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日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由 尊い犠牲の上に、今日があるからこそ
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50145
2016.11.13 栗原 俊雄 現代ビジネス
特攻。「十死零生」の作戦はなぜ生まれたのかを探る本連載。最終回は、次第に「成功率の低い作戦」と判明していく中で、それでもなぜこの作戦を止めることができなかったのか。その「謎」を紐解く。毎日新聞・栗原俊雄記者のスペシャルレポート。
(前・中篇はこちらから http://gendai.ismedia.jp/list/author/toshiokurihara)
■「お前ら、覚悟しろ」
「特攻隊を志願しましたか?」
筆者がそう問うと、江名武彦さん(1923年生まれ)は答えてくれた。
「いえ。意思を聞かれることはありませんでした」
早稻田大学在学中の1943年12月、江名さんは学徒出陣で海軍に入った。航空機の偵察員となり、茨城県の百里原航空隊に配属された。前任地の静岡県・大井海軍航空隊から百里原に到着したとき、上官が言った。
「お前たちは特攻要員で来たんだ。覚悟しろ」
特攻隊員になるかどうか、聞かれたことはなかった。そして江名さんは南九州・串良基地から特攻隊員として2度出撃し、生還した。
前回書いた通り(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50088)、1944年10月に最初の神風特別攻撃隊を送り出した大西瀧治郎中将は、大日本帝国海軍航空部隊を育てた一人である。しかも、航空特攻を「統率の外道」と認識していた。それでもなぜ、大西は特攻を推進し、続けたのだろうか。
まず言えるのは、大西のみならず海軍全体、そして陸軍にも共通することだが、1944年10月の時点では、米軍を主軸とする連合国軍に対して通常の作戦では太刀打ちできなくなっていた、ということだ。
たとえば特攻が始まる1944年10月に先立つ7月、サイパン近海で両海軍が激突した「マリアナ沖海戦」では、帝国海軍は9隻、約450機の搭乗機をそろえ米海軍に決戦をいどんだ。
しかし空母16隻、900機を擁する米海軍に惨敗した。ほぼすべての航空機と、虎の子の正規空母2隻を含む空母3隻を撃沈された。一方、敵艦は一隻も沈まなかった。世界の海戦史に残る惨敗であった。
大西はこの惨敗の後、日本ほどからフィリピンに赴任する前、台湾で面談した連合艦隊司令長官・豊田副武に語ったという(豊田、『最後の帝国海軍』)。
「中には単独飛行がやっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、ただ被害が多いだけでとても成果は挙げられない。どうしても体当たりで行くより外に方法はないと思う」
■「ヨチヨチ歩き」でも出撃
ところで、飛行機搭乗員が独り立ちするまでどれくらいの時間がかかったか、ご存じだろうか。
特攻の実情を精密に分析した小沢郁郎によれば、何とか飛ぶことができる程度になるまで300飛行時間程度が必要で、それは「人間で言えばヨチヨチ歩きの段階」(『つらい真実・虚構の特攻神話』)であった。赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きまで、毎日3時間飛んでも、100日もかかったのだ。
当時「血の一滴」と言われた航空燃料も相当費やす。そうして膨大な時間と大切な燃料を費やして育てた搭乗員を、ただでさえ劣勢な戦場に送っても、戦果は一向に上がらず反比例するように戦死者が増えるばかりだ。
おなじ戦死するならば、命中率が高いと思われた特攻に踏み切ろう、という判断だったと思われる。前述のようにはじめに大戦果をあげたため、さらに拡大していった。
しかし米軍側が対策を整えるにつれ敵艦に突っ込むどころか敵艦隊に近づくことすら難しくなった。当然、戦果も期待したようにはならなかった。
それでも大西を初めとする海軍首脳は特攻を続けた。敵にダメージを与えられる戦術がそれしかなかった、ということもあるが、それ以外にも理由はありそうだ。
■なぜ「続けざるを得なかった」のか
1944年10月、大西が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに向かう前のことである。大西は多田力三中将(軍需省兵器総局第二局長)に特攻構想について話した。
