田布施システム(笑)明治天皇すり替え説・後南朝替え玉説は大嘘【幕末の真実〜西郷隆盛本当の顔】 陰謀論者が広める伏見宮貞愛親王、明治天皇、西郷隆盛等々の幕末明治の偉人達の偽キャプション写真や「奇兵隊天皇」や後南朝を検証する 更新日: 2018年04月16日 https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101 明治天皇として陰謀論者の間で広まってるこの写真は 伏見宮貞愛親王 (1858年-1923年)を写したものである。 明治天皇ではない。 「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)
奇兵隊の天皇なんて存在しない
前後の事柄に因果関係はなく、差し迫った出来事を箇条書きしただけと思われる。 これから元服する明治天皇の父は崩御された孝明天皇であると記された文献がすり替え説の根拠になる訳が無い。
『中山忠能日記』
出典 dl.ndl.go.jp
『中山忠能日記』
(『正心誠意』) 慶応三年 七月十九日 謂況以御冠禮之故被縮父帝之諒闇之条甚不可然欤尚可有熟慮示答卿甚 不服之氣、井蛙徒 不弁大道悲哉 正三又光仁帝之列可然稱賛之由 一、攝政拝面お八百姪 事申入置― 一、去十日自加州異人上陸 一、寄兵隊ノ (段落) 天皇来正月上中旬之内御元服御治定之事 まず、そもそも後南朝は滅亡しています。 『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」 出典 dl.ndl.go.jp
『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」
「南帝を輙く弑し奉り。三種の神器を取持て忍び出ける。吉野十八郷の者ども起て急に追懸る。御頸をば中村太郎四郎給て出けるが郷人に討れ。とりかへされにけり。三種の神器をば。間島其外の者共持奉て罷上り。内府へ此由申す。」
後南朝の皇子が殺され、再び奪われたものの、三種の神器(神璽)は取り返されて後南朝は滅亡している。 その後の後南朝の正統な末裔などは西陣南帝などを除き確認されてない。 『昭和史の謎を追う』熊沢天皇始末記 後南朝の皇統(川上村伝承) 「昭和史の謎を追う」熊沢天皇始末記の一節からスキャンした画像です。 南朝の血統の行方を記す最後の信用できる史料が記す「長禄の変」について説明がなされています。
田中義成博士「南北朝時代史」の長禄の変の項には「吉野の山奥に尚南朝の皇子二人御座し・・・・・共に御名並びに御系統を審らかにせず・・・」の記載がある上月記、赤松記を紹介して、これ以上の資料がまだ発見されておらず、今後も期待が出来そうもないと論じられています。 他に南朝の末裔と伝えられる家といえば、鹿児島の後醍醐天皇皇子懐良親王を祖と称する後醍院氏や、後醍醐天皇の孫で宗良親王の王子の尹良親王を祖と称する津島神社社家の氷室氏や大橋氏等以外にはないと思われるが。それらは臣籍降下した後醍醐源氏であり皇位などは以ての外であろう。 一部の陰謀論者は神皇正統記や神皇正統記に影響された大日本史などの水戸学・国学の尊皇攘夷思想の結果、南朝天皇のすり替えがおこったと意味不明な説明をするが 『神皇正統記』―「伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさ、云にたらざる者哉。」 出典 www.j-texts.com
『神皇正統記』―「伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさ、云にたらざる者哉。」
(伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。)
『神皇正統記』 「唯我国のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓の中におきてもおのづから傍より伝へ給しすら猶正にかへる道ありてぞたもちまし<ける」 北畠親房「我が国のみ、今の世の今日に至るまで皇統は連綿と続いている。」
神皇正統記には、「一種姓の中で傍系継承であっても正しきにかえる道があって皇統は保たれてきた」とあるので、現在の公式的立場である南朝が正統で、南朝→北朝の皇統は矛盾せずに成立し得るが。 皇位にもついていない、系譜も定かではない、自称後南朝→明治天皇などを正統とするロジックは神皇正統記や大日本史には記されていない。
明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の 正当性を認めたものであり、そのことは最終的に 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に 三種の神器を渡し、南北朝が合体した 明徳の和約までを否定するものではない。 後南朝が絶たれ、三種の神器が取り返され、明徳の和約の両統迭立は履行され得ない。 現在の皇統は北朝なのに皇居前に楠木正成像があるのはおかしいという者がいるが 北朝側の立場から描かれている史料である 『梅松論』には 「最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。」
と記されている。 北朝側の立場から描かれている史料の『梅松論』楠木正成のこと―「賢才武略の勇士」「敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり」
『梅松論』 「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前(まつさき)に命を落とすべきよし」申し切りたり。最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。」
