楽劇「トリスタンとイゾルデ」(R. ワーグナー作曲) Wagner - Tristan und Isolde Vorspiel - Berlin - Furtwängler 1930 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=4o142b5plHc Kirsten Flagstad and Ludwig Suthaus - Liebesduett - YouTube http://www.youtube.com/watch?v=B-ImojzMOAs
蓄音機で フルトヴェングラー トリスタンとイゾルデから「愛の死」- YouTube http://www.youtube.com/watch?v=JS0GA_0vIFc
Kirsten Flagstad and Furtwangler - Liebestod - YouTube http://www.youtube.com/watch?v=4tgn511ceNQ 下の楽譜は、総演奏時間三時間以上にわたるこの楽劇の最初の部分(左:「前奏曲」より)と、最後の部分(右:「イゾルデの愛の死」より)です[Edition Peters Nr. 3407より改変]。このほんの数小節の中にも「トリスタンとイゾルデ」の魅力は満載されていますので、これを使って私なりの解説を試みます。
まず矢印で示した小節の和音。これは、この楽劇が始まって最も初めに聴衆の耳に入る和音です。そして、この和音は、極めて絶妙なバランスの上に成り立っています。 和音はFを基音にH、Dis、Gisと4つの音から構成されています。一見単純に見えますが、実はこれは従来の機能和声法では解釈できない非常に特殊な音の並びなのです。不協和度は少ないものの、非常にストレスの大きな響きで、解決を待たねばならない不安定な音の固まりです。 これが、次の小節になるとE majorの和音に帰属し解決され、ここに至って聴衆は安堵を覚えます。逆にいえば、従来の理論では、一見、解決策のない不安定な音に聞こえた和声は、極めて単純な和声に落ち着きうることを、ここで初めて知ることができるのです。 この複雑怪奇な「トリスタン和声」は、機能和声法をきりぎりの所まで拡大解釈して見せたワーグナーの偉大なる手腕の発露です。 この和声は後にドビュッシーやスクリャービンらによってさらに拡張されていくことになります。実際、この和音の発見をもって、クラシック音楽全史を「トリスタン以前」と「トリスタン以降」に分類することさえできるのです。 さて、我々は、ここでもう一つ重要なことに気づかねばなりません。それはトリスタン和声が解決したその和音に、Dの音が含まれていることです。トリスタン和声があまりにも怪奇であったために、我々は次の小節で完全に和声が解決されたような錯覚を覚えるのですが、じつはその和音は属7を伴った「未解決」な和音にすぎません。 こうした語法は曲全体にわたって使用されています。和音の解決が再び次の不協を生み、このストレスの解決もまた・・・といった具合に、問題は次々と提起され、解決されないまま引き継がれていくことになります。この延々と続く和声のうねりは、トリスタンとイゾルデ二人の永遠に解決されることのないであろう愛を意味していることは言うまでもありません。 そして、なにより我々が注意しなければならないのは、トリスタン和声の持つ独特な生理的効果です。この絶妙な和声は、なぜか官能的に響きます。まさにこれこそがこの楽劇の最大の魅力です。 この音楽以前に、これほど官能美をたたえた音が鳴り響いたことはなかったでしょう。この法悦感を喚起する原理は、「四度音程」の累積に基づいたF、H、Dis、Gisという音の選択にあるようです。 実際、この原理は楽劇を隅ずみまで支配しています。結果として麻薬的効果が聴衆を陶酔の世界へと誘い、音楽的快感の虜とさせるのです。我々はこの和声のもつ圧倒的な煽情効果の前になすすべもありません。楽理を超越した仮想界。その抗い難いメフィスト的求心効果。幻影への陶酔。カタルシス的な憧憬。情動の浄化。「音楽」というものの魅力を余すところなく表現しつくした芸術中の芸術。それが「トリスタンとイゾルデ」なのです。 さて、トリスタンの魅力はなにも和声だけではありません。上の楽譜(左)に赤色でしめしたメロディーライン(モティーフ)に注目して下さい。Gis、A、Ais、Hという、単純な上行性の半音階進行です。 しかし、トリスタン和声に乗ったこの音の動きは、上へ上へ、高いところへ高いところへ、という至高なものへの憧憬を思わせます。もちろん、トリスタンとイゾルデ二人の至上な愛への憧れを示しているのでしょう。しかし、彼らの羨望もHの音で未解決のままに終わっています。 実ることのない愛。切なくも悲痛な終焉を想像させるに十分の旋律です。 この4つの音からなるモティーフもまた、楽劇中で何度も繰り返し現れます。しかも、その度に、解決を見ることなく音の渦へと消えていくのです。そして、二人の理想世界への憧れは望蜀として膨張し、最後には二人の死という形で結実します。 その瞬間、憧れのモチーフは、上の楽譜(右)の様に、Gis、A、Ais、H、Cis、Disと、Disの音まで到達し、これと同時に和声も極めて純粋なB majorの主和音に解決されるのです。このモティーフが不安に満ちたトリスタン和声と共に初めて聴衆の前に提示されてから、じつに3時間以上たった終結部で、ようやく死(浄化)による解決を迎えるわけです。 この楽劇は、最後の協和音「救済」に向かう葛藤を描いた壮大なドラマであると言えます。大河のうねりは聴くものの心を毟裂き、そして清らかに透きとおった高次の解決を迎えるその瞬間、我々は鳥肌の立つ思いを覚えます。 http://gaya.jp/myprofile/tristan.htm <愛>は空虚な記号です。ただ、その空虚さ、あるいは無根拠性を隠蔽し、<愛>を実体化する道具として媚薬があります。
