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『日本軍はなぜ満州大油田を発見できなかったのか』岩瀬昇著
■『日本軍はなぜ満州大油田を発見できなかったのか』岩瀬昇著 日本が太平洋戦争に突き進む大きな動機が石油であったことは知られている。本書は日本が南方の石油を求める道筋を、石油政策や油田開発の分析を通して描いている。旧樺太や旧満州での油田開発の苦戦や、石炭から石油をつくる「人造石油」の失敗を経て、軍内部で「南進論」が台頭する経緯は興味深い。(文春新書・820円)
[日経新聞2月21日朝刊P.16]
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1941年7月、日本軍は南部仏印進駐に踏み切り、米国から石油禁輸の制裁を受ける。
この制裁が、座して死を待つか、動けるうちに戦争に踏み切るかという“選択肢”を国策として浮上させ、状況の打開を目指す対米交渉がうまくいかないことで(ハルノートも対米戦突入でもたらされる事態ほど過酷なものではない)、“なぜか”自ら対米戦争に打って出るという愚行につながっていく。
(日独伊三国同盟締結を“ターニングポイント”とする人も少なくないが、米国が仕掛けたわけではなく、日本が仕掛けた戦争なのだから、その見解にはムリがある。満州国創設に象徴される大陸での利権拡大とそれを梃子にした軍事的経済的発展の見込みが“日本潰し戦争”の隠された原因である)
実質的に日本の統治地域であった満州で大慶油田が発見されていても、現実の歴史過程とは違う経緯になっただけで、米国との戦争に引きずり込まれた可能性が高いと思っている。
なぜなら、異質の価値観を持つ国家が近代世界で手に負えない存在にまで発展してしまうことを嫌いその芽を摘むことが日米戦争(太平洋戦争)の“真因”と考えているからである。
さらに言えば、石油資源の確保を目的として対英蘭戦争を始める必要性は理解できるが、対米戦争は、石油資源確保につながらないので目的にそぐわないものなのにわざわざ仕掛けているからである。
(石油が足りないのなら、戦争の相手は必要最小限にとどめ、特定国との戦争がいずれ避けられなくなると考えても、開戦はできるだけ先に延ばすのが合理的な政策である。従来の国防方針に沿って、米国から仕掛けられたら受けて立つというのがまっとうな策である。南方から鉱物資源を輸送する途中にフィリピンが存在することで生じる“不安感”は理解できるが、アジアでの米国植民地であるフィリピンは自治権を付与されており、“中立”を維持させられる芽があった。フィリピンは、銅やマニラ麻といった資源はあるが石油には恵まれていない。ドイツとの戦争に米国が参戦しなかったことでわかるように、米国は英国やオランダなどと軍事同盟を結んでいたわけではない)
現状打開につながらず必要でもなく、国民の多数が厭戦派であった最強国家アメリカにわざわざ困難必至の戦争を仕掛けるという選択した歴史的事実は、海軍上層部を中心に日本支配層のなかに“内通者”がいたことを窺わせる。
陰謀論を脇に置くと、必要のない対米戦を抑止できなかったことは、当時の政治的軍事的指導層が悲劇的レベルまで劣化していた事実を如実に示している。
先の戦争の「敗戦責任」を総括していない日本が、北朝鮮支配層を狂気の塊のように言うのは笑止千万である。
下記に示す資料に拠れば、日本が戦前の満州で大慶油田を発見する可能性は低くなかったようである。
JOGMEC特命参与 岩間 敏氏の「戦争と石油(1)〜太平洋戦争編〜」より:
「日本の探鉱技術は、最新技術である反射式探鉱機(地震探鉱機器)を日本鉱業が導入していたものの、満州の探鉱では日本石油が技術支援を行ない、同方式は使用されなかったこと、また、最高水準の技術を保有していた米国のコントラクターは、満州での石油探鉱が国家機密であったため投入することが出来なかったこと等による技術的劣勢が、満州での石油発見に結び付かなかったと言える」
※参考資料
「戦争と石油(1)〜太平洋戦争編〜」
JOGMEC特命参与 岩間 敏
https://oilgas-info.jogmec.go.jp/pdf/0/652/200601_045a.pdf
[一部抜粋]
(5)中国東北部(満州)での石油探鉱
中国東北部および周辺地域は、戦後、中国の石油探鉱の結果、中国3大油田のうち、大慶油田(2004年生産量:93万バレル/日)、遼河油田(同:30万バレル/日)の2油田が発見され、石油生産地域(3大油田の他の一つは、勝利油田:同53万バレル/日)になったが、昭和前期、日本も満州で石油探鉱を行っていた(図2参照)。
図2 満州での試掘地点と現在の中国の油田