その死を「敵も御方も惜しまない人はいない」 その栄誉を称えた楠木像があっても当然で、何ら不思議はない。 敵味方、南朝側・北朝側にかかわらず、楠木正成は忠臣・勇士扱いであり、皇居外苑にその栄誉を称えた楠木像があっても当然で、何ら不思議はない。
「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒
2013年04月24日読売新聞 東京朝刊 文化 27面
佐賀藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠(ちえん)館で教育にあたったオランダ生まれの宣教師フルベッキ(1830〜98年)と佐賀藩士ら計7人が写った古写真のガラス原板が見つかった。 (上の写真) 写真=見つかったガラス原板。前列の右がフルベッキ、その左隣が伊東次兵衛とみられる(倉持さん提供)
二つは同時期の撮影と考えられ 「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」 記録から明治元年(1868年)に写真家・上野彦馬が撮った可能性が高いという。撮影者や撮影日が分かる古写真は珍しく、貴重な発見だ。 縦7・8センチ、横10・7センチ。個人所蔵の資料から倉持基・元東大特任研究員(歴史写真学)らが確認した。古写真研究家の高橋信一・元慶応大准教授によると、原板に写る佐賀藩士の一人で、中老などを務めた伊東次兵衛の日記に、明治元年10月8日に長崎にあった上野彦馬の写真館にフルベッキらと出かけ、写真を撮ったことが記されている。「若い武士は月代(さかやき)をそっておらず、時期は幕末から明治期。日記にある通り明治元年の撮影と考えられる」と言う。
志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。
写真=幕末志士の集合写真と言われている「フルベッキ写真」。フルベッキが中央部分に写っている
興味深いのが、西郷隆盛や坂本龍馬ら幕末の志士が写っていると言われる「フルベッキ写真」との関係。フルベッキを囲んで多数の武士が写るこの写真は、もともと明治時代に致遠館の生徒の写真として世に出ており、龍馬没後の明治元年に同館に留学した、岩倉具視の息子2人が写っている点などからも、志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。 しかし、原板と比較した結果、伊東以外の6人が「フルベッキ写真」にもほぼ同じ姿形で写っていた。このため、二つは同時期の撮影と考えられ、高橋さんは「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」とする。 原板には致遠館の教官も確認されるといい、「フルベッキ写真」が同館の生徒らを写したものであるのは間違いないようだが、「研究があまり進んでいなかったため、史実と離れたイメージが独り歩きしてしまった」と倉持さんは苦笑する。 古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。(大阪文化・生活部 早川保夫)
元治元年12月「島津久治公と薩摩藩士一行」 テリー・ベネット「Early Japanese Images」 元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。
島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。 また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。」 加治将一「西郷の貌」の問題点 http://bit.ly/2jPqjaZ この写真に西郷隆盛 従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない 出典 pro.cocolog-tcom.com
西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。
西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。
キヨッソーネは西郷とゆかりの深い得能良介からのアドバイスなど西郷の縁者の意見の結果、下半分は従兄・大山巌をモデルに上半分は弟・西郷従道をモデルに西郷の肖像を描き上げたのだから、かなり実像を捉えた肖像だと思われる。
西郷と直接的に会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在するので「このような顔」だったことは間違いない。
服部英龍/画(上段左) 肥後直熊/画(上段右) 床次正精/画(下段左) 石川静正/画(下段中央) 平野五岳/画(下段右)
西郷の肖像といえばキヨッソーネの肖像画が有名だが、他にも西郷に直接会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在している。 親戚縁者のお墨付きがあるので「このような顔」だったことは間違いない。 伝源頼朝の肖像と違い、キヨッソーネの西郷の肖像画は縁者の意見をもとに間違いなく西郷本人を描いた肖像である。 「西郷隆盛の肖像」佐藤均/画 “隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。” 「もと荘内藩 士族の石川静正が、明治3年11月鹿児島に練兵修行に赴き8年4月にも再訪し、西郷の風容に接した。このときの印象をもとに年月をかけ隆盛の肖像を描いた。これを見た薩摩出の洋画の巨匠黒田清輝が、肖像画家として令名の高かった門弟佐藤均に勧め、苦心の上、大正2年に完成したのが此の肖像。隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。」(「安藤英男『西郷隆盛』 学陽書房」)
