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IQが低い糾弾者に何を言っても理解されない理由
「価値感」は外国と日本の文化的な違いだけでなく、日本人同士でも違いがいくらでもある。自分や相手が育ってきた時代や、育った場所や、育った環境や、親の性格で、ライフスタイルも考え方も、まるっきり違ってしまう。だから、同じ日本人でも年配の人と若者とは話す言葉も違えば、考え方も違う。
価値観の相違は話し合っても直らない
日本人は最近になってやっと「価値感の相違」は埋められないことがあると理解するようになった。文化の違いや性格の違いは時には克服できないこともある。
たとえば、誰かが詐欺で騙された場合、日本人は「騙す方が悪い」と思うが、中には「騙される方が悪い」と被害に遭った側を嘲笑する民族や性格の人がいる。
日本人は「宗教を盲信して殺し合うのは無意味だ」と思うが、中には「自分の神が冒涜されたら死ぬまで戦う」と毅然と宣言する民族や性格の人がいる。
同じ日本人の中にも「日本が培ってきた伝統や文化が何よりも大切」と思う人もいれば「日本の伝統や文化は捨ててグローバル化を受け入れる方が大切」と思う人もいる。
経済的にも、「したいことを何もしないで金を貯めるより今を楽しむ方が大切」と思う人もいれば「したいことを何でもするよりもきちんと貯金する方が大切」と思う人もいる。
こうした「価値感の相違」で対立した場合、どんなに時間をかけて話し合っても無駄なことが多い。価値感はすでにその人の無意識のレベルにまで落とし込まれており、話し合ったくらいで変えられないのが普通だからだ。
まして相手に「変えろ」と言われたら、よけいに変えられない。反発や怒りが先にくる。
人間は自分が培った価値観を容易に変えられないし、それがアイデンティティに関わってくるものであれば、変えろと言った相手を暴力で封じ込めるというようなことすらも起きるのだ。
民族レベルで価値観の相違が深刻化すると、やがてそれは国家と国家・民族と民族の対立と衝突となって、何らかのきっかけで火が付いた瞬間に戦争という形になって暴力が吹き荒れる。
「それが駄目だ」という文化では育っていない
少しでも海外に出たことがある人は、その短い体験だけでも身に染みて学ぶのは、価値感が違うと「いくら話しても溝が埋まらない」ということだ。
言葉が通じていなかったとか、誤解されて納得されたというのではなく、しっかりと事実確認をしたにも関わらず、分かってくれない。
たとえば、カンボジアで現地の女性とホテルにいたとき、彼女は果物のゴミを平気で床に投げ捨てた。あるいは、バラック小屋に住んでいる貧しいカンボジア女性と一緒にいたとき、彼女たちは平気で床にツバを吐き捨てた。
インドでもゴミはどこでも捨てるのが普通だし、駅のホームで列車が来るのを待っている女性が、線路に向かってツバを吐く姿も珍しくない。
私が好きだったスリランカの女性リーパは、煙草を吸い終わると、それを浴槽に投げ捨てていた。シャワーを浴びるときは、もちろん吸い殻を捨てた浴槽を使う。(ブラックアジア:リーパ。ゲイランの街に立つ女の凶悪な目付きに惹かれた)
彼女たちにとってゴミは床に捨て、煙草は浴槽に捨て、ツバはどこでも好きに吐けるものだったのである。
煙草をところ構わず捨てるインドネシアの男も、食事中に口に入った骨の欠片をテーブルの下に吐き捨てる中国人も、ビニール袋を道路にポイ捨てするインド人も珍しくない。
それが良くないと言えば、私に配慮して恐らくその場では止めるだろうが、翌日には何事もなく煙草の吸い殻を捨て、口の中のものをテーブル脇に吐き捨てるだろう。
なぜなら、彼らは「それが駄目だという文化では育っていない」からだ。価値感が違っていて、彼らにとっては煙草の吸い殻を気軽に捨てられないことが変なのだ。
逆に日本人に、「ゴミをところ構わず捨ててもいい」「煙草の吸い殻も好きに捨てていい」「口の中のものも吐き捨てていい」と言っても、やらない人のほうが多いと思う。
なぜなら「それが駄目だという文化で育った」からだ。ゴミをところ構わず捨てる彼らの前では、それをしない私が異常なのである。
価値感の相違は、ありとあらゆる部分に存在する
