http://www.asyura2.com/16/warb17/msg/827.html
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自然界のウランは、主にウラン235とウラン238という2種の同位体(中性子の数が違うが化学的な性質は同じ)で構成される。含有率はウラン235が0.7%、ウラン238が99.3%である。
核分裂を起こすのはウラン235であり、この濃度を高めるために濃縮する(濃縮ウラン)。軍事的な目的では臨界量近くまでに、民事用(発電用)では3%程度にまでに濃縮する。
臨界量とは、核分裂の連鎖反応が持続する最少の質量のことをいう。原爆は、臨界量以下の核分裂物質を、火薬の爆発力を用いて臨界量を超過させることで起爆する。
原子核を分裂させると、エネルギーと中性子等が放出される。
この放出された中性子は、さらに隣接するウラン235を核分裂させる。発生するエネルギーは分裂する原子核の質量に比例し原子核の質量が大きいほど多くのエネルギーを出す。
ところで、中性子は空からも降ってきているので、これを遮蔽するための容器に濃縮ウランを納める必要がある。
広島で爆発したウラン原爆の原理はイギリスで生まれた。ウランの核分裂を最初に指摘したオットー・フリッシュがイギリスのバーミンガム大学にナチスから逃 れてやってくると、そこにはドイツから帰化していた理論物理学者のルドルフ・パイエルスがいた。フリッシュとパイエルスは、ウランが核分裂の連鎖反応を起 こす臨界量を求める計算をした。
ウランの核分裂の連鎖反応は
(a)ウラン238に高速中性子を衝突させた場合
(b)ウラン235に低速中性子を衝突させた場合
(c)ウラン235に高速中性子を衝突させた場合
の3つの場合に起こる可能性があります。ウラン238に低速中性子を衝突させ中性子を吸収させても核分裂しない。
(a)の場合は天然ウランとほとんど同じだが、臨界量は数トン以上となって、飛行機に積める爆弾とするには重すぎた。
(b)の場合は、ウランの核分裂で生ずる高速中性子を低速にするために、黒鉛や重水のような減速材を用いなければならないのでかさばる。さらに、低速中性 子がウラン235の原子核に吸収されて次の核分裂を起こすまでに百分の1秒から千分の1秒の時間がかかる。これだけ時間がかかると、連鎖反応で生じたエネ ルギーによってウランの塊が膨張したり、蒸発したりして、連鎖反応が十分に継続する前に途中でストップし、普通の爆薬の爆発程度にしかならない。
唯一、ウラン原爆になりうるのは、(c)の場合です。
<出典>
英国生まれの原爆原理
軍事利用すれば原爆、民事利用すれば原発である。
「原爆を作るための技術というのは〜ウラン濃縮〜プルトニウムを産み出すための原子炉〜再処理という3つの技術。〜5ヶ国の他に世界で1ヶ国だけこの3技術を持っている国がある。それが日本」
〇日本の原爆開発
日本の研究者が戦前に、核研究でネイチャーの常連だった。
陸軍にウラン爆弾の開発を進言したのが仁科芳雄(人形峠のある岡山が郷里)、国の最優先として予算を付けられた二号作戦(原爆開発)の指揮者である。
1937年4月、仁科芳雄が原子核物理学や生物学研究目的の高速中性子を発生する小型サイクロトロンを完成し、ボーアも見に来ている。(論文「サイクロトロンの生成した光線の生体効果」にも注目してほしい。)
<出典>
科学技術史に輝く理研
長岡半太郎の新資料について
加速器 歴史
ウランを抽出・加工する技術は大正時代に既にあり、作州ウラン釉薬瓦やウランガラスが大量に作られた。
岩城硝子、島田硝子などがウランガラスの食器・ガラス工芸品を製造し、大正から昭和にかけて、国内産品が大量に造られた。大正9年(1920年)に「カナリア電球」という名前の電球が開発された。
六フッ化ウラン
六フッ化ウラン(ろくフッかウラン)は、化学式 UF6 で示される化合物。常温では固体だが約 56.5 ℃ で昇華して気体になる。
空気中の少量の水分と反応してフッ化水素 (HF) を放出する。
核燃料を得るために、ウランの同位体である 238U と 235U を分離する作業が行われる。これをウラン濃縮といい、六フッ化ウランの気体を遠心分離器などの装置に供給して行う。ウランをフッ化させる理由は、単体のウ ランを気化させ続けるには約 3800 ℃ の高温が必要だが、前述の通り六フッ化ウランは沸点が低く、処理の開始から完了まで気体の状態を維持するのが容易であること、フッ素が単核種元素であり、 六フッ化ウランの式量の差は全てウランの質量数の差に由来することにある。
<出典>
ウィキペディア
1943年、仁科芳雄は安田武雄中将に「ウラン濃縮に成功すれば原爆が作れる」と報告。東条内閣は仁科研究室に無限の予算を約束。ここから“ニ号研究”が本格的に始動した。
<出典>
日本の核兵器開発
広島原爆は1945年8月6日、長崎原爆は1945年8月9日である。
その当時、六フッ化ウラン(UF6)製造に成功していたのは日本であり、米国は未完成であった。
米国 | 1948年 特許出願(保存) |
日本 | 1944年1月 UF6製造に成功(理化学研究所)(保存) |
