http://www.asyura2.com/16/warb17/msg/692.html
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「スプートニク日本語」は、同じ日に、「日本の無条件降伏をもたらしたのは何か:原爆か、それともソ連参戦か?」という記事も掲載している。この二つはセットと考えることができる。
原発もそうだが、国家が行う事業は、いったん踏み出すと自らの意思でなかなか終わらせることができない(ものらしい)。なかでも、合理的な思考に基づく厳しい議論を経ないで“空気”に支配されてゴーサインを出す傾向が強い日本の支配層は、自縄自縛状態に陥り、多数が内心では終わりにすべきと思っていても、それを口に出すことさえできないことが多い。
支配層の一部が負ける戦争に日本を引きずり込んだ陰謀はともかく、「アジア太平洋戦争」の帰趨はミッドウェイ海戦で決したと言える。(ミッドウェイ海戦の大敗そのものが海軍最高幹部による陰謀のおかげだが)
ミッドウェイ海戦以後の太平洋(対米)戦局は、サイパンの陥落を待つまでもなく、米国に比べただでさえ貧弱な日本の軍需品供給力を加速度的に消耗させるものでしかなかった。
その象徴がガダルカナル島攻防戦であり、無意味なうえに誤った作戦を続けることにより、2万を超える陸軍将兵のみならず、よく訓練された有能なパイロットと貴重な航空機が海の藻屑となって消えていった。
フィリピンが陥落し、その時点ですでに150万人を超える戦死者を出しながら、沖縄戦に玉砕精神で臨む道を選択した。
転載する記事にあるように、日本支配層はヤルタ会談の情報をつかんでおり、ナチスドイツ降伏後にシベリア鉄道で満州国境地域に運び込まれる武器弾薬の急増も察知している。
それでも、一部支配者はソ連を仲介者とする和平を模索し(願望を持ち)、陸軍のなかには満州に天皇をいただく親ソ共産主義国家の樹立さえ夢想するものもあった。
このような日本支配層に引導を渡したのがソ連の参戦である。
原爆は無慈悲で悲惨な大量殺戮兵器だが、通常爆弾による繰り返しの空爆でも同等の犠牲者と建造物破壊は可能である。
昭和天皇をはじめとする当時の戦争指導部にはきつい物言いになるが、膨大な数の臣民(日本国民)が空爆や砲撃(沖縄など)で死ぬのを厭う気持ちが支配層に“少しでも”あったのなら、物資及び軍需品供給力が急減していく状況とあいまって、遅くとも、沖縄戦終結時点で戦争終結を決断していたはずである。
それゆえ、米国による(ドイツ製)原爆投下を、日本が降伏を受け入れる決断をした第一義的理由と言うのは難しい。
(米軍が降伏したドイツから連れてきた技術者の支援を受けながら原爆を完成させたのは1946年と推定。米国製原爆の初実験は46年7月のクロスロード作戦だろう:米国支配層は、ナチスは使わなかった原爆を日本の都市に対し使ったのである)
日本の戦争指導部が8月を迎えるまで継戦を夢想できた理由は、満州と朝鮮半島の存在である。
日本周辺における制海権も制空権も失い、満州や朝鮮から物資を運び込むことは難しくなっていたが、陸軍幕僚がソ連と同盟する共産主義国家を夢見ることができたように、満州が無傷であったことが最後の支えになっていた。
配線前夜においても、満州は、まさに「日本の生命線」だったのである。
満州では、資源や産業力は温存されていたが、精強とうたわれた関東軍は、まともな部隊が対米戦のために南方に送られ続け、常に関東軍の仮想敵国であったソ連と戦える状態にはなかった。
「日本の無条件降伏をもたらしたのは何か:原爆か、それともソ連参戦か?」という問いに対する答えは、ソ連参戦ということになるのだろう。
※関連スレッド
「日本の無条件降伏をもたらしたのは何か:原爆か、それともソ連参戦か?(Sputnik)」
http://www.asyura2.com/16/warb17/msg/688.html
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なぜ戦争でソ連が中立を守るという日本の見込みは裏切られたのか[スプートニク日本語]]
オピニオン
