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あの日、原爆はなぜ投下されたのか?−−長崎原爆投下の謎
・2015年4月14日まで(桜・長崎・サック氏など) 060
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8548185.html
1.神は存在するのか?
カトリック浦上教会は、長崎北部の丘に立つ教会である。かつて浦上天主堂と呼ばれていたこの教会は、隠れキリシタンが多かったこの土地に建てられた為、そう名付けられた教会である。そのカトリック浦上教会が立つ丘の下に、或る物がある。それを読者にお見せしよう。(写真)これが何であるか、皆さんはおわかりであろうか?(写真をご覧ください)
これは、昭和20年(1945年)8月9日、長崎に原爆が投下された際、原爆で破壊された教会の一部なのである。かつて、この浦上の丘に在った旧浦上天主堂が、原爆で破壊された際、その一部であった旧鐘楼(しょうろう)が丘から落下したのが、この残骸なのである。
この鐘楼は、71年前、原爆で破壊されるまで、この丘の上で、その鐘の音を響かせていた。だが、原爆によって旧聖堂(浦上天主堂)が被害を受け、鐘楼があったこの丘の上からここまで落下した物なのである。私が、この破壊された鐘楼の前に初めて立ったのは、私が学生だった頃の事である。以来、私は、この鐘楼の前に3回立っている。
始めて私がこの鐘楼の残骸の前に立った時、私の心に浮かんだ疑問がある。それは、「神は存在するのか?」という疑問である。もう一度、この写真を見て欲しい。この鐘楼は、永く続いた禁教の時代を耐え抜いたこの国のキリスト教徒たちが建てた教会の一部である。原爆が投下された時、この鐘楼が一部であったその教会の中では、信者たちが祈りを捧げていた。その信者たちの上に、キリスト教徒の国から飛んできた飛行機が、原爆を落としたのである。破壊された教会の中に居た信者たちが命を失い、そして、その教会は破壊された。その歴史の証拠が、この残骸である。これを見て、皆さんは、私が抱いた疑問ーー神は存在するのか?−−を共有されないだろうか?
2.なぜ長崎に原爆が投下されたのか?
神は存在するのか?と言う問いは棚上げしよう。その問いの代わりに、或る謎について考えてみたい。それは、あの日、長崎に原爆が投下されたのは何故だったのか?と言う謎である。
「何故それが謎なのか?」と、皆さんは思うかも知れない。だが、あの日(1945年8月9日)、長崎に原爆が投下された経緯には、今も解明されて居ない謎があるのである。
今日、言われている「説明」は、次のようなものである。その日(1945年8月9日)、アメリカの爆撃機(B29)ボックスカーは、小倉に原爆(プルトニウム爆弾)を投下すべく北九州に向かった。
しかし、小倉上空は雲におおわれて居て視界が不良であった。その為、同機は、長崎に向かった。長崎も雲におおわれていたが、一瞬、雲の切れ間が出現したため、11時2分、ボックスカーは、長崎に原爆を投下した・・・。これが、今日、語られ、受け入れられている説明である。結論から言えば、この説明自体は事実なのかも知れない。しかし、ここにひとつの謎がある。それは、原爆(プルトニウム爆弾)を積んだボックスカーは、いつ、標的を長崎に変更したのか?という謎なのである。ボックスカーは、小倉上空の視界が不良であった時、直ちに目標を長崎に変更したのであろうか?
