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(回答先: ロシアのアンチ・ドストエフスキー派:なぜ、どこが嫌いなのか? 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 28 日 08:40:19)
ドストエフスキーはエドヴァルド・ムンクにどんな影響を与えたか 2019年4月19日
アレクサンドラ・グゼワ
https://jp.rbth.com/arts/81919-dosutoefusuki-ha-edovarudo-munku-ni-donna-eikyou-wo-ataeta-ka
ムンクの陰気な絵は、実は、ドストエフスキーの陰気な作品のために用意された挿絵なのではないかいう気はしないだろうか?我々はそんな気がする、それで、それはやはり何か理由があるという裏付けを探し出した。
4月にトレチャコフ美術館で、世界的に有名なノルウェー人、エドヴァルド・ムンクのロシア初の大きな展覧会が開かれている。ロシアでは、ムンクの作品はそれほど多くは知られていないにもかかわらず、彼の創作は、我々が推定しうるよりももっとロシアと大きな結びつきがある。ムンクが崇拝し、彼にインスピレーションを与えたのはドストエフスキーだった。ムンクのもっとも有名な作品『叫び』は、ドストエフスキーの悪霊の一人を絵画の中に住まわせたかのようにも見える。
エドヴァルド・ムンク、「叫び」、1893
オスロのムンク美術館と数年間にわたって交渉を行ってきたトレチャコフ美術館の館長は、芸術においてムンクが成し遂げたことは、文学においてドストエフスキーが成し遂げたことと同じだという。「人間の心を裏返し、その奥にあるものをすべて、人間を苛む熱情の深みを描写し、人間の本性の複雑さを見せてくれたんだ」
ムンクはドストエフスキーの文学の才能に酔いしれていた
若きムンクもその一員だった1880年代のオスロのボヘミアンは、クリエイティヴなアナーキストたちの集まりで、ちょうどその頃ノルウェー語に訳されたドストエフスキーを貪るように読んでいた。
エドヴァルド・ムンク。彼のワークショップにて。ノルウェー、1938年。
「いつ、誰があの時代を描写できるだろうか?ドストエフスキーが例えばロシアのシベリアの町でうまくやったように、かなりの説得力をもってクリスチャニア(オスロの古い名)のつまらない生活を描き出すには、ドストエフスキー本人か、せめて、クローグ(画家、ムンクの教師)とイェーゲル(スキャンダルを巻き起こしたアナーキスト作家)と私自身を混ぜ合わせたものが必要だろう、当時だけでなく、今現在も」とムンクは書いている。
お気に入りの作品は『おとなしい女』
ドストエフスキーのあまり有名でない(ともかく、他の長編小説の栄光の陰に隠れている)中編の『おとなしい女』は、おそらく、ムンクにもっとも大きな影響を与えている。これは、貧しさゆえに、軽蔑している質屋と結婚した不幸な女性の自殺をめぐる短編だ。
もっとも有名なムンクの自画像のひとつで、裸の女性の姿が描かれている『柱時計とベッドの間の自画像』を、実は鑑定人たちは『おとなしい女』の挿絵だと考えている。
エドヴァルド・ムンク。『柱時計とベッドの間の自画像』1940-1943。
病人や貧窮した若い女性たちへの芸術的な弱さを描くことが、ムンクとドストエフスキーに共通の特徴だ。ムンクのもっとも有名な絵のひとつ――『病気の子ども』、または『病気の少女』は、“未完成”だとして批評家たちの不評の嵐を呼んだが、大好きだった姉の結核による死をめぐる画家の悲しみが反映されている。
エドヴァルド・ムンク。「病気の少女」、1885-1886。
「もっとも、なぜ自分が当時、彼女にかかずらっていたのかわからないんだ。彼女がいつも病気だったからという気がする…。彼女が足をひきずっていたり、背中がひどく曲がっていたりしていたら、自分は、もっと彼女を愛せたような気がするんだ…」とラスコーリニコフは言った。
ムンクの絵は、ドストエフスキーの主人公のように苦しんでいた
ムンクの伝記作家ステネルセンは奇妙な手法について記述している。それは、自分の絵を自身の子どもたちだとみなした画家が、それゆえに絵たちを「育てよう」としたが、うまくいかなかったというのだ。彼は、自分の絵を雨や風の中、雪の下に置き、いくばくかの時間が経ってから回収していた。まさにこうして彼は『別離』という作品を創作したため、この絵はひどく損傷していることはよく知られている。偶然に現れたシミ、例えば、鳥のフンの痕などが絵の一部になっている。
エドヴァルド・ムンク。「別離」、1896
この手法を、ムンクは「ヘステクールhestekur」と呼んでいた、「馬の治療」という意味だ。鑑定人たちは、これはラスコーリニコフの夢を示唆していると考えている。その夢の中で幼い主人公は、男が弱りきった痩せ馬を、「自分のもの」だからというだけで殴っているのを見る。かたや野次馬は「くたばるまでぶったたけ」と言っている。
ムンクは自分を作家と同一視していた
エドヴァルド・ムンク、自画像
ムンクはおそらく、現代ではファンアートと呼ばれる、小説のファンが好きな作品をもとに作る芸術を創作したのかもしれない。無数にある自分の自画像の中のひとつに、ムンクは骸骨の手をした自分の姿を描いている。この作品のインスピレーションをムンクに与えたのは、スイスの画家フェリックス・ヴァロットンが似た手法で描いたドストエフスキーの肖像だったという意見もある。
フェリックス・ヴァロットン。ドストエフスキーの肖像。
ムンクはドストエフスキーの本と共に亡くなってるところを発見された
この展覧会には画家が所有していた小さな本が一冊展示されており、それはショーケースの中のディアギレフがムンクに宛てた手紙の横に置かれている。この本は『Djasvlene』――ノルウェー語で小説『悪霊』の題名だ。1944年、オスロ近くにある郊外の自身の領地で、まさにベッド横の小机の上にあったこの本と共にムンクは亡くなっているところを発見された。
*ロシア・ビヨンドは、この資料の準備を助けてくれた、文化学者でジャーナリストで公開公演局「プリャマヤ・レーチ」の講師、そしてポッドキャスト「少年のための芸術」の作家で司会でもあるアナスタシア・チェトヴェリコワに感謝を申し上げる。
https://jp.rbth.com/arts/81919-dosutoefusuki-ha-edovarudo-munku-ni-donna-eikyou-wo-ataeta-ka
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