1944年9月2日、ウラン濃縮に不可欠な六フッ化ウランの生産を試みた米国フィラデルフィア海軍工廠が爆発。
<出典>
Atomic Accidents
<出典>
nature : Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons
アトランタコンスティチューション紙
日本は原爆を開発した。第二次世界大戦中、実物試験に成功。ロシアが科学者達をつかんだ。
〇爆撃機に積載できない原爆
第2次大戦当時、B29などの爆撃機に搭載できるような大きさの原爆を製造できなかった。巷に喧伝される原子爆弾はフィクションである。
「新しいタイプの非常に強力な爆弾が作られるということは --- 確実というほどでないにしても --- 十分に考えられることでもあります。このタイプの単体爆弾がボートで運ばれ、港で爆発すれば、それは港全体を破壊してしまうばかりでなく、その周辺地域を も破壊してしまうでしょう。しかし、この爆弾は、飛行機での輸送には、重すぎることも明らかになるでしょう。」
<出典>
ルーズベルト大統領への手紙
〇広島・長崎の原爆は地上起爆
前述のとおり、「爆撃機から投下された原爆」はフィクション(作り話)である。 実際は、地上に設置された原爆が爆発した。
戦時中に米国が設置できるわけもない。では、誰が設置したのか?
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分
広島原爆は、ウラン原爆である。下の写真から地上で爆発していることがわかる。
Fukushima Cesium Nuclear Fallout
Equals 4,023 Hiroshima Bombs
<出典>
https://www.youtube.com/watch?v=eaMpGtYyLik&feature=youtu.be
「私、空中から爆弾を落としたとは思ってないんですよ。下から爆発」
【戦士の証言】元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏に聞く Part3[桜H24/8/13]
1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分
長崎原爆は、プルトニウム原爆である。
〇原爆特許所有者は天皇
特許計画が始まった1942年から、米国の原子力施設が原子力委員会に引き継がれた1947年1月まで、マンハッタン計画の特許部門は、原爆に係る 5600以上の異なる発明の報告書を、最終的に米国特許庁と共に秘密裏に整理するための2100件別々の特許出願を目録にした。
マンハッタン計画の特許計画は、戦時中に開発された原子力全分野において、米国政府のための総合的な法律上の所有権を取得する計画的な試みだった―その特許は、「採掘されたままの原石から原爆まで」の技術の異なる493科目分類に及んだ。
<出典>
アレックス・ウェラスティン(スティーブンス工科大学助教)ブログ
日本は、広島長崎の原爆の人体や遺伝子への影響を調査し1947年1月2日に米国に提出した。これは、マンハッタン計画の特許出願範囲日(1947年1月まで)にぴったり符合する。
<出典>
米国科学アカデミー(保存)
特許になるためには原爆の効果(遺伝子破壊兵器)を立証する必要がある。
自国民ならば、子々孫々にわたる遺伝子破壊を追跡調査できる。
<出典>
Children of the Atomic Bomb
NHKスペシャル 封印された原爆報告書
アメリカ国立公文書館のGHQ機密資料の中に、181冊、1万ページに及ぶ原爆被害の調査報告書が眠っている。
200人を超す被爆者を解剖し、放射線による影響を分析したもの…。
子供たちが学校のどこで、どのように亡くなったのか詳しく調べたもの…。
いずれも原爆被害の実態を生々しく伝える内容だ。
報告書をまとめたのは、総勢1300人に上る日本の調査団。調査は国を代表する医師や科学者らが参加し、終戦直後から2年にわたって行われた。
天皇裕仁は英国ウラン爆発軍事応用委員会MAUDの会期中、英国アーミーリストに正規の英国陸軍元帥として掲載されている。
また、第2次大戦中の1942年1月14日英国の新聞タイムズが、「昭和天皇は英国陸軍元帥のリストから除名する必要無し」という英国陸軍省事務官のコメントを掲載している。
国民を疑い、英国王室を賞賛した裕仁天皇は、日本を第2次大戦に導いた。
「大英帝国と日本の悪の枢軸」で記述の通り、明治以降の天皇は全て大英帝国の忠実な隷である。
<出典>
Revealed: Hirohito, reluctant warlord
米国国立公文書館から収集した“天皇メッセージ”を公開した。(平成20年3月25日)
同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモである。
内容は概ね以下の通り。
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしている。
<出典>
沖縄県公文書館
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