ゴミに対する感覚は、無限の「違い」のうちのひとつである。「価値感」というのは、こうした細かいところでひとつひとつ違っている。
「価値感」は外国と日本の文化的な違いだけでなく、日本人同士でも違いがいくらでもある。
自分や相手が育ってきた時代や、育った場所や、育った環境や、親の性格で、ライフスタイルも考え方も、まるっきり違ってしまう。だから、同じ日本人でも年配の人と若者とは話す言葉も違えば、考え方も違う。
若者がいくら「今はこうだ」と言っても年配者は理解できないかもしれないし、逆に年配者がいくら「そんなことをしては駄目だ」と言っても若者には理解できない。
世代間の価値感のギャップは、年が10歳違えばまったく違うと言われている。好む音楽も、好むファッションも、別人種のように違ってしまっている。
タトゥーやマリファナに関しても、ある人がどれだけ嫌悪しようと、ある人は「それがクールだ」と真逆の価値感であるかもしれない。今後は、コロナ以前とコロナ以後で世代ギャップの常識が違ってしまうこともあるだろう。
こうした価値感の相違は、どれだけ話しても溝が埋まらない。理解どころか、お互いに相手への拒絶感の方が先に立って歩み寄れない。
スポーツが好きな人は、晴れた日に勉強している同級生が理解できない。目的があって勉強している人は、晴れているからと遊び呆けている同級生が理解できない。
自営業の人間は、人に使われて暮らしているサラリーマンが理解できないし、サラリーマンは生活が不安定な自営業の人間が理解できない。
男は女性が細かいことを気にするのが理解できないし、女性は男がすべてに大雑把なのが理解できない。価値感の相違は、ありとあらゆる部分に存在する。
もし自分の人生の重要な部分で相手と価値感が違えば、自分も相手もそれが譲れないのであれば、いくら時間をかけてもうまくいかない可能性の方が高い。
自分の好きにやって理解されないほうが精神的に楽
価値感の違う相手を変えようと思っても変えられないことの方が多いし、無理に変えさせようとすると激しい対立や衝突を生む可能性もある。
それが相手によって大切な価値感である場合、それを変えさせるというのは相手のアイデンティティを崩壊させるも同然だからである。
だから、現実問題としては、「どうしても、価値感の違う人がいる」ことを受け入れるしかない。そうした人を変えられるとは思わないほうがいい。
イスラム原理主義の男に「女性の自由」をいくら説いても絶対に理解しないはずだ。逆に欧米の女性に「男尊女卑」を説いても絶対に理解しないはずだ。互いに「そんなものを理解するくらいなら死ぬ」と言い出すはずだ。
価値感の相違というのは、そういうものなのだ。だから、世の中のすべての人の価値感が理解できると思ってはいけないし、逆に自分の価値感がすべての人に受け入れてもらえると思ってもいけない。
絶対に受け入れられない価値感を持つ人が世の中にはいるし、逆に自分の価値感を絶対に受け入れてくれない人もいる。それが現実だ。
しかし、別に悩む必要はまったくない。今の価値感で特に日常生活に支障がない限りは、自分自身を変える必要はない。自分のやりたいようにすればいいし、自分が心地良いと思う考え方をすればいい。
相手がそれを受け入れてくれれば嬉しいことだし、受け入れてくれなければ、それはそれでいいと思うべきだ。
相手の価値感が納得できなければ去ればいいし、相手が自分の価値感を受け入れてくれなければ、受け入れてくれるところにいけばいい。そこに固執する理由はない。
自分の価値感が日常の社会的規範から逸脱していないのであれば、その範囲で自分が何をして、何を考えて、何を信じて、何を好きになってもいい。理解してくれない人に理解してもらう必要はない。
相互理解に向かって努力するのは、徒労に終わる確率が高いし、難関度が高い。相手を変えるのも自分を変えるのも難しいのだから、自分を歓迎してくれるところに行く方がずっと早いし合理的でもある。
自分の居場所を見つけて好きにやればいい。つまり、フランク・シナトラの如く、我が道(マイ・ウェイ)を行けばいいということだ。他人の価値感に合わせても無駄なのだから……。
最後にひとこと。
