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そもそも日本は何のためにアメリカと戦争したのだろう? 「目的」は終始混迷していた
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50527
2016.12.26 森山 優 歴史学者 静岡県立大学准教授 現代ビジネス
今から75年前、日本はアメリカとの戦争に踏み切った。しかし、なぜ戦争しなければならなかったのか? そもそも目的はなんだったのか? 改めて聞かれると、実はよくわからない。
当時の政策決定者たちは、なぜ「最悪」の決定を選んだのか。日・米・英の情報戦と政策決定の実態を丁寧に追い、日米戦争の謎に迫った話題作『日米開戦と情報戦』よりその一部を特別に紹介します。
■戦争目的の混迷
日本は、なぜアメリカと戦争をしたのだろう。この問いに即答できる人は案外少ないのではないだろうか。
高校の日本史や世界史の教科書を開いても、日本の「南進」政策やABCD包囲陣、アメリカのハル・ノートなどさまざまな記述があるが、はっきりとした原因を読み取ることは難しい。これは教科書の執筆者にも起因する(当該期の専門家が執筆陣に入っていないケースすらある)が、この戦争に固有の特徴に影響された側面も大きい。
一般的には、戦争は政治の延長と考えられている。クラウゼヴィッツの「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」というテーゼは、しばしば引用される(『戦争論』初版1832年)。
当事国が平和的手段である「外交」によって問題が解決できない場合に、「武力」で決着をはかるのが戦争ということである。そこには何らかの争点が存在し、理性的な検討を経て戦争という選択がなされると理解される。
しかし、この枠組みでは理解困難なのが、日米戦争なのである。その過程ではつねに原因と結果、目的と手段が不断に錯綜し、戦争指導は困難をきわめた。
さらに、この戦争は未曾有の規模で戦われ、前線と銃後の境界は曖昧となった。それ故、戦争体験者の身に起こったことは千差万別だった。
戦争目的の混迷と戦争の巨大さ、この二つは一般的な歴史認識が戦後に形成されることを妨げた大きな要因であり、それは現在においても克服されたとは言い難い。
戦争の巨大さについては筆者の手に余るため割愛するとして、戦争目的に関する混迷の例を一つ示そう。
開戦後2年を経過した1943(昭和18)年末、昭和天皇に国情を伝えるべく高松宮(昭和天皇の弟、海軍大佐)との連絡係の任に細川護貞(もりさだ)(細川護熙元首相の父)が就いた。義父である近衛文麿の要請だった。
細川の日記をひもとくと、1943年11月末にいたっても、戦争目的に関する議論が政府と軍のあいだでくりかえされていることに驚かされる。
もちろん、この事実をもって日本は目的もなしに戦ったなどと批判をするつもりはない。1943年秋といえば、フィリピンやビルマなど日本の占領地の代表を集めた大東亜会議が開催され(11月5、6日)、戦争の完遂と大東亜の建設をうたった大東亜共同宣言が採択された直後である。
つまり、日本の戦争目的を明示したはずの共同宣言を出した後も、日本は戦争目的を確立できていなかったことに着目したい。
戦争は暴力の行使であり、勝利を至上の目的とする。そのため、いったん発動されてしまうと、当事者の当初の意図をはるかに超えて、独自の論理で動き出してしまう性格を持っている(このこともクラウゼヴィッツは指摘している)。
戦争目的に関する議論は、米英との戦争をはじめた後も、陸海軍や外務省のあいだで、延々とくりひろげられてきていた。戦争目的の確立は、その後の軍事行動を規制するため、きわめて微妙な課題でありつづけた。
これが当時の政策決定の内実だったのである。
■目的なき戦争
一般に、日米戦争は、アメリカによる東アジアにおける門戸開放・機会均等原則の主張と、それに挑戦する日本の「東亜新秩序」との激突である、と理解されている。
しかし、日米がその理想を自国民のおびただしい血を流してまでも現実のものとしなければならないと考えていたわけではない。