西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、 亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で 出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。
上野の西郷像の公開の際に招かれた西郷夫人 糸子は 「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」 といった意の言葉(薩摩弁)を漏らしたというが。
「 西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、 亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で 出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。 」 つまり、上野の西郷象の風体、 正装ではなく浴衣で着流しという だらしない姿に「こげんなお人ではない」と言ったのが真意だったのだ。 ドイツで発見されたとされる真偽が怪しい西郷隆盛 ※撮影は明治7年となっているが明治8年太政官布告第54号(勲章制定ノ件)から始まった勲章をつけている。
※「ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。http://bit.ly/2gcZqgy
研究者の高柳毅氏は「軍服が意外」「これまでいろいろ写真は出てきたが、すべて偽物だった」 歴史教師の浮世博史氏は「撮影は明治7年(1874年)となっているが、西郷はその前年の明治6年に征韓論で敗れて下野、7年には東京にいなかった」と指摘。 http://bit.ly/2fgSUTe 鹿児島の西郷像のモデルになった石澤宏太郎氏は構図と体型そして雰囲気のモデルであって、鹿児島の西郷象の顔はキヨッソーネの肖像画がモデルである。 元山形県議会議員の石澤宏太郎氏
キヨッソーネの西郷の肖像画を参考に作られた鹿児島の西郷隆盛の銅像 https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101
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血統妄想 [ Descent delusion]統合失調症や躁病などの症状として現れる。 https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?page=2
血統妄想とは、「自分は王侯貴族のような高貴な血統の生まれだが、事情により一般家庭で育てられた」などと思い込む、誇大妄想のひとつ。ミニョン妄想とも呼ばれる。 血統妄想は、統合失調症や躁病などの症状として現れる。
出典 ミニョン妄想 - 意味・解説 美容外科用語辞典
血統妄想の場合は、自分をより偉く、より強く見せるという願望から、自分の血統を誤った状態で信じ込んでいるというケースに至ることが多いようです。 ただの思い込みのレベルではなく、実際にそうである者として行動、言動を行うという点に問題があります。 周りの人から見れば、やはりそれは「危険な人」という認識をせざるを得ないでしょう。 血統妄想は、天皇陛下の隠し子であるとか、織田信長の生まれ変わりとか、そのような思い込みが多いようです。 つまり、現状の自分で満たされない部分を、血統という安易なステータスの向上によって補うというものです。
出典 血統妄想
第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。 熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)
熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする
昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。 歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して、党首として選挙で候補者を立てるが失敗する。その後、熊沢は多くの側近、それに妻子にまで見捨てられた。
サンフランシスコ講和条約が成立すると、人々の熊沢への関心も次第に薄れていった その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。1966年(昭和41年)6月11日、東京の板橋病院で膵癌のため死去。晩年は東京池袋の人生横町に間借りし、著書『日本史の誤りを正す』の編纂に専念していた
第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖
三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。 三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。