リーパはタバコ中毒で、浴槽にタバコの吸い殻を投げ入れて捨てていたが、私はやれやれと思いながら今でもリーパが懐かしいし、彼女に好感情を持ち続けている。彼女がとても好きだったし、今でも好きだ。価値感が違っても好きだという感情が価値感の違いを自然に克服していた。そういうこともある。
https://blackasia.net/?p=833
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世の中では何をしても嫌われる、世の中の人間の 9割 はどうしようもないアホ
「誰にも嫌われないこと」を重視して生きるのは危険なこと
アメリカ人はイスラム教徒に嫌われる。イスラム教徒はキリスト教徒に嫌われる。キリスト教徒は共産主義者に嫌われる。共産主義者は資本主義者に嫌われる。富裕層は貧困層に嫌われる。貧困層は富裕層に嫌われる。
テロリストは全世界に嫌われる。しかし、助けに来たアメリカ軍は、他国に介入したとして嫌われる。
軍人は平和主義者に殺人鬼と罵られて嫌われる。平和主義者は夢想家だと言われて現実主義者に嫌われる。現実主義者は宗教心がないと宗教家から嫌われる。保守派は左翼に嫌われる。愛国者はグローバリストに嫌われる。
ありとあらゆる国で、国民は隣の国の人間を嫌う。国民は国民で、何重にも割れて互いに相手を嫌い合う。考えてみれば、なかなか悲惨な世界だが、これが人間社会の実態でもある。
つまり、私たちは何をどうしても、他人に嫌われる運命にある。ただ道ばたに立っているだけでも嫌われてしまう。どんな生き方をしても、何を言っても言わなくても、他人に嫌われない生き方はない。
私たちは存在してるだけで誰かに一方的に嫌われる。どんなに品行方正であっても、どんなに愛すべき存在であっても無駄だ。この世で嫌われない人間はどこにもいない。
この世の中は、何もしても嫌われるのが現実だ
嫌われないことを考えて生きるのは立派に見える。しかし、それは基本的に報われることはない。誰にも嫌われないで生きるのは不可能だからだ。
別に無理して嫌われる必要はないが、何をしても嫌われるのが現実なのだから、そんなものを重視して生きると100%失敗してしまう。
他人に媚びても、結果的には何も得られない。媚びることが嫌われるからだ。他人に同調しても、それが自分の本意でないのであれば自分で自分を壊してしまう。
嫌われたくないために他人に謝罪なんかしてしまうと、足元を見られて「もっと謝罪しろ、賠償しろ、誠意を見せろ」と恐喝されることもある。
誰でも人間関係を円滑にしたいと思う。しかし、嫌われたくないと思うが故に自分が折れると、自分の立場を悪くするだけである。自分で自分の首を絞めることになる。
何らかの意見を言えば必ず嫌われる。どんな意見でも、その意見と対立する意見が必ずあるからだ。逆に意見を持たなければ持たないで嫌われる。意見を持たない人間は愚かだと思われ、愚かな人間は本能的に嫌われるからだ。
立場を築くと必ず嫌われる。どんな立場でも、その立場を嫌っている人が必ずいるからだ。立場を築かない人も嫌われる。立場も築けないほど実力のない人間だと思われるからだ。
若いと若いがゆえに嫌われる。歳を取れば歳であるがゆえに嫌われる。男であれば男だから嫌われる。女であれば女だから嫌われる。
目立つと目立つというだけで嫌われる。嫌われないように目立たない生き方をしても、その生き方自体が姑息だと言われて嫌われる。
何をしても嫌われるのだ。そんな社会で私たちが生きるためには、誰もが最後に同じところへ落ち着いていく。
それは「嫌われることを恐れない」ということだ。
何をどう言っても、他人に理解されないのが現実
「嫌われることを恐れない」と言っても、誰かの悪口や罵詈雑言を恐れずに言い回ってもいいというわけではない。わざわざ他人に嫌われることを進んでする必要はない。
私たちは自分が心地良く生きるために、ある程度の常識や良識を持って生きなければならない。
しかし常識や良識を持って生きたとしても、嫌われることは最初から受け入れておく必要がある。どんなに常識や良識を持っても、それを持っているが故に嫌われるのだ。
