昭和天皇の命令で行なわれた(?)生体実験 731部隊の全貌 http://www7a.biglobe.ne.jp/~dev2ec82/index.htm
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言 http://www.youtube.com/watch?v=-qOV2saI5kQ 昭和17年(1942年)春のことだった。入営以来の住み馴れた 東満国境の部隊から関東軍防疫給水部に転勤になったとき、私に与えられた職務は 教育部付きとして各支部に配属される衛生兵の教育だった。 それが終了した後、第一部吉村班に出向ということになった。
ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行ったとき、たまたま 喝病〔原文ママ〕の生体実験が行われている最中だった。 それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、 初めて接する部隊の隠された側面にただ驚くばかりであった。 堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に 喝病にかかりやすい気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察し、 その病因を究明するためのものだった。 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。 いかに苦しくとも束縛されていて身動きもできない。 やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。 耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり、狂声と変わっていく あの凄まじい断末魔ともいえる形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。 私は初めて見るこの凄惨な光景をとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。 それにしても平然としてこのような実験に取り組んでいる人たちは、果たしてどんな神経の持ち主なのであろうか。…… http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/05/post_44a5.html 実験その1。
厳冬の厳しい真冬の寒さの中に「マルタ」を長時間置き、凍傷を作りその治療をするという人体実験。 この場合限界まで外に置き完全に凍傷をさせる死の直前まで外に置く。 死んでは治療が出来なくなためです。そして体に出来た各部の凍傷を治療するという人体実験。 零下40度cの中に、長時間置かれるだけでも苦痛なのに。凍傷しているかを試すのに、 角材で、手、足を殴り、痛いうちはまだ凍傷になって いないため更に、長時間、外に凍傷するまで置かれたという。 実験その2。 腹部に銃弾を撃ち込み、その銃弾の摘出手術をするという人体実験。 治癒するまでの時間がどの位掛かるのか。 実験その3。
無理やり全身麻酔の注射をして、人体を解剖し、足、腕、を切断し、接続する人体実験。 頭部を切り落とし脳の中の仕組みを調べる。 実験その4。
「マルタ」の男女にセックスをさせる実験。目的は梅毒に感染させるため。 日本兵が梅毒に感染した時の治療方法の研究。 実験その5。
細菌に感染させる人体実験。チフス、ぺスト、コレラ、赤痢、結核、梅毒等に感染させて、 その病状の変化の様子を克明に記録した。 実験その6。人間はどの位食べ物を摂らずに生きていられるかの実験。
兵士の背負う重装備の「背嚢」→はいのう。約30キロはある重い物を 背負わせ。5時間〜6時間歩かせ、水、食べ物をも与えず何日位位耐えられるのか。 あるいは飲料水と乾パンだけで、何日耐えられるか。 この実験には2人の中国人が使われた。何も与えない人。水と乾パンだけの人。 それぞれのデーターが記録された。 実験その7。
臓器摘出の人体実験。「マルタ」に全身麻酔をして、切り開かれた体内の臓器に、 刺激を与えどのような反応をするのかの人体実験。 そして摘出をして、ホルマリン漬けにする。まだぴくぴくと動いていたという。 実験その8。
「マルタ」を逆さつりにして、何時間何分で死に至るのかの人体実験。 身体の各部はどのように変化するるのかのテスト。 実験その9。
猿や馬の血液と人間の血液の交換実験。「マルタ」の体内血液を全て抜き取り、 どの位の分量の血液が搾り取る事が出来るかの人体実験。 凍傷の人体実験では、極寒の零下40度に長時間放置し、冷凍人間に近いものを作って 人体実験をした部分は記載中涙が止まらなかった。何故そのような事が行われたのか?
