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若いクルド人女性難民が見たシリアの現実
アラブの春、民主化運動が残した負の遺産との戦い
2017.3.8(水) 佐藤 真紀
2016年7月、「イスラム国」が支配するモスルから避難してきた人たち
時間が6年前のあの時に戻ったなら
?3月15日で7年目を迎えるシリア内戦、先月から今月の初めまで政権側と反体制派を招き、スイスのジュネーブで和平会議が行われていた。
?しかし、時事通信の配信記事には、「シリア和平協議、成果なく中断」という見出しがつけられ希望は遠のくばかりである。
?「もし、時間があの時に戻れるのなら、革命なんてなかった方が良かったわ」
?10代後半でシリアを去り、難民としてイラクで暮らすリーム・アッバース(23歳)は言う。
?「この6年間で、40万人を超える人たちが殺されたのよ」
?難民の数は、UNHCR(国際連合難民高等弁務官事務所)によると、500万人に近い。21世紀最大の人道危機と呼ばれるゆえんである。
?リームは鎌田實が代表を務めるJIM-NETというNGOのイラク事務所で現地スタッフとして働いている。
?イラクの小児がんの子供たちの支援が中心だが、「イスラム国」から逃げて来るシリア難民や、モスルからの国内避難民の支援も行っているから、悲惨なのはシリアだけではないことをよく知っていた。そんなリームが6年間を振り返った。
若者は新しい波を求めていた
?2010年の終わりに、チェニジアで起きた民主化運動は、瞬く間にアラブ諸国に広がっていった。若者たちは、ソーシャルネットワークを駆使して独裁政権を倒していく。
?2011年3月15日、シリアにもその波が押し寄せる。アサド独裁政権に黙殺されていた若者たちが立ち上がり、自由と民主主義を掲げたデモが全土に広がった。
?リームはクルド人で、シリア北部のカミシリの田舎で農家の子として生まれた。12人兄弟で下から3番目だった。革命が起きたときは、高校を卒業し、首都ダマスカスの看護学校の学生になったばかりだった。
?「新しい波??そんなものは感じなかった。自由とか、民主主義とかいう言葉はとても新鮮だったわ」
?「でも、リビアやエジプトは結局うまくいかなかったし、今のままでも、私たち貧しい一家にとっては、タダで学校に行けた。給料は安くても看護師になりたかった」
?クルド人は、差別されていた。国籍を与えられない人もいて、彼らは高校までしか行けないし、働いても低い賃金しかもらえない。
?アラブの春は、シリアではうまくいきそうな気もした。政府は彼らに国籍を与えることを約束した。しかし、民主化運動が暴力的な戦いになるとすべては壊されてしまった。
?リームは、3人の同級生の女の子と一緒に下宿生活を送っていた。その看護学校は、卒業すると軍の病院で働く子も多く、体制側とみなされた。
?学校に爆弾が投げ込まれたり、ルームメートが誘拐されて帰ってこなかった。自分もブラックリストに載せられていると知らされ、親戚が迎えに来てくれてダマスカスを去った。
2012年難民としてヨルダンに逃れた反体制派の旗を掲げる人たち
イラクで難民生活を送る女子たち
?生まれ故郷のカミシリに戻ったが、内戦が激しくなると孤立してしまい、2013年に難民として、イラクのクルド自治政府の首都であるアルビルの難民キャンプに収容されたのだ。
?クルド自治政府は、シリア難民に対しては、同じクルド人ということで、住民票を与え、就労の自由も保証した。
?アルビルは、イラク戦争後、治安が安定していたので、投資と開発が進み、高級ホテルやショッピング・モールもたくさんできた。地元の女子たちは、人前で働くのは親の反対などもあり、よしとしないから、シリア難民の女子たちが雇われる。
?また、難民キャンプなどで、人道支援を行う国際NGOのスタッフになる若者も多い。英語が少ししゃべれると、高額の給料をもらえる。