アメリカの理想が実現している地域は、中南米をのぞけば、世界のどこにも存在しなかった。このため、日本側は日米交渉の過程で、アメリカの主張に主義上の賛意は表明したが、東アジアへの適用は世界中で実現した場合に限るという論理で、実質的には拒否したのである。
そして、「東亜新秩序」という日本の主張は、泥沼化した日中戦争を解決するため、苦し紛れにひねり出された構想だった。
1938(昭和13)年11月3日、近衛文麿首相は当時戦われていた日中戦争の目的を、「東亜新秩序」の建設にあるとする声明を発した(第二次近衛声明)。じつは、日中戦争も「目的」を失った戦争だったのである。まず、開戦直前の状況を概観してみよう。
1937(昭和12)年7月にはじまった「支那事変」当初は、中国に対する憎悪だけで国民を動員することができた。日本製品に対する排日不買運動、在留邦人へのテロ・虐殺など、敵愾心を煽る材料には事欠かなかったからである。
しかし、一時期の感情だけで長期戦を戦うのは無理である。
同年12月、首都南京が陥落しても、蒋介石は漢口さらに奥地の重慶に立てこもって抗戦をつづけた。日本は大きな損害を出したにもかかわらず、蒋と中国ナショナリズムを武力で屈服させることはできなかった。
南京陥落の翌月、1938年1月16日には、日本は「国民政府を対手(あいて)とせず」という声明(第一次近衛声明)を出して蒋介石政府を否認し、占領地に傀儡政権を樹立して、統治にあたらせようとした。しかし、傀儡政権には統治能力がなく、治安の維持さえおぼつかなかった。
このような事態を打開するために発されたのが、先述の第二次近衛声明とそれにつぐ12月の第三次近衛声明(近衛三原則、すなわち善隣友好、共同防共、経済提携に基づく「東亜新秩序」建設を謳った)だったのである。
これに呼応して、中国国民党のナンバー2だった汪兆銘のグループが重慶を離脱、日本との和平交渉を開始する。
ところが、日本は公式には非併合・無賠償と言いながら、汪兆銘との条約交渉では露骨な権益獲得を秘密協定で要求した。日本の要求を受け入れれば漢奸(裏切り者)となるのは避けられない。汪兆銘グループは分裂し、汪の側近だった高宗武らは香港に脱出する。
彼らは1940(昭和15)年1月22日、日本が出した条件を世界に暴露した。残された汪兆銘は自ら国民政府を名乗るが、日本の傀儡政権とみなされる運命となった。
日本政府は汪の統治能力の限界を悟ると、ふたたび重慶との直接交渉に乗り出し(桐工作)、汪政府の承認をひきのばしにかかった。最終的に汪政府との条約が締結されたのは、1940年の11月30日であった。汪の重慶脱出から、すでに2年が経過していた。
汪政府を国家として承認することは、蒋介石との和平が不可能になることを意味した。調印のために南京に向かった元首相の阿部信行大使の使節団一行を送るパーティーは、さながらお通夜のようだったという。
中国と戦いながら、中国を味方としなければいけない。この矛盾を鋭く衝いたのが、民政党の代議士斎藤隆夫による1940年2月2日の、世に言う「反軍演説」だった。
陸軍が桐工作に乗り出す直前の第七五帝国議会で展開された斎藤の演説は、論旨明快だった。彼にとって国際社会は弱肉強食の世界であり、戦争では勝ったほうが負けたほうから獲物を分捕って当然であった。しかし、政府は「支那事変」を「聖戦」と称し、領土も賠償金も要求しないと主張している。はたして何のために日本は戦っているのか、というのである(有馬学「戦争のパラダイム─斎藤隆夫のいわゆる「反軍」演説の意味」『比較社会文化』1、1995)。
政府のもっとも痛いところを衝いた斎藤の主張は、一般庶民の感覚に近かっただろう。まさに目的もなく、出口も見えない泥沼の大戦争になってしまったのが「支那事変」だった。
■イデオロギー戦争としての日米戦争
「東亜」が「大東亜」に、「新秩序」が「共栄圏」と名前を変えても、それが何を意味するか、日本人のあいだですら共通の了解はなかった。
このような理解不可能なもののために国運を賭ける国家が存在するだろうか。
政治学者で国連次席大使の経験もある北岡伸一は、「太平洋戦争の「争点」と「目的」」(細谷千博ほか編『太平洋戦争』東京大学出版会、1993。のち北岡『門戸開放政策と日本』東京大学出版会、2015)で、日米間には戦争に訴えてまで解決しなければならなかった争点が存在しなかったことを指摘している。
