http://www.asyura2.com/16/warb19/msg/548.html
Tweet |
シリア・アレッポ(iStock)
戦争は破壊し、人は再建する アレッポからの手紙〜年の初めに平和を祈る〜
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/8697
2017年1月21日 風樹茂 (作家、国際コンサルタント) WEDGE Infinity
戦争は、ぼくらの将来の夢を奪い、美しい記憶を消し去った。けれども、これ以上夢を見続けているわけにはいかない。戦争はそう目覚めさせた―シャフィク・アブド
■何がアラブの春だ!
戦争には勝者と敗者がいる。アレッポの東側では廃墟から住民、反体制派、テロリストが退去し、西側では5年振りに盛大にクリスマスを広場で祝っている。
日本を含め欧米のマスメディアは、東側の破壊された町と、子供たちの惨劇と、樽爆弾の非人道性を非難する。住民への残虐行為は決して看過できないであろう。
けれども、この戦争については、少数派であろうが、私は西側の報道とはまったく違う見方をしている。戦争報道は、どこの国のメディアも自国政府の宣伝機関と化す。イラク戦争、アラブの春など、欧米諸国のマスメディアと政府はどう語ってきたか?
海外に滞在しているとき私はCNN、BBC、RT(ロシア・トゥデイ) などの報道番組を見て、180度違う情報に接し、足して二で割るぐらいがいいところと考えている。また、普通の人々のちょっとした言葉にこそ真実が宿るものだ。
アラブの春たけなわのとき、私はカタールに住んでいた。首都ドーハの旧市街の定宿のフロントで働く中年のエジプト人は、新聞を見せて私に言ったものだ。
「見ろ! 気が狂っているよ。10人も警官を殺して、何がアラブの春だ!」
アラブの春などなければ、シリアで30万人以上も人が死ぬこともなかったし、内外に1000万人を超える難民が発生することもなかった。アラブの春に乗じてサウジアラビアやカタールが、それぞれISとヌスラ戦線を支援し、欧米が支持率の高いバッシャール・アル=アサド大統領を無理やり追い出そうとしなければ、ヒズボラ、イラン、そしてロシアも深入りせずに、戦争はこれほど長く続くことはなかった。
知人のシリア人たちからはこんな声が聞こえてくる。
「騒乱が起こった2011年にはテロリストはサウジの支援でモスクに武器弾薬を隠していた」
「アレッポの東側住民への支援物質の中に弾薬が隠されていた」
「アレッポの東側では、子供たちにジハード教育をしていた」
大人たちの思惑の中で、傷つき死んでいった子供たちこそ、最大の被害者であろう。
■アレッポの破壊に言葉を添える
アレッポは日本でいえば京都に匹敵する。紀元前2000年から栄えていた、人類の文明と歴史が交錯する街だ。世界中の人々はテレビの映像やインターネットの中に破壊され残骸となった建築物を見る。だが、破壊物が何で、市民たちはどう感じたのかは、わからない。
そこでアレッポに生まれ育ち、今もそこに住むシャフィク・アブド(28歳)に破壊された世界遺産と、病院の写真を提供してもらい、言葉も添えてもらった。
旧市街のスーク(Al-Madina Souq)
世界で最も巨大で歴史の古い商店モール。建設は紀元前312年に遡る。アレキサンダー大王の後継者セレウコスニカトールがセレウコス朝シリアを建国した時代。広さは1200平米、長さは総計14キロで 38のマーケットに区分され、5000の商店があった。
ここは幸せを売る市場だって知っていた? 旧市街のマーケットはみんなに幸せを売っていたんだ。毎日、毎日 新たな人生や生活を提供していたんだ。
このとても狭い路地に 生活のためのあらゆる材料が集まり、そしてアレッポの住民や観光客が出会う場所だったんだ。 モダンな商業モールよりもずっとうまく作られていて欲しいものは何でも揃っていた。
各々の商品ごとに販売場所は区分けされていたんだよ。たとえば食品、衣類、東洋風の家具、シリアの骨董品、おもちゃ、裁縫道具、金、銀、銅製品、それにロープ用品専門の場所さえあったんだ。その他にもたくさんの商品のための区域があった。数え切れないぐらい。
市場には、風呂、博物館、ホテル、病院、モスクなどの歴史的建造物もあった。人が生きるためのものが何でもあったんだ。
ぼくが初めて訪れたのはいつだったか、定かじゃない。生まれてから毎年何百回って市場を訪問していたから。
けれども2012年の9月15日だった。この日が最後になった。ぼくは重い足取りでゆっくり狭い路地を歩いていた。悲しく辛かった。ぼくは入口で長らく佇んで市場の中を見詰めた。ほんとうに悲しかった。