その謎について、高瀬穀氏は、こう書いてゐる。
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長崎へと向かった彼らは、日本の戦闘機の迎撃を警戒していた。本来なら、日本の基地の上空を避けて海上へと迂回して長崎に侵入しようにも、そういう余裕すらなかった。
日本の戦闘機隊への基地の真上を飛ぶことを承知の上で、スウィーニーらは、「正規のコースより悪い条件のコースに機をのせた」(チンノック『ナガサキ〜』)。この時点で予定より1時間半の遅れだった。
奇妙なのは、ここから長崎上空へどのような経路を通って行ったのかが、スウィーニーの本を読んでもよくわからないことだ。
スウィーニーは著書の中でこう記している。
「基地を避けて海上に迂回して、余分な燃料を消費する余裕はなかった。直進する以外に道はない」(中略)「『迂回はできない、ジム』と正確な機首方位に乗せるべく調整しながら、私は答えた。すでに予定より1時間半ほど遅れていた。ファットマンは依然、爆弾倉に収まっていた。長崎に着いたら一発で決めてやるのだ。何が我々を待ちうけているかは神のみぞ知る。私は振り返ってドン・オルバリーに言った。『これ以上悪いことが起きるはずがないよな?』」
と、ここまで書いて、次はいきなり長崎上空の話になる。
「私は目を疑った。長崎は高度1800メートルから2400メートルのあいだが80から90パーセントの積雲で覆われていた。目視による投下は不可能のようだった。北西から近づいていた我々は、あと数分で攻撃始点に到着するところだった」
小倉上空から長崎へと行先を変更してから、攻撃始点が見えるまでのコースが何も書かれていないのだ。日本軍の戦闘機の基地の真上を通る覚悟を決めたにしては、この記述はあまりにそっけない。
元長崎放送記者の伊藤氏は、著書「原子野の『ヨブ記』」の中で、長崎原爆の投下機の”行動”について疑問を呈している。
「当日の第一目標都市小倉から長崎へとむかった投下機のコースも不思議で、直行したのではなく熊本上空までまっすぐ南下し、そのまま九州を横断して南方海上へ離脱する勢いを見せつつ、思いだしたように旋回して長崎へむかっています。このとき機長は一滴のガソリンもむだにしたくない心境に追い込まれていたはずですが」
(高瀬殻(著)『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平凡社・2009年)65〜66ページ)
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3.なぜ、熊本上空に向かったのか?
不思議である。プルトニウム爆弾を積んだB29ボックスカーは、小倉から長崎に向かった。だが、その航路を同機の機長であったスウィーニーは、著書の中で、明らかにしていないのである。一方、そのボックスカーが実際に飛んだ航路は、小倉から長崎に直行する航路ではなく、何と、一旦、熊本上空に南下し、それから旋回して長崎に向かう航路だったと言うのである。何故、そんな遠回りの航路で長崎に向かったのだろうか?
だからこそ、高瀬氏も、そして、上の記事で著書の一節を引用されている伊藤氏も、その事を奇妙に感じているのである。そして、当のスウィーニー機長は、なぜ、小倉から長崎に向かった航路を書かなかったのだろうか?それは、その航路に、この標的の変更が、どのようにになされたか?が反映されているからではないのだろうか?その点について、高瀬氏は、次のような重要な事実を書いている。
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小倉への原爆投下が無理と判断したスウィーニーは、ボックスカーの機首を長崎へと旋回させた(以下スウィーニーの『私はヒロシマ、ナガサキに〜』を参考に記述してみる)。
同行した僚機であるフレッド・ボックの乗ったB29もそれに従ったが、ここでスウィーニーは失敗をしている。まず、右側にいると思っていたボックの機が左翼側にいたためにわからなくなり、「ボックはどこだ?」と叫んだのである。しかもその時、肘で通信指令用のスイッチを押してしまったため、叫んだ声は日本中で傍受される状態となった。
そこに、屋久島上空で落ち合えなかったホプキンズ中佐が突然、問い返してきた。
「チャック?君なのか、チャック?いったいどこにいるんだ?」
これも不用意な応答だった。
ホプキンズは、その間にも作戦上の大きな失敗を犯していた。屋久島上空での合流に失敗したとわかったとき、通信を傍受されるために禁止されていた「無線封止」を勝手に破り、テニアンに連絡したのである。
「スウィーニーは止めたのか?」
これに対し、テニアンの司令部では、「スウィーニーは止めた」と受け止めた。しかも、日本中に作戦を察知されるような内容の話が伝えられたことで、テニアンはパニックに陥ったという。
詳細を確認できない司令部では、幹部の多くが、スウィーニーたちは作戦を中止したと考えた。
(高瀬殻(著)『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平凡社・2009年)63〜64ページ)
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つまり、このような失態があったために、スウィニー機長は、ボックスカーが小倉への原爆投下を中止して長崎に向かうまでの間の事を自著に書かなかったのではないか?と推察する事が可能である。
真実は、スウィニー機長と当時の関係者にしかわからない。そして、彼らは既に故人であるから、新たな記録が公開されでもしない限り、真実は不明のままである。だが、そう推察する事は十分可能である。
しかし、それでもなお、あの日、長崎に原爆が落とされた理由には、謎が残るのである。それは、上に引用した高瀬氏の指摘に有る通り、ボックスカーは、或る理由から、小倉に到着した時点で既に燃料の不足が心配されていた事である。それなのに、なぜ、ボックスカーは、小倉から長崎へと直行せず、わざわざ熊本上空を経由して、長崎に向かったのだろうか?