分かってもらおうと思ってはいけない。徒労に終わる。相手は説得されることを望んでいないからだ。理解してくれる人もいるかもしれないが、理解してくれない人もいる。
理解してくれない人は、それがいかに理路整然とした正論であっても絶対に耳を傾けない。
なぜ分かってくれないのかと、隔靴掻痒の気持ちになることもあるかもしれない。しかし、世の中は何をどうやっても交われない人間が存在するのは誰も否定できない事実だ。
自分とはまったく逆の世界観を持つ人も多い。同じ人間であっても、同じ言葉を話していても、そこに横たわる溝は限りなく深い。
だから、自分を嫌い、何を言っても理解してくれない人がいるからと言って、落ち込む必要もなければ激怒する必要もない。
また、そういった人たちにひどく嫌われているからと言って、それを気に病む必要もない。媚びる必要もなければ、理解してもらう必要もない。
大人になればなるほど、意見を持てば持つほど、地位が上がれば上がるほど、有名になればなるほど、反対するために反対している人たちと山ほど遭遇することになる。
つまり、私たちは何をやっても批判され、何を言っても反対され、行いや生き方や主張が正しくても必ず反対者に嫌われるということだ。
嫌われるということ自体は、誰もが経験すること
「誰にも嫌われないこと」を重視して生きるのが危険なのは、それが確実に失敗するのが分かっているからだ。
嫌われる度合いは発言内容な信条や性格によって違う。しかし、どんな性格でも、どんな発言でも、誰かに嫌われることだけは間違いない。
だから、嫌われること自体は別に気にする必要はない。
職場でも、家庭でも、友人関係の中でも、世間の中でも、自分を嫌う人は必ず生まれ、自分の敵が必ず生まれる。私たちはそれに慣れなければならないのだ。
現代のような高度情報化時代になると、多くの人がインターネットで自分を嫌う人を発見することも多い。自分が「受け付けない」と思う人を発見すると同じく、相手もこちらを「受け付けない」と考える。
しかし、それほど気に病む必要はない。それは個人的な問題のように見えるが、本当のことを言えば誰もが経験する普遍的な問題であるからだ。
嫌われるということ自体は誰もが経験することであり、個人的な経験ではないのだ。
気持ちが収まらないかもしれない。潔癖な人であればあるほど、自分が誤解されたり、嫌われたりすることに苦悩する。人間関係の悩みで自殺する人もいれば鬱病になる人もいる。それほど苦しみ抜いたということなのだ。
しかし、マザー・テレサのような聖女さえも批判の対象になるのだから、聖人でも何でもない私たちが、誰かの怒りを買わない方がむしろどうかしている。
だから、誰かに嫌われて気に病むのは無駄だ。私たちが生きている世界は、誰かが誰かを嫌い、批判し、嫌悪し、恨み、排斥し、衝突する世界なのだ。それが現実だ。
そうであれば、逆にこうした世界に早く慣れておく必要がある。特に日本人であれば尚更だ。なぜなら、日本人は日本人であるというだけで、中国・韓国・北朝鮮のような反日国家の人間に嫌われるからである。
嫌われて何か問題でもあるのだろうか。何もない。相手を嫌うことに問題はあるのだろうか。何もない。相手と断絶することに問題はあるのだろうか。もちろん、何もない。
全般的に、蛇は嫌われる。中には蛇を愛する人がいて、この生き物がいかに愛すべき存在なのかを主張したとしても、やはり多くの人は蛇を嫌う。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/01/20180115T1809470900.html
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ギリシャ人が糾弾が好きな理由
旅芸人の記録 : 1975
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%97%85%E8%8A%B8%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2
監督 テオ・アンゲロプロス
音楽 ルキアノス・キライドニス
出演 エヴァ・コタマニドゥ
ギリシャの芸術家の名前って、皆様は、どれくらいご存知ですか?
