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クリミアで破壊工作を目的に侵入したウクライナの戦闘員が拘束されたが、英紙は露が侵略と宣伝
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608120001/
2016.08.13 00:18:05 櫻井ジャーナル
クリミアへ侵入したウクライナの特殊部隊が最初に発見されたのは8月6日から7日にかけてのことだったとロシアの情報機関FSB(連邦安全保障庁)は発表している。侵攻してきたのは約20名で、そのうち15名ほどはウクライナへ撤退したものの、残りは拘束、あるいは死亡したようだ。8日にもウクライナの特殊部隊は2度にわたってクリミアへの侵攻を試み、激しい戦闘になったという。拘束されたひとりのユグニ・パノフは侵攻部隊を率いていたと見られ、その証言はロシアのテレビ局が流したようだ。軍事侵攻の目的は重要な基盤施設やライフラインを破壊だったと見られている。
ロシアから戦闘に関する発表があった直後、イギリスのガーディアン紙はウラジミル・プーチン露大統領がオリンピックを利用して軍事侵攻を目論んでいるかもしれないというルーク・ハーディングの記事を掲載している。
この記者によると、ロシアは北京オリンピックのあった2008年にジョージア(グルジア)を、2014年のソチ・オリンピック直後にはウクライナを侵略したかのように書いているのだが、ジョージアの場合は同国のミヘイル・サーカシビリ大統領が南オセチアを奇襲攻撃してロシア軍が反撃したのであり、ウクライナの場合はオリンピックでロシアが動きにくいのを利用し、アメリカがキエフでクーデターを実行したのである。ウクライナの場合、ロシア軍は国境を越えていない。
ジョージアのサーカシビリはイスラエルやアメリカを後ろ盾にしている人物で、彼が大統領だった2001年からイスラエルの会社がロシアとの戦争に備えてグルジアに武器を提供、同時に軍事訓練を行っていた。軍事訓練の責任者はイスラエル軍の退役したふたりの将軍、ガル・ヒルシュとイースラエル・ジブだったとされている。さらに、イスラエルは無人飛行機、暗視装置、対航空機装置、砲弾、ロケット、電子システムなどを提供していた。(Tony Karon, “What Israel Lost in the Georgia War”, TIME, August 21, 2008)
また、ロシア軍のアナトリー・ノゴビチン将軍もイスラエルがグルジアを武装させていると非難している。2007年からイスラエルの専門家がグルジアの特殊部隊を訓練し、重火器、電子兵器、戦車などを供給する計画を立てていたというのだ。(Jerusalem Post, August 19, 2008)
ジョージアとイスラエルの関係は軍事面だけに留まらない。イスラエルに住んでいたことのある閣僚がふたりいるのだ。ひとりは奇襲攻撃の責任者とも言える国防大臣のダビト・ケゼラシビリであり、もうひとりは南オセチア問題で交渉を担当しているテムル・ヤコバシビリだ。ふたりは流暢なヘブライ語を話すことができ、ケゼラシビリはイスラエルの市民権を持っていたことがある。
2008年7月10日にアメリカのコンドリーサ・ライス国務長官がジョージアを訪問、それから1カ月足らず後の8月7日にサーカシビリ大統領は南オセチアの分離独立派に対して対話を訴え、その約8時間後、深夜に奇襲攻撃を開始した。対話の呼びかけは相手を油断させるためだったということになる。
その当時、南オセチアに駐留していた「平和維持部隊」の軍事的能力は低く、アメリカやイスラエルの軍事訓練を受けているグルジア軍の前になす術がなかった。そこでロシア軍は戦闘車両150両を送り込むなど即座に反撃、空爆も始めてジョージア軍を粉砕してしまった。ロシア軍が出てくると、こうなるということだ。この程度の攻撃でロシア軍を打ち負かすことができるとイスラエルやアメリカは思い込んでいた可能性が高い。そして8月15日、ライス国務長官は再びジョージアを訪問してサーカシビリと会談した。善後策を協議したのだろう。
