定されているが、彼らは海が荒れれば潮をかぶるような最下層の部屋に閉じ込められ、わずかな食料で過酷な炭鉱労働に従事させられ、病気で休みたいと言えばリンチされ、耐えられずに脱出しようとすれば見せしめに拷問された。これを差別や虐待がなかったなどと言う日本政府・情報センター関係者は恥を知るべきだ。  

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