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大韓航空007便のソ連領空侵犯/撃墜事件は米国がソ連に対する戦争を展開中に引き起こされた
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201609010000/
2016.09.01 15:31:10 櫻井ジャーナル
1983年8月31日18時26分(UTC。日本時間9月1日3時26分)、サハリン上空で大韓航空の旅客機KAL-007がソ連のSu-15戦闘機に撃墜されたとされている。公式見解に対する疑惑は少なくないが、ソ連だけでなくアメリカも日本も情報を隠しているため、詳細は今でも明らかになっていない。
この旅客機はニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港から韓国の金浦空港へ向かう予定だったが、中継地のアンカレッジを飛び立ってから10分も経たないうちに航路からそれはじめ、アメリカ軍が民間機の飛行を許していない「バッファー・ゾーン」、そして「飛行禁止ゾーン」を通過し、ソ連領空を侵犯したのである。
NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)のアラスカ航空指揮規則によると、飛行禁止空域に迷い込みそうな航空機を発見した場合はすぐに接触を試み、FAA(連邦航空局)へ連絡しなければならないと定められているのだが、アメリカ軍は撃墜も予想される飛行禁止空域へ向かう民間機に対して何もアクションを起こしていない。アメリカ軍のスタッフが信じがたいほど怠慢だったのか、NORAD側を誤認させる機材が搭載されていたのか、事前に飛行許可を受けていたということになるだろう。これを含め、この領空侵犯事件には謎が多い。
その当時、アメリカの支配層はソ連との戦争を始めていた。そのひとつの舞台がアフガニスタン。1950年代の初めにアメリカはムスリム同胞団とつながる勢力と結びつき、50年代から60年代にかけてCIAはカブール大学を支援し、イスラム共同体と手を組んで活動を開始、パキスタンのバナジル・ブット首相の特別補佐官だったナシルラー・ババールによると、アメリカは73年からアフガニスタンを不安定化させるため、反体制派へ資金を援助している。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)
そして1978年、まだ王制でイスラエルと緊密な関係にあったイランの協力を得て、アフガニスタン政権を揺さぶる工作をCIAは本格化させた。1977年からアメリカの大統領はジミー・カーターになっているが、その国家安全保障担当補佐官を務めたズビグネフ・ブレジンスキーはソ連/ロシアを憎悪、その征服を夢想してきた人物で、その意向が反映されているだろう。1979年4月からCIAはイスラム武装勢力への支援プログラムを開始、その工作が功を奏し、その年の12月にソ連軍の機甲部隊がアフガニスタンへ軍事侵攻してきた。そのソ連軍と戦うために編成された武装集団の戦闘員はムスリム同胞団やワッハーブ派/サラフ主義者が中心だ。
1979年6月にカーター大統領とソ連のレオニード・ブレジネフ書記長は第2次戦略兵器制限交渉(SALT II)に調印したのだが、ソ連軍がアフガニスタン侵攻を理由にして、アメリカ議会は批准を拒否した。カーター大統領はデタントを放棄、ブレジンスキーのアドバイスに従ってソ連の行為を激しく非難する。
カーターの前任者であるジェラルド・フォード大統領の時代、政府内ではリチャード・ニクソン大統領が進めたデタント(緊張緩和)政策に加わっていたグループが排除されている。その粛清で中心的な役割を果たしたのはドナルド・ラムズフェルド大統領首席補佐官とリチャード・チェイニー。この政権でネオコン/シオニストが台頭してくる。
デタント政策に反発したグループの中心にはポール・ニッツェやアルバート・ウールステッターがいた。ウールステッターは核の専門家として国防総省系シンクタンクのRANDで働いていたことがあり、シカゴ大学で教えた学生の中にはポール・ウォルフォウィッツも含まれていた。