2016年05月07日 08:23
タチヤナ フロニ
5月9日に祝われる大祖国戦争におけるナチズムへの勝利71周年を記念して、スプートニクは、軍事史家アナトリー・コシキン氏とのインタビューシリーズを発表する。
1941年4月13日、ハルヒン・ゴル国境紛争の2年後、モスクワで、日本とソ連が相互の中立性を約束した条約に調印した。今だに日本の歴史家の間では、第二次世界大戦の終わりにソ連が不可侵条約に違反する裏切り行為を行なった、との意見が支配的だ。しかし、以来、歴史の多くの未知のページが発見された。それらは、日本政府が日本に対するソ連の侵攻について事前によく知っていたことを示している。知っていただけでなく、ソ連に中立を守らせようと、あらゆる措置が講じられていた。
歴史学の博士で戦略研究センターの専門家、第二次世界大戦歴史家協会理事会メンバーのアナトリー・コシキン氏は次のように述べた。
「1944年の終わりまでに、日本の政治家や軍事指導者らは、ドイツが第二次世界大戦で敗北するという結論に達した。これに関連して、ドイツの敗戦後にソ連がどのような立場を占めるかについて多くの懸念が生まれた。今日では、日本の現代史家や政治家は、日本政府が1945年2月に行なわれた歴史的なヤルタ会談の決定を知っていたことを否定している。実際には、日本人はスターリンがドイツとの戦争の終了後2-3ヶ月で極東における米英の同盟軍を支援するという秘密情報を取得していたという証拠がある。
これは、スカンジナビアで一緒に働いていた日本の有名な諜報員オノデラ氏の妻にも確認されていることだ。死の直前、彼女は回顧録を出版し、その中で、夫の暗号解読を手伝う傍ら、ヤルタの決定について個人的に情報の解読を行っていたことを明かした。それによれば、ドイツとの戦争後2-3ヶ月でソ連は対日参戦する、とのことだった。むろんこれは日本指導部を震撼させた。」
それは、日本軍がそうした状況を甘んじて受け入れる準備ができていたことを意味しているか?反対に、日本政府は、このような展開を防止するためにできるすべてを行うことを試みた、とコシキン氏。
「日本は、ドイツの巨大な軍事機構を破ったソ連の強力な軍隊が加われば、日本に有利な条件で戦争を終わらせる見込みは全く断たれると、十分に認識していた。よって1944年の終わりに日本外務省はソ連が興味を示しそうな譲歩のリストを策定した。ソ連が中立を守り、日本に対する戦争に入らないように、だ。その中に、それまで日本領だった領土を自主的にソ連に引き渡すというものもあり、興味深い。具体的にはサハリン南部とクリル諸島だ。これら領土を明け渡すことでソ連の参戦を予防しようとしたのだ。ドイツ降伏後も自らの責任を少しでも減らすように、あらゆる手を尽くしてソ連との友好関係を演出しようとした。たとえば日本は意図的にソ連がかつて対ドイツ戦線で使用できたはずのソ連の巨大な力を釘付けにした。ソ連にとってはこのことが大幅に犠牲者の数を増加させ、第二次世界大戦を延長させたのだ。
日本はナチスドイツの同盟国だった、そして米英、ソ連の同盟諸国と戦った。したがって、国際法にのっとり、4月5日、日本政府に公式な通牒を送り、今のような状況では1941年4月13日署名した中立協定の延長はもはや不可能であることを発表した。これがソ連が参戦するという明確なシグナルを日本側に与えた。つまり実際の参戦の4ヶ月前、日本政府は事実上、ソ連参戦の可能性について警告を受けていたのだ。しかも日本政府は1945年の春から極東への軍の大部隊、兵器の多くの集中を始めていた。したがって、日本の歴史家が言う、中立条約に反してソ連は裏切りを行ったという説は、穏やかに言えば、事実に反するのだ。」
どころか、ソ連が不可侵条約を破棄したとき、日本軍指導部は、日本に対するソ連の参戦が間もなくあると知りながら、早期に第二次世界大戦を終わらせるための行動を特にとらなかった。日本史専門家コシキン氏はそう語る。
http://jp.sputniknews.com/opinion/20160507/2091122.html
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