?そして、人権とかジェンダーとかそんな話題を職業にし、スターバックスのようなカフェで500円くらいするコーヒーを飲むのだ。シリアにいたら到底味わえない自由があった。
?難民キャンプのクリニックでボランティアをしていたリームは、ほとんど英語が喋れなかったが、キャンプの管理者から勧められJIM-NETで働くことになった。
?3年半が絶ち、結婚もし、貫禄が出てきた。英語もうまくなった。JIM-NETの仕事を気に行ったのか、安い給料でも辞めずにいる。「なぜ?」と聞いたら「自分のアイデアを取り入れてもらえるから」と言う。
?私は、いちいち細かいことを指図するのは面倒なので、ほったらかしにしておいたら、リームが勝手に、難民のお母さんを集めて、毛糸の帽子を作ったり、ビーズ細工を作ったりして、JIM-NETの収益にならないかと目論んでいる。
?実は、シリア人が命をかけて勝ち取ろうとしていたのは、そういう「いい加減に生きること」なのかもしれない。
難民キャンプで妊産婦の相談を受けるリーム(右)
シリアに帰る
?2014年「イスラム国」がモスルを占拠すると、クルド自治政府は、予算の大半を戦費に充てなくてはならず、公務員の給料も払えなくなってしまう。
?難民キャンプでの食料の配給なども減ってしまい、2015年は、難民生活に見切りをつけてヨーロッパを目指すシリア難民であふれた。リームの兄弟もドイツへ向かったが、リームは、ヨーロッパに行くことを拒んだ。
?「シリアほど美しい国はないと思うわ」
?昨年10月、リームは様子を見にシリアへ行くことになった。彼女の故郷のカミシリの村人は、ほとんどがヨーロッパなどに移住してしまい年寄りしか残っていなかった。
?ダマスカスに向かう飛行機は満席で、ブローカーにお金を払ってシリア軍の輸送機に乗せてもらった。300人ほどの乗客がおり、けがをした兵士や遺体と一緒にリームらは貨物を載せる床に座らされた。
?隣には、「イスラム国」に感化されて自爆テロを行おうとした10代半ばの女性が手錠をかけられて座っていた。タバコを吸わせろと騒ぎ「私は、バグダーディを知っているわ」と狂ったように笑っていたという。
?ダマスカスの中心部に入ると、報道で見ている悲惨な状況と異なり、子供たちは学校に通い、普通に暮らしていたので驚いた。
?しかし、混雑している道沿いには30メートルおきにチェックポイントがあり、道を行く若い男性のほとんどは軍服を着ていた。夜になると銃声と爆撃音が聞こえ戦時下であることを思い出させられる。
?シリアで暮らしていくのは、まだまだ難しいが、平和への希望も感じている。「これからどうする。看護師になるのかな?」と聞いた。
?「はい。これからのシリアに必要なのは、理学療法士のような仕事かなと思い始めました。6年間で多くの人が障害を負ってしまって、シリアそのものが障害者のようになっているから・・・。障害を一緒に乗り越えて行こうかなって」
会議で発表したリーム。右は鎌田、左が佐藤
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49352
自衛隊よ、武士道に入れあげていると破滅するぞ
自衛隊幹部が勇ましく突撃して討ち死にでどうする
2017.3.8(水) 部谷 直亮
武士道の過剰な礼賛は旧軍末期の失敗を繰り返すことになる(写真はイメージ)
?一体の亡霊が自衛隊を徘徊している。武士道という亡霊が。
?元々、自衛隊の「武士道」好きは旧軍末期以来の伝統的なものであった。それが近年になり、武士道ブームが公的なものとなりつつある。
?2000年以降、武士道の重要性を公言する将官が相次いで出現し、各部隊でも「武士道の神髄」云々といった講演が行われるようになった。そして2016年に制定された陸自の新エンブレムには、抜身の日本刀が交差したデザインが採用された。
?しかし、近代国家の国益と名誉を担う軍隊として、それで良いのだろうか。