ウクライナの場合、アメリカのネオコン/シオニスト、つまり親イスラエル派がネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)を利用してクーデターを行ったことは明らか。流れを見ると、2013年7月にサウジアラビアのバンダル・ビン・スルタン総合情報庁長官(当時)がモスクワを秘密裏に訪問、プーチン大統領と会談している。その際、スルタンはロシアがシリアから手を引けば、ソチで開催が予定されている冬季オリンピックの安全を保証できると持ちかけたされている。チェチェンのグループはサウジアラビアの指揮下にあり、攻撃を止めさせられるというわけだ。
この提案をプーチンは拒否、「ここ10年の間、チェチェンのテロリスト・グループをあなたたちが支援していることを知っている」と言い放ったという。その後、ロシアの姿勢は強硬になった。
2013年11月にはウクライナのキエフで反政府行動が始まる。その拠点になった場所がユーロマイダン(ユーロ広場、元の独立広場)。ビクトル・ヤヌコビッチを批判する人びと約2000名が集まっているが、その前日、議会ではオレグ・ツァロフ議員がクーデター計画の存在を指摘していた。
ツァロフ議員によると、ウクライナを内戦状態にするプロジェクトをアメリカ大使館はジェオフリー・パイアット大使を中心に準備、NGOがその手先として動くことになっていたという。
アメリカはソーシャル・ネットワーキングを使って世論を誘導し、抗議活動はカーニバル的な演出で人を集めていく。12月の段階で約50万人が集まったとも言われている。そしてネオ・ナチが全面に出てくる。
現場で中心的な役割を果たしていたのは、アメリカのビクトリア・ヌランド国務次官補とジェオフリー・パイアット大使。このふたりが「ヤヌコビッチ後」の閣僚人事について話し合っている音声が2014年2月4日にYouTubeへアップロードされている。
ヤヌコビッチを排除するということだが、EUのように話し合いで混乱を解決したならば、その目論見は実現できない可能性が高い。アメリカは暴力を使うつもりだった。だからこそ、ヌランドは「EUなんかくそくらえ(F*ck the EU)」と口にしたわけである。ヌランドが高く評価したいた人物がアルセニー・ヤツェニュクはクーデター後、実際に首相を務めている。
今回、戦闘の舞台になったクリミアはネオコンのロシア制圧計画で重要な位置を占めている。その歴史を振り返ると、1941年にドイツに占領されている。その年の6月にドイツ軍はソ連侵攻、つまりバルバロッサ作戦を開始、42年8月にはスターリングラード(現在のボルゴグラード)市内へ突入するが、11月からソ連軍が反撃に転じ、43年1月31日にドイツは降伏している。その間、クリミアはドイツに占領されていた時期があるのだ。占領時代にタタール人の一部はドイツに協力、第2次世界大戦後にヨシフ・スターリンは報復として約23万人を中央アジアへ強制移住させている。
ウクライナにも親ナチス派は多く、そうしたこともあって1954年にソ連政府は住民の意思を無視する形でクリミアなどをウクライナへ編入させている。それまではロシアに属していた。当時はウクライナもロシアもソ連の一部であり、それほど大きな問題とは考えられなかったようだが、ソ連が消滅してから状況は変わる。
ロシアもアメリカもクリミアを重要視しているが、その理由のひとつは、そこにロシア海軍の黒海艦隊が拠点にしているセバストポリがあるからだ。ソ連消滅後の1997年にウクライナとロシアは協定を結び、ロシアに20年間の基地使用権が与えられ、さらに25年間の延長が認められる。それに伴ってロシア軍は2万5000名の駐留が可能になり、協定が結ばれた当時から1万6000名が駐留していた。
おそらく、ネオコンはクーデターでウクライナを制圧すればクリミアが手に入り、ロシア制圧に向かっての大きな一歩になると考えていただろう。その目論見が住民の意思によって崩れたのだ。そこで、キエフのクーデター政権や西側の政府やメディアは駐留ロシア軍を侵略軍だと宣伝、それを真に受けた人は少なくなかった。今回のガーディアン紙の記事はその延長線上にある。
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