「まあ、彫刻家や音楽家は名前が伝わっていないけど、文学関係なら、有名なホメロス、それに3大悲劇詩人のエウリピデス,ソフォクレス,アイスキュロス、喜劇のアリストファネス。別の方面?でも有名なレスボス島の女流詩人のサッフォーとか・・・」
まあ、出て来る名前って、こんなところでしょ?
これらの名前は全員古代の人ですよね?それ以降のギリシャの芸術家の名前は?
こうなると途端に出てきませんよね?
アレキサンダー大王以降のギリシャの芸術界は一体何やっていたの?
2千年以上もサボっていたの?
ギリシャ人も、かつては、すばらしい芸術家を輩出したのに・・・遺伝子的にレヴェルが低いわけではないでしょう?
だって、かつては立派だったんだし・・・
それに、16世紀のスペインの画家に、その名も「ギリシャ人」という名前のエル・グレコというギリシャ系の人もいます。ギリシャ人もギリシャ以外の国では活躍しているわけ。
どうして、ギリシャ国内では芸術家を生み出さなくなってしまったのでしょうか?
このように芸術家を産まない国や地域ってありますよね?
日本のお隣の朝鮮半島の芸術家の名前って、ご存知ですか?
中国の芸術家の名前なら、世界史でいやというほど覚えさせられましたよね?
詩人だけでも李白、杜甫、白楽天、孟浩然・・・ああ!!思い出したくも無い、勉強ばかりのあの日々!?
しかし、朝鮮半島の芸術家の名前って、出てきませんでしたよね?
あるいは、イスラム圏の芸術家の名前って、出てきますか?
イスラムでは歌舞音曲を禁じているはず。絵画もダメなの?文学だって禁じているのかな?
「テメエらは、コーラン読んでりゃ、ええんや!」なの?
しかし、ペルシャにはイスラムとは異質なキャラクターの詩人のオマル・ハイヤームという人もいました。別に遺伝子的に芸術とは無縁の人というわけではないんですね。どうしてイスラムの下では、芸術家が出なくなってしまったのでしょうか?
これらの国や地域の経済的な問題なの?
しかし、どのみち、創造的な芸術家がその作品でお金儲けをできるわけもないことは歴史的な現実。芸術家というものは死んでから認められるものでしょ?
芸術作品を制作すると言っても、文章を書くのは費用がかかるわけでもないので、「その気」になりさえすれば、できることでしょ?
芸術家の絶対数が少なく、多くの人が芸術家との接触することが少なかったから、芸術作品を作る意欲や発想が起こらなかったの?
しかし、例えばギリシャなどは様々な芸術家が訪れていますよね?
それにギリシャ人も外国に出てみればいいじゃないの?
韓国人だってそう。中国に行けばいいだけ。その気になれば、様々な芸術家との接触は可能なんですね。
では、これらの国や地域が何故に、芸術家を生み出さなかったのでしょうか?