?武士道とは、新渡戸稲造が騎士道を焼き直しした「西洋的武士道」、至上の価値を“死”に見出す「葉隠的武士道」、犬畜生と言われても勝つことに意味があるとする「戦国的武士道」等々の幅広い解釈があり、体系的な思想のないバズワードでしかない。
?自衛隊内の言うところの武士道には、「戦国的武士道」の要素はあまり見られない。実質的には、「勇敢」「規律」「正々堂々」といった合言葉のもとに部隊をまとめていくための拠り所という色彩が強い。
?だが、武士道の過剰な礼賛は旧軍末期の軍事的失敗を繰り返すことにならないだろうか。実際、政治学者のサミュエル・P・ハンティントンはこの点を痛烈に批判している。
?今回は、自衛隊が武士道をもてはやすことの危うさを考えてみたい。
日本の将校は軍人ではなく武人
?ハンティントンは、政軍関係論の古典として名高い『軍人と国家』で日本の将校の特徴を挙げている。
?第1に、日本の将校は近代の職業軍人としての指揮官というよりも、中世の一武士に過ぎないということだ。それは、まさに武士道の弊害を指摘していることに他ならない。
?ハンティントンは、ある論者の以下のような論評を引用している。
「日本の将校は素晴らしい人間の指導者である。彼の弱点は欧州の将校のように戦術の熟練者であることを維持することに失敗していることである。彼は戦闘を指揮するよりも、自らそれに入っていってしまう。(中略)日本の将校は、軍人というよりも武人的である。そして、そこに彼の弱点がある。(中略)武人に必須の資質は、勇敢さであるのに対して軍人のそれは修練である」
?そして、ハンティントンは次のように指摘する。日本軍の将校教育では、科学的能力よりも、砲火の下での勇気の重要性が強調される。これにより兵士と将校の間に緊密な連帯が存在する一方、将校は兵士の持たぬ技術と能力をもっているわけではなかった、と。
?実際、よく知られているように、末期の日本軍は一部を除き、長期持久するよりも勇ましく死ぬこと、もしくは精神的価値に意義を見出した。そのため、純軍事的な意義の低い作戦(沖縄戦での5月攻勢や大和特攻)を繰り返したのである。こうした点は、一砲兵将校としてフィリピン戦に参加した、作家の山本七平も「現実を無視した精神性への傾斜」として指摘しているところである。そして、これらの拠り所として、末期の日本軍が縋ったのが「武士道」であった。
?こうした気風は現在でも自衛隊に残っており、幹部が睡眠不足に陥る原因の1つになっている。もちろんその弊害を理解している幹部もいるが、武士道的な“勇気”を見せられる指揮官でなければ部下がついてこないとも嘆く幹部もいる。
?しかし、突撃に意義を見出す文化が、宇宙戦争、サイバー戦争も含めた高度な現代戦に適合しているとは言い難いし、過去の戦争でも役に立たなかったことは間違いない。
?例えば、警察予備隊(自衛隊の前身)創設時にはこんなエピソードがある。警察予備隊のある若い中隊長が演習時に、米軍審判から「部隊の3割が喪失したが次の行動はどうするか」と尋ねられた。すると中隊長は「攻撃を続行する」と回答した。しばらくして攻撃は失敗し、頭上に砲弾が落下中、「次の行動は?」と米軍審判に尋ねられた。中隊長はまたもや「戦闘を継続する」と回答した。今度は熾烈な砲火を受け「敵攻撃機接近中」と米軍審判が伝えたところ「現地点で戦死します!」と回答した。これを目撃した対日軍事顧問団のコワルスキー大佐は「武士道を感じた」と回顧しているが、こうした勇ましいだけの将校が指揮官失格なのは言うまでもない。
?また、こんな話もある。警察予備隊のある隊員が兵舎で切腹し、「マッカーサー万歳」と自分の血でシーツに書いた。貧しい家庭に生まれ育った彼は戦後に共産党に入党したが、幻滅して予備隊に入隊したのだった。米軍将兵の指導に感動し、熱心に訓練に励んだが、自分が理想とする立派な兵隊にはなれなかった。また、共産党に入党していたことを激しく後悔していた。彼はそれらの罪を償い、米国と日本、故郷に謝罪するために、武人として切腹する道を選んだのである。