4.小倉上空で何が決断されたか?
私の考えを言おう。それは、スウィニー機長が、小倉上空で、一旦、その日の原爆投下を中止する決断をしたからである。彼は、小倉上空で、第一目標であった小倉の気象条件が原爆投下に適さない事を見取った後、一旦そこで、その日の作戦(原爆投下)を中止して、帰投する決断をしたのである。そうとしか考えようが無い。何故なら、今日信じられているように、小倉上空で長崎に向かうことを決断したのなら、まっすぐ直線航路で長崎に向かうか、或いは、仮に日本側の迎撃を警戒して海上に出るにしても、玄海灘上空に向かう筈である。わざわざ南方の熊本上空を経由して長崎に行く理由は無い。しかし、彼が現に熊本上空を目指したのは、スウィニー機長が、小倉上空で沖縄に帰投する決断をし、南に向かったからだとしか考えようが無い。そして、一旦帰投を決めて南に向かった後、恐らくは上層部からの指示が有り、矢張り、その日に原爆を投下せよと言う指示を受け、南九州上空で進路を再変更して長崎に向かったのではないか。私には、そうとしか思えないのである。熊本上空に向かったのは、もちろん、標的にリストアップされていなかった熊本に原爆を投下する為ではなく、帰投しようとして、九州南部に差し掛かったあたりで、「長崎に原爆を投下せよ」と言う指示を受け、急遽、長崎に向かったのだろうと、私は、推論する。既に燃料が不足していたにも関わらず、わざわざ遠回りの経路を飛んで、ボックスカーが長崎に向かったのは、そうした変更の反映であったと私は考えるのである。
それは、何故か?それは、アメリカには、どうしても、その日(8月9日)の内にボックスカーに搭載された原爆を投下しなければならない理由があったからである。
5.プルトニウムの崩壊熱
長崎に投下された原爆は、プルトニウム爆弾であった。もう一度言おう。一旦、小倉上空に運ばれ、小倉への投下が中止された後、不可解な航路で長崎に運ばれ、投下されたその爆弾は、プルトニウム爆弾であった。プルトニウム爆弾は、大量生産に適し、その理由から、戦後の核兵器はプルトニウム爆弾が主流と成ったが、長崎に投下されたのは、そのプルトニウム爆弾であった。ただし、そのプルトニウム爆弾にも、色々有る。長崎に投下されたプルトニウム爆弾は、その前月、人類初の核実験で使われたトリニティでの原爆と共に、その最も初期のプルトニウム爆弾であった。そして、その最も初期のプルトニウム爆弾には、核兵器として、大きな問題を持っていた。それは、その弾頭に使われたプルトニウムが、非常に大きな崩壊熱を放出していた事である。この最初期のプルトニウム爆弾製造に使用されたプルトニウムは、核弾頭として爆発する前から、既に大きな熱を崩壊熱として放出するプルトニウムだったので、使用にあたって、或る問題が存在していた。それは、その大きい崩壊熱によって、弾頭を組み立てた後、早くに投下、爆発させないと、その原爆の核弾頭が変形してしまう可能性が高かったことである。だから、長崎に投下された原爆は、投下直前に組み立てられていたのである。このプルトニウム爆弾の崩壊熱は、仮に日本が核武装するとした場合、その障害となる大きな問題でもある。それについて、専門家中の専門家の言葉を紹介しよう。
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フランク・フォンヒッペルさんの朝日新聞社からのインタビューへの回答「日本よ核不拡散に動け」(「朝日新聞」2012年6月6日付朝刊)を拝見いたしました。全体的には同意いたします。ただひとつ、同意しかねる問題、たぶん根拠のない軽言と受け止めましたが、ことがことだけに公開質問とさせていただきます。
朝日新聞社は「使用済み核燃料のプルトニウムは核兵器用と少し組成が違います。核兵器の材料にならないのではとの意見も日本にはありますが」と問いました。私もこれまで同様の疑問を呈してまいりました。その根拠も挙げました。