多田が「あまり賛成しない」と述べたところ、大西は「たとえ特攻の成果が十分に挙がらなかったとしても、この戦争で若者達が国のためにこれだけのことをやったということを子孫に残すことは有意義だと思う」と話した(『日本海軍航空史(1)用兵編』)。
また毎日新聞記者で、海軍に従軍していた新名丈夫の証言をみてみよう。
大西は「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。戦争は負けるかもししれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」と話していたという(『一億人の昭和史3 太平洋戦争 昭和16〜20年』)。
二人が残した大西証言がその通りだったとしたら、大西にとって大切だったのは戦果だけではない。後世の人々に、自分たち先祖がどう戦ったかを記憶してもらうこと、いわば「民族的記憶遺産」を託すことであった。
右が大西中将【PHOTO】gettyimages
大西はもう一つ、特攻を続ける理由があったのかもしれない。それは、その「作戦」を続けていれば、いずれ昭和天皇が停戦を指示するだろう、という期待だ(この大西の心情については、角田和男『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』などに詳しい)。
天皇は、特攻をどう受けとめていたのだろうか。
海軍に続いて陸軍が航空特攻を始めたのは11月12日。フィリピン・マニラ南方の飛行場から「万朶(ばんだ)隊」の4機が飛び立った。大本営は翌13日、「戦艦1隻、輸送艦1隻撃沈」と発表した。
同日、梅津美治郎参謀総長が、昭和天皇に戦況を上奏した。天皇は「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」(『昭和天皇発言記録集成』掲載、「眞田穣一郎少将日記」)と述べた。
これに先立つ同月8日にも、天皇は梅津に対して「特別攻撃隊アンナニタマヲ沢山受ケナガラ低空テ非常ニ戦果ヲアケタノハ結構デアッタ」と話している(同日記)。
「あんなに敵弾を受けて」云々という内容からして、天皇は特攻の写真もしくは動画をみたのだろうか。いずれにしても、これらの史料からは天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる。
ちなみに、2014年に完成し公開された「昭和天皇実録」には、特攻に関する記述がある。それによれば、天皇は梅津からの報告に対して「御嘉賞になる」(同日)とある。「実録」は、1990年から宮内庁が国家事業として作成したものである。
四半世紀の時間と莫大な税金を投じただけあって、歴史研究の貴重な資料となるものだが、特攻の場面から分かる通り、天皇の生々しい肉声が削られている憾みが残る。筆者は毎日新聞オピニオン面のコラム「記者の目」で、具体的な例をあげてこの問題を指摘した(2014年8月18日)。
ともあれ、先に見た大西の狙いは、かりにそれが事実であったとしたら完全に外れた。
■後世の日本人に残すため
さて、特攻と言えば航空機によるそれがよく知られている。しかし軍艦などによる水上特攻もあったし、改造した魚雷に人間が乗る水中特攻、さらには上陸してくる敵戦車などに、爆雷を抱いて突っ込む陸上特攻もあった。実際は、航空特攻の死者よりこれらの死者の方がはるかに多かった。
たとえば1945年4月、沖縄に上陸した米軍を撃退すべく出撃した戦艦「大和」以下10隻の艦隊を、海軍首脳は「水上特攻」と認識していたし、命令は「片道燃料」であった(実際は現場の判断で往復可能な燃料が積まれた)。この「大和」艦隊の死者だけで3000人を超える。今回は紙幅の事情で詳細は省くが、機会があればこれらの特攻のことも書きたいと思う。
敗戦が決まった翌日の同年8月16日、大西瀧治郎は割腹自殺した。遺書の中で、死んでいった特攻隊員たちに感謝し、かつ彼らと遺族に謝罪している。
「特攻隊の英霊に曰す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ肉/彈として散華せり然れ/共其の信念は遂に達/成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の/英霊とその遺族に謝せんとす」
大西はさらに「一般青壮年」に向けて
「(前略)諸子は國の寶なり/平時に處し猶ほ克く/特攻精神を堅持し/日本民族の福祉と世/界人類の和平の為/最善を盡せよ」
とつづった。
大西は後世の日本人が「特攻精神」を継承することを、最後まで望んでいたことが分かる。
■大西の願いは叶ったのか?