三浦の主張は以下の通りである。 「南朝には、1336年(延元元年)10月に後醍醐天皇から皇位を継承して北陸に落ちた神皇正統の皇統(北陸朝廷#三浦芳聖の主張する北陸朝廷)と、後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた偽装朝廷である副統の「正副二統」が存在した。擬天皇である後亀山天皇(三浦の主張では「熙成王」)が、足利義満の謀略により合一した後、正統の天皇は三種の神器を封印して地下深く埋蔵し、民伍に隠れ、今日に至った。三浦家は、その正統の皇統家の嫡孫である。」 出典 三浦芳聖 - Wikipedia
自称「大室天皇」の誕生
「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号)
「大室天皇の存在が、一部の歴史研究者の間に噂されるようになったのは1980年代初め頃である。いわゆる「ニセ天皇」としてはごく新しいデビュー(?)といえよう。 大室家は南朝の末裔という。大室天皇こと大室近祐(1904〜1996)によると、慶応3年(1867)に北朝系の孝明天皇の皇子・睦仁親王が近祐の祖父の兄にあたる大室寅之祐とすりかえられたという。それは長州藩と岩倉具視ら公卿の画策によるものであった。それが本当なら、明治天皇とは大室寅之祐に他ならず、近祐は明治天皇の弟の孫ということになる。 ハイヤーを下りて、表札を確かめ、玄関に立つ。庭先には「史跡 大室遺跡(弥生時代)」という表示杭が立っていた。 家族の方の取次ぎがあり、やがてがっちりとした体格の老人が私たちを出迎えに現れた。
「明治天皇のことですか。まあ、こっちに来てください」 家の離れに建てられたプレハブの倉庫、その中には大量の巻紙が積み上げられていた。大室天皇はその巻紙の一つを抜くと代の上に広げ、私たちに指し示した。紙面に踊るは「瀬戸内海―エジプトの神セト」「聖母マリア」「十字架の地」といった書き込みだ。彼は上機嫌で語った。 その内容は、大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。いつまでたっても、南朝なり、明治維新の裏面なり、のことは出てこない。 そこで明治天皇すりかえ説のことに水を向けようとしても、大室天皇曰く、明治天皇がこの家で生まれたことなど、宇宙全体からすれば、ささいなことにすぎないから、というわけで、またも新たな巻紙を広げ、大室家は世界の中枢、といった内容の話を始める。 大室天皇の語り口からは、その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」
出典 熊沢・長浜・大室・・・・・・「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号) 熊野孤道
「大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。」 「その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」
大室近祐 「高松宮殿下、ご災難(昭和五十八年八月二十五日 朝日新聞)」 山口県田布施町御訪問中の高松宮殿下に対し、 同町在住の大室近祐容疑者(82)が古今未曾有の暴挙に及び、 その場で逮捕される。 大室容疑者は毎日、明治天皇は南朝満良親王の二十五世の末裔、 大室寅之助なりなどと意味不明の発言を繰り返しており、 現在同容疑者に余罪があるものと追及中。 今回の事件で鹿島昇なる徳弁護士(横浜弁護士会所属)を顧問として 今回の犯行に及んだ模様。同弁護士も今回の事件に関与したものとして 追求、横浜弁護士会では弁護士資格の剥除を決定。 大室容疑者は精神鑑定のうえ、八王子特別鑑別所へ収容される模様」 http://bit.ly/2kTdpcF この説は鬼塚英昭のオリジナルではなく、歴史研究家の鹿島昇や郷土史家の松重揚江によるもの。田布施の隣の柳井市の郷土史家、松重揚江氏が、近所で変わり者扱いされていた「大室近佑」という古老(写真は鹿島昇『日本王朝興亡史』より)が、自分の爺さんは天皇になったと言っていたことから、鹿島昇と聞き取りを開始し、それからこの近佑の祖父が明治天皇になったという説ができたわけだ。 出典 陰謀論「田布施システム」とはなにか −三宅洋平氏が信じる日本近現代史とユダヤの陰謀論 | Football is the weapon of the future
陰謀論者の「リチャード・コシミズ」、「鬼塚英昭」という人物が明治天皇すり替え説の論者としているが、コシミズの本を出版し、鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している出版社の成甲書房は朴甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。
陰謀論者、リチャード・コシミズ
陰謀論者の「リチャード・コシミズ」
竹細工職人、鬼塚英昭
出典 ja.wikipedia.org
大分県別府市生まれ。大分県立別府鶴見丘高等学校卒業、上京し中央大学法学部に入学する。働きながら大学で学んでいたが学費が払えず中退。故郷の別府にて家業の竹細工職人となる。 2016年1月25日死去。78歳没。
鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している成甲書房は朴甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。
出典 page.auctions.yahoo.co.jp
http://ja.wikipedia.org/wiki/成甲書房 朴甲東によって1979年日本で設立。 朴甲東は1919年朝鮮慶尚南道に生まれ、1941年早稲田大学卒業後朝鮮へ帰国し、朝鮮独立運動に身を投じ抗日パルチザン「朝鮮独立同志会」を組織する。 戦後朝鮮共産党機関紙「解放日報」記者を経て、南朝鮮労働党に合流。1948年朝鮮民主主義人民共和国が建国されると、文化宣伝省ヨーロッパ部長になるが、1950年金日成の粛清により逮捕、監禁される。 1956年釈放されると翌年に北朝鮮を脱出し、日本へと逃れて金日成政権批判を続けた。同じ南朝鮮労働党出身の朴正煕とも親交があった