朝日新聞社の問いに対し、フランク・フォンヒッペルさんは、「日本に投下された原爆を設計した米国のロスアラモス研究所で理論部長を務めた専門家が、長崎型の設計に基づいて、原爆からのプルトニウムを材料に核爆弾をつくる計算をした。確率論だが、少なくとも長崎に投下された原爆の20分の1ほどの爆発力があるとの結論がでました。20分の1でも、破壊される面積の半径は、長崎での被害域の約四割にもなる。進んだ設計にすれば兵器用と原発用の差は縮む」と回答されました。
フランク・フォンヒッペルさんの回答には新しい情報は何ひとつありませんでした。原発からのプルトニウムで核兵器を一時的に組み、一時的に実験することは可能です。しかし、実戦配備できません。威力が小さいからではありません。理由は他にあります。
それは、プルトニウム238(プルトニウム239の(n.2n)反応で生成されます)からの崩壊熱が大きいため、プルトニウム球と周辺の火薬を安定・安全に長時間維持できないためです。兵器級プルトニウムでは、プルトニウム239の割合が93%以上であり、崩壊熱が問題となるプルトニウム238や241の割合はわずかです。たとえば、長崎型では崩壊熱は数十W(ワット)でした。それでも熱問題に配慮して投下直前に組み立てました。原発プルトニウムの場合、崩壊熱は200Wから300Wに達します。わずかソフトボール大のプルトニウム球からそれだけの発熱があるのです。周辺を爆縮用火薬で密閉された容器内ではプルトニウム球は溶融します。ですから一時的に組み、一時的に実験できれも、実戦配備はできません。
いまの技術では崩壊熱を効果的に除去できません。『米科学アカデミー報告書』にもそのように記されています。その熱問題を解決できたという文献は、私の調査に拠れば存在いたしません。
世界では、原発プルトニウムで一時的に実験した例は一例だけ存在しますが(米国が英国から入手した商業発電用黒鉛減速炉からの推定純度70%のプルトニウム)、実戦配備された例は公表されていません。みな、重水炉のような専用プルトニウム生産炉で生成した兵器用プルトニウムが利用されています。彼らは、原発プルトニウムを利用できれば、民事施設と軍事施設という二重投資の必要がなくなることを十分認識していますが、それができません。
(桜井淳 (著)「日本『原子力ムラ』行状記」(論創社・2013年)94〜95ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%80%8D%E8%A1%8C%E7%8A%B6%E8%A8%98-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E6%B7%B3/dp/4846012816/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1389508747&sr=8-2&keywords=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%80%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E3%83%A0%E3%83%A9
桜井淳(さくらいきよし)1946年群馬県生まれ。
1971年東京理科大学大学院理学研究科終了(理学博士)、2008年東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻研究生修了(科学技術社会論で博士論文作成中)、2009年4月から東京大学大学院人文社会系研究科で「ユダヤ思想」や「宗教学」の研究中、2009年9月から茨城新聞社客員論説委員兼務中。
物理学者、社会学者、技術評論家(「元日本原子力研究開発機構研究員、元原子力安全解析所副主任解析員、元原子力産業会議非常勤嘱託)。
学会論文誌32編(ファーストオーサー21編)及び国際会議論文50編(ファーストオーサー40編)。
著書『桜井淳著作集』など単独著書30冊(単独著書・共著・編著・監修・翻訳など50冊)。現在、自然科学と人文社会科学の分野を中心とした評論活動に専念。