ところで、大西が前述の多田力三中将に特攻構想を明かした際、多田が強く反対していたら、どうなっていただろうか。それでも、まず間違いなく、特攻は遂行されただろう。なぜなら、特攻は一人大西だけでなく海軍上層部の意思だったからである。
いかに海軍航空部隊育ての親の一人といえども、大西は一中将である。大西一人では、作戦の成功=死という「作戦」を始めることはできたとしても、それを組織的に継続することは不可能であっただろう。
たとえば1944年10月25日に「敷島隊」が突っ込む前の同月13日、軍令部作戦課参謀だった源田実が起案した電報には、「神風特別攻撃隊」の隊名として「敷島隊」「朝日隊」等が記されている。
また軍令部作戦部長だった中澤佑少将によれば、大西はマニラ着任前、及川古志郎軍令部総長に会い、特攻の「諒解」を求めた。同席した中澤によれば、及川は「諒解」し、「決して命令はして呉れるなよ」と応じた(『海軍中将 中澤佑』)。
この席で本当に大西から航空特攻を申し出たかどうかは、疑問も残るところだ。いずれにしても、海軍の実質的最高責任者である軍令部総長が遂行に同意していたことは確かだ。
さらに言えば、実は航空特攻以外の特攻は、「敷島隊」のずっと前から決まっていた。「人間魚雷」回天の試作が始まったのは1944年2月である。
「自分も後から続く」と約束しながら、長い戦後を生き延びた将軍に比べれば、いや比べる意味がないほど、大西は潔かった。
その大西の願い、「民族の記憶」は実現したと言える。敗戦から71年が過ぎた今日まで、特攻はときに祖国愛や同胞愛を語り振り返る文脈のなかで語られ、現代人の感動をよんでいるからだ。
それは「家族や国を守るため、自ら命を投げ出した若者たち」に対する共感や同情であり、「戦争でなくなった人たちの尊い犠牲の上に、今日の繁栄、平和がある」という歴史観にも通じる。
■本当に死者たちを悼むならば
こうした「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」は、戦没者の追悼式で、来賓の国会議員などがしばしば口にするフレーズだ。
筆者はこの歴史観に同意する。同意するが、そのフレーズには危険性があることも感じている。それはたくさんの犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ。
本当に死者たちを悼むならば、以下のことを考えるべきだと、筆者は思う。
たとえばたくさんの人たちが死んだ戦争を始めたのは誰なのか。あるいはどの組織なのか。敗戦が決定的になっても降伏しなかったのか誰なのか。そしてそれはなぜだったのか。特攻でいえば、それを始めたのは誰だったのか。責任者は責任をとったのか、とらなかったのか、と。
「特攻は志願だった」
戦後、特攻隊を送り出した上官らによって、特攻はそう物語られてきた。しかし、冒頭にみた江名さんのように、意思をまったく聞かれないまま特攻隊員にされていた人もたくさんいる。筆者は水上特攻として動員された戦艦「大和」の生還者20人にインタビューしたが、「作戦」参加の意思を聞かれた人はただの一人もいなかった。
そして注目されがちな航空特攻と違い、忘れられた特攻隊員も、たくさんいる。たとえば、満州の荒野で押し寄せてくるソ連軍戦車に爆雷を抱いて突っ込んだ兵士たちだ。
他の民族がそうであるように、私たち日本民族も、自分たちの歴史を誇らしいものとして記憶しがちだ。それゆえ、特攻も美しい物語として記憶されてゆくだろう。そういう側面があったことは確かだが、そうではなく、強制されて死んでいった若者たちがたくさんいたこと、さらにはそうした死の多くが忘れ去られてしまっていることも事実だ。
筆者は今後も、トータルとしての特攻を取材し、執筆したいと思う。
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