鹿島昇が大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。 山口県熊毛町田布施町在住の大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。
桓檀古記―20世紀に作られた朝鮮半島の偽書。
出典 ja.wikipedia.org
桓檀古記―20世紀に作られた朝鮮半島の偽書。
鹿島昇は新国民社を設立後。 1978年倭と王朝を出版し、これが韓国で話題となり、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕ャ氏と知り合い、韓国の20世紀に作られた全くの偽書である桓檀古記を委託された。この書から全訳桓檀古記を出版。
他には、同和差別問題に取り組んでいたという。鹿島昇の背後には大韓民国在郷軍人会日本支部(もしくは統一教会)が関係しているといわれる。 1987年に松重正、または松重楊江と出会い、自分の大叔父(大室寅之祐)が 睦仁親王を殺害して明治天皇になったとする、大室近祐という人物に会いに行き。その後日本侵略興亡史を出版し、すり替え説を書いたのだ。 韓国の超民族主義者の聖典である桓檀古記―国粋的歴史観を持つ韓国人を卑下してファンパというが、この書から生まれた言葉である。
ファンパという言葉は、韓国の在野史学で韓民族(朝鮮民族)の過去の歴史を語るときに根拠とする『桓檀古記(환단고기、ファンダンゴギ)』に由来する。つまり桓檀古記の内容を非常に信頼して、韓民族の初代国家である古朝鮮の領域は黄河以北の大陸全般をカバーしていたと信じている。
http://mottokorea.com/mottoKoreaW/Vocabulary_list.do?bbsBasketType=R&seq=26677 鬼塚英昭に影響を与えたのが、この鹿島昇ともう一人、松重楊江である。 そして鹿島昇の設立した会社を継いだのが太田竜なのである。 ← ja.wikipedia.org/wiki/太田竜 太田竜とは、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。反家畜制度、反米、フリーメーソンやイルミナティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配論者。人類は爬虫類人によって支配されているという説を取り込んだ。2009年5月19日腹膜炎のため死去。
松重楊江(日韓親善協会、日中親善協会会員)
もう一人の松重は鹿島の本に影響を受けた日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員である。
明治天皇すり替え説が広まった流れとして、第二次大戦後の自称南朝の自称天皇ブーム、熊沢天皇(熊沢寛道 )・三浦天皇(三浦芳聖)等そして、三浦が『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を自費出版→トンデモ歴史家鹿島昇、松重楊江が自分は南朝で大叔(大室寅之祐)が明治天皇になったとする田布施の変人である大室近祐と出会い、鹿島が明治天皇すり替えを書いた『日本王朝興亡史』を出版→日本で革命を起こしたい共産主義者や新左翼(太田竜、鬼塚英昭)がそれらと出会い、朝鮮系、トンデモ系、陰謀系の出版社で本を出版→それが今知られているすり替え説です。
おまけ 万世一系の日本の皇室を羨む中国・朝鮮 天壌無窮の神勅―『日本書紀』「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。」 『日本書紀』 「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」
「葦原千五百秋之瑞穂國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之降、當與天壤無窮者矣。」 https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?page=2
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天孫降臨 https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?&page=3
出典 teikoku-denmo.jp 天孫降臨
天壌無窮の神勅― 現代語訳: 「日本国は、我が子孫が王たるべき国である。さあ瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)よ、行って、しっかりと治めなさい。恙(つつが)なくお行きなさい。天津日嗣(あまつひつぎ;寶祚=皇位)は、天地と共に永遠に栄えることでしょう。」
神武天皇
高天原から天降ったニニギの曾孫 第一代天皇,神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四皇子。九州日向(ひむか)から東進して大和地方を平定,紀元前660年(皇紀元年),大和の橿原宮で即位したという。
歴代天皇と世界の帝国興亡史 北宋の第2代皇帝・太宗も驚く日本の皇室 『宋史』日本伝「北宋の太宗は、その国王(日本の天皇)は一つの姓で継承され、その臣下も官職を世襲して絶えることが無いと聞き、嘆息して宰相にいうには...