答えは、かってシベリア出兵の時日本軍は凍傷に悩まされた経験を持っていました。 この凍傷の克服のために731部隊では、凍傷実験が行われたのです。 この実験で手足を無くした「マルタ」の身体は、かろうじて残された頭部だけです。 そして最終的には毒ガス実験などに「再利用」されたという その他「マルタ」を柱に縛り付け、空中から細菌爆弾を投下し効果がどの位あるのかを実験した。 「細菌の効力を確かめるため」 毒ガス実験では、ガラス張りの中に「マルタ」を入れ、毒ガスで死亡していく経過を映像に記録したり。絵画を描いたという。 http://homepage2.nifty.com/yocyan1854/ikari4.htm そやね。私たちが片付けにいったとき、中国の女の人がありましたね。 梅毒の実験の。スペロヘータの実験の。それは思い出ありますね。 えーと、やられた先生は、園田中佐。教育隊の中佐のね。 それで私たちが入ったのは梅毒のそれをやったあとですから、恥部をずうっと切り開いとったですね。 その実験がどういうようにしたとかはお聞きになりましたか? いやー、それは聞いてない。それは恥部と、それとあばらを開いとったですね。 その中をどうあたっていたかは覚えてないですね。顔とかはあたってないです。 まあ、そのような繰り返しです。 http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm その真空試験いうのは?
結局カプセルの中に入れて空気を抜くわけです。そうすると穴という穴から腸とか全部飛び出してくるいうて、凄かったらしいです。 それを言われた方、覚えていますか? はい、1班におったのですね。茨木の方です。4年次になってちょっとして聞いたですね。 何班ですか? それは研究班になるんですね。岡本班ですね。どういう意味でやったのかそこまで聞かなんだけどね。 http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm 証拠隠滅=殺しつくし、焼きつくす
撤収作業で緊急を要したのは、マルタの処置であった。 ロ号7,8棟に、青酸ガスを噴出させて、かなりのマルタを殺した、 また、私たちが直接手を出さないで確実に殺す方法を編み出した。 つまり、マルタ2人を互いに向かい合わせ、首にロープをまき、その中央に棒を差し込んで、2人がねじるのである。 もちろん、私たちはかたわらで銃を構えている。2,3分で2人とも自らの首を自らの手で締め上げていった。 この方法で私たちは多数のマルタを殺した。また、その他いろいろな方法で、マルタを整理したのである。 私たちは、マルタを殺す前、マルタ自身に溝を掘らせてから処置することも忘れなかった。 そんな時、彼らは足かせを引きずりながら、生気の無いドロンとした眼で、シャベルや鍬(すき)をにぎっていた。 きっと、その溝が何のためのものかわかっていたのだろう。 http://xa0007.blogspot.com/2009/10/731_27.html アメリカが主導した○○○○の戦争犯罪の証拠隠滅
○○○○と731部隊 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。 当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。 ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。) 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。 昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。 新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。 ※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房) ・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。 1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。 ・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。 ・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。) ・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。 このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。) ・『731部隊−天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。 ・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。) ・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。 ・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。 ・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。 ・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。 ・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。 ・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。 ・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き) ・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。 日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社) http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html 戦後も731部隊出身研究者の大活躍が続きます
