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(回答先: アイヌ人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 06 日 10:15:05)
蝦夷の起源
これが最新の研究成果です、蝦夷はアイヌ語を話していた北海道の続縄文人で間違いないです:
古代の蝦夷と城柵−蝦夷文化の形成をたどる
蝦夷文化の形成の特徴として、南北の文化の交流・融合があります。
南方の倭人文化が東北地方に伝わる以前は、蝦夷の主な居住地である東北北部は続縄文文化の影響下にありました。
ちなみに、弥生文化の主な特徴である稲作については、東北北部で一時的に広まったものの、その時点では定着していません。
当時は北方、つまり北海道から伝わった、狩猟・採集を生業の基本とする続縄文(※1)文化の影響をむしろ強く受けていました。
(なお、東北南部以南では弥生時代から稲作が定着しており、古墳文化への移行もスムーズだったようです)
南北世界の文化が混在する様子を、著者は「土器」と「墓」について注目しつつ解説します。
まず土器について。
三世紀の遺跡である寒川U遺跡(秋田県能代市)からすでに弥生時代末期の壺と甕が出土しています。
四世紀代とみられる永福寺山遺跡(岩手県盛岡市)でも、続縄文系の土器にまじって弥生時代終末期の赤穴式や古式土師器の塩釜式と認められる土器が出土しています。
これらのことから、土器については早くから南方文化の影響を受けていたことがうかがえます。
この傾向は五世紀以降さらに顕著になります。
五世紀の森ケ沢遺跡(青森県天間林村)では北大式(※北方の土器)の甕や片口とともに土師器・須恵器が出土しており、両者の比率はほぼ半々となっています。
さらに、擦門(※2)前期に注目してみましょう。
この時期、北海道では伝統的な土壙墓が継続される一方、東北北部では末期古墳と呼ばれる独自の墓制が出現します。
末期古墳は続縄文文化の墓制を基礎としながらも、古墳文化の強い影響を受けて出現したと著者は見ています。
南方文化を取り入れつつ、平安時代に入ってもなお独自の墓制を維持していた東北北部の暮らしが垣間見えます。
退屈な話題ではありますが、要するに東北北部は南北両方の文化が入り混じった地域であった、ということです。
東北北部の蝦夷たちは、南北いずれか一方の文化圏に属するのではなく、両文化の要素を摂取しながら、独自の文化を創り上げていたのです。
https://yakimoto.me/book-review/how_was_the_culture_of_emishi_formed_2/
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