自衛官は自分の頭では何も考えられない人向きの仕事ですね。 自分では判断できないので、上役に何をしたらいいか指示して貰う方が楽なんです。 結果に対して責任取る必要も無いしね。 官僚も同じなのですが、官僚の場合は暗記力が良くないとできないですからね。 まあ、法学をやるのはバカに決まってるけどね:カラマゾフの兄弟 大審問官 イエスよ、おまえがまだこの地上におったころ、あれほど主張した人民の自由は、まだあのころから、千五百年も前から、おまえにとっては何より大切なものだったではないか、あの当時、 《われなんじらを自由にせん》と、よく言っていたのはおまえではなかったか、 『われわれはこの自由のために苦しんできたが、やっと今は完成した。 人民は今、いつにもまして、現に今、自分たちが完全に自分になったと信じておるのだ。しかも、その自由を、彼らはみずから進んでわれわれに捧げてくれた。 そして、ねんごろにわれわれの足もとへそれを置いてくれたのだ。 われわれには弱い人間も大切なのだ、彼らは不徳感で反逆者ではあっても、最後にはかえってこういう人間が従順になるのだ。彼らはわれわれに感嘆して、神とまで崇めるに至るだろう。なぜならば、われわれは彼らの先頭に立って、彼らの恐れている自由に甘んじて耐えて、彼らの上に君臨することを諾うからだ。かくして、結局、彼らは、自由になることを恐ろしいと感じだすに違いない! 自由になった人間にとって、最も苦しい、しかも絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇むべき者を捜し出すことである。しかし、人間という者は議論の余地なく崇拝に値する者を求めている、万人ことごとく打ちそろって、一時にその前にひざまずき拝し得るような、絶対的に崇むるに足る対象を求めているのだ。これらの哀れな被造物の心労は、めいめい勝手な崇拝の対象を求めるだけではなく、万人が信服してその前にひざまずくことのできるような者を捜し出すことにあるのだ。どうしても、《すべての人といっしょ》でなければ承知しないのだ。 われわれは、おまえの事業を訂正して、それを奇跡と神秘と教権の上にすえつけたのだ。すると民衆は、再び自分たちを羊の群れのように導いてくれる者ができ、それほど彼らに苦痛をもたらしたあの恐ろしい贈り物を。ついに取りのけてもらえる時が来たのを喜んだのだ。自由だとか、自由な知恵だとか、科学だとかは、彼らをものすごい渓谷に連れこんで、恐ろしい奇跡や、解きがたい神秘の前に立たせるため、彼らのうち頑強で獰猛な者は自殺してしまうし、頑固であっても弱い者は互いに滅ぼし合うだろう、その他のいくじのない不仕合わせな者たちは、われわれの足もとへはい寄って、こう叫ぶのだ、 《あなたがたは正しゅうございました。あなたがたのみがキリストの神秘を持っていらっしゃいます。でありまするから、わたくしどもはあなたがたのところへ帰ります。どうか、わたくしどもを自分自身から救ってくださいまし》 そこで、われわれは彼ら自身の得たパンをその手から取り上げると、石をパンに変えるというような奇跡などは何も行なわないで、再び彼らにそれを、分配してやる、彼らはパンを受け取る時に、このことをはっきり承知しているけれど、彼らが喜ぶのはパンそのものよりも、むしろ、それをわれわれの手から受け取るということなのだ! 羊の群れもまた再び呼び集められて、今度こそ永久に服従することだろう。その時になって、われわれは彼らに穏やかなつつましい幸福を授けてやる。彼らの本来の性質たるいくじのない動物としての幸福を授けてやるのだ。おお、われわれは最後に彼らを説き伏せて、けっして誇りをいだかないようにしてやる。 つまり、おまえが彼らの位置を高めるために、彼らに誇りを教えこんだからだ。そこでわれわれは彼らに向かって、おまえたちはいくじなしでほんの哀れな子供のようなものだ、そして子供の幸福ほど甘いものはないと言い聞かせてやる。 すると、彼らは臆病になって、まるで巣についた牝鶏が雛に寄り添うように、恐ろしさに震えながら、われわれのほうへ身をすり寄せて、われわれを振り仰ぐに違いない。 彼らはわれわれのほうへ詰め寄りながらも、同時にわれわれを崇め恐れて、荒れさわぐ数億の羊の群れを鎮撫することのできる偉大な力と知恵とをもったわれわれを、誇りとするに至るだろう。彼らはわれわれの怒りを見て、哀れにも震えおののいて、その心は臆し、その眼は女や子供のように涙もろくなるだろう。 しかし、われわれがちょっと合い図さえすれば、たちまち身も軽々と、歓楽や、笑いや、幸福の子供らしい歌へ移るのだ。
むろん、われわれは彼らに労働を強いるけれど、暇なときには彼らのために子供らしい歌と合唱と、罪のない踊りの生活を授けてやる。ちょうど子供のために遊戯を催してやるようなものだ。
もちろん、われわれは彼らに罪悪をも許してやる。彼らは弱々しい力ない者だから、罪を犯すことを許してやると、子供のようにわれわれを愛するようになる。どんな罪でもわれわれの許しさえ得て行なえばあがなえる、とこう彼らに言い聞かせてやる。
罪悪を許してやるのは、われわれが彼らを愛するからだ。その罪悪に対する応報は、当然われわれ自身で引き受けてやるのだ。そうしてやると、彼らは神様に対して自分たちの罪を引き受けてくれた恩人として、われわれをますます崇めるようになる。したがってわれわれに何一つ隠しだてをしないようになる。
彼らが妻の他に情婦と同棲することも、子供を持つことも、持たぬことも、すべては彼らの従順であるか従順でないか、したがって、許しもすれば、とがめもする。こうして彼らは楽しく喜ばしくわれわれに服従してくるのである。最も悩ましい良心の秘密も、それから――いや、何もかも、本当に何もかも、彼らはわれわれのところへ持って来る。するとわれわれはいっさいのことを解決してやる。この解決を彼らは喜んで信用するに違いない。というのは、それによって大きな心配を免れることもできるし、今のように自分で勝手に解決するという恐ろしい苦痛を免れることができるからだ。
|