(同書巻末の著者略歴全文)
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これは、日本を代表する原子力分野の専門家である、物理学者の桜井淳博士が、自著の中で、日本の核武装の可能性について論じた文章の一節である。桜井博士のこの文章は、「日本の核武装」と言うホットなトピックスを、その是非ではなく、それが本当に可能か?と言う視点から論じた一文であるが、ここで桜井博士が語っているのは、まさに、このプルトニウムの崩壊熱の問題である。お読みの通り、桜井博士は、しばしば論じられる「日本の核武装」について、日本が保有するプルトニウムは、崩壊熱が大きい為、仮に日本が、保有するプルトニウムで原爆を製造した場合、その崩壊熱によって弾頭が変形してしまうと、予言している。そして、それを理由として、日本が現在保有するプルトニウムでは、日本は、「(核弾頭を)一時的に組み、一時的に実験できれも、実戦配備はできません。」と断言するのである。
6.もし、ボックスカーが帰投していたら
桜井博士のこの文章は、「日本の核武装」を物理学者の視点から論じた一文であり、歴史問題を論じたものではない。だが、この文章の中で同博士が言及している長崎原爆の特性に注目して欲しい。桜井博士は、こう指摘している。
「たとえば、長崎型では崩壊熱は数十W(ワット)でした。それでも熱問題に配慮して投下直前に組み立てました。原発プルトニウムの場合、崩壊熱は200Wから300Wに達します。わずかソフトボール大のプルトニウム球からそれだけの発熱があるのです。周辺を爆縮用火薬で密閉された容器内ではプルトニウム球は溶融します。」(同)
つまり、仮に日本が、現在保有するプルトニウムで核弾頭を製造した場合と同様、長崎に投下されたプルトニウム爆弾は、その崩壊熱が余りに大きかったため、「熱問題に配慮して投下直前に組み立てました。」、「周辺を爆縮用火薬で密閉された容器内ではプルトニウム球は溶融します。」と言った物理的問題を持っていたと言うのである。
これは、第一世代のプルトニウム爆弾であった長崎原爆の兵器としての欠点であったと言ってよい。弾頭に使われたプルトニウムの崩壊熱が大きい為、投下直前に組み立てねばならず、時間が経てば、崩壊熱によってプルトニウム球は溶融し、使えなくなるような扱いにくい原爆だったのである。
更には、8月9日以後、日本列島周辺では天候の悪化が予報されていた。従って、仮に8月9日に原爆を投下できなかったとすれば、再度、原爆投下を決行するのは、翌日ではなく、数日後に成った筈である。従って、仮に、あの日(1945年8月9日)、小倉への原爆投下を中止した後、スウィニー機長が、その日の原爆投下を断念し、基地に帰投してしまえば、小倉に投下される予定だったプルトニウム爆弾ファットマンは、使用不能の原爆になっていた可能性が大きいのである。
7.原爆の経済学
原爆投下が行なわれた当時のアメリカ軍内部の意思決定プロセスについて、前出のゴードン氏はこう書いている。
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原子爆弾使用の指揮系統は、軍事史家らがしばしば指摘するように、きわめて不規則であった。この兵器の位置づけに対する指導者層の態度の曖昧さをある程度反映していた。公式には、指揮系統のトップはトルーマンとグローヴス(そして彼の文民の上司スティムソン)で、その下がAAFの総司令官ハップ・アーノルド、その下がスパーツ、さらにその下がスパーツの参謀長カーティス・ルメイであった。グローヴスの伝記作家は、全空軍将校の上に一人の陸軍少将が据えられるという通常では考えられない指揮系統をグローヴスが構想したと考えているが、グローヴスがそれに相当程度関与していたのは明らかである。その際グローヴスは、原爆投下決定に関わる全員が、原子爆弾が必要なだけ(あるいは可能な限り)速やかかつ繰り返し使われるのを確認できるように、指揮系統を構築した。想像しにくいが、実際には彼がほぼ一人でそれを成し遂げたのである。