?だが、これが福沢諭吉が言う「権助の死」に等しいことは明白である。権助は、主人の依頼を受けたたった1両のカネをなくしたために死をもって報いた。福沢諭吉は、文明を益することのない無意味な死だという点で、忠臣義士の討ち死にも権助の死も同じだとしている。
アカデミックな議論ができない日本の将校
?ハンティントンが指摘する日本の将校の第2の特徴は、ものの見方や判断が客観的ではなく、きわめて「主観的」だということだ。この傾向も、武士道を過剰に評価する姿勢と表裏一体と言ってよい。
?ハンティントンは、戦前の日本海軍研究者としては随一の存在であるアレキサンダー・キラルフィの以下のような趣旨の内容を引用している。
「軍事的観点から見れば、日本人の精神は客観的ではなく、主観的である。平時において、英米の評論家や学生は、太平洋や地中海の支配権に関して、フランスとイタリアの対立、ドイツとロシアの対立といった、直接関係ない戦争を詳細に論じることが出来る。しかし、日本人は直接関係ない海洋問題への関心に乏しい。
?西洋の学生が海軍力それ自体に注目して、アカデミックな方向に沿って問題を処理しようとするのに対して、日本の学生は国家政策的なアプローチを排除することが困難である。彼らはグアム島問題について、彼らの国家にとって除去されねばならない脅威であると述べたり、ほのめかしたりせずに議論ができない」
?これは現代にも通じる指摘だろう。実際、グアム島を尖閣諸島や南シナ海に置き換えてみれば、そのまま通じるはずである。日本では尖閣諸島問題や南シナ海問題について論じるとき、アカデミックにその影響を分析するよりも、往々にしてその領有権や日本への直接的な脅威についての戦術的な議論に終始してしまう。ひどい場合は、尖閣諸島を米国が防衛するか、しないかにまでレベルが低下する。
?こうした主観的な議論に欧米の専門家や政策担当者が共感することはないし、主観的かつ近視眼的な議論から賢明な戦略が生まれないのは明白である。
現代戦に適合した幹部自衛官像とは?
?自衛隊がいまだに武士道を体現しようとしているのは、世界的にみれば異常である。
?例えば「カウボーイ精神の米軍」「ロングボウ自由農民の英国軍」「ユンカー精神のドイツ軍」「重装騎兵精神のポーランド軍」「騎士道精神のフランス軍」「ボヤール精神のロシア軍」などがあり得るだろうか。まともな近代国家で前時代の倫理規範や価値観を大々的に掲げている国など1つもない。
?むしろ、米軍などは、時代や戦略環境に合わせて理想とする幹部像を変えている。第2次大戦までのプロの将校とは戦闘のリーダーであり、冷戦期はマネージャーであり、ポスト冷戦期は学者戦士を意味し、そして、今や、「学者戦士」すらイラク・アフガン戦争時代の遺物として次なる理想像が模索されている。
?そうした現状をみれば、幕府陸軍や明治陸軍の先人たちが懸命に相対化した「中世的な武士道」を、現代の戦略環境や戦略文化に適合するかも考えずに称揚することの愚かさは明らかだろう。
?少なくとも明治陸軍が、西郷隆盛率いる「武士団」や清朝軍、帝政ロシア軍に勝利できたのは、武士道精神のおかげではなく、西欧的なプロフェッショナルな軍人組織になろうと努め、その点で上回ったからにほかならない。
?中隊レベルの士気高揚の範囲ならともかく、「武士道」を自衛隊全軍の価値観とすることは無理があり、危険でしかない。むしろ今やるべきなのは、「現代戦で国益を実現するために必要な自衛隊幹部の理想像とは何か」を国民的に議論していくことである。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49356
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