粛清では1975年11月にジェームズ・シュレシンジャーが国防長官を解任されてラムズフェルドが就任、ラムズフェルドの後釜にはチェイニーが座った。1976年1月のCIA長官交代は一連の粛清劇の中で最も重要だとされている。ウィリアム・コルビーが解任され、ジョージ・H・W・ブッシュになったのだ。ブッシュをCIAはエール大学時代にリクルート、ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された当時にはCIAの要職に就いていた。
コルビーは長官時代、議会でベトナム戦争における住民虐殺作戦「フェニックス・プロ1984年にコルビーは最初の妻と別れ、元外交官のサリー・シェルトンと再婚、それから核兵器凍結運動などに関する講義をするようになったが、96年の春、カヌーで出かけたまま行方不明になり、数日後に遺体が発見されている。
カーター政権の時代、ラルムズフェルドやウォルフォウィッツを含むネオコン系の人びとはフリッツ・クレーマーなる人物の自宅に集うようになる。クレーマーの同志のひとりが国防総省のONAで室長を務めていたアンドリュー・マーシャル。冷戦時代にはソ連脅威論、ソ連消滅後は中国脅威論を主張していた人物で、ネオコンの戦略はこの人物に負うところが大きい。(Len Colodny & Tom Shachtman, “The Forty Years War,” Harper, 2009)
現在、ネオコンは1992年の初め、国防総省内でウォルフォウィッツ次官を中心に作成されたDPGの草案に基づく世界制覇プランに従って動いてきた。いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だが、それもマーシャルの戦略に基づいている。
ところで、ブレジンスキーがアフガニスタンでの秘密工作を本格化させた1979年にはソ連を悪魔化するプロパガンダも本格化する。その一環として7月にエルサレムでアメリカとイスラエルの情報機関関係者が「国際テロリズム」に関する会議を開いている。
会議にはイスラエル側から軍の情報機関で長官を務めた4名を含む多くの軍や情報機関の関係者、アメリカ側からはブッシュ元CIA長官(後の大統領)、CIAの内部でマーシャルの戦略に従ってソ連に関する誇張した、あるいは間違った情報を流していたチームBを率いていたリチャード・パイプス、「ジャーナリスト」のアーノウド・ド・ボルクグラーブやクレア・スターリングを含む人びとが参加していた。
この後、アメリカは国内のファシズム化を念頭において、ロナルド・レーガン政権では一種の戒厳令計画であるCOGプロジェクトをスタートさせ、2001年9月11日の出来事を切っ掛けにして実際に動き始めた。国外では1960年代から1980年代にかけてイタリアで実行された爆弾攻撃が有名。イタリアの情報機関から協力を受け、「NATOの秘密部隊」であるグラディオが実行していた。
そして1990年代からウォルフォウィッツ・ドクトリンの時代に入るわけだが、その前提はソ連が消滅してアメリカが唯一の超大国になったということ。21世紀に入り、ロシアでウラジミル・プーチンのグループがロシアを再独立させ、この前提は崩れた。ネオコンにとって想定外の展開になったのだが、それでも当初の目論見通り、世界を制圧しようともがいているのがネオコンだ。
2001年からアメリカは「アル・カイダ」というお化けを作りだし、そのお化けを退治するという名目でアメリカに従わない国々を侵略、破壊、そこに住む人びとを虐殺してきた。
1997年から2001年にかけてイギリスの外務大臣を務めたロビン・クックが説明しているように、このアル・カイダはCIAから軍事訓練を受けた「ムジャヒディン」、つまり戦闘員のコンピュータ・ファイルにすぎず、アル・カイダという組織は存在しない。アラビア語でアル・カイダは「ベース」を意味し、「データベース」の訳語としても使われているのだ。
その仕組みを作り上げたのはブレジンスキー。彼はフランスのヌーベル・オプセルヴァトゥール誌からインタビューを受け、ソ連を挑発するために実行した秘密工作について質問された。それに対し、彼は後悔はしていないとした上で、「秘密工作はすばらしいアイデアだった」と答えている。ジミー・カーター大統領に対し、ソ連に「ベトナム戦争」を贈呈する機会が訪れたと伝えたともいう。(Le Nouvel Observateur, January 15-21, 1998)
そうした戦争の中で大韓航空機事件は引き起こされたということを忘れてはならない。
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