(マイケル・D・ゴードン(著)林義勝(訳)藤田怜史(訳)武井望(訳)『原爆投下とアメリカ人の核認識』(彩流社・2013年)78ページ)
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これが、小倉上空で小倉への原爆投下を中止した後、スウィニー機長が、一旦基地帰投を決断しながら、再度、その方針が変更され、ボックスカーが、わざわざ遠回りの航路を飛んで、長崎に向かった混乱の背景だろう。そして、燃料不足で、基地への帰投すら危ぶまれたボックスカーが、それでも長崎に向かった背景には、上に述べたプルトニウム弾頭の崩壊熱による弾頭変形の可能性と共に、もうひとつ、次の要因が有ったと推察される。
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マンハッタン計画に使われた20億ドルと、その他のいくつかの研究、開発、製造計画を比較すると、得るところが大きい。当時たいていの研究開発はこんなに高くはつかなかった。たとえばP−38戦闘機の開発費は85万2千ドルだった。1939年ルーズベルト大統領は航空軍団創設の金を議会に要求した。要求は飛行機5千5百機の設備と生産、必要産業の創設、基地建設と人員2万人の訓練で、推定支出は3億ドルだった。
(中略)
原爆計画全体を厳密に戦時計画とするならば、使われた二つの原爆への支出は、第二次大戦中に使われ、原爆よりもはるかに破壊効果をあげたすべての通常爆弾への総支出を25パーセント下まわるだけである。すべての地上重火器の調達費はマンハッタン計画の4分の1よりもはるかに低く、また8百万人近くの大軍に支給した全小火器の費用は、マンハッタン計画とほぼ同じだった。
この莫大な支出が、議会と行政府部内からも、問題にされた。上院議員時代のトルーマンは、上院国防計画特別委員長として、国家の戦争努力の公正確実を期すと豪語していたため、執拗な質問を続けていた。マンハッタン計画の情報を得ようと繰り返し試みて失敗したあげく、彼は1944年3月10日「この計画を調査するための小委員会の任命を考慮せざるをえまい。諸君の緊急要請により、通常の手続きは今回はとらない。したがって、避けることができたはずの無駄使いや不正行為の責任は、今回はあげて陸軍省にある」といった。
(アージュン・マキジャニ(著)ジョン・ケリー(著)関元(訳)『WHYJAPAN?−−原爆投下のシナリオ』(教育社・1985年)114〜116ページ)
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これだけの巨費を投じて作られたプルトニウム爆弾が、もし使用されないまま、崩壊熱によって弾頭が変形して使用不能になったとしたら、アメリカ軍内部において、その「責任問題」が生じた事は想像に難くない。又、それは、当時のアメリカのプルトニウム爆弾の弱点をさらす結果にもなった筈である。そう考えると、あの日、アメリカ軍上層部が、何が何でも、8月9日のうちに、日本のどこかに、巨費を投じて製造したプルトニウム爆弾を投下して、「使ってしまいたかった」理由が、理解できるのである。
これが、あの日、長崎に原爆が投下された理由だったのではないだろうか?
(終はり)
核時代(西暦2016年)8月9日(火)
長崎の原爆投下から71年目の日に
西岡昌紀
西岡昌紀(にしおかまさのり)
1956年東京生まれ。主な著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)、「ムラヴィンスキー・楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)、「放射線を医学する・ここがヘンだよホルミシス理論」(リベルタ出版・2014年)が有る。
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