それはそれらの人々がダメダメだからですね。
「悪いのは全部アイツのせいだ!」
そのような発想なので、自分自身を厳しく見つめることをしないわけ。自分自身から目をそらしているような人間が、芸術家になれるわけがありませんよ。
職業としての音楽家や物書きや絵描きにはなれるかもしれません。しかし、そんな自分自身から目をそらすような人間は、永遠に届くような作品を生みだす「芸術家」になれないわけです。
別の言い方をすると、自分から逃避してしまっているので、仕事にはなっても、使命にはなっていないわけ。
今回の文章で取り上げる映画はギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス監督の75年の作品である「旅芸人の記録」という映画です。テオ・アンゲロプロス監督は現在における最も厳しい精神の「芸術作品」を作る監督です。まあ、映画の分野において、芸術性では3本指には確実に入るような大芸術家。
しかし、ギリシャという芸術不毛の地で、どうしてアンゲロプロスのような芸術的な映画監督が出現したの?
また、彼は、どのようにして、芸術家不毛の地から芸術作品を生み出すような芸術家になったの?
アンゲロプロスは自分自身の「内なるギリシャ」、つまり自分の中の「内なるダメダメ」を厳しく見つめ、それを克服していったわけです。今回取り上げる「旅芸人の記録」という作品は、ダメダメなギリシャ人の一員であるアンゲロプロスの心の中に巣食う「ダメダメな部分」を白日なところにさらしているわけ。その過程があったがゆえに、近年のアンゲロプロス監督作品の「人間と人間のコミュニケーション」「人間の再生への希望」を語る豊穣な作品群が生み出されることになったわけです。
では、彼の作品「旅芸人の記録」の導きに従って、ギリシャ人のダメダメな面・・・これは呆れるほど韓国やイスラムにおけるダメダメな面と共通しています・・・を見てみることにいたしましょう。
ちなみに、この「旅芸人の記録」という作品は1939年から1952年のギリシャを舞台に、「羊飼いの少女ゴルフォ」というお芝居を上演している旅芸人の一座を描いた映画です。事件を時系列的に追った映画ではありません。
一座がそのお芝居を上演しようとすると、当時のギリシャの様々な情勢によって、途中で上演がストップしてしまう・・・そんな映画です。
つまり「羊飼いの少女ゴルフォ」の上演という「まがりなりにも」芸術活動と言える活動がジャマされていくことについての映画といえるわけです。
「ギリシャにおいて何故に芸術が育たないのか?」そのような問題意識が反映しているわけですね。
この映画について、日本の3文映画ライターが「激動のギリシャ現代史を語る映画」などと解説したりしていますが、現代史ではないんですね。もし、現代史を語るつもりなら、登場人物の名前をもっと現代的にするでしょう。
この「旅芸人の記録」という作品での登場人物の名前はエレクトラとかアガメムノンなど、昔のギリシャ人の名前です。そして起こっている事件も、昔から何回も繰り返されているような事件。つまりそれだけアンゲロプロス監督は「いつまで経っても変わらない」ギリシャを描きたいわけです。
それに現代史を描くつもりなら、事件の配置を時系列的にしますよ。歴史を描くつもりが無いから、事件の時系列を無視しているわけです。まあ、それがわからないからこそ、「映画ライター」なんでしょうが・・・
さて、この映画に従って、ギリシャのダメダメやダメダメ家庭の問題というより、もっと一般的な意味でのダメダメ精神の事例を以下に列挙いたします。
1. 働かない・・・ギリシャ人は働かない。この4時間の映画で、働いている人はレストランのウェイターくらい。労働者が「資本家打倒!」と言うのはいいとして工場で働いているシーンはない。「労動者ならまずは労働しろよ!」と言いたいところ。