北岡によれば、日本が主張した東亜新秩序に対するアメリカの批判はイデオロギー的で、アメリカの現実的利害は小さかった。日本市場に比較して、中国市場が占める比重は格段に小さく、いわば想像上の利害(中国統一後は有力な市場となりうる)に過ぎなかった。
にもかかわらず、アメリカは日本の行動を門戸開放原則に対する重大な挑戦と受け取ったのである。また、日本側にとってもアメリカの主張は自らの生存圏を脅かすものと認識された。
これが日中間や日英間であれば、満蒙権益や中国市場という具体的な争点が存在するため、非常にわかりやすい。
しかし、日米間の対立は原則に関する対立であった。そのため、いったん両国関係が危機に陥った際、具体的な取引による解決が困難だったのである。日米戦争は、まさにイデオロギー戦争だった。
■戦争の直接的動機─南部仏印進駐
もちろん、日米間の原則的な妥協が困難でも、直接的な動機がなければ、戦争にはならない。具体的な懸案の解決策が原則問題に抵触し、硬直的な対応しか採れなくなったときに、はじめて戦争の危機が生じる。
その発端となったのは、1941(昭和16)年7月末の日本の南部仏印進駐と、それにつづく8月のアメリカ、イギリス、オランダによる対日全面禁輸であった。
日本は現在も当時も、その領土内から産出される資源に乏しい。特に石油は、需要のほとんどを米英圏からの輸入に頼っていた。当時の試算では、備蓄は平時需要の2年分、戦時だと1年半分であった。
備蓄が尽きた時点で英米が強硬な要求を突きつけてきても、それを呑むしかない。それならば、戦える力が残っているうちに、オランダ領東インド(蘭印)の資源地帯(当時、第一の産油地帯は蘭印であった。またゴム・ボーキサイトなどの戦略物資も豊富に産出していた)を武力を行使してでも確保すべきである、という議論が陸海軍に起こった。いわゆる「ジリ貧論」である。
もちろん、全面禁輸を解除すべく必死の対米交渉がつづけられ、中近東からの輸入や人造石油(石炭液化)なども検討された。しかし、アメリカはその原則を譲らず、日本もアメリカの要求に屈して中国からの撤兵を呑むことはしなかった。
つまり、日本が戦争に踏み切った直接的な動機は、平和的手段では入手困難となった戦略物資の獲得であった。少なくとも当時の指導者層の自己認識としては、「自存自衛」のためにやむを得ない戦争だったのである。
このことを明確に打ち出したのが、1941年12月8日、開戦と同時に発表された「宣戦の詔書」である。
ここで天皇は、日本に対して抗戦をつづける蒋介石の中国を支援する英米が、軍事的・経済的な圧迫を日本に加えたことで国の存立が危うくなったため、「自存自衛」のためにやむなく戦争に訴えたと述べている。
この詔書は、国民に対して戦争目的を明示する意味で、延々とくりかえし喧伝された。戦争中、毎月8日は「大詔奉戴日」とされ、国民学校(1941〜46年度の6年間、小学校は国民学校とされた)では校長が詔書を恭しく朗読したという。
国はさまざまな手段を使って、国民に対して戦争目的をわかりやすく浸透させようとした。
その目的で製作された大政翼賛会宣伝部による『敵だ!倒すぞ米英を』と題する紙芝居をみてみよう。
戦後も活躍した人気漫画家近藤日出造の画になるこの紙芝居は、戦争原因を米英のアジア搾取(図1)とABCD包囲陣(図2)に求め、アメリカが最後通牒を突きつけてきたため、日本はやむなく立ち上がった(図3)と説いている(神奈川大学非文字資料研究センター所蔵)。
図1 米英のアジア搾取
図2 ABCD包囲陣
図3 たちあがる日本
「支那事変」の不可解さに比較すれば、戦争目的の明快さは際立っていた。しかも、「弱い支那」をいじめるのではなく、世界の大国にいじめられた日本が立ち向かうという主張である。
先行きの不安はさておき、当時の国民が抱いたある種の爽快さは、それなりに筋が通っていた。国民にとって、この戦争目的はわかりやすく、そのために浸透することができたのである。
それではこの「自存自衛」という認識は、いったいいつつくられたのだろうか。そして、これが脅かされれば戦争に訴える理由になり得ると、開戦を決意した政府や軍の当事者たちは本気で考えていたのだろうか。
(続きは明日公開)
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