『トリスタンとイズー』の媚薬が有名ですが、古典的恋愛物語に登場する愛する若者たちはみな、あたかも媚薬が効いているかのように強い持続的な情熱にかられています。 実は媚薬こそがこうした若者の不条理な情熱のメタファーなのかもしれません。 実際、<愛>は麻薬のように心身に大きな変化をもたらすことがあります。<愛>の炎は身も心も焼き尽くすと言いますが、恋愛物語では全身にあらわれる症状が描かれることがあります。 「トリスタンの心臓の血の中には、鋭いとげをつけ、かぐわしい花を咲かせた、一本のいばらが根をはりひろげて、肉体も、心も、欲求も、そのすべてが、イズーの美しい体に、なにかこう強いきずなでもって巻き付けられているように、思われるのだった。」 『トリスタンとイズー』 「あなたを垣間見ただけで、私の声はうちふるえ、舌はこわばり、全身が微細な炎にちりちりと焼かれる」サッフォー フィッシャーは『愛はなぜ終わるのか』のなかで次のK・ユングのことばを引用していますが、今日の大脳生理学の知見からすればこれもすでにレトリックではなく、字義通り科学的にある程度説明がつく内容です。 「ふたりの人間の出会いは、ふたつの化学物質の接触のようなものだ。何らかの反応が起こると、両方とも変質する。」 それでは愛する人の大脳ではどんな化学反応(情報操作)が起こっているのでしょうか?(以下、『愛はなぜ終わるのか』による) 人間の脳は主に三つの部分からできています。
最も原初的な本能を調整する脳幹(爬虫類脳とも呼ばれる)。 情動を司る大脳辺縁系(同じく哺乳類脳)。 感覚、言語機能をはじめ、各機能の統合をおこなう大脳新皮質。 <愛>は情動の一種ですから、それが活躍する舞台は大脳辺縁系ということになります。そして、中心となる作用素は、興奮、歓喜、恍惚などを引き起こす興奮性伝達物質フェニルエチルアミン(PEA)であると考えられています。 「ロマンス中毒患者」と呼ばれる人たちがいまして、彼らは実を結ぶはずのない恋を病的に求め、高揚と陰鬱の状態を交互に味わい続けるのですが、彼らにはPEAの分泌が多いことがわかっています。 ロマンス中毒患者にMAO抑制剤を投与しますと、数週間で「相手を選ぶのに前よりも慎重になって、さらには恋人なしでも快適に暮らせるようにさえなった」といいますから、恋愛を病ととらえた12世紀以前の西洋人の考え方には根拠があったことになります。 トリスタンとイズーが飲んだ媚薬というのは今風に解釈すれば、PEAの分泌を高める興奮剤だったのかもしれません。 ただし、PEAと<愛>の病が一義的に関係しているわけではないことは付け加えておくべきでしょう。 「PEAは高揚と不安を引き起こすだけで、そんな化学的状態になる経験はたくさんあり、恋の情熱はそのひとつでしかない。」 <愛>がPEAに依るとしても、PEAによる高揚感、不安感は愛以外の様々な形をとりうるということです。 PEA効果には時間的に限りがありますから、ロマンティックな恋愛の期間はずっと続くわけではありません。18ヶ月〜3年もすれば、恋に落ちた人も再び相手に対し中立的な感情を抱くようになるといわれています。 つまり、その間は相手を、そしてさらには世界全体を高揚と不安を通じて情動的にみる態度が維持されうるわけです。結晶作用という知覚的な麻痺ももちろん伴うことでしょう。 PEA効果が切れると同時に愛もお終いになるというわけではありません。激しいロマンチック・ラブのあとには落ち着いた愛着による新しい愛の可能性もあるからです。この愛を司る物質はエンドルフィンで、心を落ち着かせ、苦痛をやわらげ、不安をしずめるといった、まさにPEAと反対の作用があります。 小さい頃に下垂体不全をおこした人の中にはPEA分泌不良による「愛の不感症」という症例もあるようですが、エンドルフィンによる静かな愛はこれとは別で、これこそ永続的な、現実的な人間関係の源でしょう。しかし、恋愛物語が対象とするのはやはり、PEA効果による病に苦悩する激しい愛ということになります。 「意識はある対象についての意識である」というのが現象学の出発点です。人はある対象を憎むべきものと捉えることにより、はじめてそれを憎むのであり、形をもたない憎しみエネルギーみたいなものが予めあり、それがたまたま見つけた対象に向けて発散されるのではない、というのが現象学的なとらえ方です。 しかし、これと反対の考え方もあります。人の情動とは無定形のマグマみたいなもので、それが外界の対象にそそがれるのは偶然であり、そのマグマが仮の形を得て持続するためのアリバイを外界の対象が与えるにすぎない、という考え方です。 このような考え方をとるならば、PEA効果が自己を持続させるために、高揚と不安状態を創出するアリバイが必要となり、それを外界にもとめる。情熱恋愛とはPEAの自己保持のアリバイであり、恋愛(物語)における障害とは、まさに保持時間をできるだけ延長するための仕組みに他ならない。要するに、恋愛物語の主体はPEAだという逆説です。 外在的障害がない場合、あるいは解決されたあとになおも内在的障害が待ち受けているのは、PEAの麻薬効果が自己を維持するためにあらゆるアリバイを捏造するせいなのかもしれません。 http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/lovemac.html
|