出所:帝国石油50年史の図を基に作成
※図はオリジナル掲載先でご覧ください
最初の探鉱活動は、昭和4年(1929)に満州里近辺、ジャライノール地区で、満鉄地質調査所が行った。この調査結果は「アスファルト鉱床は存在するものの鉱量少なく商業化は難」であった。
満州事変の勃発(昭和6年9月)後、関東軍は国防資源調査として、再度、同地区に調査隊を送り込み地質調査、試掘作業(20数坑)を行ったが、成果を得ないまま昭和6年に作業は終了した。
瀋陽の西に位置する阜新地区では、昭和7年に満州炭鉱が試掘を行なった。1,000メートル級の試掘井が掘削された200リットルの油兆を見ている。
この報に満州石油、満州国産業部、満州鉱業開発、日本石油等が協力することになり、同地域の広域探鉱計画(試掘実績:ロータリー坑、ダイアモンド・ボーリング坑、綱掘坑計47坑)が策定され、試掘作業が実施された。
2,000メートル級の深度の試掘井も掘削されたが探鉱の成果は上がらず、そのうち、南方石油の確保のため掘削機材と石油技術者が南方に移動され、この地域での石油探鉱作業は終了した。
(「満州における石油探鉱」小松直幹、「陸軍燃料廠」石井正紀、光人社)
中国が旧満州中央部の黒龍江省大慶を中心とした地域でソ連の技術協力を得て大規模な石油探鉱を開始したのは、戦争終了10年目の昭和30年であった。
石油発見とともに、昭和35年、人力、資機材を集中投下した「会戦方式」の集中開発が開始され、原油生産量は昭和51年(1976年)には大台の年5,000万トン(100万バレル/日)を超す大油田になった。
原油性状は中質(API度32)でワックス分が多く、低硫黄である。原油生産量は2002年まで100万バレル/日水準(最大生産量は1995〜1997年の112万バレル/日)を保ってきたが、以後、減退を始め、現在の生産量は90万バレル/日前後と推察され、依然として中国最大の油田である。
大慶油田の発見から10年後の昭和44年、遼寧省遼河平原で生産量中国第3の油田となる遼河油田(図3参照)が発見された。同油田は、戦前、日本が集中的な石油探鉱を行った阜新地域より東に山一つ超えた地域にある。性状はアスファルト分が多い重質油(API度28.7)、原油生産量は1995年の1,552万トン(31万バレル/日)をピークとして減退傾向(2003年1,322万トン≒26万バレル/日)となっている。
戦争開始前であった昭和15年の日本の国内原油生産量は33.1万キロリットル(0.6万バレル/日)、石油輸入量421.4万キロリットル(7.3万バレル/日)、石油消費量337.1万キロリットル(5.8万バレル/日)等の数値と比較すると、歴史に「イフ」は無いと言うものの、これらの油田が戦前に発見されていれば、「太平洋戦争への道」、ないしは日華事変はその後大きく変化(日本は軍事産業化の促進、中国の資源収奪に対する反日・抗日運動の激化等)したことは疑いがない。
結果的には、当時、日本の探鉱技術は、最新技術である反射式探鉱機(地震探鉱機器)を日本鉱業が導入していたものの、満州の探鉱では日本石油が技術支援を行ない、同方式は使用されなかったこと、また、最高水準の技術を保有していた米国のコントラクターは、満州での石油探鉱が国家機密であったため投入することが出来なかったこと等による技術的劣勢が、満州での石油発見に結び付かなかったと言える。
人造石油工場のうち、比較的順調に生産段階に移行したのは、南満州鉄道撫順オイルシェール工場で、昭和14年の生産量は16万キロリットルであった。満州での人造石油生産が全体の人造石油生産に占める割合は年により40〜70パーセントと変化するが、戦争の進展とともに日本周辺の海上封鎖が強化され、国内への製品輸送が困難となり、その利用度が低下した。
満州のオイルシェールは、元々、南満州鉄道が保有する撫順炭鉱の石炭生産に伴う副産物で、石炭層の上部の油頁岩(オイルシェール)は厚さ100〜180メートル、含有率5.4パーセントであり、昭和初期、南満州鉄道が海軍に製品化を持ち込み、研究開発を続けていたものであった。
人造石油の生産計画は、「石油消費量の40〜50パーセントを充当」という野心的なものであったが、昭和16〜19年の実績では消費量の5〜7パーセントに過ぎなかった(表5参照)。米国戦略爆撃調査団石油報告では「戦略的には日本の人造石油産業は戦争に貢献しなかった。そのために膨大な労働力と資材が費やされた。人造石油は戦争を助けたと言うよりは、むしろ国家の戦争努力を妨げたことは確実であった。すなわち、投入エネルギーより抽出エネルギーの方が少なかった」と記述している。
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