なぜかこれが最後だって予感があったんだ。そして本当にそうなった。数日後の9月28日だった。テロリストがこの旧市街のスークを攻撃した。中の商品をすべて盗んで、スークを焼き尽くしたんだ。
今、ぼくは後悔している。なぜ、あの日、もっと長く市場にいなかったのだろうか、と。なぜ、もっと細部まで凝視しなかったんだろうか、と。なぜ、もっとスークの中の空気を思いっきり吸わなかったんだろうか、と。
ぼくは後悔している。なぜ石畳に口づけしなかったのか。そうすれば永遠にぼくの心の中にスークの思い出が強く刻みつかれたのに。あの日、人生が失われた。
グレート・モスク(The Great Mosque of Aleppo)
718 年に建てられた古いモスク。ウマイヤ朝正当カリフの時代に建てられたモスクの中では最大規模だった。だからグレートモスクと呼ばれる。シリアの中でも最大のモスクとなる。
このウマイヤ朝のモスクは信者が祈るだけではなく、観光客や地元の人間も美しい建築物を鑑賞しに訪れた。1290年以上の間、信者の足が絶えることはなかった。けれども、2013年の4月24日だった。テロリストがモスクを攻撃し、歴史的建造物を破壊した。
彼らは古いドームの美しい祭壇を盗んだ。それは象牙、真珠、銀が埋め込まれていたんだ。そして爆弾をミナレット(イスラム教寺院の塔)に仕掛け、吹き飛ばした。アレッポの市民はこの行為を決して拭い去ることのできない恥辱と見なした。
■1290年守ってきたモスク
あの日、ぼくらは失望し、悲しかった。テロリストはぼくらを破壊した。歴史を破壊した。ぼくらはこのモスクを1290年以上保存してきた。先祖たちが長年保存し祈りを捧げてきたモスクだ。そしてあの日、すべて破壊された。テロリストは永続性を断った。神聖なものを汚した。彼らは記憶を焼き、殺した。あの日、信仰は消えた。
アルキンディ病院(Al Kindi Hospital)
結核患者の治療のために1950年代に建てられた病院。ぼくらは貧しい人のための病院と呼んでいた。中近東で最初の骨バンクだった。
病院は2006年に拡張されてシリアで一番の規模になった。そして近代的な医療技術を施し、癌や腎臓病を治療するようになった。政府の病院だったので完全無料だった。ぼくが病院を最後に訪れたのは2010年のことだった。治療しに行ったのでも見舞いに行ったのでもなかった。ただこの記念碑を見たかった。
なぜって、シリアは貧しい第3諸国の一員とされている。そのシリアでのもっとも偉大な業績のひとつだったから。ぼくは誇りに思わずにはいられなかった。長い歴史の中で貧困と戦争に苦しんできたぼくの国が、この病院を建て近代技術に追いつこうとした。
けれども、2013年12月20日のことだった。あらゆる希望は失われ、誇りは粉々になった。いつもと同じ日ではなかった。アレッポの住民全員がショックを受け悲しみに沈んだ。テロリストがそれぞれ20トン爆薬を乗せた2台のトラックで自爆攻撃をしかけ、病院は完全に破壊され、瓦礫となった。爆発の規模が凄まじかったので完全に消滅し、警護にあたっていた十数人のシリア兵が殺された。
普段の日ではなかった。なぜならテロリストは病院を破壊しただけではなく、ぼくらの夢も打ち砕いた。貧乏な人々の無料治療の希望も打ち砕いた。それだけじゃない。テロリストは捕虜にしたシリア兵士を公衆の面前で処刑した。子どもたちの心にはテロの恐怖が植え付けられた。あの日、人類愛は失われた。
■戦うしかなかった
シャフィク・アブド は、1988年にシリア、アレッポに生まれた。アメリカンスクールを卒業し、婦人服のセールスの仕事につき、UAEで働いてきた。徴兵制度の義務を果たすため、2010年に祖国に戻った。徴兵期間は1年半。けれども、ほどなくして内戦が勃発した。
「シリアを侵略する外国勢力との戦いなのだから、故郷を守るために戦い続けるしかない」
カタナー、ザバダニ、ダマスカス、デルゾー、ダラア、アレッポ旧市街などを軍曹として転戦してきた。
今、彼は友人たちと久しぶりにクリスマスを祝っている。また破壊された市場とモスクにも訪れている。戦時中彼はこういっていた。
「アレッポは長い歴史の中で50回以上も破壊され、いつも再建されてきた。残骸の中から再生するフェニックス、それがアレッポのスローガン」
追伸:筆者とシャフィクは協力してアレッポについての書籍(できたら児童本)を作れないかと考えています。ご興味のある版元の方はご連絡ください。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。