また、資本家も工場を経営したり、外国と貿易を行うというそぶりもない。とにかく働かない連中なんですね。さすがに韓国では働いているシーンは出てきますが、イスラム圏でも働いているシーンって出てこないでしょ?商店で働いている人は多少出てきますが・・・イスラム圏の工場って見たことありませんよね?やっぱり働かない連中なんですね。
2. 政治好き・・・経済的な面では意欲がない連中ですが、政治には熱心です。「悪いのは全部政治が悪いせいだ!」などと思っていたりするので、やたら政治には熱心なんですね。この映画でもデモ行進のシーンが多い。あるいは政治議論も活発です。
個々の人間が政治について確かな見解を持つことは必要でしょう。しかし、問題の全部を政治のせいにしてもねぇ・・・しかし、デモのシーンはイスラムでも韓国でもおなじみですよね?そして、この手の人は、政治論議が好きでも、実際に政治に携わって、現状を改善しようとはしないもの。ただ、「ダメな政治のせいで、うまく行かない。」という理屈がほしいだけ。
3. 会話がない・・・登場人物の皆さんは、とにかく人の話を聞かない。4時間にもわたる映画なのに、会話のシーンがない。どちらかが一方的に言っているだけ。人の話を聞くという習慣がなさそう。
4. 被害者意識・・・何かと被害者意識が出て来る。『イギリスには裏切られた!』『国王には裏切られた!』とか・・・「ああ、オレ達って、何てかわいそうなんだ?!」そして相手を恨むわけ。
5. 当事者意識がない・・・被害者意識があるのに、当事者意識がない。「じゃあ、アンタはギリシャという国をどうしたいの?」と言われても答えられない状態。ただ、相手を恨んでいるだけなんですね。イスラムや韓国でもこんな感じですよね?
6. 内部分裂・・・ギリシャ人の内輪もめは、それこそ紀元前のアテネとスパルタの戦争など、いつもやっているようです。「イギリス人はギリシャから出て行け!」と本気で思っているのなら、ギリシャ人が結集して、イギリス人を追い出せばいいじゃないの?
ところがこの映画では内輪もめのシーンばかり。ギリシャ正規軍とイギリス軍が戦うシーンなどは全然なくて、いつもギリシャ人同士で戦っているんですね。同じようにイスラムだと宗派対立などが出てきますよね?
韓国だと地域対立とか・・・彼らがまとまるのは「○○大嫌い!」それだけなんですね。
7. こびへつらい・・・この映画で出て来るギリシャ人は、強きにこびへつらい、弱い人には威張っている。そのような権威主義なのもダメダメの特色の一つですね。落ちたイヌだけを叩こうとするのがギリシャ人の特色のようです。まあ、これはイスラムや韓国も同じですが・・・
8. ユーモアがない・・・4時間にわたる映画なのに、笑えるシーンがない。まあ、それは監督のアンゲロプロスの個人的キャラクターの面も大きいでしょう。しかし、ダメダメな人間は「自分自身を笑う」心のゆとりって無いものなんですね。「オレってバカだなぁ・・・」なんて自分を笑わないのに、自分以外の人のことは高笑いするわけ。
ユーモアって、いつもとは別の見方で物事を見たりすると、出てきたりするものでしょ?
ユーモアがないってことは、それだけ、ものの見方が画一的ということなんですね。
9. ホスピタリティーがない・・・この面は、むしろアンゲロプロス監督の別の作品で強調されています。どうもギリシャ人は外の世界から来た人を歓迎するという発想がない様子。外来者を、ヘタをすれば政治的な人質として利用したりするくらいの扱い。外の世界から来た人と会話して自分の知識を広め、相手に自分のことを知ってもらおうなんてこれっぽちも考えていない。
自分自身が被害者意識に凝り固まっているので、人をもてなす心の余裕がないわけ。このような面は韓国もイスラムの全く同じですよね。スポーツ大会などヒドイものでしょ?これでは味方ができませんよね?
10. 歴史自慢・・・この「旅芸人の記録」という作品では強調されていませんが、ギリシャは偉大な歴史がありますね。それはそれで結構なこと。しかし、ちょっと考えて見てください。「オレは小学校の時は優秀で、学級委員をやっていたんだ!」・・・そんなことを言う人間ってショボイオヤジでしょ?