『宋史』日本伝「これは島夷であると言うのに、代々の位は遥かに久しく、その臣下もまた世襲していて絶えていない。これぞまさしく古の王朝の在り方である。」 太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからはQ(日の下に火)に改めた。 『宋史』日本伝「これは島夷であると言うのに、代々の位は遥かに久しく、その臣下もまた世襲していて絶えていない。これぞまさしく古の王朝の在り方である。」
中国は唐李の乱(李克用による禅譲)により分裂し、五代は王朝こそ継承したが、その期間は短く、臣下も世襲できる者は少なかった。我が徳は太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、臣下の子等に官位を継がせることこそが我が願いである」
上聞其國王一姓傳繼臣下皆世官 因歎息謂宰相曰 此島夷耳 乃世祚遐久其臣亦継襲不絶 此蓋古之道也 中国自唐李之乱寓縣分裂梁周五代享歴尤促 大臣世冑鮮能嗣続 朕雖徳慙往聖常夙夜寅畏講求治本不敢暇逸建無窮之業 垂可久之範 亦以為子孫之計 使大臣之後世襲禄位此朕之心焉(『宋史』日本伝)
『宋史』(そうし)は、中国、元代に編纂された正史(二十四史)の一つ。宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体の史書である。1345年完成。元のトクト(托克托・脱脱)が編纂した。16本紀47巻、15志162巻、2表32巻、197列伝255巻の計496巻。正史の中で最も膨大である。
出典 宋史 - Wikipedia
『宋史』では日本は巻四百九十一、列伝第二百五十、外国七において「流求」国の少し後で触れられている。「然が太宗に献上した『王年代紀』から引用して、天御中主から彦瀲尊まで23世と神武天皇から守平天皇(円融天皇)まで64世の系譜が述べられる。周の僖王の甲寅の年に神武天皇が即位したと記すが、日本書紀では即位は辛酉の年であり、甲寅は東征開始の年である。どちらも周の恵王の時代に当たる。
出典 宋史 - Wikipedia
聖徳太子が年3歳にして10人の言葉を聞き分けられたという逸話も紹介している。また日本が中国で滅失したものも含め多くの漢籍を蔵していることはこの頃から知られていたようで、「其國多有中國典籍」という記載も見える。記述は南宋寧宗(趙擴)の嘉泰二年の記事までで終わっている。 朝鮮通信使も羨む日本の皇室ー『日東壮遊歌』
『日東壮遊歌』とは第11次朝鮮通信使として来日した金仁謙の著書で旅行記である。
『日東壮遊歌』(にっとうそうゆうか、イルトンジャンユガ)とは、江戸時代の1763年(宝暦13年)から1764年(明和元年)にかけて来日した第11次朝鮮通信使(目的は徳川家治(在職1760年〜1786年)の将軍襲職祝い)の一員(従事官の書記)として来日した金仁謙(ko:김인겸、キム・インギョム、当時57歳)の著書で旅行記である。
『日東壮遊歌』大坂での記述より「天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。」
『日東壮遊歌』 大坂での記述より
「天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである。」 『日東壮遊歌』大坂での記述より「この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、」
「周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、」
「人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである」
『日東壮遊歌』京での記述より「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」
『日東壮遊歌』京での記述より「沃野千里をなしているが、惜しんであまりあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」
『日東壮遊歌』京での記述より「惜しんであまりあることは...帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。」
第11次朝鮮通信使、金仁謙の著 『日東壮遊歌』 「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」
「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし」
「朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」
「倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、」
『日東壮遊歌』「倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、宮殿の草花などを愛でながら、月の半分は斎戒し、あとの半分は酒色に耽るとか」 https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?&page=3
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