石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の幹部は、エリートが多く、そのほとんどは戦後になって、東京大学や京都大学を初めとする医学部の教授、陸上自衛隊衛生学校校長、国立予防衛生研究所所長、大阪大学微生物病研究所幹部等、日本の医学界、医薬品業界、厚生行政の重鎮となり、さらに満州のA級戦犯岸信介らが政界の重鎮となり日本国内での人道的見地からの責任追及の動きを封じていく。しかし、近年になり旧幹部の引退などに伴い徐々に弱まって来ている。 1947年、国立予防衛生研究所の幹部となった北岡正見(旧731部隊ウイルスリケッチア部長)らは府中刑務所の受刑者を使って発疹チフスの人体実験を行った。 1950年、GHQとコネができた内藤は、後年に薬害エイズを引き起こすミドリ十字の前身の日本ブラッドバンク(6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次とサンダース中佐が顧問)を創立した[7]。 1952年の名古屋市立乳児院事件では、乳児達に対して大腸菌を直接飲ませて激しい下痢を起こさせるという人体実験を行い乳児一人を殺している。乳児達は親のいない子が多く拒むことはできなかった。名古屋市立大学小児科の旧731部隊員小川二郎が中心となり石井四郎のネットワークの一つである東京1644部隊にいた小川透、東大伝染病研究所(現在の医科学研究所)、国立予防衛生研究所が協力して行った実験であった。 同1952年、日本学術会議総会において若手医学者達が731部隊について反省・総括が必要と主張。それに対し戦前からの医学界の重鎮である戸田正三(石井の京大での恩師で731部隊に積極的に協力してきた)は「細菌兵器は今日ほとんど実用になりません。実用にならぬものを苦労して日本で作るというバカが出ましたら、そんなバカなことをするなという勧告を私からよく致しますから、どうかその点、ご安心ください」と回答した。 1956年、新潟精神病院ツツガムシ病人体実験では、新潟大学医学部の桂重鴻教授らと旧731部隊の北岡正見、浅沼靖が協力して、149人の精神病患者にツツガムシの病原体(リケッチア)を投与し、8人が死亡、9人が腕から皮を剥がされる結果となった。これはアメリカ軍の生物兵器部隊406研究所の出資により行われた、米軍にツツガムシ病がでないための実験であった。 1967年、ミドリ十字は赤痢予防薬の人体実験を陸上自衛隊員を使って行い、1089人中577人に急性食中毒を起こさせた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の跡があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与する人体実験をしていたことが明らかになった。 1993年、大阪大学微生物病研究所(旧731部隊渡辺栄らが作ったワクチンメーカー)はMMRワクチン(はしか、おたふく風邪、風疹の三種混合ワクチン)のおたふく風邪ワクチンの成分を厚生省に無断で変えて無菌性髄膜炎を多発させ2人の幼児を死亡させた。 近年、アメリカのダグウェイ実験場でも731部隊の人体実験のデータが発見され公開されている。その中には実験で標本にされた人体の顕微鏡写真も含まれていた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A 細菌戦部隊を支えた主な人物 戦後の就職先
安東洪次(大連衛生研究所→武田薬品顧問) 石川太刀雄丸(731郡隊→金沢大医学部) 江島真平(731部隊→国立予防研究所〔予研〕) 緒方富雄(防疫研究所〔防研〕→東大医学部) 岡本耕造(731部隊→兵庫医大・東北大等) 小川透(1644部隊→名古屋大医学部) 笠原四郎(731部隊→北里研究所) 春日仲善(731部隊→北里研究所) 北野政次(731部隊→ミドリ十字取蹄役) 木村廉(防研→京大細菌学教室) 草味正夫(731部隊→昭和薬科大) 小島三郎(1644部隊→予研第2代所長) 児玉鴻(731部隊→予研初代所長) 正路倫之助(防研→京大) 園口忠男(731部隊→陸上自衛隊衛生病学校、熊本大) 田中英雄(731部隊→大阪市立大医学部長) 田部井和(731部隊→京大医学部) 所安夫(731部隊→東大病理学、帝京大医学部) 内藤良一(防研→ミドリ十字会長) 中黒秀外之(731部隊→陸上自衛隊衛生学校校長) 細谷省吾(防研→東大伝染病研究所長) 増田美保(731部隊→防衛大学) 湊正男(731部隊→京大) 村田良介(防研→予研第7代所長) 八木沢行正(731部隊→抗生物質協会) 山口一季(731部隊→国立衛生試験所) 吉村寿人(731部隊→京大航空医学教室、京都府立医大) 柳沢謙(防研→予研第5代所長) http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/731butaiseturitu.htm 七三一部隊と「ミドリ十字」
帰国した次の日、二十日の「しんぶん赤旗」で、私は「ミドリ十字」の見出しの 小さな記事を目ざとく見つけた。「七三一部隊はこうしてまだ息の根を止めていない」と、怒りがわいた。 某病院の照会に、C型肝炎汚染の血液製剤の納入はしなかったとうそをついていたミドリ十字が、実は納入していたことを認めていたニュースだった。このため、医師は汚染血液製剤を患者に使ってしまっていた。 薬害エイズの問題を初めとし、人工血液で捏造問題を次々起こしている「ミドリ十字」の前身「日本ブラックバンド」は、 七三一部隊二代目の元部隊長、北野政治が創設した会社であることは、誰もが知っている事実である。 命を何とも思わない考えは脈々と流れているではないか。 これは偶然ではなく、中国で行った人体実験の実績が利用された疑いも、最近濃厚になっているという話もあるくらいだ。 七三一部隊の責任者だった石井四郎は、許しがたいことにアメリカ軍との取引で、 細菌戦の膨大な資料の提供と引き換えに戦犯を免れているのである。 当然一級戦犯になるべき人物が! アメリカの侵略戦争は、マルタとなった命を踏みつけて、 さらに罪なき人の屍を無数に積み上げる人でなしの行為である。 http://www.akazukin-sanae.com/column/china2004/c05_03.html
|