ちゃんとした人間はそんな昔の自慢話などはしないものでしょ?
歴史自慢しかするものがない連中って、それだけ今現在がダメダメということですよね?
しかし、ダメダメな人間は歴史しか自慢するものがないので、歴史自慢をしたがる。
そして「こんなに偉大な歴史を持つ我々なのに、今うまく行かないのはアイツのせいだ・・・」と被害者意識をますます膨らませるわけ。
このように、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と思っていると、自分の気持ちとしてはラクですよね?だって、自分自身では何もしなくてもいいんですからね。ただ相手を恨んでいるだけでいい。
まあ、一般の人はそれでいいのかもしれませんが、そんな貧しい精神では芸術家は育たないでしょ?
真の芸術家になるためには、自分の内面にあるそのようなダメダメな面を自覚していく必要があるわけです。
ギリシャ人のアンゲロプロスは、このような自分に厳しい映画作品を作ることによって、自分自身を一歩前に進めたわけです。
ちなみに、この「旅芸人の記録」という映画はギリシャ映画ですので、セリフはギリシャ語です。ということで字幕担当の人も「とある芥川賞受賞作家さん」がやっています。その作家さんはギリシャ語が出来るので、アンゲロプロス監督作品の字幕だといつもこの人です。この作家さんは、ギリシャに住んだり、最近ではイラクに行って「フセイン政権下ではイラク人はすべて幸せだった!アメリカ人は出て行け!」とかおっしゃっておられます。メールマガジンも発行されていて、私も読む時がありますが、実に「お・も・し・ろ・い」わけ。
自分自身の問題から目をそらし、グチばかり言う人間は、やっぱりそんな類の人間が多いところに行きたがるものなんですね。そうして、グチで盛り上がることになる。
「アンタたちは全然悪くないのよ!悪いのは全部アメリカなんだ!」
そう言われれば言われた方もラクでしょ?
確かに同情してもらったイラクの人も幸福かもしれません。だって「自分自身は全然悪くない!」と思っていられるわけですからね。「悪くはない」んだから、自分自身では何もしなくてもいいわけ。
そのような精神的に怠惰な状況に、外国からのダメダメ人間が、まるで腐臭にハエやゴキブリが吸い寄せられるように喜んで出かけ、集まり、そしてグチで盛り上がる。
職業としての物書きや絵描きや音楽家は、そこそこのスキルがあればなれるものです。しかし、芸術家になって未来に残る作品を生み出すには「自分自身を厳しく見つめる」ことが必要不可欠なんですね。
ダメダメなギリシャの映画監督のアンゲロプロスが「旅芸人の記録」という、何より自分に厳しい作品を作って、自分自身を見つめ大芸術家になっていったのに対し、グチばかり言っていて、世界中のグチ人間を求めて自分から逃げ回っている人間が、芥川賞という新人賞止まりなのは、芸術的にみて必然なんですね。
この映画で描かれたギリシャの人々は、誰かを犯人認定して、対抗心ばかりを膨らませ、自分では何もする気もなく、しょーもない議論ばかりという、典型的なダメダメ人間の姿といえるでしょう。これは何もギリシャの問題だけでなく、たとえば、インターネットの掲示板が、まさに絵に描いたようにこんな様相でしょ?
作り手のアンゲロプロスとしては、「激動のギリシャの歴史」を描いているのではなく、バカばかりやっているダメダメ人間の姿を描いているわけ。彼は歴史学者ではなく、芸術家なんだから、普遍的な人間心理を描きますよ。
ダメダメというのは、時とか場所とかのテンポラリーな問題ではなく、人間の普遍的な心理の問題なんですね。だから、ちょっと見方を変えると、21世紀の日本での様相を理解するのにも役に立つわけ。
ちなみに、ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。民主的政体は育たない。
それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。
だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?
それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。
ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。
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特に IQ が低いアホはルサンチマンが強いので IQ が高い人間を憎んで糾弾したくなるんですね。
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